太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



無題.png

無題.png

無題.png

o0198005613264565002.png o0199005613260936971.png 無題.png

2015年01月17日

035 伊勢神宮にはなぜ内宮と外宮が存在するのか? B “二 見”

035 伊勢神宮にはなぜ内宮と外宮が存在するのか? B “二 見”
20141120
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


二 見(フタミ)


二見ケ浦が全国にあることは知られていますが、本家本元とされる伊勢の二見ケ浦(三重県度会郡二見町の二見ノ浦)を規模においても凌駕する二見が糸志摩半島の北岸にあります。
一般的に、三重の二見は伊勢神宮との繋がりで囁かれることが多いのですが、海洋民族による縄文信仰の上に新たな宗教性が付与されたと見るのが正しいように思えます。
これについては『古田武彦は伊勢神宮の内宮と外宮に注目し、元伊勢と呼ばれる丹後半島の付け根にある籠神社に触れ、また「伊勢神宮の成立」でも詳述している。そこで籠神社に祭祀される「等由良比売」と豊受大神の二神に注目し、その奥宮に陰陽石を見て、伊勢の二見ケ浦にある一対の日の出岩を踏まえ、内宮と外宮の成立は陰陽信仰に基づくとし、その起源を旧石器・縄文時代に求めた。そして現在の内宮の天照大神の祭祀は垂仁天皇下の祭祀形態の変容としている。おそらくそれは伊勢信仰の古層に届く視点であろう。』と、室伏志畔氏が書いていることにも重なってきます。

「伊勢神宮の重層性」Tokyo古田会News−古田武彦と古代史を研究する会−(94号2004年1月)
無題.png

(写真提供:松尾紘一郎)

ところが、伊勢神宮との関係でこのテーマを捉え返すとすれば、元伊勢の故事が知られる今、伊勢神が
元々どこにあったのか?という問題に波及するのです。
元伊勢は元より、それ以前の元々伊勢とも言うべきものを考える時、伊勢の二見を凌ぐ二見が糸島にあり、『倭姫命世紀』が伝え、伊勢神宮を先導したとされる倭姫命、全国で唯一その倭姫命を主神として祀る神社が佐賀県の嬉野市塩田町(谷所地区の味嶋神社)に存在していることに戦慄を感じざるを得ないのです。
してみると、伊勢神宮が元々伊勢にはなかったとすると、この二見も九州が起源ではないかといった想いが湧き上がるのです。

無題.png

味島神社(佐賀県嬉野市塩田町)


(2)味島神社 谷所 鳥坂
鳥坂の鳥附城があった山の南の山麓に倭姫命を祭神とする味島神社がある。社の由緒等詳かではないが大正五年毛利代三郎編「塩田郷土誌」によれば「仁明天皇承和年間(八三四〜八四八)新に神領を下し社殿を建立した。」 (塩田町史)


伊勢神宮といえば「伊勢神宮の向こう側」室伏志畔が頭をよぎるのですが、再び氏の説を見てみましょ
う。

伊勢神宮の重層性(部分)   室伏 志畔


 ところで私の伊勢神宮論は、『伊勢神宮の向こう側』(三一書房)に詳しいが、その成立を天皇制の成立とパラレルとし、持統朝における天武体制の変質を通して成立したとするものであった。これは持統天皇の伊勢行幸をもって伊勢神宮は成立したとするもので、その創出に対し大三輪朝臣高市麻呂が冠を投げうって二度も諌言するという異例の事態は、これまで物部氏の掌中にあった国家祭祀権を中臣氏のものとするため、三輪信仰からの皇祖神の独立が伊勢神宮の成立であったとするものであった。
 しかしこれを書いた動機は、古田武彦が倭国から日本国への八世紀初頭の転換を説くなら、その共同幻想の改定についても云うべきなのに、倭国と日本国の主神を共に天照大神と同値しているのを不審とするところにあった。たとえ日本国が倭国の傍流であったとしても、いかなる国家も新たな精神的内容と基礎をもつことなくして成立することはありえないからである。この立論を古田史学の鬼子と呼ぶ人があった。
それゆえ私の伊勢神宮論は伊勢に向かわずに九州へ向かう背理を成し、私は筑後の高良大社が、現地ではタカガミ(高神)さんと呼ばれることから、倭国の建国者・天孫・邇邇芸命は、九州では高神・高皇産霊命流れとするのを、記紀は天照大神系譜にねじったとするほかなかった。
さらに『古事記』が邇邇芸命に冠した、通説が美称とする「天邇岐志国邇岐志」について、私は天を天領域、邇は美称、岐を壱岐、志を地名と考え、通説の「アマニキシ、クニニキシ」の訓みを「天のニキシの国のニキシ」とし、彼の本貫を壱岐の志とした。果たして壱岐の地図を広げると、一大国の跡地である原の辻遺跡から二、三キロのところに志原を見出した。原は原っぱの意味ではなく志の中心を意味すると思われた。つまり邇邇芸命は一大国のサラブレッドであったのだ。その壱岐では月読命が高神と共に、かつては壱岐の箱崎の地に祭祀されていたが、おそらく廃神毀社にあって、現在のように高御祖神社と月読神社に分祀されるに至ったらしい事情も読めてきた。もはや私は倭国主神を日神の天照大神ではなく、月神の月読命とするほかなかった。
 伊勢には皇大神宮を中心に二百数社の神社が密集するが、その中で内宮の四摂社と外宮の十摂社は格が高いとされているが、そのいずれにも月読命が祭祀され、皇大神宮と同様に二〇年毎に式年遷宮が行われている。さらに皇室は不慮の事態が起こるたびに、月読宮に使者を立て奉幣を行っていることを知った。このことは天照大神を中心とする現在の神統譜は、月読命を中心とする倭国の神統譜の頂点を、天照大神に入れ替えて成立したことを語り、倭国から日本国への転換に先立ち神統譜の整備がはかられていたのだ。
その後私は、大和朝廷の開朝を、白村江の敗戦後に唐の占領下に入った倭国を見切り、近江に逃げた天智政権を討った壬申の乱後の天武の飛鳥浄御原宮入りに始まるとし、大和朝廷の前身を「もうひとつの倭国」である豊前に求めた。とするとき崇神天皇の三輪信仰への転換は三諸山である香春岳信仰とするほかなかった。これは記紀の語る神武東行が、その筑豊の北に開いた遠賀川流域に、今も濃厚に名を留める物部系地名の氾濫を見ることによっても裏付けられよう。そして大芝英雄は筑豊の湿地帯にあった伊勢信仰の渡遇宮の近畿への東遷を語っているのを私は知った。

 とするとき、垂仁天皇下の点々とした倭姫命の巡行は何を意味するのであろうか。私はこれを、大和の三輪山に昇る太陽信仰であった春日信仰を主宰した大倭の、大氏一族の伝承を垂仁天皇の治世に取り込み造作したものと今は考えている。というのは春分の日の日の出線上に様々な神社が並ぶが、大倭の倭姫命の巡行出発地と思われる桧原神社がその線上にあることを認めるなら、その東端に伊勢斎宮の滝原宮を見るほかない。つまり現在の伊勢神宮は伊勢の陰陽信仰の上に、春日信仰を被せ、倭国の神統譜を日神・天照大神を中心に書き換え、中臣氏差配の下に立ち上げたとするしかない。
 奈良にある藤原氏の総社である春日大社を、私は春日信仰の中心と思っていたが。実はそれは、大和飛鳥に今も多く散在する物部系春日神社の総社の簒奪の上に創出を見たのである。三輪山を真東に仰ぐ大倭の中心線上に、春日造の多神社を見ることができるが、それ地は元、春日宮と呼ばれたと『多神宮注進状』にあり、今、太安麻侶に始まる五十一代目の多忠記が宮司を務めるが、その御神体は七十二体の物言わぬ木像である。私はそれを天武崩御直後に始まった大津皇子の変の犠牲者七十二人の鎮魂社として今はあると思っている。というのは大津皇子の変は、天武の外戚であった物部氏の中心にあった大氏を排する近江朝残臣によるクーデターで、ここに持統を繋ぎとして天智を戴く新たな天皇制の創出があったので、その完成こそ七二〇年の『日本書紀』の成立であった。
この陰で天武系藤氏と物部系大氏の血統の根絶やしが行われたが、それはわずかに万葉集に、藤波や玉藻刈りの歌としてその痕跡を留めた。それは大氏の血統が出雲王朝の末裔であったなら、天武系藤氏は天孫に始まる倭国本朝の幻想的継承者の末裔であったことに関わる。この出雲王朝と倭国本朝の根絶やし上に、「あおによし奈良の都は咲く花の薫うがごとく今盛りなり」と歌われたが、この花はこれに続く歌が藤であることを見るなら、この藤は天武系の藤氏の姓を盗んで、今やその藤氏の中心に居座った藤原氏の繁栄を歌うものであったのはいうをまたない。ここに皇室は姓を失い、また様々な借り物としての伊勢皇大神宮の成立は、平安時代に至ると、天皇の即位報告をする宇佐神宮が豊前からそそり立つのは、そこが大和朝廷の前身地である以上当然であった。
     (H一五.一二.五)


無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:08| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: