太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年01月01日

030 猫坂礎石群はワカヤマトネコヒコ(第9代開化天皇)の宮殿か “大野城市” 

030 猫坂礎石群はワカヤマトネコヒコ(第9代開化天皇)の宮殿か “大野城市”  

20141115


久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


九州歴史資料館のチラシに猫坂礎石群発掘調査と書かれた非常に興味深い写真が添付されていました。


猫坂礎石群地区は、大野城跡の南西部に位置する。大野城跡は中央部に宇美川の支流である内野が北へ流れ出ているが、この内野川は大野城の中央南寄りに位置する県民の森センターの北側で城内北半部各所の谷から流れ出た湧き水を集めて形成されている。従って、城内北半部には内野川の水源となっている小さな谷が無数に存在しており、猫坂礎石群地区はそうした谷に挟まれた尾根上に作られている。                                 九州歴史資料館


水城の敷きソダC14検査によって、最下層から230年、中層から430年のデータが出ているにも拘わらず(久留米地名研究会HPより内倉武久氏の講演ドキュメントをお聴きください)、「日本書記」に摺合せ、660年に造られたとする通説のことですから、今回の発掘も唐に備えて天智天皇辺りが造ったものなどとするのがオチでしょうが、「古事記」「日本書紀」を藤原による捏造と考える神社考古学研究班には思い当たることがありました。

「高良玉垂宮神秘書」に書き留められたワカヤマトネコヒコの降臨と三種の神器の返還、高良大社での天皇宣言(即位)高良玉垂命の誕生……です。

通説派は「何を恍けたことを…」と言いそうですが、水城の築造が七世紀ではなく三世紀まで遡ることを知っているはずの通説派には「紀」と整合しないことは承知のはずで、「記」「紀」を信用しない者をあなどることなどありえないでしょう。



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猫坂礎石群の場所
 四王寺県民の森センターから南へ下ると「子どもの国」があります。その西側の小高い尾根に、猫坂礎石群はあります。

鏡山 猛さんの調査
 鏡山さんは、礎石建物4棟のうち北側2棟と南側1棟を計測しました。そして、大野城内のほかの礎石群の建物と比較し、3間×4間が小さいサイズであることに注目しています。

九州歴史資料館の調査
 その後、九州歴史資料館が本格的な発掘調査をしました。
 礎石建物4棟が再度調査され、掘立柱(ほったてばしら)建物1棟が南側の尾根端で見つかりました。
 掘立柱建物の柱の穴は大きく、直径約12メートル、深さ13メートル の隅丸方形をしています。この掘立柱建物では、礎石建物にある排水施設が見つかりませんでした。建物の三方向が斜面になっているため必要なかったと考えられています。
 掘立柱建物は、太宰府口1期城門
7世紀後半)や主城原(しゅじょうばる)礎石群でも見つかっており、関連性が今後の研究課題として残されています。掘立柱建物がある場所は、建物を建てるために尾根を削っています。ただ、北側建物群の東側は、人工的に平坦に造ったことが分かりました。斜面の草木を焼き払い、削った尾根の土砂をその上に盛っています。この部分は、土砂が崩れるたびに補修作業を行っていた痕跡も見つかりました。
 これらの調査で、大量の瓦や奈良〜平安時代の土師器(はじき)・須恵器(すえき)が出土しました。


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▲遺構配置図(九州歴史資料館)




猫坂礎石群の疑問
 猫坂礎石群は、土塁線の内側で、土塁線よりも標高が低い場所にあります。そして、地面の補修を行いながら、瓦ぶきの建物が軒を接して建てられています。そのため、十分な広さが確保できない場所なのに倉庫が建てられたのは、何らかの理由があったものと考えられます。
 この機会に猫坂礎石群を訪れ、この場所にどのような意味で建物が建っていたのか、四王寺山の内側を見渡しながら想像してみませんか。現地では、築造当時の状況を感じられるように、礎石建物の礎石周りを石材などで覆わず、掘立柱建物の柱の位置に樹木を植えるなど、史跡環境整備が行われています


「あけてみよう! 歴史のとびら 大野城をあるく(猫坂礎石群)」より


四王寺山で猫坂となると、宮地嶽神社の本当の祭神であり、仲哀天皇の妃であった神功皇后と再婚したワカヤマトネコヒコ=後の第九代開化天皇の宮殿、御所であった可能性が考えられそうです。

この部分について故百嶋由一郎氏が語った内容を菊池川流域地名研究会メンバー(最近円満離脱をされましたが)で「牛島稔太のHP」のマネージャー牛島氏が「神社伝承から見る古代史」百嶋由一郎先生の世界--- もう一つの神々の系譜 --- として講演を文字化しておられますので、以下、四王子山に関して話したことをご紹介します。


……太宰府市北谷には太宰府に降臨なさった開化天皇のお宮さんがあります。宮地嶽さんです。ただしその段階ではまだ開化天皇ではない。天皇になられたのは高良大社です。三笠軍団の宝満川沿いにあります。

…中略… 太宰府四王子山は開化天皇降臨の地です。…中略…太宰府市北谷には太宰府に降臨なさった開化天皇のお宮さんがあります。宮地嶽さんです。ただしその段階ではまだ開化天皇ではない。天皇になられたのは高良大社です。三笠軍団の宝満川沿いにあります。……



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5 猫坂礎石群地区

5−1.猫坂礎石群地区の概要

 猫坂礎石群地区は、大野城跡の南西部に位置する。大野城跡は中央部に宇美川の支流である内野川が

北へ流れ出ているが、この内野川は大野城の中央南寄りに位置する県民の森センターの北側で城内北半

部各所の谷から流れ出た湧き水を集めて形成されている。従って、城内北半部には内野川の水源となっ

ている小さな谷が無数に存在しており、猫坂礎石群地区はそうした谷に挟まれた尾根上に作られている。

 猫坂礎石群地区は県民の森センターのほぼ真南に当たる。南には大石垣上方内周土塁地区がある。建

物群ののる尾根はY字状を呈し、尾根の上部を2 箇所で削平して平坦面を作りだし、建物群を建てている。

建物は5 棟みつかっており、うち1 棟が掘立柱建物、残りの4 棟が礎石建物である。これらの建物群は

3 間× 3 間または、3 間× 4 間のプランで、柱間距離はほぼ全てが2.1 mと規格性が高く、倉庫群であろ

うと考えられている。


5−2.猫坂礎石群地区付近の基本構造

 猫坂礎石群地区には東西二つの平坦面が確認されているが、これらは地山削り出しにより造成されたものと考えられてきた。すなわち、北東側の平坦面は尾根の頂部〜東側斜面を中心に削り出して幅約14m、最大長さ約45m の平坦面を、また南西側の平坦面は尾根の頂部を削りだして幅約14m、長さ約24m の平坦面を造成したものと考えられてきた(第149150 図)。

 しかしながら、特に北東側の平坦面については、これを削り出しにより造成すると多量の土砂が生じる点が疑問であった。今回の崩落が発生したとき崩落面の土層を観察し、そこに人工的な盛土の痕跡を読み取ることができたため、多量の土砂の処理方法が判明した結果となった。すなわち、平坦面の形や尾根の形状などを考えると、建物配置がく字状に屈曲した部分には本来小さな谷状地形があり、そこに尾根頂部の掘削で生じた多量の土砂を盛ることにより、より幅の広い平坦面を造成したものと考えられる。


 なお、これら二つの平坦面の周囲に目を及ぼすと、Y字状の分岐から南側の尾根上に、もう一つ小さな平坦面が作られていることに気づく(第149 図下端部の平坦面、C区)。この平坦面は、規模は最大幅10 m、最大長さ14 mと小さいものの、建物1 棟がぎりぎり配される程度の空間は確保しており、ここにも建物が存在していた可能性がある(ただし、現状では礎石は確認できない)。また、猫坂礎石群地区の西の谷をわたって県民の森センターの管理道を南に下り、大石垣上方内周土塁地区に至る直前の西側の山手にも、人工的な造成の可能性のある平坦面がいくつか点在する箇所がある。これらのことから、猫坂礎石群地区の周囲一帯には、まだ知られていない建物群が点在している可能性がある。


5−3.猫坂礎石群地区付近の既往の調査

 本地区における発掘調査は、昭和51 年に九州歴史資料館が行ったものが唯一の調査である(文献59)。この調査では、南西から北東に向けてY字状に伸びる尾根のうち尾根の分岐より北に形成された二つの平坦面を対象として礎石群前面の発掘調査を行っており、北西側の尾根で礎石建物3 棟を、また南東側の尾根で礎石建物1 棟と掘立柱建物1 棟を検出している。北西側の平坦面は、尾根の鞍部を削出して造成されており、3 棟の礎石建物が軒を接するように近接して建てられている。平坦面はく字状に屈曲しており、最も北側のSB0500(旧番号:SB050)が屈曲部より北側にあって長軸を北東−南西に向けて建てられており、この建物の南東角が中央のSB0501(旧番号:SB051)の北東角と接するように配されている。一方、中央のSB0501 と南側のSB0502(旧番号:SB052)は、ほぼ南−北を長軸として軒を接するようにして柱筋を通して建てられている。これらにはいずれも雨落ち溝を伴い、SB0501 の南側とSB0502 の北側の雨落ち溝は共有していてやや幅が広い。柱間距離はSB05010502 が全て2.1m で統一されているのに対し、SB0500 は桁行の南北両側1 間分のみがやや広く2.3m をはかり、ほかは2.1m である。

従って、これら3 棟の建物群のうちSB0500 だけがわずかに規模が大きいことになる。………


宮若市の猫塚、猫峠、那珂川町の猫城、八女市黒木の猫城、荒尾市の猫宮…と珍妙な地名に思われているものが多数ありますが、これについては、第九代開化天皇の和風諡号「日本書紀」で「稚日本根子彦大日日天皇」、「古事記」で「若倭根子日子大毘毘命」とされる「ワカヤマトネコヒコの愛称ネコが地名にまで高まったものと考えるべき」との説明を故百嶋由一郎先生から受けています。

単なる地名に留まらず、実際にその宮殿跡の礎石が出てきたことは、改めて百嶋神社考古学の底深さを思い知らされたところです。

 真実の古代史に多少とも迫ろうとする志を持つ方は、手元にある「古事記」「日本書紀」を捨て、百嶋翁が基礎とした「高良玉垂宮神秘書」を少しでも読んで頂きたいと切に願うものです。

 「古事記」の九割は嘘であり、藤原一派による捏造なのです。

 いくら「記」「紀」に精通しようが、いかに精読しようが真実は決して見えてこないのです。

 今回は、太宰府地名研究会を中心とする神社考古学研究班の某女性メンバーが気付いた「猫坂礎石群」と「四王子山への降臨」をお知らせすることにしました。もちろん、これは仮説であり「奈良〜平安時代の土師器(はじき)・須恵器(すえき)」を含め関連調査はこれからになります。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:18| Comment(0) | 日記
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