太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



無題.png

無題.png

無題.png

o0198005613264565002.png o0199005613260936971.png 無題.png

2014年12月26日

028 邪馬台国と対抗した狗奴国は熊本県益城町の朝来山とどのような関係があるのか?  

028 邪馬台国と対抗した狗奴国は熊本県益城町の朝来山とどのような関係があるのか?  

20141108
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 邪馬台国畿内説などといった利権まみれの嘘つき学者(考古学村)による言説や、それに踊らされた畿内説信奉者は放っておくとして、真面目に物事を考えようとする人々は、当然にも狗奴国がどこにあったのかを考えることになるでしょう。

 その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。(中略)その八年(正始8年)、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず、倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。

「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王 (中略)其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼興狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状」〓 『魏書』東夷伝
「ウイキィペディア」による


「ウイキィペディア」は誰が書いたか分からないもので学者は一切引用しないなどと偉そうなことを吹聴していますが、原子力村の学者どもがいかなるものか知った人々は学者こそ信用できない権威なき者であることを知っているはずでしょう。このため、積極的にと言うほどではありませんが、嫌がらせの意味でも適宜引用することにしています。

 菊池の会という組織があります。
 その創立がどのようなものであれ、菊池氏は古来(恐らく8世紀以前から)、一族独自のネット・ワークを維持し、百年ほど前までは秘密結社を保ってきたものと考えています。
 恐らく、この会もその一つだと思うのですが、今年も年次総会を菊池市で開催されています。
 今回の報告者は、自ら菊池氏の末裔(直系)とし、景行紀に関連して「肥前国風土記」に登場する「紀の大野の宿禰」は菊池の一族と同族…との著書を出された島原市在住の出田英雄先生でした。
 出田先生には紀氏の調査で内倉武久氏と共にご自宅に訪問したこともあり、早々にも休憩時間に御挨拶させていただきました。
さて、当日は菊池地名研究会のメンバー数名と共にオブザーバー参加していたのですが、菊池の会のメンバーでもあり、「邪馬台国と狗奴国と鉄」他の著者である菊池秀夫氏と面会しました。
氏は、邪馬台国九州説論者を軸に、 全国邪馬台国連絡協議会を組織しておられ、昨年、宇佐で第一回目の会合を持たれたやに聞き及んでいます。
このことについては知ってはいたのですが、講演者があの安本美典と聞くや、その僅かばかりの関心をもたちどころに失ってしまいました。当会がどのようなスタンスを採るかはともかく、少なくとも私自身

無題.png邪馬台国と狗奴国と鉄 菊池 秀夫:著 発行:彩流社

としては、安本が参加するような席には着かないだろうと思うものです。
それはともかくとして、この間関係を維持してこられた菊池地名研究会の中原 英先生に菊池秀夫氏が朝来山を案内して欲しいとのことから、翌日、菊池川流域地名研究会の前の午前中に現地をご案内することになりました。
これについては、別稿としますが、ここでは、当日配布されていた菊池秀夫氏により書かれた「邪馬台国と菊池一族の謎」にある注目すべき点について触れて見たいと思います。

E狗奴(クナ)の名称が残る地名には「白川と緑川の間に朝来山(あさこやま)がある。古くは朝来名(あさくな)の峰」と呼ばれた。(『続日本紀』『肥前国風土記』)」と書かれていたのです。

当然ながら、「あさくなのみね」のクナと狗奴が音通しているとの観点に基づくものです。
当方も、仮に「魏書」東夷伝の記述が正しければ、邪馬台国を筑後川流域以北と想定している以上、「狗奴国」はその以南のどこかにあったはずであり、地名探しをしたこともありました。
ただし、漢音で読むとすれば、「コウド」…呉音で読むとすれば「クヌ」…になり、それに中古音、上古音までも踏み込む必要はありそうであり、単純に「クナコク」とも「クナコク」でないとも決めつけることはできないという意識を保留したままの試みでした。
さらに言えば、“当時の呉の太伯の裔とする倭人が漢字を知らなかったとか読めなかったなどとする考え”は、大和を国の中心とし倭人を国の外れの蛮族扱いする畿内説論者による考え方の延長上にあるもので、漢字を知っていたとすれば、当然にも自らと自らの周辺国家の国名を記述して持ち込んでいる可能性も決して否定はできないのであり、多くの要素を考慮に入れ作業しなければ探索はできないことになります。
しかし、そのような事を頭に入れた上での提案としても、狗奴国=朝来山(アサクナ)説は面白い提起でした。
それは、この益城町から阿蘇の手前の西原村一帯は製鉄の痕跡が色濃く残っているからでした。
詳しくはふれませんが、この一帯では「鳥子」「金山」「赤井川」「金井川」「福原」「福田」「左の目神社」「西原製鉄所跡」(平安時代に使われていた古代の製鉄所跡)…は元より、北方系の(俘囚製鉄?)さえも感じさせる、「秋田」「小谷」(オヤツ)「猿帰」「白山姫神社」…といったものが多数拾え、戦後しばらくまで操業していた銅山(城山銅山)の存在までも考えれば、大牟田市、荒尾市、山鹿市、菊池市一帯の中近世製鉄と並ぶ製鉄拠点であったあったことが見えていたからでした。
これについては、久留米地名研究会のHPに掲載している13「鳥子」をお読み頂ければ、お分かり頂けるものと考えます。
これについては13「鳥子」と重複することからこれ以上は踏み込まずに、新しい話をしたいと思います。
以前から、特に兵庫県但馬地方を中心に日本海沿岸の各地に九州の地名が大量に認められるという事実を掴んでいました。
この地名移動のベクトルについては、一応、対馬海流に乗って、西から東、南から北へ、で良いと考えていますが、とりあえず、九州を起点として多くの人びとが組織的に移動した痕跡であると仮定しています。
従って、地名が形成される時代程度の古代において、九州から大量の人々が、逃亡、もしくは、植民、開拓といったなんらかの動機で移動していたのではないかと考えています。
問題はというより、地名研究では絶えず問題とされ真面目に取り扱われることがない理由に、その地名成立の時期の特定に困難さがあり、結果、文献史学の人々から無視される傾向にあることは十分承知しています。
ただ、単独の地名ではなく、群をなして移動しているようであることから、移動の事実は否定しがたく、残りは、その移動地名の成立の時期になります。
移動地名の成立については、「和名抄」「延喜式」「風土記」…に頼ることになりますが、大半の地名は文献的に遡ることが困難です。
ただ、地名表記が好字令以降の地名に見えることから八世紀以降の移動ではないかとまでは言えそうです。
これについては、部分的にはネット上に公表していますが、最低でも但馬国の「但馬」は宗像大社の所在地である大字「田島」の、兵庫県養父市の「養父」は佐賀県鳥栖市養父町の「養父」(古代の養父郡)の、養父市の中心部の朝倉地名は福岡県朝倉市(古代の朝倉郡)の地名移動なのです。
この他にも、兵庫県美方郡新温泉町二日市の二日市温泉(浜坂温泉郷)は当然にも福岡県筑紫野市の二日市温泉の地名移動でしょうし、同じく浜坂温泉郷の七釜温泉も佐賀県唐津市呼子の景勝地の七釜…と。
これは神社についても同様で、面白いものでは、養父市大屋町を中心に10社近く展開する御井神社も恐らく久留米市の高良大社の麓に鎮座する味水(ウマシミズ)御井神社の移動と思えるのです。
このような例を逐一ご紹介しても土地勘のない方にはチンプンカンプンにしかならないので、近いうちに久留米地名研究会のHPに「但馬」を掲載する予定ですが、一つの地名群がその順で並んで移動している分かりやすい例(福井県は敦賀湾に並ぶ、金ケ崎、黒崎、岡崎)があるのでご紹介しようと思います。

宗像周辺の地名が日本海沿いに東に移動している。


宗像一帯の海岸部には、西から、草崎、神湊、釣川、「鐘崎」(鐘ノ岬)
地島(ちのしま)、「黒崎」(鼻)、波津、黒山、糠塚、芦屋、「遠賀」(古代の岡ノ湊)と言った地名が並んでいます。これはほんの一例ですが、まだまだあります。
北九州市八幡区の黒崎はこの黒崎(鼻)が最初に移動したものでしょう。
 一般的にこのような地名の移動を考えるときに、例えば、志賀島の「志賀」(鹿)が移動した地名として、佐世保市鹿町、石川県羽咋郡志賀町などが取り上げられますが、海洋民はあまり記録を残さないことから、宮地嶽神社に近い「手光」(てぴか)や「在自」(あらじ)「上八」(じょうはちではなくなぜかこうじょうと読むようです)といった滅多にない特殊地名ならば別ですが、単に同じ地名があるだけでは判断が難しいのです。
しかし奉祭する神社が互いに符合するとか、住民の姓氏名や地名が複数や順番に対応するとなると、やはり地名が持ち込まれたと考えて良いいのではないかと思います。
こう考えてくると、はっきり言えそうな例として、敦賀があります。
 福井県敦賀市の敦賀湾の湾奥、敦賀港の泊地に金ヶ崎町があります。戦国期、越前に侵攻した織田徳川連合軍が朝倉景恒を攻撃した金ヶ崎城の「金ヶ崎」ですね(そもそもこの朝倉氏は但馬の養父から本拠地を移し敦賀に入っているのです)。
そして高良大社と同じ木瓜モッコウ紋を使っているのです。
ついでに言えば手前の若狭湾の入口にある巨大な半島の先端にも金ケ崎があります。
また、角鹿(つぬが)町もあります。これは実は志賀島のことですが、ここでは、ふれません。
その四〜五キロほど北の敦賀街道8号線沿いに「黒崎」という岬があり、さらに二キロ北上すれば「岡崎」があるのです。
つまり、宗像沿岸の西から東に向かって並ぶ「鐘崎」「黒崎」「遠賀」(古代の岡ノ湊)と同じ地名が敦賀にも順番に並んでいるのです。
さらに、その「岡崎」から北に十キロ進むと海岸沿いに「糠」があります。
これも恐らく、岡垣町の「糠塚」に対応するのでしょう。
もはや、宗像の海士族が拡大するか、移動するか、一部が避退するかして持ち込んだ地名としか考えられません。
最後尾の図を御覧下さい。金ケ崎城があり、順番に「金ケ崎」「黒崎」「岡崎」があるのがお判りいただけるでしょう。まず、完全な対応が認められます。 

「朝来」地名


但馬の国(兵庫県の日本海岸)に「朝来」(アサゴ)市があり、丹後の国、舞鶴市にも「朝来」という地名があります(舞鶴湾の出口に「金ケ岬」もあります)。
ここで、「続日本紀」「肥前国風土記」に白川と緑川の間に朝来山(あさこやま)があり、古くは朝来名(あさくな)の峰と書かれ、狗奴(クナ)の名称が残る地名があったことを思い出して下さい。
恐らく、これらも日本海側に移動した九州の地名の一つではないかでしょうか?
これは孤立した地名であり、今後、舞鶴市周辺を含め、朝来市一帯の地名、神社、姓名、古跡を調べ、関係性の有無に迫りたいと考えています。
可能性はあると思います。こじつけの様な話になりますが、肥後の朝来地名がある場所は益城町であり、故百嶋由一郎先生からは「益城は古くは甘(旨)ウマシキであり、甘木、朝倉の甘木と同じ意味ですよ!」と言われていたからです。
多少ともこの手の話に手を染めた福岡周辺の人は甘木と朝倉は同一文化圏と考えておられると思います。
この兵庫県の朝来市の北には養父市があり、そして、その中心部の八鹿町には朝倉と言う地名があり、織田徳川連合軍に攻められた浅井朝倉の朝倉氏の出身地とされているのです。

城の登り口には「越前の大名朝倉氏発祥の地」という解説板が建てられています。朝倉の集落は、越前一国を治めた戦国大名、越前朝倉氏の出身地です。朝倉氏は平安時代末期に、日下部一族の中から朝倉という地名を苗字として生まれた武将です。朝倉史跡保存会では朝倉区のまちづくりのシンボルとして、朝倉城やびくに城の草刈りや顕彰に努めています。
越前の朝倉氏は延元元年(1336)に初代の朝倉広景が、但馬から越前に入って始まりました。6代孝景は越前の守護となって、一乗谷の城下町を整備して栄えました。しかし天正元年(1573)に織田信長の軍勢に攻められ、11代の義景で滅びました。現在の一乗谷の城下町は、武家屋敷なども復元されて福井市の歴史公園となっています。
朝倉城は、集落から西方向に尾根を約300mほど登った標高152mの丘にある山城です。規模は南北180m、東西95mあります。城の南端は三本の堀切(ほりきり)で区画しています。そして城の平坦地である曲輪(くるわ)が8段、北方向に続いています。
そして最も先端部に南北36m、東西42mの広い曲輪が作られています。物見櫓(やぐら)を建てたと思われる櫓台が中心にあり、曲輪の端には低い土塁(どるい)が残っています。
朝倉区長の才木 茂さんは、「朝倉城は大きな城ではありませんが、形が整っている城で、堀切や土塁などがきっちと残っています。八鹿がよく見える景色のよいところの(ママ)あります。福井市からも見学に来られます」と解説しました。
武将としての朝倉氏は、八鹿町朝倉に屋敷を構えて、鎌倉幕府を開いた源頼朝につかえた、朝倉高清を始祖としています。朝倉氏の一族は江戸時代には旗本になって、明治維新まで続きました。朝倉城は、武将の時代を静かに語り継いでいます。
「朝倉氏と朝倉城」養父市HPより。


してみると、但馬に移動した九州王朝の中核部隊は旧狗奴国の勢力=熊襲だったのかも知れません。

無題.png


無題.png


地図は昭文社の「アクセルA4九州道路地図」一九九〇年版を加工したもの

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 20:08| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: