太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年12月22日

026 “志賀島金印シンポジウム”と宗像の神 

026 “志賀島金印シンポジウム”と宗像の神 
20141021
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


筑紫舞の奉納が行われる数日前の10月18日、九州産業大学の大ホールで志賀島歴史研究会の主催による第8回金印シンポジウム「金印発見230年」が行われました。
通常、通説派のイベントには参加しないことにしていますが、志賀島歴史研究会は九州王朝論の団体ではないものの、例えば邪馬台国畿内説などといったとんでもないデマに加担している訳ではなく、熱心に古代を探ろうとする方々の集まりで、以前から連携したいとは考えていました。
志賀島歴史研究会はNPO法人として登録され、行政からの補助金を受け資料も講演者も豪華ですが、久留米地名研究会は、行政との関係を一切持たずに自前の研究体制を維持することを標榜しており、補助金は毒まんじゅうと考えています。
事実、配布された資料集には、福岡県、福岡県教委、福岡市教委…の後援が明記され、いわばお墨付きの、安心して参加できる無難な研究団体であることが分かります。
勿論、行政の許容範囲で研究する中にも新発見や重要な研究は得られるでしょうが、私達が求めているものは、その行政が隠して触れない、触れたくない部分にこそ古代の真実が隠されていると考えるからです。
国立大学が独立行政法人化されて以降、研究費欲しさに権力に尾を振る研究しか許されないものになってしまったのと同様に、末端のNPA法人にも同様の運命が待っているものと考えています。
今回のイベントには久留米大学の公開講座や、久留米地名研究会でも講演して頂いた佛教大学の黄 當時教授や玄海地名研究会でお世話になっている宮地嶽神社の浄見 譲宮司が講演するとなると無視する訳にはいきません。
九産大のキャンパスに足を踏み入れるのも初めてでしたが、地名研究会メンバーも何人か顔を出しているようです。
特別に案内をしていませんでしたが、最終的には7、8人のメンバーが来ており、改めて熱心さを感じた次第でした。
今回の黄 當時教授と浄見 譲宮司の話も、通説とは合い入れない内容です。
その限りでは、志賀島歴史研究会に賛意を表したいと思います。
まず、黄 當時教授は、金印における「委奴」(決して倭とは書かれていない)を「漢書」
の「倭奴」の略字とし(委は倭の減筆=省画)、「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じる説 三宅米吉他の説「奴」は儺津、那珂川のナであり、倭の「奴国」を現在の那珂川を中心とする福岡地方とする通説(教科書などでもこの説が通説となっている)を誤りとしておられます。
では、なんと読むかについては、ここでは触れません。黄 當時説はネット上でも流れており、関心をお持ちの方はご自分でお調べください。
また、浄見 譲宮司も、九州王朝の名こそ出されませんでしたが、大和朝廷とは異なる王権が存在し、白村江の敗戦後、権力が移動したという趣旨の話をされ、宮地嶽神社の奥の院にある巨大古墳(幻の九州王朝筑紫舞が傀儡により舞われてきた)も倭国の大王のものであり、決して宗像徳善(壬申の乱の天武天皇の妃を出した一族)の影響下にあった豪族のものではない!との通説派の学者(九州大学のN)の評価を否定されたのです。
その意味でも、通説派の赤司課長(福岡県教育庁文化財保護課長)がどのように聴いていたかについては関心を持って注視していました。
なぜなら、県教委の文化財保護課などは、まずは、学会通説派の牙城であり、私達が最も疑いを持って見ている人達の集まりだからです。
講演内容については、資料をPDFファイルでお見せすることも可能ですが、最近の行政は不必要にか、利権を狙ってか、自己保身が中心的な意味でしょうが、アメリカ流の著作権云々を問題にしますので、公開しません。
ここで取り上げるのは、タイトルを「“志賀島金印シンポジウム”と宗像の神」としたように、所謂「宗像徳善」問題です。
恐らく伝統的なことだと思いますが、昔から、宗像の人々と志賀島の安曇族との間には違和感、対立関係が存在すると言われています。
当然にも、白村江の敗戦、壬申大乱など倭国から大和朝廷(日本国)に切り替わる辺りの事情が淵源ではないかと考えているのですが、宗像族(といっても元は同族でしょうが)と安曇族の対抗考えているものの、ひと頃、福津市側の津屋崎古墳群(奴山・新原…)ばかりではなく、宮地嶽神社から二キロは伸びる参道正面に位置する相島の250の積石塚群、宮地嶽神社奥の院の巨大円墳、さらには、近頃、金銅製馬具が出た古賀市の谷山北地区遺跡まで、宗像徳善の影響下にあった地方豪族のもの…とする説が横行していました。
特に重要なのは、宮地嶽神社の最奥部の不動神社の傍にあり、国宝に指定された金銅透彫冠、金銅装頭椎大刀、金銅鞍金具など豪華な副葬品を持ち、国内第2位の横穴式石室を持つ宮地嶽古墳が、宗像徳善のものとされていた部分です。
この、元九州大学教授のNが主張していた「なんでも宗像徳善説」については、さすがに気まずいと思われたか、間違いだったと教えられたか、本人自身が取り下げられたとの話も聞きます。
とは、言うものの、この単純なテキストで教えられ鵜呑みにされた方はおられたようで、当日の参加者の中から質問とも抗議とも言えないような反論が繰り返されたのでした。
勿論、パネル・ディスカッションである以上、異論の提出はあってもおかしくはないのであり、価値ある物ならば拝聴、検討はしかるべきですが、その話の内容が、正確には覚えていませんが、宮司の“宮地嶽古墳の主は安曇族の大王であり決して宗像族のものではない”という発言に対して、“私たちはこれまでそんな話は聴いていないし初めて聴くはなしだが”“そんなこと言っていいんですか”“N先生に直接聴きますが良いんですか…”となると、権威ある学者の説を否定するとでも言うのか!といった権威主義丸出し、虎の威を借る狐の抗議といった状態で、一瞬、会場も凍りついた状態になったのでした。
もっと話がエスカレートすれば、当方もスタッフは揃えており、全面反論をとも考えたのですが、そこまでは進まず、そのNの取り巻きでも穏当な方に逆に制され納まったようでした。

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ともあれ、この学会通説(今回の場合はそこまで高まっているとも思えない私的な仮説でしかないものですが)に尾を振る、学芸員などから渡されたありふれたテキストで教育(調教)されたボランティア・ガイド、町興しスタッフが各分野で増殖している事だけは確かで、ここには、戦後勃興した民間の研究者による郷土史会、史談会、考古学団体…といったものが、ほぼ、瓦解しつつある状況にあり、その結果としての知的レベルの後退、低下をまざまざと見させられた思いがしたところです。
 してみると、黄教授と宮司の、自然で独立した何でもない普通の説が、単純で、決められたメニューで構成された無難で代わり映えのしない通説から調教された人々にはかなり遠い位置にある許しがたい議論に見えたのだなあと言う実感を改めて得た次第です。
 となると、久留米地名研究会のスタンスに至っては、それ以上に許しがたい国賊の説に当たるはずで、我々はさらに緊張した環境の中で茨の道を歩むことになることでしょう。
 当日参加した当方のメンバーは僅かでしたが、皆その思いを持ったのではないでしょうか?
 宮地嶽神社正面の相島には太宰府地名研究会、玄海地名研究会を中心に、6月29日、30人規模のトレッキングを行っています。
会場を凍らせた方かどうかは分かりませんが、これも宗像徳善のものとかされた相島にNの引率で、70人とか100人とかいうトレッキングが行われています。関心をお持ちの方は、ネット上の 福岡:「大塚先生と行く」・相島積石塚群と宗像・飯塚を訪ねて−2(2013-07-14)をお読みください。
 今回は「ひぼろぎ逍遥」跡宮(奥の院)の基本的なテーマから外れましたが、次回は、一度ふれた「宗像大社が実は三女神を祀っていなかった=本来の祭神は大国主命」、「元は安曇族であったのではないか」という話をしたいと思います。
 今後とも、教育委員会、既存の郷土史会といった組織とは関わり合いになりたくないという思いを新たにしたところです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:06| Comment(0) | 日記
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