太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



無題.png

無題.png

無題.png

o0198005613264565002.png o0199005613260936971.png 無題.png

2014年12月20日

025 熊本県南部不知火海沿岸と福岡県築上町の奇妙な地名対応

025 熊本県南部不知火海沿岸と福岡県築上町の奇妙な地名対応  
20141020
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


武内宿禰と奈良の葛城王朝の故地を探る目的から、葛城神社や紀氏については特別の関心を持っています。
このことから、連携ブログの「ひぼろぎ逍遥
でも、武内宿禰の母親である山下影姫を祀る佐賀県武雄市の黒尾神社、佐賀県みやき町の葛城神社、同じく神埼市脊振村桂木の一言主神社などを紹介してきました。
今回ご紹介するのは、豊の国でも豊前は築上町の葛城妙見神社です。
この神社は過去数回訪ねていますが、今回の訪問は内倉武久氏に案内することが目的でした。
と言っても、新たに訪れると新たな発見があるもので、前回までは良く分からなかった境内社の性格が多少とも見えてきた感じがしています。
まず、この神社の美しさに心が打たれます。
後で宮司からお話をお聴きすると、“農地が増えたことから水が必要になり境内地であったところを溜池に変え参道を付け替えたが、溜池に向けて鳥居をそのまま残し、以前の参道の名残としている”とのお答えを頂きました。
恐らくこの溜池に向けて残された鳥居が独特の景観と印象を与えているのでしょう。
海に向かう鳥居で有名な対馬の和多都美神社(長崎県対馬市豊玉町仁位字和宮55)とのダブルイメージがそうさせるのかもしれませんが、眼前の穏やかな農村風景と相まって、年ごとの桜の季節にはさぞかし美しい景観を与え続けてきたことでしょう。

無題.png


右はご案内した内倉武久氏


今回は地名対応の話をするつもりですので、神社の祭神や境内社の神々については触れません。
 祭神については来年の桜の季節にお伺いし、もう少し詳しくお話をお聴きして書くことにしたいと思います。
勿論、宮司は畿内から勧請されたものと言われていますが、今からお話しすることも皆さんに考えて頂きたいと思います。
築上町は豊前市(遠方の方には分かり難いかも知れませんが、豊前と言っても、勿論、福岡県です)の北隣椎田町の隣町ですが、海岸部には「湊」や「福間」といった、安曇族、宗像族(?)の地名が拾えます。
そして、海岸部の北端には東八田、西八田というヤタガラス(実は福岡市が元々の中心地なのです)の一族を思わせる地名まで拾えます。
八田は恐らくヒッタイトの都ハッティシェリが起源だと考えていますが、矢田、八天などとも表記され

無題.png


こちらは裏参道の鳥居ですが、神額には葛城神社とあります


無題.png

※クリックで拡大
一応拡大すれば読めると思いますが、神仏習合された葛城妙見神社の縁起です


ているようです(八谷、蜂谷、八屋、八並…も関係なしとはしないでしょう)。
 何よりも、隣の豊前市には山岳修験の求菩提山があったわけであり、八天狗がいたのです。
話がそれましたが、地名の話に入ります。
注目したのは妙見葛城神社の周辺にある四つの地名でした。

奈古、日奈古、佐敷、坂本

無題.png
 狭い地域から拾い出したこれらの地名が、奈古(鹿児島県出水市米ノ津の名護港)、日奈古(熊本県八代市の日奈久温泉)、佐敷(熊本県芦北町の佐敷)、坂本(熊本県八代市坂本町=球磨川下流部)のように全て鹿児島県、熊本県南部の不知火海沿岸=熊襲の領域の地名と対応しているのです。
 日奈古と日奈久は違うではないかと言われるかも知れませんが、九州西岸ではO音はU音に変わります(恐らく、古代には沖縄の三母音の名残を残すU音表現の方がむしろ標準語だったと考えていますが、九州王朝論を多少とも理解されない向きにはただの戯言に聞こえることでしょう)。
 豊前や、瀬戸内海の方には分かりにくいかも知れませんが、九州西岸部では、大事を「ウーゴト」と、オッタマゲルを「ウッタマゲル」、お盆のホウズキも「フウズキ」と言うのです。
 椎田町が小さな町であり、非常に狭いエリアから拾い出した少ない地名にこのような対応が認められる場合は、通常、震源地から派生地への人間の移動がもたらした現象と考えるのが常ですが、その震源地とは、当然にも八代の大社妙見宮とそれらを奉斎する人々だったと考えるのですが、直ぐにご理解いただけるかは全く不明です。
 ここでは説明しませんが、個人的には、沖縄の名護港と出水市の名護港との関係、出水市が何故出水と言われているのか、日奈久温泉の日奈久の意味が氷解し、改めて民族の移動を実感しています。
 何故ならば、八代の妙見宮は「オウレーオレーデライタオ(到来=来到)」(呉の国から自分たちの頭がやってきた)で知られた河童渡来の伝承のある九州年号の一つ「白鳳」を留める古社だからです。
 つまり、「三国志」ではなく「呉越同舟」の呉(蘇州、揚子江河口)から周王朝の末裔である呉の王族がやって来た!のです。 八代の妙見宮と椎田町の妙見葛城神社の対応については、別稿とします。
 
無題.png


本殿上には九曜星が打たれています 細川も九曜星を使います(小倉藩)の支配地だったからでしょう


葛城神社妙見宮 天之御中主神 福岡県築上郡築上町奈古111


 最後に、宮司とのお話の中に、「神紋は九曜星です」と言われたことについて思ったことを書くことにします。
九曜星は細川家が使い、熊本県でも目立ちます。
宮司は“妙見信仰とは北極星+北斗七星ですから八星なのですが、小さな星があるため実は北斗八星だからだと考えています。”といったお考えでした。無題.png
 豊前の山岳修験となれば現在は彦山、国東の六郷満山ですが、元は求菩提山であり、大天狗=豊前坊+八天狗=ヤタガラス(ヤタリガラス)がこの神紋を意味しているのではないかと思った次第です。
 また、狛犬が何故か佐賀県の伊万里市の方から寄進されていることから不思議に思い宮司にお尋ねしたところ、自分の妹が嫁いでいるためとのことで氷解しました。
 淀姫神社ですかとお尋ねするとそうだとの事、このようなことの繰り返しの中でだんだんと神社と氏族の関係が見えてくるものなのです。

葛城神社妙見宮 天之御中主神 福岡県築上郡築上町奈古111


葛城神社 九曜紋
葛城神社の神紋

九曜紋

インド天文学や古代占星術が発祥で九つの天体を神格化した文様で繁栄・収穫・理論・交通・生命を司る神の徴とした。中国では九つの星に仏の姿を当てて九曜曼荼羅として信仰した。星、天体は狂いなく宇宙を巡る。その規則性に神を見出した古代の人々。特に、天体の中心にありり動かぬ北極星は、道行の目印、通行の守り神として崇められた。なので日本では平安時代の頃から星は通行の安全にご利益があるとされ、星を象徴した九曜紋が高貴な人々の車につけられるようになった。葛城神社の由緒にもある通り、星のお告げによって縁起した当社の紋も、星をあらわす九曜紋であり、交通安全、旅行安全、不変恒久、カリスマ性にご利益がある。

葛城神社妙見宮の御縁起


その昔、三つの大きな星が明るい光を放ち、葛城山天降の峰に向かって降り注いでいくのを村人たちが見つけました。その時に光輝く童子が現れて村人達にお告げをしました。「別天津三神を奉る三殿の祠を建て崇拝すれば郷里繁栄五穀豊穣となる」そのお告げを受けた村人達は、皆で力を合わせてお告げ通りに葛城山天降山上に祠(ほこら)を建てたのが葛城神社妙見宮の創建です。(一〇七六年)神官藤原時人神告に依り奉祭されました。
天降の山上より現在の地へお社を建て御遷座奉る事になり一五九二年社殿建立遷座され鎮り座し奉り今日に至ります。
天地のはじめに成られた別天津神(ことあまつかみ)三神の天之御中主神・高御産霊神・神皇産霊神を御祭神としています。 
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は古事記で一番初めに出てこられます神様です。宇宙に最初に現れた宇宙根源の神として崇められています。この天之御中主神から宇宙が始まり、天地が創造された後に、様々な八百万の神々が誕生していくのです。また、天之御中主神は妙見信仰とも言われており、古来より、宇宙の中心にて動かぬ神、北極星を妙見尊星として、数ある星の中で一番最強とし尊崇されています。高御産霊神・神皇産霊神は、この世のすべてのものごとを産み成す神様。二神を合わせて、むすびの神として崇められ、縁結びや子授け、ものごとの成就に御利益があります。
葛城神社妙見宮HPより


「日奈古」が八代の「日奈久」からの地名移動という事実に気付きネット検索を行うと、「古樹紀之房間
(こきぎのへや)
というサイトに出くわし、なるほどと思った次第です。以下参考にお読みください。

□ 豊後の日名子一族
(問い) サッカー協会章の三本足の烏を図案化した日名子実三氏は、大分県臼杵市の出身ですが、竹腰氏同様、その由来を確かめることは不可能でした。
 日名子実三については、関連著書に先祖は熊本県日奈久(温泉)出身とありましたが、大分県内の別府周辺には古代紀氏の末裔と伝える日名子氏が多く、奈と名の違いはありますが、発音は同じなので、むしろこちらの出では?と想像しています。
  この日名子姓について、ご存知のことがあればお知らせ下さい。 
 (樹童からのお答え)
1 日名子という苗字   日名子は珍しい苗字で、日奈子・日奈古・日那子・雛子・日子とも書き、管見に入ったところでは豊前・豊後及び肥後だけに見られます。『姓氏家系大辞典』では肥後だけをあげ、「葦北郡日奈久邑(注:現熊本県八代市日奈久)より起こりしか」というとして、恵良惟澄申状に「日名子兄弟」の名前が見えると記します。一方、豊前・豊後のほうは豊前国築城郡日奈古(現福岡県築上郡椎田町日奈古)か豊後国速見郡別府辺りに起った苗字とみられます。
 ご質問の臼杵の日名子氏の系図は不明ですが、臼杵藩主家の故地美濃には見られない苗字ですので、地元の豊後かその付近の出身とみるのが自然だと考えられます。日名子実三氏(昭和二十年逝去、享年53歳)の家が何時から臼杵に居住したかは不明ですが、臼杵市には電話帳で三〇余軒の日名子姓が見られており、臼杵藩士ではなく、地元の苗字と考えられます。氏は臼杵城下の旧い家に生まれたといわれます。
2 日名子の系譜
  日名子氏の系譜は古代に国東半島を領域とした国前国造の末流とみられます。具体的には、中田憲信編『諸系譜』第三三冊に「日子姓系図」が所収され、孝霊天皇その子日子刺肩別尊に始まる吉備氏族とされています。しかし、同系図は菟名手より前の人名は疑問や世代の混乱が大きく、また菟名手以降でも名前や記事等に疑問な個所がかなりあって、総じて慎重な取扱いを要するものといえます。そのような前提で、現段階での解釈を踏まえて以下の記述をなしたものです。
  (1) 国前国造の祖は、景行紀十二年九月条に見える国前臣祖菟名手で、景行天皇に仕え熊襲親征の時に随行して功績があり、その子の乎左自命(一に午左自命)が志賀高穴穂朝(景行の子の成務天皇の時代)に国前国造を賜ったとされます。菟名手は吉備氏族日子刺肩別命の子とされております。この辺の系譜的記述は『古事記』孝霊段、「国造本紀」に見えます。ところが、前掲「日子姓系図」には日子刺肩別命も乎左自命も見えない状況にあります。
   また、『豊後国風土記』総記の部分には、景行天皇は豊国直の祖菟名手を派遣して豊前国仲津郡中臣村で起きた慶事を報告して豊国直の姓を賜ったという説話が記されており、「国造本紀」豊国国造条には志賀高穴穂朝に宇那足尼(菟名手と同人)が国造を賜ったと記載されています。
    以上のことから、国前国造・豊国国造は同族だと伝えたことが知られますし、九州には同じ吉備氏族という葦北国造(肥後国葦北郡)がおり、三井根子命の後裔とされます。ところが、豊国国造は尾張氏族ともされ、また、国前国造、葦北国造も吉備一族とされますが、この二国造は吉備氏族として疑問も多分にあり、様々な見地から十分な検討を要します。結論的にいえば、これら国造家は豊前宇佐の宇佐国造や火(肥)国造・大分国造の支流同族とみられます。九州では、神武天皇の長子神八井耳命の後裔、多氏族と称する国造・諸氏が多く見られますが、これらは皆系譜仮冒で、実際には天孫系で天津彦根命後裔、宇佐国造の支流とみられます。
  (2) こうした古代の事情を頭においておくと、豊国国造の領域に豊前の日名子があり、葦北国造の領域に肥後の日奈久があって、両地ともに日名子氏が起こり、また大分国造の領域の別府辺りに紀姓とも称する日名子氏が居住したことが理解されます。
    すなわち、豊後国国東半島を中心とした分布を示す紀朝臣姓と称する諸氏は、いずれも中納言紀朝臣長谷雄の族裔と称しましたが、実際には古代国前臣一族の流れの仮冒とみられるからです。大きく言って、紀継雄系と称する一族(豊後国国東郡人の溝部など)、紀諸雄系と称する一族(豊前の宇佐神宮御馬所別当で宇佐郡人の上田など)の二系統があげられます。 
 (3) 「日子姓系図」には必ずしも信頼できない部分があることを先に指摘しましたが、なかには貴重な所伝も含まれているようであり、その概要を記しておきます。
    菟名手命の後裔の黒麻呂は難波朝廷(仁徳朝)に仕えて日子臣姓を賜り、その玄孫長谷部彦(泊瀬部彦)は継体天皇朝に奉仕して日子直姓を賜った。この長谷部彦には、叔父の砥並仙人に依り仙方を伝え、豊州の処々に温泉を創るという所伝も別書にあり、肥後の日奈久温泉も想起されて興味深いものがある。
    長谷部彦の子孫は日子県主・日子郡領を世襲し、初め日子、後に日名子を苗字とした。すなわち、日子太郎次郎清国は鎌倉将軍家に仕え、その子小次郎清治は大友氏に仕えて豊後別府に住み、その子の日名子太郎左衛門尉清元は国東臣と号し大友大炊助頼泰を主として温泉奉行となり弘安年中に死去した。清元の後は、その子の「清輔(勘兵衛)−清豊(太郎左衛門)−清成(勘兵衛)−清三(勘助)−清船(官三)」と室町前期の人々まで見えており、清輔の弟又八郎清行の孫の太郎清秀は菊池氏に仕えた。
   その白鳳頃に分かれた支族の流れに国前大夫背楯があり、嘉祥元年従七位下に叙し八幡宮社務職に任じたが、その子孫には八幡宮社務職に任じた国前のほか、天慶年間に一族の律師慈興に随って播州明石郡忍海荘に移遷した右近太郎浄兼があって、平安中期には播磨の竹川(武川)氏系統と近江の柏木氏系統に分かれ、本系図は播磨の系統に伝えられたもので、江戸前期までの人々に及んでいる。 
3 日名子と別府温泉
  上記の系図を見ると、日名子の主流は大友氏に仕えた別府居住の人々ということになり、その系譜が知られるとともに、貴信に示された日名子・日奈子の分布と符合することになります。その姓氏も称していた紀姓ではなく、実際には日子直姓と知られます。おそらく臼杵の日奈子氏も別府の支族と考えられます。いま日名子の苗字は、日本全国に250件ほどあり、そのうち半数ほどが大分県に居住し、なかでも大分市・別府市・臼杵市に多いとされます。
上記の温泉伝承からは、「日子」は「火の子」で、温泉の意味かもしれないとも推されます。そうすると、日子県主・日子郡領が居た地とは、もともと豊後の別府辺りの地域、速見郡朝見郷の一帯を指すことが考えられます。別府市では、いまは埋め立てられた流川の流域で別府駅前の別府温泉の旅館街がある辺り(現在の別府市元町・秋葉町一帯)が日名子と呼ばれていました。元禄七年(1694)に別府に来た貝原益軒は、『豊国紀行』を著し、「別府は石垣村の南にあり。民家百軒ばかり、民家の宅中に温泉十ヶ所あり、何れもきよし、庄屋の宅中にあるは殊にいさぎよし」「町中に川あり、東に流る、この川に温泉湧出す」と記しています。
別府の元町の近隣には秋葉神社が鎮座する秋葉町があり、秋葉神とは火の神ですから、日子は火子と同じと考えられます。また、前掲の朝見には「アタミ(熱海)」の訓が正しいという説があり、これが温泉を意味する可能性があると『古代地名語源辞典』は記しています。「日子県」をこのように考えると、日子県主の支族が国前に居ったのも自然です。速見郡の北隣が国前郡になるからです。
『速見郡史』にあげる速見郡司としては、日子物麿(白鳳四年〔675〕頃)、日子市人(任期不明)、日子豊躬(任期不明)がおり、このうち日子物麿は前掲系図に日子県主、日子豊躬は日子郡領と見えていますが、系図では白鳳頃の人は豊躬・豊人兄弟であり、『速見郡史』には記述に錯誤が見られます。この辺は別府の日名子氏の所伝に拠ったものとみられます。「日子氏」は、奈良時代、豊前国宇佐から豊後国速見郡に下ってきて速見郡の「大領」(郡長)をつとめたといわれているようで、そこに訛伝が見られます。八世紀代には日子氏のあとの大領を、日出町豊岡の八津島神社を創祭した、「宇佐高春」が務めたようで、「宇佐高春、日名子氏に伴いて、宇佐より下る。」と城内家文書に書かれているとのことです。
なお、椎田町日奈古の近隣にも、例えば求菩提山に温泉は出ますが、別府温泉と比べて規模が違います。 
古代では天津彦根命の子、少彦名神は温泉神とされましたが、宇佐国造はこの同族となります。別府温泉は、古来有名であり、八世紀の初めの『伊予国風土記』逸文の温泉(道後温泉)の条には、神代に宿奈毘古奈命(少彦名神のこと)が仮死状態になったことに嘆き悲しんだ大穴持命(大国主命)が、大分の速見の湯(別府温泉)を海底に管を通して道後へ運び、湯浴みさせて、蘇生させたところ、生き返った少彦名神がちょっと寝たわいと言って四股を踏んだので、その踏んだ足跡が温泉の石のなかに残っていると記されています。『豊後国風土記』速見郡にも、竈門山に泉源のある赤湯泉(血の池地獄)や玖倍理湯(くべりゆ。鉄輪にあった間歇温泉)などの記述があります。
また、鎌倉時代には、大友頼泰が元寇の役で傷を負った武士を癒すため、別府、鉄輪、浜脇などに療養所をつくったとの記録が残されているとのことです。その時に日名子氏の祖先が活躍したとすると、話は系図と符合しますし、この一族はもともと別府温泉の近隣に住んでいて温泉の知識があったものと考えられます。そして、前掲系図において、播磨の人々が豊後の事情・記事を造作できたとは思われず、本系図は何度か書き重ねられて伝えられたものではないかとみられます。
鎌倉時代からの伝統があってか、日名子氏は別府の温泉業に関与してきたようで、江戸後期の文化年間(1804〜18)においては、湯株(源泉を所有し、かつ旅籠を営業していた者)の保有者は18戸であって、そのうち府内屋太郎兵衛が日名子旅館の前身と言われています。なお、「府内」は現在の大分市の旧名で、この地にも日名子氏が多いことが想起されます。大正三年(1914)発行の『別府町史』によると、明治元年(1868)の温泉場として、別府村には會所湯(日名子益太郎邸内)など九個所があり、明治〜昭和期に別府の名旅館御三家として「日名子」が米屋・冨士屋とともにあげられました。  
平安期になって速見郡の郡領職は他氏に譲ったものの、依然として別府に住んでいた「日子(日名子)佐美」は貞観9年(867)に別府の鶴見山(鶴見岳)が大爆発した時、活躍した人物と伝えられています。この爆発で別府の町の人家は壊滅状態になり、「泥流、海岸まで達す」といわれますが、その復旧の中心になって活躍したのが佐美で、その働きは遠くの太宰府にも聞こえ、「郡領目代」に補せられた、という所伝が別府にはあるとのことです。しかし、この所伝は前掲系図には見えず、白鳳頃の日子郡領豊躬の八世孫として左衛門大夫佐美があげられるだけで、その記事はありません。佐美の九世孫とされるのが鎌倉将軍家に仕えた太郎次郎清国ですが、この間の世代も少し多いので、系図には世代重複があるのかもしれません。
戦国時代にも日名子氏の名が時々出てくるとのことですが、明治初期になると日名子氏はいち早く「天神丸」という船を所有して廻船業の「門屋」を営み、別府からの定期航路開設に尽力したことで、月に三回の出船の別府・大阪航路が開かれました。日名子一族は旅館経営にも手を広げ、日名子旅館(日名子ホテルの前身)は別府の旅館御三家の一つになりました。明治三九年(1906)には、別府町と浜脇町が合併して新しく別府町が誕生しましたが、その初代町長を日名子太郎が務めました。昭和天皇の昭和二四年の巡幸では日名子旅館がその宿舎とされました。日名子氏の子孫は現在も各方面で活躍中であり、そのなかに前掲の彫刻家「日名子実三」もあげられています。(以上は、「故郷日出通信」というHPの「日名子氏の歴史」などを参考にさせていただきました)  
4 日名子関係の古代氏族と姓氏・苗字
 最後に日名子氏が出自した古代氏族の姓氏について、その概要を挙げておきます。  
 九州で吉備一族の三井根子命ないし菟名手命(両者は同人か)の後裔と称する国前国造及び葦分(葦北)国造の関係姓氏があり、景行天皇の九州巡狩等に随行して各地に移遷したものか。これらは、多氏族と称する火国造などや宇佐氏族とも系譜的に密接な関係を有した。国前国造及び葦分国造の関係姓氏をあげると、次の通りであるが、後者は南方の薩隅地方に大いに展開した。所伝通り吉備一族としたら、その場合は笠臣と同族かとも思われるが、実際には火国造同族という可能性が大きい。  
国前臣(豊後の称紀朝臣姓諸氏は紀長谷雄の族裔と称するが、実際には国前臣の流れの仮冒とみられる。溝部−豊後国国東郡人、紀継雄系と称。横手、立野、富来、長木、柳迫、速見、何松、志手、岐部、櫛来、姫島、曾根崎−溝部同族。生地、紀田−豊後国速見郡若宮四社権現神主、溝部同族。上田−豊前の宇佐神宮御馬所別当で宇佐郡上田村住人、紀諸雄系と称。永松−豊後国国東郡田原八幡神主。野原−同速見郡人。永井、長谷雄〔長谷王〕、足立、小野−上田同族で国東郡等に住。国東郡田原八幡祠官の是松、永吉も同族か。宇佐神官で下毛郡住人の藍原やその同族とみられる朝来野も紀姓で、おそらく同族。宇佐の鷹居社祠官の紀姓鷹居氏も同族か)、国前直(渡辺−豊前国上毛郡の古表八幡神社大宮司家)、
日子臣、日子直(日名子〔雛子、日奈古、日子〕−豊後国別府に居住。国前〔国崎〕−豊前の宇佐宮貫首。浅田、無佐、由布、芦原田−豊後人。武川〔竹川〕、井関、鷹尾、山嵜、森脇、桂川、鎌谷、高塚−播磨国明石郡人。柏木−江州甲賀郡柏木人。藤原姓を称する宇佐宮土器長職の高村〔高牟礼〕氏も国崎氏の同族か)。また、豊前国仲津郡の高桑臣も同族か。  
葦北君、刑部靱負部、刑部、刑部公、日下部、日下部公、規矩連、日奉部、日奉直、日奉宿祢(横尾−肥後国益城郡人、陸奥下野筑後に分る。那賀、合志−横尾同族。竹崎−同国八代郡人、元寇時の竹崎五郎季長を出す。その同族に野中や筑後国御井郡の三井。また、肥後国玉名郡の大津山は藤原姓を称し、公家日野氏の庶流とか菊池一族合志の初期分岐という所伝もあるが、疑問もある。むしろ筑後国三池郡の日奉宿祢後裔とするのが妥当か。その一族には玉名郡の小野、関、三池、津山があり、同郡の江田も同族か)、
大伴部(出水〔和泉〕、井口、上村、朝岳、知色〔知識〕、給黎、郡山、杉〔椙〕、鯖淵−薩摩国出水郡人。高城−同国高城郡人。武光〔武満〕、高城、寄田−同州薩摩郡人。宮里、高江−同上族、称紀姓。日置、河俣、北郷、息水−薩摩国日置郡人。白坂−日向人。肝付〔肝属〕−大隅国肝付郡人で一族多く、伴朝臣姓で見える文書あるも疑問で本来は葦北国造同族か、一族は大伴氏族を参照のこと)、桧前部(水俣、佐敷、久多羅木、上野、田浦、湯浦、二見、綱木〔津奈木〕−肥後国葦北郡人。篠原、光武、萩崎、白木、牛尾、永里、薗田、中条、岩崎、楢木、桂木、広武、松本、鵜羽、大籠−薩摩国牛屎院人、篠原は日置郡中原の大汝八幡宮大宮司家にもあり。税所−肥後国球磨郡人、大隅国曽於郡の税所と同族と伝う)、他田部、白髪部、真髪部(真上部)、真髪部君(球磨郡白髪社祠官の尾方は族裔か)。また、肥後国葦北郡の家部、八代郡の高分部も同族か。『大同類聚方』には葦北郡の姫島直が見えており、実在したなら葦北国造の族か。                     (03.12.29 掲上)



ちなみに、「姓名分布&ランキング」によると、日名子姓は全国で189件あり、大分県に125件、福岡県に12件、東京都、神奈川県に7件、大阪府6件、埼玉県、千葉県に5件…となっています。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: