太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年12月16日

023 コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪 

023 コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪 
20141003

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


先行ブログ「ひぼろぎ逍遥」067「霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る」において、鹿児島空港に近い前玉神社は、神話の世界のスーパー・スター コノハナノサクヤがニニギと別れ、ヤタガラス(豊玉彦)と共に南に移動し一時定着した場所であることを書きました。
その後、彼らとこの神社、それにこれらを奉斎する一族は遠く東に移動し、一部は富士浅間神社に痕跡を残し、最終的に埼玉県行田市にある古代史や考古学の世界では非常に有名な稲荷山古墳(埼玉=さきたま古墳群)の正面に位置する前玉神社となり、結果、埼玉県という県名にまで高まるという重要な役割を果たしたことにもふれました。
このことをある程度把握されてなければ、今回のブログは全く分からないので、お読みでない方はできればそちらからお読みいただきたいと思います。
今回、内倉武久氏の九州入りに合わせ、同氏を前玉神社に案内することにしました。
内倉武久氏は元朝日新聞の記者で、「謎の古代史族紀氏」(三一書房)「太宰府は日本の首都だった」(ミネルヴァ書房以下同じ)「卑弥呼と神武が語る古代」「熊襲は列島を席巻していた」の四著を世に問われた九州王朝論に立つ論客ですが、関東と九州に広く分布する装飾古墳、横穴墓、前方後円墳との関係を強く意識しておられることから、例えば、熊本県和水町の江田船山古墳の銀錯銘大刀(ギンサクメイタチ)と埼玉県行田市の稲荷山古墳の金象嵌鉄剣を関連付けて考えられており、もしかしたら百嶋神社考古学がお役に立つことになるかも知れないとご案内することとしたわけです。
稲荷山古墳から金象嵌鉄剣が出土した当時(1968年)、『「邪馬台国」はなかった』で既に脚光を浴びていた古田武彦氏は、かなり遅れて「関東に大王あり」(1979年)を出しました。
関東にはヤマトと異なる大王が存在しヤマトの支配は同地まで及んでいなかったとまではしましたが、まだ、当時は研究が進んでおらず、九州王朝の版図が関東まで及んでいたとはしませんでした(これは今も同様)。
しかし、非古田系の九州王朝論者の中では当時から九州王朝系の大王がいたのではないかと考える研究者はいたのです。
その延長上に内倉先生も立たれているのですが、無論、内倉氏はその主体には熊襲が絡んでいると考えられています(詳細については「熊襲は列島を席巻していた」をお読みください)。
この立場からは、製鉄技術を持ったコノハナノサクヤとヤタガラスの一族が九州を南下し、そこから東日本に移動し、稲荷山鉄剣を出土した埼玉(前玉)古墳群正面に出現したという話は、畿内を越えた北関東の飛地を説明できることから非常に魅力的な話になるからなのです。
何はともあれ内倉先生を前玉神社に案内しました。
現在、前玉神社が置かれている場所は、大字三縄の端の字黒ハエですが、旧「溝部町郷土史」によれば明治期に字向井田から移されたとされています。

○前玉神社の御遷座について
「村社、前玉神社、向井田にお立おられ、明治四十三年四月八日に無格社、水波売能神境内敷地に大字内、男女打寄って移転の御祭を成し、この移転成立は官の規則に依りて、御移転または神社合祀を成す事に成立て産土前玉神社もこの地に御移転の事


明治四十三年十一月二十八日書之宝殿に納


「ひぼろぎ逍遥」067「霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る」に資料

前回は字向井田の見当を付けることなく第一次調査を終えましたが、今回は何とか前玉神社があった場所を実見できればと考えていました。
幸いなことに、稲刈りの時期でもあることから野良に出ている人がかなりいたため、大体の場所を確認することができました。
向井田に入ると道が双手に分かれていました。
まず左に進みましたが、道は狭く険しくなる一方でそろそろ引き返そうとしていると、先に道を譲った人が車を止めておられ、お話をお聴きすると、「前玉神社の話を聞くなら永山○○」さん(一応伏せて置きますが、90歳近い花卉栽培農家の方です)が一番詳しいからと教えられました。
道を引き返し、永山さんのお宅に行くと朝早くから仕事をされていることから休まれており、奥様(と言っても御高齢ですが)から追い返され、夜電話をお掛けして御都合をお聴きすることにして、少し早かったのですが、十数キロほど下った妙見温泉の安ホテルに引き上げました。
夜、改めてお電話し前玉神社についてお聴きしたいと申上げたところ、「忙しい時だが、朝早ければ話してやれる。7時過ぎなら良いから…」と快くお引受け頂きました。
その日はたまたま皆既月食の日だったことから、実に大きな、ホテルの巨大露天風呂で内倉先生と月見をしながら移動の疲れを癒しました。
さて翌朝です。朝も6時起きで準備をし、遠回りをしながらも永山○○さんの御自宅付近まで来ると、農業用のトラックと出くわしました。
「永山さんのお宅にお伺いしています…」と言うと、当のご本人でした。
私達の案内のために、早々とお仕事をされていた訳です。
しばらく仕事を続けられ、ようやく一段落ついたところで、挨拶をする間もなく現地のご案内をして頂くことになりました。
話が混乱しそうで申し訳ありませんが、古代史ファンの方には溝部町と言えば高屋山稜が頭に浮かんでくるはずです。
永山さんのお話では、ご自身も戦後すぐから航空自衛隊に勤務されていたようで、鹿屋の航空自衛隊の歴史の教官が来て“今言われている山稜には何もない!この向井田にあるのは山稜ですよ…”と言ったとかで、始めに、言われている山稜跡の山上石棺と言われるものを見せて頂きました。
内倉先生によると、確かに三段築盛の跡が見えるとか…。この話に入ると先に進めないため省略します。
今回は、前玉神社があった場所を確認することが目的ですので、二時間ほどこの山稜周辺の謂れとか、墓地とか住居跡があった場所などご案内頂いたのですが、正直、待ちどうしくてたまりませんでした。
ただ、途中で、話されたことに一つ驚いたことがありました。
昔は、ここらでも一番家が多い所だった…という話です。とてもそのようには見えなかったのですが、百年前までの農村の構造というものは、大半、各々の農家が分散した村でしかなく、極一部の地区だけに鍛冶屋、醸造業者、輸送業者、商業者が住むエリア(それを町と呼んだのであり、単に人口が多い所が町だったわけではありません)であったのであり、にわかには信じがたかったのですが、そういうこともあったかも知れないと思い直したところでした。
してみると、この地にコノハナノサクヤとヤタガラスがいて、その後も、祭(馬頭観音祭)が行われ、近郷近在から万余の人が集まったと言う話も辻褄が合うように思うのです。
考えれば、向井田の正面に宮前、前田(宮の前の田の意味)という字があり、宮の付く地名があるところは古代でも中心地だったはずなのです。

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ただ、「向井田はここらでも一番家が多い所だった」という話は、三縄という大字の意味なのか、溝部までも含んだ意味だったのかは聞きそびれましたので、再度、永山さんにお尋ねしたいと思っています。
今後も、調査を行いたいと思っています。

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高屋山稜ではないかとの話が飛び出した古墳? 三基の石棺か?


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明治に合祀される前に前玉神社が置かれていた場所(正面水田)


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パノラマ撮影した社殿跡地 手前の道路は後にできたもので元の道路は水田(旧境内地)より低かった


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道路の反対側をパノラマ撮影したもの

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字向井田に隣接する字土穴


土穴地名は古代の溶鉱炉に付される(宗像市、大牟田市、鹿島市…)現在は畜産農家の敷地となっている
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:39| Comment(0) | 日記
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