太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年12月14日

022 禁断の百嶋由一郎神社考古学

022 禁断の百嶋由一郎神社考古学
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久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 「百嶋神社考古学」と接触したのは、ある女性と知り合いになった事が切っ掛けでした。
 六年前のことでしたが、夏の大祭が行われていた草部吉見神社の境内での話しです。
地名研究会の宣伝用チラシを持っていたのでお渡し名刺を頂いたのですが、その方が百嶋先生に神社について色々な事を質問される間柄にあったのです。
 当方も、阿蘇に向かう大津町から白川を渡った正面の「鳥子」という集落にある阿蘇三宮神社に関する小論をお送りしたところ、そのコピーが百嶋先生に渡り、ある時、百嶋先生から手紙を頂くことになったのです。
 その重要性に驚き、急遽、地名研究会で講演頂くことにした訳ですが、まず、阿蘇の草部吉見の神が中国の雲南省麗江から入って来ているという衝撃の説に驚きました。
お話をして頂くに従い、その知識の深さ、海外を含めたフィールド・ワークの絶対量の凄まじさ、独学による中国語の習得、漢文を読む力…只者ではないと思うようになりました。
 その時点でも、恐らく日本で最も優れた神社研究者であったはずです。
2013年の元旦に亡くなられたのですが、恐らく図書館百個分の知識が失われたことになるでしょう。
このことは、「宗像大社の祭神は表向き三女神となっていますが、本当の祭神は大国主命です!」という言わば荒唐無稽な話も、前ブログ「021宗像大社の本当の祭神は大国主の命!!」で伊藤正子女史によって

大友坂上郎女は京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った。
この歌からわかるのは、ここでは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。(伊藤)


と、半ば証明を行なわれるなど、改めて百嶋神社考古学の奥深さ正確さに驚かされています。
百嶋先生は、元々、玉名市の大地主の跡継ぎでしたが、戦後の農地解放によって良く聞く没落地主としての道を踏むことになられました。
しかし、「中国を300回は飛行機で移動した」と言われていたように、頻繁に中国、中近東、朝鮮への調査を行われていたようで、それが何故可能であったのかは今も小さな謎として残されています。
勿論、最初は北部九州を中心に調査を行われていたようです。
しかし、その範囲は海外にも広がったことから非常に広い視野での判断ができた上に、漢文が読め、中国語もマスターされていたことから、現地での伝承、解説文の解読によって、大陸から半島から雪崩れ込んできた多くの民族と列島の神々との関係が解読できるようになられたのだと思います。
中国語の会話についても少しばかりのエピソードを聴かされました。
「北京放送局でジンギスカンの末裔のお嬢さんを職員として採用できるように紹介し直ぐ採用された…」と言われていましたので、きちんとしたレベルの会話能力をお持ちだったのだと思います。
鹿児島より南には向かわれなかったようですが、北海道の江差から青森、岩手の東北地方にも何度も足を運ばれたようで、恐らく、国内の神社の調査でも百嶋先生を上回る方はいなかったことでしょう。
研究対象は異なるものの、その調査の行程は民俗学者の宮本常一に匹敵するものだったはずです。
一方、百嶋先生は広義の九州王朝論者でもありました。
それは、「広義の九州王朝論」を主観的に学会通説に蔓延る俗説派の畿内説を排し、自らを九州王朝の存在を確信する者と定義した場合の話ですが、九州王朝論を正統派の古田武彦九州王朝論以外にはありえないとする方達から見れば凡そ荒唐無稽な説として、対立する両派は元より非古田系の九州王朝論者や通説派に限りなくすり寄る安本美典や谷川健一などの東遷説の方々からも相手にもされないものだからです。
百嶋神社考古学の特異な位置は、ほぼ九割かた嘘の「古事記神話」、多少とも正しい事を書いた「日本書紀」をベースに複雑な解釈を繰り返してきた通説派、非通説派に対し、「高良玉垂宮神秘書」を基礎に神話を組み立てなおし、北部九州を中心に動いた神代の歴史を現地の神社伝承、宮司の間で伝えられてきた神社の秘密の伝承、神代系図、なによりも多くの神社の痕跡を厚みのあるフィールド・ワークから焙り出し、真実の神代史を造ってこられたのでした。
生の声としては30時間、動画としては5〜6時間程度の記録しか残されていませんが、実は大量の文字データが残されています。
現在、整理作業を進めており、最低でもデジタル・データ化し、研究者の利用が可能な形で保存し、継承したいと考えています。
地名研究会HPからリンクしているメンバーの「牛島稔太のホーム・ページ」のテープ興しと併せ、活用できるようにしたいと考えています。
問題は、何故そう言えるかが分からないことです。
ただ、西日本のフィールド・ワークは可能であることから、先生が書かれた資料を、少しずつ裏付けしているところです。
一例を紹介しましょう。
この神代系譜でも、贈)景行天皇の子である国乳別も久留米市の弓頭神社の祭神であるとされていることから、自分の認識を改めるためにもついでながら現地を踏みました。
はじめは神社の名前に「弓」が付いていることからどうせ「弓月」の一族(秦氏)だろうと思っていたのですが、百嶋説では全く異なり、八女津姫(「景行紀」に登場する)の兄で、贈)景行天皇と宇佐津姫だったのです。
関連して、水沼県主=猿・大海を見てみると、贈)崇神天皇の妃でもある大海(オオアマ)姫という女とされているなど、百嶋神代系譜を理解しようと幾らか近づけば、そのつど新たな問題が発生し、さらに遠のいて行く気がしています。

※以下の画像はクリックで拡大されます。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:27| Comment(0) | 日記
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