太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年12月03日

021 宗像大社の祭神は三女神にあらず!!

021 宗像大社の祭神は三女神にあらず!!
20141003

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 数日前、宗像大社の「みあれ祭」で百隻近い船が沖ノ島を往復する映像が流れていましたが、今回は宗像大社の本当の祭神が何かを考えてみます。
まず、宗像大社の辺津宮は宗像市田島にあります。
地図を見ると深田にあるようにも見えるのですが、同神社の公式のホームページを見ても、「 福岡県宗像市田島2331 」と出てきますので()やはり田島で良いのです。

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この宗像周辺の地図は昭文社の「アクセルA4九州道路地図」一九九〇年を加工したもの


現在、普通に参拝している辺津宮は海岸から二キロほど後退した場所にありますが、それは、陸化が進んだからであって、宗像大社が成立した時代には、相当奥まで海が入っていたはずです。
つまり、田島と呼ばれる内湾の小島の形状があり、そこに宗像大社の原形が存在していたはずなのです。
ここで玄界灘沿いに西に目を転じると佐賀県の東松浦半島に呼子(唐津市)があります。
秀吉の朝鮮出兵のための出船基地とされたのですが、背後の台地に名護屋城が築かれたことで良く知られています。
この呼子の港に壁のように蓋をし、湾内を穏やかに鎮めている加部島(これも恐らく壁の意味でしょうが)に鎮座するのが式内社(旧国幣中社)の田島(田嶋)神社(たしまじんじゃ)です。
確認するまでもないことでしょうが、祭神は田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊であり、宗像大社に祀られる沖津宮の田心姫神、中津宮の湍津姫神、辺津宮の市杵島姫神と完全に対応することから、この田島神社の名は宗像大社の辺津宮が鎮座する宗像市田島と関係があることが容易に推察できます。
この田島神社に渡る加部島大橋の直下に弁天島(市杵島姫の別名弁財天)まであります。
ついでに言えば、唐津市の「湊」もこの田島神社から船で行けば直ぐのところですから、宗像の「神湊」から付された可能性なしとはしないでしょう。
と、ここまではかなり前に書いていたのですが、どうもこのベクトルは逆で、今は、加部島の田島神社が東に移動したのではないかと思い始めています。
事実、壁島は豊太閤が付したもので、その前は田島なのです。

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地図は昭文社の「アクセルA4九州道路地図」一九九〇年


さて、今回は宗像大社の祭神を考えることにします。
宗像の神と言えば、宗像三女神と誰もが考えておられるでしょうが、百嶋神社考古学では、祭神を「大国主命」とします。
出雲神話の神様の「大国主命」が祀られているなどとんでもない話だ!と言われるかもしれませんが、それなりの痕跡はあるのです。
落ち着いて考える必要があるのですが、神社のフィールド・ワークを行っておられる方には分かることと思うのです。まず、出雲系と言われる神社が多いのは圧倒的に九州なのです。
これは、計量的に調査を行うことが難しいのですが、熊野神社、諏訪神社、祇園社、須佐神社というものがあまりにも目立ちすぎるのです。
しかも、唐津市湊の沖には、神集(カシワ)島と呼ばれる島まで鎮座しているのです。
古代この地で神無月に神集まりが行われていたのではないかと考えています。
勿論、宗像大社が誰を祀ろうが、それはその神社の自由であり、その時々の判断でどのようにされるともとやかく申し上げる立場にはありません。ただ、私達が知りたいのは古代の真実であり、正しい古代史の姿だけなのです。
ここで宗像大社のホームページを見てみましょう。

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『古事記』『日本書紀』によれば、三女神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約(うけい)のもとに誕生し、天照大神の神勅によって、大陸との交通の要路にあたる「海北道中(かいほくどうちゅう)」(宗像より朝鮮半島に向かう古代海路)に降臨し、以降、国家の守護神として崇敬されています。 また、「日本書紀」には、宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けていたことが 記されています。「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。
道主貴(※宗像三女神)以外には、伊勢神宮の 大日靈貴(おおひるめのむち)(※天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち)(※大国主命)のみですので、宗像三女神が皇室をはじめ人々からいかに篤い崇敬を受けら れていたかがうかがえます。


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今在海北道中 號曰道主貴 此筑紫水沼君等祭~是也

今には海の北道の中に在り、號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰う。 此は筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る~、是也。【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三 読み下し】


「古代史獺祭」(こだいしだっさい)による


これまで気付いていなかったのですが、宗像大社が、“三女神を 道主貴(ミチヌシノムチ)と最も尊い神として崇敬を受けていたとしている“こと自体が実は証明であると思うようになりました。
「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。は、それで良いのですが、この三女神を大国主命(大己貴)に戻せば整合性がとれ、本当の祭神が「大己貴」であったと証言していたように思えます。
これは、いつの時代かに「大己貴」が「道主貴」という畿内から半島や大陸への道を司る重要人物という意味に書き替えが行われたのでしょう。
さて、あまり知られてはいませんが、宗像大社には奥ノ院ともいうべき高宮(これも福岡市高宮と関係があるでしょう)がありますが、ここには出雲大社の「稀人の間」同様のものがあり、一部には大国主命が祀られているとも聞きます。
事実、隣の岡垣町手野(国造神社がある阿蘇と播磨にも手野という地名があります)には堂々たる「大国主神社
がありますが、参拝殿が西を、つまり、宗像大社の方角を向いているのです。
恐らく、この大国主神社の存在は、広く宗像一帯に神威を誇っていた時代の名残だったのでしょう。

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「大国主神社」 福岡県遠賀郡岡垣町手野1306番 カーナビ検索


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宗像の主神が「大国主命」と教えてくれたのは、六十数年間神社を調べ続けてこられ、昨年の元旦に八十五歳で亡くなられた百嶋 由一郎氏(元草ヶ江神代史研究会)でした。氏は以前から、「神功皇后を主祭神として祀るとする宮地嶽神社に祀られるワカヤマトネコヒコが四王寺山に降臨し、いわゆる欠史八代として架空とされた九州王朝の第九代開化天皇として即位した。」(『高良山神宮秘書』から)とされています。
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もう一度、宗像大社の公式ホームページを見ます。   

高宮は、社家の説によると「第一神始めて降臨有し、辺津宮の旧址といふ、神代より天應元年(781)まではここに惣社の御座あり、旧社に社を立て下高宮といふ」との記録があり、宗像大神降臨の伝承地である宗像山・高宮を神奈備山・神奈備の杜と崇められて来ました。神奈備とは、「神々が降りてくる山や杜」を意味します。

と、書かれていますが、どう考えてもここにこそ本来の祭神(大国主)が祀られているようなのです。同じく、

奈良時代以前は、神社には社殿が無く神奈備としての杜や山や島などを聖なる所と祀られていました。当大社では「昭和の大造営」の際に、この地を古神道の在り方を踏まえ社地・参道等を整備しました。今日では数少ない古神道の聖地として奈良の大神神社の神体山・三輪山などと共に広く知られて多くの崇敬を集めています。伊勢の神宮で執り行われる多くの祭儀が夜の御祭であることから分かる様に、古来の祭儀は浄闇の中執り行われたと考えられています。…中略…平成17年、宗像大社氏子青年会の結成による地域の協力体制も整ったことを期に「八女神事」を神奈備山・神奈備の杜と崇められて来た高宮で行われることから、神奈備祭とし、高宮祭場での祭祀を復活させました。

と、あります。出雲の佐田神社の神等去出(からさで)神事同様、神社にとってよほど大切な神事だったのです。
宗像大社の本来の祭神は大国主命ではないか?としましたが、もしそれが本当であれば、多少、符合することがあります。それは、大国主を祭る出雲大社の沖に隠岐の島があり、宗像大社の沖にも表記はことなるものの、同じく沖ノ島があることです。それはあたかも、この地に祭られているのは沖からやってきた渡来神であることを告げているかのようです。
さらに言えば兵庫県の但馬地方にも多くの大国主命を祀る神社があります。
とすると、但馬の国も、大国主を祀る宗像大社が鎮座する田島から付された国名である
ことが見えて来るのですが、ここに、「但馬に集中する兵主神」というサイトがあります。

但馬国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が存在していて、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社のみですし、出石神社も古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされています。兵主神社(ひょうずじんじゃ)は、関西以西のしかも但馬国に集中しています。しかし、かつては同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみで、近江国と但馬国に集中して多いのです 。

この「大国主命」を祀る神社が非常に多く但馬国に集中していることも、一つの証明になるかもしれません。何故なら、但馬の国とは、宗像大社の大字田島からの地名移動だからなのです。

[兵主神社一覧] 兵主神社一覧 平成祭礼CDから


青森県むつ市大湊上町337 兵主神社「伊弉諾命」
千葉県東葛飾郡沼南町手賀1418 兵主八幡両神社「經津主命、譽田別命」  
福井県丹生郡清水町山内 兵主神
滋賀県野洲郡中主町下提 下提神社
京都市伏見区中島鳥羽離宮町 城南宮摂社兵主神社「大國主命」
奈良市春日野町 春日大社摂社若宮社末社兵主社
兵庫県姫路市辻井4-4-3  行矢射楯兵主神社「射楯大神、兵主大神」
兵庫県姫路市飾磨区阿成 早川神社「兵主神」
兵庫県姫路市夢前町山之内戊549 兵主神社「大國主命」
兵庫県西脇市黒田庄町岡字二ノ門 兵主神社「大穴貴命」
兵庫県豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」
兵庫県美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
兵庫県美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
兵庫県美方郡浜坂町田井字村中448 兵主神社「?」
兵庫県美方郡浜坂町指杭字御城338 兵主神社「?」
兵庫県美方郡温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊」
兵庫県美方郡浜坂町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」
兵庫県佐用郡佐用町奧海 奧海神社摂社兵主神社「大名持命」
兵庫県姫路市安富町三森平谷 安志姫神社「安志姫命」
島根県簸川郡斐川町大字学頭2830 兵主神社「大國玉命」
岡山県岡山市阿津2783 兵主神社「素盞嗚命」
鹿児島県揖宿郡頴娃町別府6827 射楯兵主神社「素盞嗚命、宇氣母知命」
鹿児島県姶良郡姶良町脇元1818 兵主神社「素戔嗚尊」
兵庫県佐用郡佐用町奥海1281 奥海神社の兵主神社「大名持命」
奈良市春日野町160 春日大社の兵主神社「大己貴命、奇稻田姫命」
香川県大川郡大川町富田中114 富田神社の兵主神社「大己貴命」
福岡県筑後市大字津島1117 村上社の兵主神社「毘沙門天」
福岡県大川市大字北古賀字神前28 天満宮の兵主社「大己貴命」
まず、宗像三女神については「古事記」と「日本書紀」に混乱があり、人気のあるセオリツヒメや作用姫、など別名も入ることから理解がなかなか難しいのです。


「古事記」
  
1 多紀理毘売(タキリヒメ)またの名 奥津島(オキツシマ)比売 A 市寸島比売またの名 狭依(サイ)比売
B 多岐都比売
「日本書紀」
(本文)
1 田心(タコリ)姫 A 湍津(タキツ)姫 B 市杵島姫
「日本書紀」
(一書) 
1 沖津(オキツ)島姫 A 湍津(タキツ)姫 B 田心(タコリ)姫    @タゴリヒメ推定  :豊玉姫 
1 市杵(イチキ)島姫 A 田心(タコリ)姫 B 湍津(タキツ)姫    Aタギツヒメ推定  :豊受大神
1 瀛津島姫またの名市杵島姫 A 瑞津姫 B 田霧(タキリ)姫    Bイチキシマヒメ推定:作用姫

「多紀理毘売」、「田心姫」、「田霧姫」が「タキリヒメ」であったことは一応良いのではないかと思います。

「ひもろぎ逍遥」の綾杉るな女史は、大国主命は田心(タコリ)姫と湍津(タキツ)姫を妃としていることを「鎮西彦山縁起」から拾っており、市杵島姫(セオリツヒメ)と大国主命は夫婦とされている話も良くあるので、結局、宗像三女神と大国主は全て通婚していた事が考えられ、支配者がどちらであったかは言わずもがなでしょう。
 一例だけ上げておきますが、琵琶湖に浮かぶ竹生島に鎮座する「都久夫須麻神社」縁起では宗像三女神の一柱素盞鳴尊の娘で多紀理姫田寸津姫と共に生まれた市杵島姫と大国主命は夫婦とされているのです。また、多紀理姫は大国主命との間に高彦根命と下照姫命をもうけています。
証明するのは難しく、状況証拠だけで書いていますが、ここでは、百嶋神代系譜でいかに宗像三女神と関係が深いかをご覧に入れましょう。

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百嶋先生は、綾杉るな女史と異なり、宗像三女神(決して姉妹ではない)の市杵島姫と田心姫が大国主と通婚していたとしていますが、さらに踏み込み、宗像大社の本来の祭神も「大国主命」であったとしています。
問題は、何故、そう言えるかです。
恐らく、十年前まで活動していた草ケ江神代史研究会に集っていた賢い神主の研究会で伝わっていた話や先生が朝鮮半島、中国大陸各地を調査し掴んだ情報に基づいて判断されていたと思うのですが、太宰府地名研究会のエース伊藤正子女史(「太宰府・宝満・沖ノ島」の著者)の講演の中にかなり重要な証拠に近いものが発表されました。伊藤女史作成のパワー・ポイントデータからご覧いただきましょう。




「万葉集」に証拠が残っていたのです


ダウンロードしてからご覧ください。パワーポイントデータ「相島トレッキング02」

坂上郎女は京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った。
この歌からわかるのは、ここでは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。(伊藤)


大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘。 大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌・短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。
13歳頃に穂積皇子に嫁ぐが霊亀元年(715年)に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉げている。 その後に藤原麻呂の恋人となる。しかし、麻呂とも早くに死別し、養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢と坂上二嬢を産んだ。しかし、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持、大伴書持を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。
坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。 「ウィキペディア」
による


 大友坂上郎女という重要人物の証言だけに非常に重い資料と言えるでしょう。最低でも、宗像大社の祭神は三女神などではなく出雲神話の神とされる「大国主命」「少彦名命」だったのです。
 出雲神話の舞台は九州だったのではないか?とした仮説は俄かに信憑性が高まってきました。
 きっかけは飯塚市桂川町に「出雲」という交差点があることに気付き、凡そ出雲神話など縁がない熊本県山鹿市の志々岐神社に巨大な大国主命の石塔を見たことでした。
 確認したい方は 熊本県山鹿市志々岐1852 志々岐阿蘇神社 を訪ねて下さい。
 どうやら、私達は大和朝廷が仕組んだ「出雲」隠し「九州王朝」隠しの入口に入ってきたようです。
 今後とも、出雲神話の痕跡を探ることになりそうです。

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熊本県山鹿市志々岐1852 志々岐阿蘇神社カーナビ検索


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:42| Comment(0) | 日記
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