太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年12月01日

020 細石神社とは何か?

020 細石神社とは何か?            
20140927
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 博多湾岸に「君が代」に関係する地名があります。
福岡市の地下鉄の駅に「千代」があり、「細石神社」が鎮座し、さらに糸島市の桜谷神社に「古計牟須姫命」(苔むすび姫)が祀れていることや、黄泉国から帰った伊邪那岐命が禊祓いをした「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原…」という有名なフレーズも、筑紫は元より、福岡市と糸島市の境の「日向峠」、福岡市の東方の「立花山」、西区姪浜の「小戸」(オド)、そこからもさほど遠くない旧青木村と揃いすぎていることもかなりの程度知られています。
ただ、学会通説派の畿内説論者には非常に都合が悪いものである事からか、本来なら飛びついて町興しではしゃぎたいはずの自治体その他も知っていて知らんふりを決め込んでいるようです。
 さて、「千代に八千代に…」の次に「細石」とされたものが伊都国の中心地に鎮座する細石神社(福岡県糸島市三雲432)です。

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写真提供:松尾紘一郎(糸島市)


ところが、ところが、古代史ファンといった方を中心に参拝したという人は多いものの、この神社に誰が祀られているかとなると、一向に分からない、知らないといった方が多いように思います。
一つは、戦前の右翼どもがでたらめな藤原「神話」を押しつけたことから、その反動として考古学、古代史を科学的に取組もうとする姿勢が二、三十年前までは存在したからかも知れません(今は利権にしがみつく輩が圧倒的多数派となり、ほぼ失われています)。
このため、真面目な方ほど鼻っから神社の祭神など考えるに価しない科学性のないものとする傾向が強いようにも思えます。
してみると、当方がやっていることなど古代史研究の範疇には全く入らないことになるでしょう。
さて、目立たないものの、強烈な存在感を示すこの旧村社の祭神は、「磐長姫」と「木花開耶姫」(「姉妹」)とされ、一般には、ニニギの妃にと奨められたものの、返された方の不細工な姉と美しい妹といった無礼極まりない、また許しがたい話が平然と「記」「紀」その他に伝えられ、多くがそのまま受け入れそれで安心しているかのようです。
この安心によってか、「磐長姫」が何者かについては全く問題にされていないようです。
しかし、百嶋神社考古学ではこの「磐長姫」を天之日矛(後のスサノウ)と別れ新羅から舞い戻って来た比賣碁曾(ヒメコソ) 神社の祭神 阿加流比賣(アカルヒメ)とします。
直ぐに「時代(5世代)が全く違うじゃないか…」といった罵声が飛んできそうです。
もちろん、普通はそうですから、このことについて一切抗うつもりはありません。
ご覧のとおり、アマテラス、スサノウからイワナガヒメ、コノハナノサクヤヒメは二代下がり、おばあさまと孫の関係になるからです。

※以下の画像はクリックしてご覧ください
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無題.png須佐之男命の系譜 より借用したもの

しかし、話(問題)はここから始まります。百嶋神社考古学の凄いところは、重要な神様の積年(2000年を基準にして生きていたとしたら何歳か…という積み上げた年齢)を出していることです。
スサノウ1873、アカルヒメ1870、ニニギ1855、ヤタガラス1868、コノハナノサクヤヒメ1850
スサノウ、ヤタガラスは共に有力な男であったことから複数の在地、渡地勢力の入り婿になります。
スサノウはオオヤマツミとオオハタヌシという有力者同士の間に生まれたプリンセス=ミズハノメの入婿になり、オオハタヌシとイザナミの間に生まれたヤタガラスの実の妹アカルヒメへの入婿になっているのです。
ところが、ややこしいことに、アカルヒメの兄のヤタガラスはコノハナノサクヤヒメの実の姉のミズハノメの入婿にもなっているのです。
とすると、廻り廻ってミズハノメを介してコノハナノサクヤヒメはアカルヒメの義理の妹ということになるのです。
分かりにくいのですが、百嶋先生は、イザナミがイザナギと別れ大幡主の妃となっているという事実に筑前町(旧夜須町)の某神社の実見によって気付かれたことからアカルヒメの変名がイワナガヒメであるとされたようです。
イザナミが再婚していることなど神代においても(勿論現代においても)、タブーであったことから名を替えるのであり、その実例が2014年「国宝大神社展」の表紙になったクマノフスミノミコト(熊野牟須美神=熊野大社の主神)が大幡主の妃(博多の櫛田神社の祭神)となったイザナギの妃=イザナミの後の姿なのです。
ちなみに、イザナミの娘であるイワナガヒメは熊野本宮大社の主神となり、父である大幡主は熊野那智大社の主神となっているのです。
一度聞いても一度読んでも分かる話ではないので、再度、考えてみましょう。
スサノウは新羅の王子様ですが、アカルヒメは「祖国に帰ると」言っていますから、当然ながら新羅の人ではありません。

「そもそも、私はあなたの妻となるべき女ではありません。私の祖国に帰ります。」
そう言うと、すぐに秘かに小船に乗って、海を渡って逃げてしまいました。(「ひもろぎ逍遥」)


イワナガヒメは、博多の大幡主と伊邪那美(金山彦の妹で伊弉諾と別れた後は名を替えてクマノフスミ)の間に生れたヤタガラスの妹です。
ところが、スサノウは、オオヤマツミと大幡主の妹ハニヤスカヤノヒメとの間に生れた神大市姫=ミズハノメの入婿にもなっています。
ところが、アカルヒメの弟ヤタガラスは、ミズハノメの入婿にもなっているのです。その上にヤタガラスはニニギと別れたコノハナノサクヤの入婿ともなっているため、コノハナノサクヤヒメにとってアカルヒメは義理の姉になり、コノハナノサクヤヒメとアカルヒメは血の繋がりのない義理の姉妹となるのです。
ニニギがイワナガヒメを返した話が本当かどうかは分かりませんが、大幡主にとってアカルヒメは実の子であり、同時に自分の妹であるハニヤスカヤノヒメと有力者オオヤマツミの子であるコノハナノサクヤヒメを実の娘扱いにしたのはありうることなのです。
もし、この結婚が実現していれば、大幡主を軸に、オオヤマツミ、金山彦(カナサオオカミ)=後のスサノウ系、高木大神(ニニギの父)系の大連立政権が成立することになったはずなのです。
それを高木大神が嫌ったと考えるのですが、まだ、良くわかりません。
ここでは、アカルヒメの素性を隠すためにイワナガヒメと名を替えた可能性があったこと、イワナガヒメはスサノウが船で追いかけるほどの女性だったのであり、意図的に貶められている可能性がある事を頭に入れてもらいたいと思うのです。

熊野速玉大社は、和歌山県新宮市新宮1にある神社。熊野三山の一つ。熊野速玉大神と熊野夫須美大神を主祭神とする。
熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)は和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社。熊野三山の一つ。家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも)を主祭神とする。
熊野那智大社は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社。熊野三山の一つ。熊野夫須美大神を主祭神とする。かつては那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと名乗っていた。


熊野は一社のみ実見では自信がありませんが、百嶋先生は十分お分かりのようでした。
アカルヒメがイワナガヒメとした場合、コノハナノサクヤヒメとは姉妹とは一応は言えることを長々と説明しましたが、では、なぜ、イワナガヒメがアカルヒメであると言えるかについては、まだ理解できてはいません。
そのうち分かるような気もしますが、分からないまま終わるかも知れません。
この辺りについては、現地を頻繁に踏める人でなければ理解できないはずで、自分だけ分かったとしても、フィールド・ワークができない方に説明することは至難の業ではないと思います。
結局、証明は全体として整合性、結果としての証明を理解できる人々の間だけで可能ではないかと思うものです。

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写真提供:松尾 紘一郎

ここで、百嶋神代系譜をご覧頂きます。

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そもそも、和歌山県の新宮市は福岡市と古賀市の間の新宮町からの地名移動であり、勝浦温泉はその隣の福津市勝浦の地名移動なのです。すると、安曇族、スサノウ、大幡主の一族の逃亡先か植民地なのです。

『古事記』『日本書紀』
あかるひめ
阿加流比賣 比賣碁曾(ひめこそ) 神社
 昔、新羅の国に王子さまがいました。
名前を(アメノヒボコ)と言います。
この王子さまが妻を追って日本に渡って来ました。
その物語をしましょう。
 新羅の国に沼がありました。
 アグ沼といいます。
この沼のほとりで、ある貧しい女が昼寝をしていました。
その時、太陽が虹のように輝いて、その陰部に射しこみました。
それを貧しい男が見ていて、不思議な事だと思って、
それ以来、女の様子をいつも観察していました。
 この貧しい女はその太陽の光で妊娠して、赤い玉を生みました。
それを知った例の男は、女に
「それを是非私に下さい。」と言って、貰って大事に布に包んで腰に付けていました。
この男は谷の所で田んぼを作って暮らしていました。
 ある日、その男が田んぼで働く人たちのために、食べ物を牛に乗せて、
谷に入っていくと、この国の王子さま、アメノヒボコに
ばったりと出会いました。アメノヒボコは男に尋ねて言いました。
「どうしてお前は食べ物を牛に乗せて、こんな山の中の谷に入るのだ。
さては、この牛を殺して食べるつもりだな。」
そう言ってアメノヒボコはその男を捕えて牢屋に入れようとするので、
男が答えて言いました。
「私は牛を殺そうとしているのではありません。
ただ、田んぼで働く者たちに食べ物を持って行こうとしているだけでございます。」
しかし、アメノヒボコは許しませんでした。
そこで男は腰に付けていた赤い玉を取り出して王子さまに差し出しました。
「この宝を差し上げますのでどうぞ許して下さい。」
* * *
こうして、王子のアメノヒボコはその赤い玉を手に入れて、部屋に置きました。
すると、赤い玉はたちまちに美しい乙女に成りました。
二人は愛し合い、その乙女は王子さまの正妻になりました。
名前をアカルヒメと言います。
アカルヒメはいろいろと珍しいごちそうを作っては、アメノヒボコに出しました。
しかし、国王の子であるアメノヒボコはそのうちに、だんだんとつけあがって、
アカルヒメをののしるようになりました。
ある日ついにアカルヒメは言いました。
「そもそも、私はあなたの妻となるべき女ではありません。私の祖国に帰ります。」
そう言うと、すぐに秘かに小船に乗って、海を渡って逃げてしまいました。
そうして、故郷の日本に着くと、難波の地に留まりました。
 この方が難波の比売碁曾神社に祭られる阿加流比売神です。
* * *
 アメノヒボコはアカルヒメが逃げたと聞いて、すぐに追って、
海を渡って日本にやって来て、難波に行こうとしましたが、
途中、渡(わたり)の神が邪魔をして、難波には入れませんでした。
そこでぐるっと廻って但馬の国に行きました。
アメノヒボコはそこに留まって、但馬のマタヲの娘のマエツミという女を
妻にしました。
二人の間に生まれた子供は但馬モロスクといいます。
その子供は但馬ヒネ。
その子供は但馬ヒナラキ。
その子供は但馬モリと但馬ヒタカとキヨヒコです。
このキヨヒコが当麻(タギマ)のメヒと結婚して、生まれた子供が
菅(すが)のモロオと妹の菅釜(すがかま)ユラドミでした。
 この内、但馬ヒタカは姪にあたるユラドミと結婚して、
生まれた子供が葛城(かずらぎ)の高額ヒメ命(タカヌカヒメノミコト)と言います。
この方が息長帯比売(オキナガタラシヒメ)の母親です。
息長帯比売は後に仲哀天皇の妃となり、神功皇后と呼ばれるようになりました。
* * *
 さて、アメノヒボコが日本に渡って来る時に玉津宝(たまつたから)と言う、
立派な宝物を持って来ました。
それは紐に通した玉を二連。
また、波振るひれ、波切るひれ、風振るひれ、風切るひれ。
また、沖の鏡、辺(へ)の鏡、合わせて八つです。
この八つの宝が伊豆志神社の八前の大神です。
(古事記 天之日矛の巻より)


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伝承を訪ねて
二つの難波説
普通、「難波」は現在の大阪府と考えますが、
アメノヒボコのルートを考えた時に、
大阪に入れずに、瀬戸内海を通って、関門海峡に戻って、日本海の方に廻ったというのが、不自然だという説が昔から指摘されています。
二つのひめこそ神社
大阪市のヒメコソ神社は御祭神が下照姫で、遅くまで湿地帯だったとか。
アカルヒメは大分県の国東半島の沖にある姫島の比売碁曾(ひめこそ)神社に祀られています。
そこで、難波とは、古代には福岡県の北東部の海岸部にも難波があって、そちらが元だという説があります。
ここには、もう一つ、よく似た「ツヌガアラシトという渡来人と大和の姫の話」が伝わっています。
これは香春岳の採銅所が深く関わっていると思われます。
稿を改めて物語を紹介したいと思っています。
皆様にいろいろと教えていただけたら幸いです。

綾杉るな


通説に沿い現地伝承を検証しながら真実を探る作業は当方にとっても非常に役に立ちますので、そちらは綾杉るな女史にお任せします。
私は「記」「紀」の大半は「旧石器ねつ造」同様、藤原による「神代記捏造」と思っていますので、「高良玉垂宮神秘書」に基づき九州を洗います。
九州にはまだまだ真実が転がっており、それが消える前に記録に留めたいと考えています。
神代の舞台は出雲神話を含め九州で起こっています。それが分かれば全国の神々は九州からの持ち出しであり理解できるのです。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 09:59| Comment(0) | 日記
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