太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年11月25日

018 「日本書紀」の裂田の溝(サクタノウナデ)“裂田神社に神功皇后と一緒にいたのは誰か?”

018 「日本書紀」の裂田の溝(サクタノウナデ)“裂田神社に神功皇后と一緒にいたのは誰か?”            
20140923

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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福岡県筑紫郡那珂川町後野2丁目5−1


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「日本書紀」神功皇后紀に出てくる裂田の溝と裂田神社については、全国的には全く注目されていないにも拘らず、九州内のライターは熱心に取り上げ、多くのHPやブログに書かれています。
 綾杉るな女史の「ひもろぎ逍遥」でもかなり書かれておられますので、ここでは、普通のサイトが全く触れないようなことを書いてみようと思います。
 この裂田神社の北2キロの那珂川の右岸、那珂川町仲に現人神社があり、さらに、北2キロの同川左岸の同町片縄に 015 天御中主神社が福岡県那珂川町片縄に現存する で取り上げた天御中主神社が並んでいるのです。
それは、古代の、と言っても、紀元前後から数世紀の古博多湾の湾奥のウォーターフロントが広がっていたからで、単にどこからか勧請したといったありふれた神社ではないのです。
その証拠に現人神社は、博多の住吉神社の元宮で
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写真は裂田の溝と裂田神社をパノラマ撮影したものです

すし、裂田神社はどこを探しても元宮などあるはずもないのであって、天御中主神社に至っては一頃の「神社辞典」には「天御中主神社」なるものは実在しないとして神代架空の根拠にしたほどのものなのです。
 まず、この地にしか存在しない神社が現存するという事実とその重要性をこそ考えるべきでしょう。
 現人神社については、一応、住吉三神を祀るとしますが、実際は第14代とされる崇神天皇が祀られているのです。
 それは、現人橋があり、現人神社と呼ばれていることからもお分かりになるでしょう。
 何故ならば、崇神(ハツクニシラススメラミコト)は自ら神武天皇であるともしたことから、現人神(アラヒトガミ)とされその名が残されたものかも知れません。
 しかし、この崇神天皇こと中筒男命は、別名ツヌガノアラシトとも呼ばれ、そのアラシト=「アラヒト」が現人橋の地名の起源となった可能性も捨て切れません。
後の博多湾後退に併せ博多の住吉神社に進出したのがこの神社であり、この地に崇神を祀る元宮が存在したのです。
ようやく裂田神社に話が進みますが、百嶋先生は「高良玉垂宮神秘書」の解読から宮地嶽神社の本当の祭神であるワカヤマトネコヒコ(後の第9代開化天皇)は太宰府四王寺山で初代住吉の神であるウガヤフキアエズから三種神器の返還を受け高良大社で天皇に就き、後に藤原から第9代とされた開化天皇として人皇としての初代の天皇となったと言われていました。
さらに、この裂田神社には仲哀死後の神功皇后と開化天皇となる前のワカヤマトネコヒコが一緒にいた時代を表すものだとされていました。
もう少し先生の話を加えれば、「この裂田神社から4キロほど上流の市ノ瀬から不入道にかけて、白土城(猫城)があったが、そこがワカヤマトネコヒコの御所でしたと言われていました。
その猫城もワカヤマトネコヒコの愛称ネコが付されたものです…」と。

中世に入ると、五ヶ山でも遺跡の存在が知られるようになる。那珂川左岸の一ノ岳(695m)にある一ノ岳城は九州探題千葉氏の居城だったが、天正年間に肥前勝尾城主筑紫広門の支城となったという。ここは街道沿いの要衝であると同時に山中の難所で、逃げ込み城の役割を果たしたようである。一ノ岳城の支城である白土城(猫城)は、那珂川本流と大野川、倉谷川の合流地点南西側の高まりに位置する。『筑前国続風土記』に記述があるが、未調査のため詳細は不明である。
若干時期が前後するが、平野部を見下ろす城山(195m)に築かれた岩門城、別名龍たつかみやま神山城も、中世の一次史料に度々登場する山城である。鎌倉時代には少弐景資の居城であると同時に博多・大宰府を守る重要拠点であったこと、南北朝期には九州探題今川了俊方の城、室町時代には筑前守護大内氏直轄の城であった。確認調査の結果、13 世紀後半から城として機能し、16 世紀代まで使用されたと推測されている。
「福岡県営五ヶ山ダム関係文化財調査報告U」五ケ山1より


 今年は11月28日に火たきごもりの祭(神事)が行われるとの事ですから太宰府地名研究会の神社考古学研究班の数人と訪れて見たいと思っています。
 神功皇后と開化天皇が一緒に住んでいた…などと言えば直ぐに罵声と侮りが送られてきそうですが、仲哀と神功皇后との関係は約一年程度で、その後二人は死ぬまで一緒に添い遂げているとされていました。
第14代とされた崇神も、逆に、第10代開化や神功皇后とおよそ30歳は年かさで、崇神は神功皇后に仕えていたとも言われていました。
まさに、二キロほど下流でお手伝いをしていたことになるのです。
まだ、確認作業を行っていませんが、この裂田神社の縁起によって神功皇后の年齢を確認できるとも言っておられました。
天御中主神社も含めこれらの神社伝承などが大和の片田舎にあるはずもなく、学会通説派は神功皇后さえも架空としている勢いなのです。藤原が造った架空の話を死ぬまで信じ込み吹聴してれば良いでしょう。
百嶋神代系図の一部を載せておきますが、豊城入彦は崇神の息子(中筒男=崇神の妃の連子か?)で、豊の国から久留米市田主丸の豊城(トヨキ)に移ってきていたともされています。
 長くなりますのでここで話を切りますが、先生はこれらの話を草ケ江神代史研究会に集っていた賢い神社関係者の内部に伝わる伝承や神社の宮司だけに伝わっていた秘密の話を回収され、次代に継承しようと努められていたようです。
 先生は一昨年亡くなられましたが、まだ、神代史研究会のメンバーの一部は生き残られているようで、最近、お一人と知り合いになりました。
 まだ、先生が天理市の某神社に資料を送り続けておられたと聴いていますが、まだ掴めていません。

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一度に表示はできないため分割しており縮尺は各々異なります


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4桁の数字は2000年を基準とした積年(生年が判ります)を表しています。


※以下の画像は大きいサイズになりますので、クリックして拡大表示してご覧ください。
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百嶋神代系図については真面目に研究される方にはCDでお分けしています。直接、久留米地名研究会事務局もしくは、当方09062983254に直接ご連絡ください。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:06| Comment(0) | 日記
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