太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



無題.png

無題.png

無題.png

o0198005613264565002.png o0199005613260936971.png 無題.png

2014年11月19日

016 古表神社と古要神社 “古表神社の例大祭から古要宮へ”

016 古表神社と古要神社 “古表神社の例大祭から古要宮へ”
20140921

久留米地名研究会 古川 清久


求菩提山手前の日吉神社の撮影を終え、翌日、中津市の手前にある吉富町に向かいました。

福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1  御祭神息長帯姫尊 虚空津比売命(神功皇后の妹豊姫) 

古代史の世界ではかなり有名な八幡古表神社の例大祭があることを思い出したからです。
過去、何度か古表神社には訪れていますが、祭り(御神幸祭)を見るのは今回が初めてです。
しかし、有名な細男舞・神相撲(傀儡子舞)は、四年に一度オリンピックの年の夏に行われるだけで、今回は見ることはできません。そのうちに機会があれば見たいと思っています。
吉富町は中津市と豊前市の間の海岸部というより山国川河口の左岸にあるのですが、この古表神社も、一目、古代には島か岬だったようなところであり、神聖な沖合の島に置かれたものかも知れません。
今回、八幡古表宮を訪れた理由は、例大祭もありますが、百嶋先生が言われていた「古表も古要も古いと置き換えてはいるものの、実は胡人の『胡』が本当なんです…」という話を自分の目で実感するためでした。
そのことだけでも、豊前一帯が、かつて、新羅、伽耶から雪崩れ込んできた秦人(当然多くの異族を含んでいた)の居留地であったことを思わせます。
つまり、表面上は豊予水道に展開した安曇系の海人族の神社には見えるものの、その祭神から分かる通り、その上に君臨していた神=実は四十柱神(古表大明神)であり、さらにその上に聳えていた九州王朝の痕跡を探れる可能性があるのです。

無題.png


朝7時半には着いていたと思いますが、豊前から中津方面に向かったことから裏から入ることになりました。普通はこのような場合でも表に回って境内に入ることにしています。ところが、早速、胡人の痕跡を発見したことからそのまま入内することにしました。
 直ぐにはお分かりにならないと思いますが、百嶋先生から聴かされていた殷(中国殷イン王朝)の鳥居が目に飛び込んで来たのでした。
 この形式の鳥居はたまに目にするものです。小馬鹿にされそうですが、ユダヤ・イスラエル系と言うより、はっきりイスラエル系と言いたいのですが、私が住む佐賀県の八天神社の正殿前の鳥居の形式もこれに該当します。
 厳島神社の鳥居は縦に支えとなっていますが、それと異なり横向きに広がる鳥居の形式がこれなのです。
 裏参道を少し入ると、元宮ではないのですが(元宮は各々別のところにあったのです)、古い古表宮がそのまま残されていました。
ご覧のとおり、ここにも殷の鳥居があるのです。これで、この鳥居が決して思い付きで造られたものではなく、古くからの伝統ある形式であったことが分かるのです。

無題.png


 両方の鳥居に共通しているのは鳥居上部の浮き袋状の丸い輪ですが、これは、彦山山岳修験の特徴であり、国東半島全域やここにもその影響が認められます。

無題.png


佐賀県嬉野市塩田町八天神社の正殿前鳥居


 「佐賀県の八天神社の正殿前の鳥居の形式がこれに該当します。
と前述しましたが、それもそのはず、この佐賀県から長崎県に広がる八天神社とは豊前市の求菩提山山岳修験の流れを汲む製鉄神(従って火の神を祀る)もので、当然、古表、古要と繋がりがあったのでしょう。
恐らく、八天神社とは八天狗神社の事で、求菩提山岳修験八天狗の継承者だったのです。

無題.png


求菩提山と八天狗像


豊前は古来、秦氏など渡来系民族が大量に入ってきた土地として知られています。
中でも椎田から豊前市、中津市にかけての一帯は、特にその色合いが強く、それは女性を見ても宝塚出身ではないか思うような人が数多く確認できることからも分かります。
 殷の鳥居が置かれていることも、古表、古要神社が実は胡人の「胡」であることが見えてきます。
 「胡人」とは、ペルシャ系ともソグド系とも言われますが、秦帝国の支配や万里の長城建設を嫌い逃げた秦に支配された民、また、秦帝国の崩壊による秦の一族も島に逃れた大量に入って来ているようです。
 胡の意味は分かったつもりでいるのですが、表と要の意味は依然として分かりません。
 百嶋先生も、漢の武帝の時代の酒仙の近くに要は場所が分かったが表は探していると言われていました。
 その一族が蒙古高原から入って来ているのです。それはともかくとして、ヤタガラスがこの八天狗であるとしたのは、地名研究会でも何度も講演して頂いている神功皇后紀を読む会を主宰する福永晋三氏でした。
 これに関しては、久留米地名研究会のHPから福永晋三氏による「神武は筑豊に東征した」他の講演録をユーチューブでお聴きになれます。
 この話も、いずれ詳しく取り上げたいと考えています。
 さて、境内でも参拝殿の外側では早くも御神幸の準備がたけなわでした。
多くの山車の周りを揃いの法被を着込んだ数百人の氏子が今や遅し、と、出番を待っておられました。

無題.png


過去、二、三度訪れた時は、殆ど場所を確認した程度の事で落ち着いて見ることが出来なかったのですが、今回は今日一日のメインのテーマと心づもりしていましたので、いろんなものが見えてきました。
 まず、誰でもが気付くことでしょうが、八幡宮とはしているものの元はそうではなかったことが直ぐに分かります。
 この写真はあえて神紋が際立つ方角から撮ったのですが、紛うことなき木瓜(モッコ)紋が全ての組区の法被に打たれていました。
 これもただの木瓜紋ではなく、高良大社の裏紋と同じ十字剣が打たれた剣付き木瓜紋(剣唐花=剣花菱)なのです。
 隣は宇佐市であり、八幡宮の本山とも言うべき宇佐八幡宮が鎮座しています。
 しかし、八幡宮が剣付き木瓜紋を使うことはないのであって、この神紋は九州王朝の傘下にあったことの名残と見るべきでしょう。
 ここで、小さなことにふれておきますが、実は左三つ巴紋を使う宇佐八幡宮でも、宝物館所蔵の神輿の屋根には今もこの十字剣付きの木瓜紋が四方に打たれているのです。
 撮影禁止となっていますので現在の写真も別ルートで確保し保存していますが公開は致しません。
しかし、昔の古い画集には出ていますのでお見せいたしましょう。
勿論、実物は現在でも確認することが出来ます。

無題.png


真中の御輿だけに鳳凰が飾られていますが、この御輿は現在の御殿の並び方とは異なり、一の御殿の応神天皇のものとして説明されています。
ここにもトリックが感じられますが、宇佐神宮に関してはいずれまとめて書くことにしたいと思います。

無題.png


では、この木瓜紋はどこから来たものだったのでしょうか、宇佐八幡宮でないとすれば、東御殿の古表大明神が使用(使用を許されていた)していたものとしかしか思えません。
 何故ならば、西御殿は住吉の神紋のようにしか見えない上に奇妙なチョンマゲ状の屋根飾り(ケベス祭で有名な国東半島の岩倉社など)しかないからです。
 繰り返しますが、高良大社は左三つ巴と十字剣付き木瓜紋を使っています。

無題.png


山車が出ていった後の参拝殿ですが、その正面上にも左三つ巴ではなく木瓜紋が輝き、賽銭箱にも木瓜紋が打たれています。
もう一つ面白いものをお見せしましょう(次葉)。
勿論、正殿の祭神が主祭神ですが、同社の縁起でも主祭神とされる息長帯姫尊とその妹の虚空津(ソラツ)比売命(神功皇后の妹=「高良玉垂宮神秘書」によれば豊姫)という二人の女性神が祀られているはずであるのに何故かその千木は男神を表しているのです。
写真では分かりにくいかも知れませんが、正殿(縁起では御本殿)は男神を表す千木に鰹木の下に打たれた神紋も木瓜紋なのです。

無題.png


ここで、同社の縁起である「八幡古表神社 略記」をご覧いただきましょう。

※クリックで原寸表示
無題.png

無題.png

西御殿頂上の神紋は左三つ巴のようですが、読み取れません


無題.png


東御殿 = 四十柱大神 (古表大明神)  西御殿 = 住吉大神   とあります。
 ここでも奇妙なのは、東御殿(向かって右)と御本殿(真中)が木瓜紋であるのに、住吉大神とされる西御殿だけは、左三つ巴か16葉菊なのか判読できない神紋が付されているのです。
 この一社、三殿、三神の様式が宇佐神宮の形式を真似たもののようではあるものの、元々このようなものだったとは思えない上に、社殿は八幡宮様式でもなく祭神の配置も異なるのです。
 そもそも、八幡宮は千木も鰹木は使わないものです。
 ここで、我流の分析を行うとすれば、元々、久留米高良大社の影響下にあったイスラエル系としか思えない古表宮(胡表宮)という在地神が存在し、八世紀中の権力移動の結果、宇佐八幡宮の傘下に入らざるを得なかったという過去が見て取れるのです。
 これを読み解く鍵は「高良玉垂宮神秘書」にあります。
 まず、神功皇后の妹というものにふれているものは、香春神社(筑豊)、赤司八幡宮(筑後)縁起、淀姫神社縁起(肥前)高良玉垂宮神秘書と「高良玉垂宮神秘書」程度でしかなく、木瓜紋を使うことも高良大社の影響下にあったことを思わせます。
 また、「高良玉垂宮神秘書」では、高良玉垂命と神功皇后とは夫婦であったとしており、さらに言えば、住吉大神には最初の住吉大神=ウガヤフキアエズと二代目の住吉大神=実は第九代とされる開化天皇=高良玉垂命であることが読み取れることから、元々は八幡古表の御本殿に鎮座していた高良玉垂命が西御殿に移され、御本殿には高良玉垂命の妃であった神功皇后が残され、二座あった空白を妹である豊姫が埋めたように思えるのです。
 こう考えれば、御本殿の千木と木瓜紋や西御殿の奇妙な神紋の謎が解けるのです。
 言うまでもなく左三つ巴と木瓜紋は高良玉垂宮の表紋と裏紋なのです。
 では、在地神と考えられる古表宮はどこからやって来たのでしょうか?
 それは、姉妹神社とされる古要(コヨウ)宮からとしか考えられません。
 では、その古要神社をご覧頂きましょう。

無題.png


一見すると寂れただけの神社に見えるかもしれませんが、別々の三棟の社殿が印象的な古社でした。
古表宮で祭りの応援に来られていた某神職に古要宮の事をお尋ねすると、「古要も古表(コヒョウ)と詠むのです」と説明を受けました。
脇田晴子著「女性芸能の源流
傀儡子・曲舞・白拍子…がネット上でもPDFで読めますが、「豊前志」
に引用の「宇佐宮寺造営日記放生会」から古要を古表といへり…とあることを紹介しており(古表船二隻云々)、これを根拠に半ば定説化しているようです。
現地で、女性のご老人にお尋ねすると、「コヨウとしかきちょりませんが…」と大分弁でのお答で、やはり、現地を踏まなければこのあたりの事情は分からないものです。
 ハッキリした決め手がある訳ではないのですが、恐らく、「古要」が「古表」より古いと思います。
 それは、古表宮に小犬丸という氏子集団(区)があり、古要宮にも犬丸という地区があるからです。

無題.png

無題.png


一般的に、分家筋の分村に小○○といった表記が採られることが多いため、中津の古要から吉富の古表に発展的に移動した人達が同じく奉祭したのが古表宮だったと考える方が自然だからです。
 このご婦人から「祭りは10月12日にありますけん…」「吉村作治先生も来るそうですから…」と聞き驚きました。
 始めは、吉村姓は海人族の名前だから、もしかしたら福岡県の出身かもしれない…程度に考えたのですが、後で、「ひもろぎ逍遥」の綾杉るなに女史にそのことを話すと、「あの人はエジプトから古い時代に日本に入って来ている人々の痕跡を探っていて、真鍋大覚(九大物理学教授/胡人で故人)と同じよ…」と聴き、多少納得しました。
 ちなみに、吉村姓は福岡市の旧志摩町(糸島半島西岸)と大阪府の東大阪市(それ以外も大阪の海岸部に集中している)にピークが認められます。
 瀬戸内海航路と古い大陸への渡海ルートを抑えていた安曇族の一部を形成していた可能性があります。
 さらに、久留米市の隣の旧浮羽町の物部本家の末裔の一族である某氏に聴くと、「物部はユダヤ、イスラエルからから入っているが、元はエジプトから出ている…」と語っていた事が直ぐに頭に浮かんできました(これは五年ほど前に久留米地名研究会の中心メンバー10人と初めて物部の本家であることを公開した一族の方々と公式に会合を持った時に、その本家の若き末裔の方から聴いた話です)。
 そういえば、吉村先生の顔はスーパー・マリオ・ブラザースのポリネシアンを思わせるもので、その手の外洋性の海人族の血を感じさせます。

無題.png


  吉村先生の話を聴いたおかげで、安曇磯羅と細男舞に古表、古要宮が関係していることの意味が多少とも見えて来た思いがします。
 ご婦人と、綾杉るな女史に深謝。

無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 20:43| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: