太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年11月09日

013 石上神宮所蔵の国宝七支刀はみやま市から美作を経由し奈良天理へと移された!“石上神社の元宮は美作の石上布魂神社、元々宮はみやま市のこうやの宮と田中神社”

013 石上神宮所蔵の国宝七支刀はみやま市から美作を経由し奈良天理へと移された!

“石上神社の元宮は美作の石上布魂神社、元々宮はみやま市のこうやの宮と田中神社”

20140830

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


既に、第一blog「ひぼろぎ逍遥」128 突如始まった安芸、備後、備前、美作、但馬の神社調査(20140828)において、

やっと二週間ほどの余裕ができたことから、第55期将棋王位戦(羽生vs木村)の大盤解説会でも観に行こうと急遽思い立ち(対局は27〜28日)、長駆700キロをものともせず、一路、神戸市は有馬温泉の超高級旅館 中の坊瑞苑を目指し走り始めたものの、気になって問い合わせたところ、中の坊瑞苑で対局は行われているものの、大盤解説会は大阪福島の将棋会館で行われているとのことで、急に行く気が無くなり、予定変更したものの、当然ながら下調べをしているはずもなく、行きあたりばったりの神社調査、民俗調査となってしまいました。
ただ、元朝日新聞記者の内倉武久氏(「太宰府は日本の首都だった」他3著ミネルヴァ書房)から電話があり、「そこまで出て来ているのなら出てこようか…」と、30日から二人旅の調査旅行となった訳です。
以下は合流前の単独調査の話(28〜29日)になります。
有馬温泉の超高級旅館に最高水準の将棋、帰りは山陰一人旅で未踏の温泉を潰そうと考えていたのですが、内倉先生とは過去数回長距離の調査旅行を行っていますので、気心は知れています。
先生からは但馬は「出石の○○古墳でも見に行こうか…」とのご提案ですが、当然にも二人の目で見れば発見はあるはずで、天気さえ良ければ有意義なものになりそうです。

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と、書いていますが、その何番目かの神社探訪の中でも、ハイライトと言うべき古社に出くわしました。
 それは、備前と美作の国境(クニザカイ)に近い現○○市(旧吉井町)石上に鎮座する式内社石上布魂(イソノカミフツノミタマ)神社です。
 内倉氏との合流のために、総社市から岡山市内を抜け、美作から兵庫県作用町方面に抜けようと県道27号線を移動中にこの神社の案内に気付いたのでした。
当然にも物部が逃げ込んだ神社と考え、364号から468号に入りこの石上地区に入り込んだのでした。
全くの山間の小集落でしかなく、どうしてここに備前一宮、延喜式内社が?と思いつつ、狭い山道を登り、辿り着くと、この小規模な集落にしてはあまりにも立派な社殿があったのです。
御寄進者の名を見ると、九州から関東まで多くの方が名を連ねておられ、やはり、物部氏のネットワークが今も生きている事を思い知らされました。
今回は下調べ抜きの紀行文ですから、写真と小さなコメントに地図だけで留めておきます。
漢文で非常に難解ですが、この地から奈良に移されたと書かれている神社縁起を読ませて頂き大変驚きました。
奈良天理の石上神社に国宝七支刀が残されるにも、その前に多くの歴史があったことを思い知った瞬間でした。

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石上神社の刀と言えば、「国宝大神社展」で公開された「七支刀」以外、思いつくものはありません。
としましたが、石上神社の刀は七支刀ばかりか多くの刀があります。後段で引用していますが(吉備神宮に祭ル)、「天羽斬剣ヲ石上振神宮二遷シ蔵メ加へ祭」とあるようにこれかもしれません。 
しちし とう −たう [3] 【七支刀】
奈良県天理市石上(いそのかみ)神宮所蔵の古代の鉄剣。長さ75センチメートルで,刀身の左右に三本ずつの枝刀が出ている。刀身の両面に銘文があり,百済から日本に贈られたものであることがわかる。四世紀後半の作。ななつさやのたち。
なな つさや の たち 【七支▽刀▽】
「 しちしとう(七支刀) 」に同じ。 「 −一口,七子鏡一面,及種々の重宝を献る/日本書紀 神功訓」

三省堂「Weblio」による


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奉移干(ここにうつしたてまつる)大和国山邊郡遺蹤蹤猶存干(なおここにそんす)…


また、一般向けにも「この神宮に当社の神剣は第10崇神天皇の時に遷されたと伝えられる」と書かれていたのです。
 無題.png私達は、以前から久留米市の南、みやま市(旧瀬高町)大神(オオガ)のこうやの宮に残る七支刀を持つ人形は、元々この地に七支刀があったことを伝えるレプリカであり、百済から九州王朝、倭王=高良玉垂命に贈られたものと考えてきました。
面白いのは、この神社がある場所が吉井町と呼ばれていることです。無題.png
〒701-2445 岡山県赤磐郡(現在は赤磐市)吉井町大字石上1448 
世話人 物部忠三郎氏 御津町石上1908 TEL 08672-42-2179

久留米地名研究会とも公式に接触をとった筑後物部の中心地は、久留米市の東隣、うきは市(旧千束村)と言われていますが、旧浮羽町と旧吉井町が合併してできたのが、うきは市なのです。恐らく、吉井は地名移動(筑後から備前)なのです。

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大和岩雄氏は備前国赤坂郡に注目する。
 ワニ氏は、和爾坐赤坂比古神社や和爾下神社の地から南には石上神宮(天理市布留町布留山)、北には春日大社(奈良市春日野町)の地域に勢力をもっていた。ワニ氏は石上神宮の祭祀氏族で、『延喜式』神名帳の備前国赤坂郡に「石上布都之魂神社」が載り、赤坂郡の郡名は、「ベンガラ朱」ないしは鉄にちなむ地名である。
 備前の石上布都之魂神社の近くの伊田山からは銅が、西山村城山付近からは褐鉄鉱の砂鉄が、美濃の赤坂にある金生山からは銅・鉄が産出する。そのことから、和爾坐赤坂比占神社の赤坂が、もまた、金属に閑係すると見ていい。
『石上振神宮略抄』所載の「神主布留宿彌系譜」に、
十七代仁徳天皇御宇、市川臣二勅シテ、吉備神宮に祭ル天羽斬剣ヲ石上振神宮二遷シ蔵メ加へ祭云々。干時市川臣ヲ振神宮ノ神主二補ス。神主職ノ起也。
 とある。このように、備前の石上神社は、大和の石上神宮とは深くつながっているようだ。 備前の石上神社が鎮座する岡山県赤磐郡吉井町石上の地は、『和名抄』の宅美郷、または鳥取郷に属すといわれている。『赤磐郡誌』では赤坂郡と磐梨郡が合併して赤磐郡になったのだが、「我が国で剣工と云へば備前、備前と云へば我が郷土即ち 赤磐郡及其の周辺を込めた地である。其の内最初の古剣工は、私共の研究で云ふと、宅美剣工を以て、第一のものとする」と書いている。石上神宮の神宝の剣は、この備前赤坂の工匠たちが作ったもので、そのことが『石上振神宮略抄』の伝承を生んだと考えられる。 和爾坐赤坂比古神社の赤坂と備前赤坂郡の赤坂の関連、石上神宮と石上布都之魂神社の関連からみて、ワニ氏は採鉱、 金属精練と無関係とは思えない。
 など大和氏の論述は続くのであるが、ワニ氏が石上神宮祭祀氏族であったこと、神宮の神剣のルーツを物語って面白い所がある。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 20:56| Comment(0) | 日記
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