太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年10月31日

010  熊本城の最深部に置かれた王昭君(昭君)の間と木下家

010  熊本城の最深部に置かれた王昭君(昭君)の間と木下家
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 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


あまり知られてはいませんが、何故か、熊本城の最深部に王昭君(昭君)の間が置かれています。
さすがに気になるのか、市の外郭団体(天下りのための組織?)もコメントを加えています。

一番格式の高い部屋。実は「将軍の間」の隠語という説も。
熊本城本丸御殿(くまもとじょうほんまるごてん)は畳数1570畳、部屋数53もある建物群でした。その中でもひときわ大きい建物が本丸御殿大広間(ほんまるごてんおおひろま)で、ここは藩主の居間として使われたり、部下と対面する場所でもありました。
大広間にはたくさんの部屋がありましたが、なかでも一番格式の高い部屋が「昭君の間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋です。この部屋には、中国の漢の時代のお話で、胡の国に送られた絶世の美女、王昭君の物語が描かれていました。
「昭君の間」は実は「将軍の間」の隠語であるという説もあります。熊本城を造った加藤清正は豊臣秀吉子飼いの武将。その遺児である秀頼に万が一のときは、清正にはこの熊本城に秀頼を迎え入れ、西国武将を率いて徳川に背く覚悟があり、そのための部屋が「昭君の間」というのです。
また、昭君の間には抜け穴伝説もあります。熊本城築城に携わった大工の棟梁善蔵(ぜんぞう)が語った「大工善蔵より聞覚控」という古文書が残されています。「昭君の間のうしろに機密の間があつたこつも覚えとる。壁がめぐる仕掛けで、かべが一ちようきりつとめぐつと、ゆかの高さ六尺ばかりのところから、細かはしごで下におりつて、女の髪の毛でねりあはせたつなにすがつて下におり、それからつまるところはふじよう御門からあずき坂にでるやうになつておつた。」全て熊本弁で書かれているのですが、つまり「昭君の間の後ろの壁が回り、床下の通路にはしごと縄で下りれば、そのまま門をくぐって城外へ出れるようになっていた。」そうです。
熊本城公式ホームページより


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確かに、清正は徳川と一戦交えるつもりで熊本城を築いたようです。
 しかし、ついにその機会は訪れず、加藤家は実質的に取り潰しとなります。
家康は豊臣家臣団の最重要(危険)人物として恐れ、一説には毒殺したとも言われています。
 そういった話は、その筋の方にお任せするとして、秀頼を迎え入れることを想定して設えられたはずの貴賓室に、何故、「昭君の故事」が描かれたかが不明なのです。
 それは、公式ホーム・ページ氏も同様のようです。
 “「昭君の間」は実は「将軍の間」の隠語である”という説はただの笑い話として、豊臣秀吉の正室北政所の生家杉原家(後には木下を名乗る)は住吉の神紋を持ち、後の、また、他の多くの木下家も桐紋を用いています。
信長も足利義昭が管領職を与えられようとしますが、野望に満ちた信長は辞退し足利氏が天皇家から拝領した桐紋だけをありがたく貰っているといわれます。
皆さんご存じのとおり、太閤殿下の衣にも桐紋が付されていますが、これは足利将軍家の家紋などでは全くありません。
桐が鳳凰の集うめでたい木と考えられたことから王者を象徴するものとされたものであり(宇佐神宮の神輿の上にも鳳凰がいますね、もちろん、応神天皇のものではないのですが、ここでは触れません…)天皇家の家紋なのです。
秀吉が「サル
呼ばれしたとか、百姓身分でしかなかった…といった話は、徳川家が豊臣家を貶めるために流したデマである部分が大きいのですが、住吉の神紋を使い後に三五桐紋を貰うほどの名門である木下(杉原)家に入婿となった藤吉郎は、決して大河ドラマに描かれるようなオチャラケた人物なのではなく、相当に有能かつ優秀であり、だからこそ、後の木下家の入り婿となったと考えられるのです。
 重要なのは北の政所ネネの生家である杉原家(広島県の尾道市、福山市に集中する)であり、その一族が、王昭君の流れを汲むものであったのではないかと百嶋先生は話しておられました。
 それには、かなり重要な背景があるようです。
天御中主(白山姫)と金海伽耶の金越智(ウマシアシカビヒコジ)との間に生れた大山祇=月読命の三人の子は、神大市姫、大己貴=大国主、木花咲(コノハナノサクヤ)姫であり、そのルーツが、遠くモンゴル高原の呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)と昭君の流れを汲んでいたと考えられていたようです。
その一族が、朝鮮半島を経由し、ごっそり日本(久留米市田主丸町…他)に入って来ているらしいのです。
 百嶋先生は、大国主命はトルコ系の匈奴に嫁いだ漢族と融合した一族と考えておられたようです。
 ただ、このことは全くの秘密にされていたようで、今後、徐々にですが、田主丸のサンヤ様=オシロイ祭などの周辺調査を始めたいと考えています(この一帯に王昭君の末裔が大量に入って来ているようなのです)。
 皆さんもびっくりされたでしょうが、当方も半信半疑のまま現地調査を行うと、実は百嶋先生のおっしゃる通りということが続いており、今後とも興味は尽きません。
 関連する百嶋証言を

これは約40年前まだ中国が開放されていない、硬い時代ですね。開放されていない蒙古に乗り込んで、あっち行ってはだめですよ、こっち行ってはだめですよと、一人旅行ですよ。切符買うのも、全部中国語でないとだめなんですよ。そして中国の山の中、蒙古大草原まで行ってきて、蒙古で買ってきた王昭君です。紀元前33年命がけで王昭君は、何で命がけかといいますと、蒙古に、匈奴に嫁ぐことを嫌がる人がいたんですよ。反対しますから、殺されますから、とにかく命がけで逃げてらっしゃる。そして、無事、呼韓邪単于のところに嫁ぐことができたのです。そして、後々日本に大国主のミコトという日本の正統皇統を守る人物を生んだ、非常な功績を称えて、熊本の王昭君の間ができた。加藤清正が作った加藤清正及び豊臣秀吉のお母さん、木下家は非常な名門で、おそらくその関係の方だと思います。その証拠に、秀吉は格式はこの程度です、加藤清正はもう少し高い、ところが秀吉の奥様の木下家は五七の桐ですよ。天皇家の紋章です。だから木下家は非常に格式が高かったと思ったらよろしいです。だから一生奥様、ねねさまに頭が上がらなかったでしょう。

源実朝以降に、朝鮮人である神様を日本の偉い神様にしておくのはまずいということで削ってしまった。削られたお宮さんは困りますね。田主丸のさんや様、おしろい祭りをやっているおおやまつみ神社、あそこは困って祭神すり替えをやっている。すなわち、政府が許すという範囲のことしか表に出してはいけないというお触れに従ってごまかしておられる。ところが、ナニクソ、こんなこと発表して構うもんかと、熊本城ががんばられた。熊本城の本丸の地下にゆくと王照君の間がある。古代中国の4大美人、西施、王照国、貂蝉、楊貴妃ですが、王照君は100%消された朝鮮人ですね。さて、その消された朝鮮人の神様のお子様が、田主丸のサンヤ様、そしてそのお子様が大国主です。

とにかく、日本の神社は宮司がぐらぐらぐらぐら変わるたびに、祭神すりかえが日常茶飯事に起こります。久留米の水天宮さんにお参りになったら、椿の花が目に付く、ご祭神の名前は天御中主、久留米の水天宮さんの千木は女千木、有馬さんは東京日本橋水天宮ではご祭神は同じだが、旦那様を戻してあるので、千木は男千木に戻してある。日本の辞書には天の御中主神社はないと書いてあるが、この神様の本拠地である那の国の中心地の一角の現在福岡県那珂川町には天の御中主神社がはっきりとある。現実を調べて回った人は知っているが、辞書を編纂した人は知らないという一例です。

天御中主のおこさま、月読みのみこと、のちのち、喧嘩があって少し格下げて、大山ツミの神と名乗ってらっしゃいます。田主丸のサンヤ様です。有馬さんが気を利かせて、東京水天宮には旦那さんの千木を出してあります。そして、弁才天さんのからくりも東京に残してある。弁財天の最初の旦那様は阿蘇の頭領の春日大社さんです。二番目の旦那さんは大国主のみことです。どちらも弁才天さんからすれば格下です。どのように弁才天さんが動かれたかは、自分を中心にして、九州王朝を守り立てようではないかということです。宗像大社の神額には天孫を助け奉って、自分たちも神として祀られようではないかと書いてある。宗像大社の本当のご祭神は大国主のみことです。そして、次は弁財天さん(いちきしまひめ)、そしていとこの豊玉姫、同じくいとこの鴨玉依姫が宗像3女神です。このことを最も主張しておられるのは現在の宇佐市佐田の佐田神社です。

菊池地名研究会のメンバーでもある「牛島稔太のblog」百嶋先生の語録より
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:06| Comment(0) | 日記
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