太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年10月28日

009  なぜ、「可愛」と書いて「エノ」と読む(呼ぶ)のか?

009  なぜ、「可愛」と書いて「エノ」と読む(呼ぶ)のか?
20140728

 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「可愛」の「えの」



さて、ニニギと言えば、天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫(タクハタチジヒメ)命の子とされ、『古事記』『日本書紀』ともに登場し、瓊瓊杵尊などと書かれる日本神話のスターですが、降臨後、大山祇神の娘である木花之開耶姫を娶り、火照命(海幸)や彦火火出見尊(山幸)を生んだとされています(もちろん、百嶋神社考古学ではそれを認めません)。
そして通説ではこの山幸の孫が神武天皇になるのですが、ニニギは、亡くなった後「可愛山陵」に葬られ、それは「エノ」山稜と呼ぶとされています。
もちろん、普通は「可愛」を「エノ」と読むことは出来ません。
「エクボ」があるじゃないかと言われそうですが、それは、「紀」がそう読ませている事から二次的に派生した後発の表記でしかないのです。
ともあれ、本来の可愛山稜がどこかはともかくとして、少なくとも、現地では読んでいた可能性は十分にあるのです。
これについては誰しも疑問に思うようで、例えばネット上の有力サイト「古代文化研究所」も次のように書いています。

○古事記・日本書紀・万葉集で、「可愛」の表記が存在するのは、日本書紀だけである。それも使用されているのは二カ所に過ぎない。
●一つは伊弉諾尊と伊弉冉尊の國産み神話の箇所である。伊弉諾尊と伊弉冉尊が國産みをする時、日本書紀本文には「可美少男」「可美少女」とある。日本書紀一書(第一)に「可愛少男」(2回)「可愛少女」(2回)とあり、その後に、「可愛、此云哀」とあって、「可愛」は「哀」と読むことを注記している。また、日本書紀一書(第五)には「善少男」とある。さらに、日本書紀一書(第十)に「可愛少男」とある。ここに、日本書紀の「可愛」の表記の6例が存在している。
●分かるように、「可愛」はまた、「可美」や「善」とも表記されているわけであるから、「うつくしい」とか、「立派な」「好ましい」などの意であると判断される。
●もう一つの用例は、天孫降臨の神、天津彦彦火瓊々杵尊の御陵を「筑紫日向可愛(此云埃)之山陵」としている箇所になる。ここにも日本書紀は本文の他に、一書が八つも並記されているが、山陵名が記されているのは日本書紀本文だけである。日本書紀編纂の時、多くの記録がその山陵名を失っていた可能性も否定出来ない。かりに諸書に山陵名の記録が残っていれば、日本書紀の通例であれば、並記されているはずであろう。
○これが古事記・日本書紀・万葉集における「可愛」の全表記例である。わずかに7例があるに過ぎない。それも極めて重大な場面での使われ方をしている。だから、古事記・日本書紀・万葉集における「可愛」の全表記例は極めて特殊な表記であることが分かる。


もちろん、水戸光圀侯であろうが、本居宣長先生であろうが、「可愛、此云哀」については古来「エ」と呼び習わしていたからこそ、岩波書記も「エ」と振り仮名を付しているはずです。
ここまで考えてくると、後に、『日本書紀』に「可愛」と書かれ「エノ」「エノー」「エイノオ」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。
この解明には「記」「紀」一辺倒の通説の文献史学では永久に分からないでしょう。
まずは、民俗学者谷川健一の『続日本の地名』(岩波新書)の話から始めます。
この本には熊本県の宇土半島に永尾(エイノオ)という土地と永尾(エイノオ)神社という奇妙な名の神社があることが書かれています。
不知火町の永尾神社は宇土半島の不知火海側の中ほどに位置し、今なお“不知火”の見える神社として著名ですが、この永尾(エイノオ)とは、エイ(スティングレイ)の尾のことではないのかとするのです。
もちろん日本地名研究所所長であり民俗学柳田国男の弟子に当たる故谷川健一氏によるものですが、詳しくは第二章[エイ](永尾)や、関連の著作をお読み頂くものとして、簡単にこの地名の概略をお話しましょう。
永尾神社は別名“剣神社”とも呼ばれています。これも尖った岬の地形からきているものでしょう。
この神社は、西の天草諸島へと向かって伸びる宇土半島の南岸から不知火海に直角に突き出した岬の上に乗っています。現在では干拓や埋立それに道路工事が進み分かりにくくなってはいますが、かつては山から降り下った尾根が海に突き刺さり、なおも尖った先端がはえ根として海中に伸びる文字通りエイの尾の上に社殿が乗っているような地形だったはずです。そしてその岬は背後の山に尾根として延び、古くは、両脇に本浦川、西浦川が注ぐ入江が湾入しており、尾ばかりではなくその地形はまさしくエイのヒレの形を成していたと考えられるのです。

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永尾神社


丘には永尾神社が祀られている。祭神は鱏(えい)である(本章扉参照)。永尾というのはエイの尾を意味し、尾の部分の鋭いトゲになぞらえて、別名を剣神社とも称する。これには一匹のエイが八代海から山を越して有明海に出ようとして果たさず、ここに留まった、という物語が絡まっている。永尾(エイの尾)に対して、内陸部にある鎌田山はエイの頭部に見立てられている。           
   ここで思い出すのは沖縄ではエイ(アカエイ)をカマンタと呼んでいることである。(英語でエイをマンタというが、もちろんそれとは関係がない。)カマンタの意味をたずねて、カマノフタである、と聞いたことがある。『日本魚名集覧』を見ると、ウチワザメのことを国府津(こうず)ではカマノフタと呼んでいる。またサカタザメを静岡県ではカマンド、愛媛県ではナベブタウオと呼んでいる。サカタザメは鰓穴(えらあな)が腹面にあるのでエイの仲間に分類されているが、その呼称もエイとかエエとか呼んでいる地方が多い。要するにサメもエイも同類と見られていた。そこで永尾にある鎌田山の名称もエイを指す方言に由来するのではないかと考えてみたことがある。・・・(中略)・・・熊本県不知火町の永尾地区では、今もってエイを食べないが、沖縄ではサメを食べない地方や氏族集団が見られる。・・・(中略)・・・恐らく永尾も、古くはエイを先祖とする血縁の漁民集団がいたところであったろう。             
『続日本の地名』(岩波新書)


まだ、なんのことだかお分かりにならないかと思いますが、この地名(永尾、釜蓋、釜田、浜田…)が存在する事は実に衝撃的で、突き出した岬状の舌状台地をエイの尾と見立てた人々が住み着いたことを示す痕跡地名と思われるのです。
もちろん、「釜蓋」(カマブタ、カマムタ、カマンタ、ハマンタ…)とは南方系の魚撈民が呼ぶ「エイ
であり、同時にこの地名が存在することは、その地名が成立した時代の汀(波際)線を今に伝えるものと言えるのです。

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永尾神社縁起 写真上


縁起には鎌田山のことが書かれています。釜蓋とは単に表記の違いのようにも見えますが、大釜や大鍋の蓋の取手を頴(エイ)の背骨に見立てれば、釜蓋という地名に意味があることがお分かりになるでしょう。
もしも、沖合を進む船の上からこの地形を見た場合、海に伸びたエイの尾状の岬と、潮流により形成された湾曲した砂浜の形が、文字通りエイの尾とヒレに見えるところから、まさしくエイが陸に這い上がった姿に見えたことでしょう。まさにこのような地形こそが谷川が言う「永尾地名」であり、私が言うところの「釜蓋地名」なのです。
このように、釜蓋地名とはエイを強く意識する人々によってもたらされたものであり、この南方系の海の民がこの地に定着した時代があったこと、そして、その時代この地が波に洗われていたことをも同時に意味しているのです。
 お分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川邂逅(合流)地名がありますが、このような所にも突き出したエイの尾のような地形が形成されるのです。
また、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイントは交通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾(エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可愛」(河合)を「エノー」と呼び習わすようになったのです。
つまり、「可愛」も永尾地名なのです。  
この、谷川が発見した「永尾地名」は、鹿児島県いちき串木野市の「酔ノ尾」、天草下島(旧大江町)の釜蓋岬、大分市の「江辻」、「江脇」など多くの類型が拾え、「釜蓋」に至っては北九州市に大量の小字地名として残存しているのです。
これらについては、久留米地名研究会のホーム・ページから、6.「釜蓋」28.「永尾」をお読み頂ければ、より詳しくご理解頂けると思います。
簡略化して言えば、薩摩川内市の「可愛」(エノ)地名は、谷川健一が発見した「永尾」(エイノオ)地名の一つであるということ。川内川へ隈之城川が注ぐ河川邂逅部が河合のエノ(エイノオ)と呼ばれていところの正面に、たまたまニニギが葬られたことから、「好字令
の影響によるものか、いつしか「河合」が「可愛」と記され、エノ山稜と呼ばれるようになったのではないかと考えるのです。
では、その「可愛」を紹介しましょう。

隈之城川が川内川と合流する向かいに可愛山陵がある。鹿児島県さつま川内市


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本来、エイの尾は参道正面まで延びていたとことでしょう


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可愛(エノ)山稜がある薩摩川内市の新田神社


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新田神社縁起


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ニニギ山陵


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帆船が通う 新田神社参道正面


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現在の新田神社正面、川内川へ隈之城川が注ぐ邂逅部にもエイの尾が残る


心をお持ちの方は、グーグル・アースで宮崎県の可愛山稜付近を調べて見て下さい。
きっと、河川邂逅部が見つかることでしょう。
鹿児島、宮崎の神代山稜は、等しく明治初期にテーマ・パーク宜しく創られたものですが、「エイノオ」が短縮された(薩摩は方言研究においても促音化、脱落音が目立つ)「エノ」地名は存在したようです。
今のところ、ニニギは神武の父や祖父といったものではないと考えていますが、もしかしたら、薩摩川内のニニギ山稜だけは本物のニニギの陵墓の可能性があるのではないかと考えています。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:16| Comment(0) | 日記
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