太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年10月26日

008 三潴の君は、なぜ、水沼の君なのか?

008 三潴の君は、なぜ、水沼の君なのか?
20140717

 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 九州王朝論者の間では比較的知られた話ですが、九州王朝の大王たる高良玉垂命とは水沼の君(三潴の君)であろうという説があります。
 もちろん、当方もそうであろうと考えていますが、今回は水沼県主(実は水沼君)が誰であるかといった話は既に確定したこととして踏み込まず、「水沼君」が「三潴君」とされることについてコメントを加えたいと思います。

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(イ)水間君
 水沼君は日本書紀にも登場する。筑後川河口の平野に栄えたらしい。水沼君の墓と伝わるのは、御塚(おんづか)古墳である。鬼塚ともいう。百二十メートルを超える帆立貝式前方後円墳で、辺りには、権現塚、イロハ塚など四十基以上の古墳が点在している。五世紀後半造営、武人埴輪も出土したという。近くには、「鬼夜」という行事で有名な大善寺玉垂宮がある。高良玉垂宮とも深い関係の神社だそうである。
 景行天皇の子孫という国乳別皇子(水沼別)は、筑紫の豪族の始祖という。この皇子が祭られているのは、塚崎にある町内最古の弓頭神社である。皇子の墓と言われる烏帽子塚古墳(南北100m・周囲720m)も塚崎にあり、大古墳だったたらしいが、今は壊されてなくなった。旧三潴郡が、水沼君の本拠地だった事は分かる。が、古事記にも日本書紀にも登場しない氏神(高良玉垂命)が、高木神を高牟礼山から降ろしたとは。

太宰府地名研究会メンバーによるblog「地図を楽しむ」(http://tizudesiru.exblog.jp/i12/)より


 もちろん、筑後には三潴郡があり三潴町がありますが(2005年より久留米市)、「日本書紀」(景行天皇十八年七月丁酉条)に「八女県に着いた景行天皇が藤山を越え、南方の粟岬を望んだ。
そして詔して「その山の峰は幾重にも重なってとても美しい。
もしや神がその山におられるのか」と言った。そこで水沼県主猿大海が「八女津媛(やめつひめ)という名の女神がおられます。常に山の中においでです」と言ったという話が出てきます。
 そして、「日本書紀」では水沼県主との地方長官扱いにされていますが、現在も「三潴」という地名が残り、高三潴廟塚(高良玉垂命一族の墓?)が残る三潴こそ水沼君の本拠地に違いないのです。
この話に入る前に、この問題に関するエキスパートである福永晋三氏(「神功皇后紀」を読む会主宰)の小論をご紹介しておきましょう。

「万葉集に隠された九州王朝の歌」(三月例会)  福永晋三

「大君は神にしませば」は『多元』二十三号に載った古田先生の新しい考察である。その『万葉集』に関する問題に図らずも深く係わることに相成った。契機は九七年十二月一日の高田さんからのFAX。南九州旅行から帰京した翌朝、「お帰りなさい」で始まる文面に次の歌があった。(歌は、従来の注釈書を元に福永が書き下した。)
  壬申年之乱平定以後歌二首四二六〇
 皇(おほきみ)は神にし座せば赤駒の腹這ふ田為を京師(みやこ)となしつ
 右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作四二六一
 大王は神にし座せば水鳥のすだく水沼を皇都となしつ 作者未詳
 右件二首、天平勝寶四年二月二日聞之、即載於茲也。
 高田さんは田為(田居、田井)=水沼(みぬま)と考え、「台」(低湿地)の証明が『万葉集』でできると思われた。が、「たゐ」と「台(たい)」では音韻が違うとがっかりされた。しかし、わたしは電流に撃たれたように、いやこれこそ邪馬台国の歌だと直感し、信じた。異なる言語間にそれほど厳密な表記はむしろ少ない。古田先生に直ちに報告すべきだと進言し、自分は別の報告を企てた。「たい国の論証−孤高の天子国」と銘打った。邪馬台国が大倭王の自称なら、たい国も日出づる処の天子の自称である。『隋書』にのみ現れ、『旧唐書』に出ないのは、中国側の大義名分、イデオロギーの峻烈さによるのではないか。たい国は天子の座を賭けて、唐朝と白村江に戦い、敗れ、唐朝によって抹消された。旧国名の倭国だけが残された。
 支離滅裂な報告を一段落させ、邪馬台歌を顧みた。すると「水沼」に糸口が見つかった。神代紀に「筑紫の水沼君」、景行紀に「水沼県主猿大海」、雄略紀に「水間君」なる人物が登場する。筑紫の豪族、本拠は筑後国三潴(みぬま)郡。今、福岡県三潴(みずま)郡、大川市。『日本書紀』に現れる豪族と本拠地に「水沼」が共通する。一元史観の山川出版の『日本史辞典』にも、有明海沿岸を拠点として海外との交流を行った有力豪族との記述がある。四二六一番歌の大王は、筑後国水沼に都を置いた、筑紫の水沼の君、すなわち九州王朝の大王ではないかと、先生に報告した。
 大晦日も近いころ、驚天動地の回答を先生から頂いた。九州王朝の王者の末裔の松延さんに歳暮の礼を述べられ、四二六一番歌の話を始められたところ、代々伝承されてきた当家の歌であり、水沼は今の久留米市大善寺(玉垂宮)である等々、一の問いかけに十の確答が寄せられたのである。その答えは、『古代史−六〇の証言』五五で、先生がすでに書かれていた、「七支刀をめぐる不思議の年代」の内容とぴたりと符合するものだった。
 「仁徳天皇五十五年(三六七)」、高良山に高木神が来臨した(高良社大祝旧記抜書)。高良大明神の即位年代であり、万葉歌と合わせると遷都の年でもある。中国が南北朝に別れ、倭国が高句麗との激突時代に突入し、博多湾岸から筑後川以南に都を移したことの伝承であった。そして、東晋の泰和四年(三六九)、百済の国使が「倭王旨」に七支刀を献上したのである。四二六一番歌は、倭王旨の都造営を礼讚した歌と、わたしどもは理解した。九州王朝の歌であると。(例会では、『日本の神々 神社と聖地』九州編 白水社から高良大社を引用し、水沼君の業績が景行天皇と換骨奪胎されていることを詳述した。)
 年が明けて、神は亡くなった天皇を指す例(過近江荒都時、柿本人麿


 今回は、「水沼」(ミヌマ)が、なぜ、「三潴」(ミズマ)なのかとの素朴な疑問を持たれる方も多いため、簡単な説明を加えることにします。
 まず、水は、現在、「ミズ」と振仮名を打ちますが、本来(旧仮名遣い)は「ミヅ」であり、midu なのです。
 司馬遼太郎も何かで書いていましたが、土佐人はZUとDUと明確に発音仕分けるようですし、古代においては、「ず」と「づ」にとどまらず、「じ」と「ぢ」も使い分けをしていたと言われています(いわゆる四つ仮名)。
 東日本は「ムズカシイ」が多く西日本は「ムツカシイ」とも言われていますが、このような傾向が残存している様に、山梨県などでは、水を「ミドゥ」と発音する傾向は残っているようです。
 このようなことを意識したうえで、ミヌマとミヅマを考えると、minuma と miduma の違いでしかなく、単にN音とD音が入れ替わっていることが分かります。
このN音とD音の変化が何に起因しているかについて、追求したのが久留米地名研究会のエース、永井正範氏であり、主として、M音とB音の入れ替わり現象として取り上げた「八女と矢部」というテーマを二〇一二年に久留米大学の公開講座(九州王朝論)で講演されています。
この「八女と矢部」では、目をツムルと目をツブル、カムとカブリツク、烏帽子をカムルとカブル…といったM音とB音が入れ替わっても全く意味の変わらない言葉が存在することを、「日本書紀」などから多くの例を引き出しと言うよりも全て拾い出し、それが呉音と漢音の対抗に起因していると論証されたのです。
そして、その過程で、N音とD音の対抗現象、濁音の清音化現象も同時に証明されたのです。
これについては、久留米地名研究会のHPからユーチューブで講演録を公開していますので、「日本語の漢字に残る漢音と呉音」をお聴きください。
一例ですが、「内」という漢字は「ナイ」(内部)と読み、かつ、「ダイ」(内裏)と発音します。

 (3)呉音と漢音の違いの他の例
呉音にはもう一つの鼻音、≪n音≫があり、これが漢音では破裂音の≪d音≫になる。これについても、≪呉音・漢音双方の読みが日本語として定着している漢字≫を拾い出してみる。

呉音 漢音 呉音 漢音
(内) ナイ ダイ 内外、 内裏
(男) ナン ダン 長男、 男女
(耳) ニ ヂ 眼耳鼻、 耳鼻咽喉科
(児) ニ ヂ 小児、 児童
(辱) ニク ヂョク 忍辱、 恥辱
(若) ニャク ヂャク 老若、 若年
(女) ニョ ヂョ 信女、 男女
(人) ニン ヂン 人間、 人事
(刃) ニン ヂン 刃傷、 凶刃
(奴) ヌ ド 奴婢、 奴隷
(怒) ヌ ド 憤怒、 怒号

≪呉音と漢音の違い≫で次に顕著なのが、呉音の濁音が、漢音では清音になる≪濁音の清音化現象≫である。これも例を挙げておく。

呉音 漢音 呉音 漢音
(河) ガ カ 大河、 河川
(伎) ギ キ 伎学、 歌舞伎
(神) ジン シン 神武、 神仏
(臣) ジン シン 大臣、 臣下
(大) ダイ タイ 大学、 大変
(台) ダイ タイ 台所、 台湾
(代) ダイ タイ 代理、 交代
(治) ヂ チ 明治、 統治
(土) ド ト 土台、 土地
(敗) バイ ハイ 成敗、 敗北

この他、呉音・漢音の違いには、≪韻母の母音が変わる例≫が多く見られるが、省略して本論に戻る。

以上、「八女 と 矢部
古代日本語におけるm音とb音の交代現象 たつの市 永井正範 より


 このように、見てくると、水沼君と三潴君が同一であり、本来、水沼(ミヌマ)君と呉音系の発音で呼ばれていたものが、音博士を中国から呼び寄せてまで習得した行政の漢音重視の風潮以降、漢音系の三潴(ミヅマ)君と呼ばれるようになったことが分かるのです。
 従って、水沼君は三潴君で良いのです。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:39| Comment(0) | 日記
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