太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年10月23日

007 草部吉見神は、甑島(薩摩川内市)鹿島町の鹿島神社を通過したか?

007 草部吉見神は、甑島(薩摩川内市)鹿島町の鹿島神社を通過したか?
20140715

 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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鹿児島県薩摩川内市鹿島町藺牟田1638に鹿島神社があります。
 鹿島神社がなぜ草部吉見神なのかと訝しがられるかもしれませんが、元々、中国大陸の奥地、雲南省麗江からメコン河を降り海南島(現海南省)に集結した黎族が移動し、天草下島の苓北町を経由し、佐賀県は杵島郡の杵島山正面の鹿島、また、熊本県上益城郡の嘉島町から隈本、南阿蘇に入ったと考えている立場からすれば、その中継地とも言うべき甑島の旧鹿島村の存在は無視できないのです。
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 本来、現地を踏むことなく、このような論を立てるのは違法ですらありますが、  
今回は、例外としてお許し頂くとしても、地元の行政系のサイトからはこの程度の情報しか得られません(以下…)。

1664年創建の、水運の守護神である武甕槌神をお祀りする神社です。茨城県の鹿島神宮の流れを汲み、古くから漁業関係者の崇敬を集めてきました。フェリー乗り場から近く、海辺のデートで立ち寄れます。
祭神からみて茨城県の鹿島神宮の流れを組み、水運の守護神として奉斎したものと思われます。本殿大改築の棟札には寛文4年10月26日の記入があり350年以上の歴史があります。 祭神:武甕槌神(タケズカズチノミコト)


皆さんも、剣豪の塚原卜伝が信奉した鹿島大神のことはご存じでしょう。
茨城県の鹿嶋市宮中にある式内社(名神大社)であり、常陸国一宮。旧社格で言えば官幣大社鹿島神宮こそそれであり、その祭神は武甕槌大神 (タケミカツチオオカミ、タケミカヅチ)「古事記
では「建御雷神」「日本書紀」では「武甕槌神」と表わされる、神代の名神なのです。
もちろん、この武甕槌大神こそが草部吉見神であると考えているのですが、その前に、甑島の鹿島神社が本当に「茨城県の鹿島神宮の流れを汲み…」という神社なのでしょうか?
私見ですが、海南島と阿蘇高森、その前に天草の苓北への中間地点だけに、元々、鹿島という地名を残した神が来訪し、その名残とも言うべきものがあったのではないかと考えるのです。
そして、一六五〇年代になり薩摩藩の下で、鹿島神社とは「武甕槌神」に違いないとされたのではないかと思うのです。
武甕槌神を祭神とする神社は、006で取り上げたみやま市の竹飯八幡宮のように、無いわけではありませんが、ほとんど見かけません。
薩摩は江戸時代の初期、カソリックはもとより、浄土教も含めた宗教弾圧を行った土地柄です。
それ以上に、甑島にはカヤカベ教と言われる土俗宗教が、牧園、横川町と併せ存在し、弾圧されたところでもあるのです。
鹿島神社とは武甕槌神に違いないとされた背景にはそのようなものがあったのではないかと考えるのですが、一つの傍証のようなものがあります。 

鬼火焚きの由来 甑島の言い伝え


甑島では正月の七日、焚き火をして法螺貝を吹いて回る風習があるそうです。その由来として、次のような話が残されています。むかし、七日の節句に、三次郎という人が「オヤム」と呼ばれる山に馬で薪とりに行きました。
三次郎が山の入口まで来ると、どうしたことか馬がちっとも動かなくなりました。馬は、何かにおびえているようでした。そこで三次郎は、力任せに馬を引っ張りましたが、どうしても馬は動きませんでした。
不思議に思った三次郎、辺りをよくよく見ると目の前にそびえている大きな杉のちょっぺんに、ひとつ目の大入道が立っていました。
大入道の口からは火焔が吐き出され、三次郎の方をずっと睨みつけていました。
びっくりした三次郎は、腰を抜かしてしまい座り込むと、ガタガタ震えていました。
しばらくして、おそるおそる大入道の方を見上げると、何かに驚いてビクビク怯えていました。
三次郎がうしろを振り向くと、白駒(白い馬)にまたがった神様が、衣冠を正してじっと大入道を睨みつけていました。
神様は三次郎に、「われは鹿島神社の祭神である。鹿島神社といっても関東の鹿島神社ではない。郷土の神社で、今でも戦いの神として崇められている。お前は何ゆえ、七日の節句の日に働きに来たのか」と叱り付けました。そして、すぐ家に帰るように言いつけられました。三次郎は馬を引くと先に立ち、神様に守られながら家に帰りました。
それで七日の節句には、大入道を追い払うために鬼火焚きという焚き火を焚き、法螺貝を吹くようになったのだそうです。                            
「さつま国の言い伝え」より


法螺貝とくれば山岳修験と繋がりがあり、製鉄、冶金、金山開発とも関係があることは一目ですが、カヤカベ教が、牧園、横川町に広がっていたことと併せ考えると、腑に落ちると言うものです。
「われは鹿島神社の祭神である。鹿島神社といっても関東の鹿島神社ではない。郷土の神社で、今でも戦いの神として崇められている。」は強烈なメッセージです。
この、鹿島神社といっても関東の鹿島神社ではない郷土の神社、こそ、実は、後に塚原卜伝が信奉した鹿島大神の日本列島に於ける起点とも言うべき、建借間命(九州王朝が派遣した崇神天皇/四道将軍の従者)=鹿島大神=春日大神=草部吉見神と考えるのです。

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実は、もう一つの傍証があります。民俗学的テーマになりますが、南方系習俗とも言われる、仮面来訪神に海南島を出発した黎族の首領とも言うべき草部吉見大神が反映されているように見えるのです。
一般にも男鹿半島で良く知られるナマハゲの甑島版が「トシドン」と呼ばれていることです。
この「トシドン」こそ、草部吉見神の別名、大歳神(オオトシガミ)のことではないかという話です。

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トシドン


鹿島大神、春日大神、大歳神、武甕槌、建借間命、草部吉見…これらが、全て同一の神であると言う認識に立てれば、多くの謎が氷解し、同時に、カヤカベ教のカヤカベも、実は草部吉見神の「草部」がカヤ=伽耶ケ部であり、一時期、高木大神の傘下に入った黎族(大嶋組傘下に入った初期の山口組程度の意味)と考えれば分かりやすいかも知れません。百嶋神社考古学の延長上にはこのように考えられます。 
では、ご覧頂きましょう。もちろん、「古事記」も「日本書紀」も九割方は嘘なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:50| Comment(0) | 日記
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