太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年10月20日

006  みやま市の飯江八幡宮にも五七桐が!

006  みやま市の飯江八幡宮にも五七桐が!
20140715

 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


みやま市の飯江地区に以前から注目している神社があります。
もちろん、我々が注目する神社とは、近畿大和朝廷によって消された九州王朝の痕跡を留める神社の意味ですが、この竹飯八幡宮(みやま市高田町竹飯1476)も表向きは八幡宮であるものの、かつては高良玉垂命を祀る神社だったと考えるのです。
まずは、その神社を見て頂きましょう。

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肥前鳥居を今に遺す竹飯八幡宮
 


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同社本殿


まず、肥前鳥居が置かれた神社は九州王朝系ではないかと考えています。
 これは、多くの神社を見比べてきた経験によってしか理解できないのでお伝えしにくいのですが、この竹飯八幡宮からもそれほど遠くない、同じく肥前鳥居を持つみやま市瀬高町河内の玉垂宮との対応が見て取れます。無題.png
 この点については別稿として詳しく書きたいと思いますが、ここではその点には踏み込まず、竹飯八幡宮の異様さから話して見たいと思います。
        
右写真は瀬高町河内の玉垂宮

 まずは祭神ですが、応神天皇、武甕槌神、住吉三神は異様であり、普通の八幡宮とは異なることは一目瞭然でしょう。

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竹飯八幡宮祭神


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右が聖母宮


そして、同じ境内には別の参道を持つ聖母宮(当然にも神功皇后を祀る)などが併祭されているのです。八幡宮の総本山たる宇佐神宮にしても石清水八幡、仲哀天皇との間に生まれたとするのが応神天皇であり、宇佐においても三ノ殿に神功皇后が祀られているのです。
これには、時の権力の意向に服従しつつ祭神を入れ替えるも、極力、本来の祭神を守ろうとする苦労が伺えるのですが、その前に本殿の造りから見て頂きましょう。

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ご覧のように、本殿が覆い尽くされています。この形式は、筑後地方に多く認められる鞘殿(サヤデン)と呼ばれるものですが、この覆いの中に立派な本殿が守られているのです。
これ自体は筑後に集中している形式です。
ただ、九州全域から山陰、但馬、丹波でもたまに見かけるのですが、こういうものを見出すと、まずは、筑後地方からの移住者、玉垂系、物部系の神社ではないかとの指標にしているものです。
この点だけからも、元は玉垂宮ではないか、少なくとも八幡宮ではなかったのではないかと考えたわけです。
さて、さらに異様なのは、武甕槌神の方です。
みなさんは、この神が誰であるかご存知でしょうか?
驚かれるかも知れませんが、武甕槌の神と言えば、剣豪 塚原卜伝を持ち出すまでもなく、鹿嶋アントラーズの鹿嶋市に鎮座する軍神鹿島大神ですが、その鹿島大神こそ実は阿蘇高森の草部吉見神そのものなのです。
まず、インターネットをお使いの方は「鹿島地名」「分布」とでもダブル検索してみてください。
驚くほどの鹿島、鹿嶋、嘉島…地名が拾えると思います。
この鹿島地名を残したものこそ、建借間命、阿蘇高森草部吉見、春日大神、鹿島大神…実は海幸彦を奉斎する氏族(というより民族)なのです。
佐賀県の武雄市の南、杵島郡の白石町には、

あられふる 杵島が岳(たけ)を 峻(さか)しみと 草採りかねて 妹が手を採る。是は杵島曲(きしまぶり)  (『万葉集註釈』巻第三、515p)

という万葉集にも歌われた歌垣で知られた杵島山があります(佐賀県鹿島市の正面)。
恐らく、「あられふる」も「万葉集」における杵島の枕言葉でしょう。
そして、この地には、武借間命(タケカシマノミコト)が海を渡り西へ向かったと言う伝承があります。
これこそ、阿蘇へと移動した草部吉見そのものであると考えているのですが、これもいずれまとめて書きたいと思います。
草部吉見神についてはこれまでにも多くを書いてきました。
杵島山周辺の伝承から、佐賀県の鹿島市付近から熊本県の上益城郡嘉島町に移動してきたとは考えていましたが、鹿児島県の東シナ海側には甑島があります。
鹿児島県薩摩川内市となった、この甑島、下甑に鹿島町があります。
これが、中国の南、現海南省の海南島から移動してきた草部吉見(支那津彦)の日本列島における起点と考え、ここから、天草の苓北町を経由し、佐賀県の鹿島市から熊本県の嘉島町を経て熊本市、阿蘇高森に移動したと考えているのです。
少し、武甕槌神に話が振れ過ぎましたが、この竹飯八幡宮の肥前鳥居も杵島山の安山岩で造られているとのことですから、この武甕槌神への思い入れが感じられ、元々は、この地区の人々は古い時代に杵島山一帯から移動してきた人々だったのではないかと考えています。
実は、その傍証とも言えるものに、表記は異なるものの、歌垣で知られた大阪府の能勢町と同じ高田町濃施(竹飯神社からも直ぐの場所)があり杵島山に似た濃施山公園があります。
ここは、杵島山の対岸でもあり、古代には有明海をも渡った歌垣が行われていたのかも知れません。
日本三大歌垣は、西から杵島山、大阪府箕面市の能勢、そして常陸国の筑波山ですね。
そして、「常陸国風土記」に登場する杵島ぶりの古話があります。

古老の話によりますと、崇神天皇の時代に、東国に住む凶暴な賊を平定するため、建借間命(たけかしまのみこと)を派遣しました。(…中略…)
そこには、夜尺斯(やさかし)・夜筑斯(やつくし)という二人を首領とする賊たちが穴を掘り要塞を造って住んでいました。彼らは命の軍隊が来ても降伏せず、手向かいました。建借間命が軍勢を差し向けると、賊は逃げ帰って要塞を閉ざしてかたくなに抵抗しました。
そこで建借間命は賊たちをおびき出すために、策略を思いめぐらしました。まず勇猛果敢な兵士を選び出し、これを山の隅に隠れさせ、兵器を作って備えつけました。それから海岸に船や筏を組んで、雲のような大傘を張り広げ、虹のような旗をなびかせました。そして天の鳥琴と天の鳥笛を美しく鳴らして肥前の国(現在の佐賀県・長崎県)に伝わる杵島曲を、七日七夜も奏で歌い舞ったのです。
そのうち、賊たちは賑やかな音楽にひかれて要塞から皆出てきて、浜辺いっぱいに浮かれだしました。その時建借間命は、騎兵に命じて要塞を閉ざさせて退路を断ち、後ろから襲撃して、ことごとく賊の仲間を捕らえ、同時に焼き殺してしまいました。               「常陸国風土記」より

「杵島の唱曲(きしまのうたぶり)」2014-05-15 00:52:24 | 潮来・茨城の歴史

 この、いわば、だまし討ちに長けた軍神こそ、阿蘇氏の流れを汲む藤原氏が欲しがった一族の軍神「武甕槌」=鹿島大神であり、勧請された春日大神の本体でもあり、同時に藤原天皇制の守護神なのです。
 事実、付近のみやま市海津にも海津阿蘇神社があります。
以前、なぜこの地に阿蘇神社があるのかと考えたことがありましたが、古い時代に対岸の杵島山から移住してきた人々が奉祭するものと考えれば腑に落ちます。
 さて、本来の話に戻ります。この竹飯八幡宮の本殿の神紋を見てやはりと思いました。

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五七桐の神文がはっきり残されています。
 高良玉垂命を祀るとする、高良大社は左三つ巴と木瓜紋を使っています。
 しかし、多くの神社調査から、神社考古学研究班は、高良玉垂命が五七桐を使い、妃である神功皇后が三五桐を使うことを知っています。
 これは、本殿に神功皇后の神像を残し、五七桐の神紋を祀る、みやま市高田町河内の超高格式玉垂宮と同様のものだったと考えられるのです。

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「日本書紀」の記述から神功皇后は仲哀天皇の妃であり、その子が応神天皇なのだから、何を馬鹿なことを言っているのだろうと思われるでしょうが、それは藤原がやったことであり、「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)には「高良玉垂命は神功皇后と夫婦なり」と書かれているのです。
これこそが、有明海沿岸の神功皇后伝承が公式には消されている理由であり、日本の古代史の最大の秘密なのでしょう。
高良大社の高良玉垂命が何かは、古来、武内宿祢、月読命、月神、三潴間の君説など混乱が続いていますが、百嶋神社考古学では、「高良玉垂宮神秘書」に基づき、明確に第九代開化天皇が祭神であるとしています。
この視点が得られない限り、九州における古代史は全く分からないはずです。   上)みやま市河内の玉垂宮、肥前鳥居が置かれている
はじめに、「表向きは八幡宮であるものの、かつては高良玉垂命を祀る神社だった」としました。
八幡宮の総本山である宇佐神宮と、京都の石清水八幡宮の祭神を見てみましょう。

一之御殿  八幡大神  誉田別尊(応神天皇)
祭神    二之御殿  比売大神  宗像三女神(多岐津姫命 市杵島姫命 多紀理姫命)
三之御殿  神功皇后  息長足姫命

中御前:誉田別命 (ホンダワケノミコト)第15代応神天皇の本名
祭神   西御前:比淘蜷_ (ヒメオオカミ)宗像三神(多紀理毘売命、市寸島姫命、多岐津比売命)
東御前:息長帯姫命 (オキナガタラシヒメノミコト)

恐らく宇佐八幡宮の神威が及ぶ時代、誉田別尊(応神天皇)は渋々受け入れたものの、高良玉垂命と妃としての神功皇后は元々祀っていたことから(比売大神も高良玉垂命の可能性がある=呉の太伯の姓は姫氏)、神功皇后は別殿として祀り、高良玉垂命と応神天皇が入れ替えられたように見えるのです。
最期に、面白いものをお見せしましょう。

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 宇佐神宮の上宮を参拝された方はお分かりでしょうが、神殿は壁で覆われており、よほどの有力者でもない限り、伝手のないものは一切入ることは出来ません。このため、内部のことは知り合いの禰宜にでも聴かなければ分かりません。
 ただ、一之御殿(誉田別尊)の傍には春日神社と住吉神社が随神(後見人)の如く配されているのです。
 この二社を受け入れたのが、応神天皇、武甕槌神、住吉三神とする竹飯八幡宮の構造とすれば分かり易いかも知れません。
 ちなみに、百嶋神社考古学では住吉三神も

 底筒男命=第九代開化天皇(高良玉垂命)
 中筒男命=第十代崇神天皇
 表筒男命=安曇磯羅(大川風浪宮の主神)


 とします。
 形を変えても、本来の祭神は決して粗末にはされず祀られ続けているのです。
竹飯八幡宮にはぜひご参拝ください。
ここも、肥後は玉名市伊倉の南北八幡宮と同様に、高良玉垂命を祀る高良宮、玉垂宮であったと考えます。
もし、否定される方がおられたら、なぜ、五七桐が本殿に祀られているかを説明して頂きたいと思うのです。宇佐についてはいずれ集中して書くつもりです。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:32| Comment(0) | 日記
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