太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2014年10月08日

003 宇佐神宮のお膝元、豊後は日田市に高良玉垂宮がある!

003 宇佐神宮のお膝元、豊後は日田市に高良玉垂宮がある!  
20140627
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


豊後に玉垂宮があると聞けば驚かれる人が多いでしょう。
八幡神の本山とも言うべき宇佐神宮のお膝元であり、筑後に近い日田市も八幡宮が集中する地であることから、高良神社、玉垂宮…といったものに関心を寄せ調べておられる方でもあまりご存じないのではないかと思います。まずは、ご覧いただきましょう。

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社殿は、道の駅から高速道路に向かう幹線道路から百メートルほど入った、日ノ隈町の一角にあります。
正面神額には「黒尾殿社」とありますが、裏参道(脇参道)側の神額には「玉垂社」とあり、地元では高良神社と呼ばれているようようです。事実、紛れもない高良玉垂宮です。
これについては、二点ほど重要な問題があります。
一つは、現在では高良神社、玉垂宮は筑後の周辺だけに押しとどめられているものの、古くは広く九州全域に分布していたのではないか?そして、その痕跡が八幡宮のお御膝元においても、明確に残されているという点です。
それは、国東半島の伊美別宮などの境内社として高良社、若宮社(オオサザキ=仁徳天皇を祀る)が祀られていることや、薩摩半島は南さつま市の加世田町に高良神社が一社残されていること、さらには、薩摩川内市の新田神社(可愛山稜)参道に高良神社が置かれていること、肥前においても、佐賀県の武雄市の花島地区に堂々たる玉垂宮や島原半島先端の口之津町ほかに高良山神社が現存していることなどから、古くは、最低でも九州全域に分布していたのではないかと思われることです。
そして中央にも、「徒然草」で有名な石清水八幡宮正面の高良神社があることや、大阪府寝屋川市の打上神社が実は高良宮=玉垂宮であることからも窺い知れるのです。
まさに、玉垂宮とは八幡神に掻き消された最高格式の神宮であり、全国的な分布を示していた時代が存在したと考えるのです。
もう一つは、この祭神が「黒尾殿」とされていることです。
この背後には、そもそも高良玉垂命とは何者か?という今なお解決できない巨大な謎があり、混乱が生じていることがあります。
現在、本山とも言うべき久留米市の高良大社では、高良玉垂命とは武内宿禰としており、天皇の臣下でしかないという立場をとっています。
このためか、全国の高良玉垂命を祀る神社においても、そのほとんどが祭神を武内宿禰としています。
当然ながら、江戸時代にも争いがあったことから、有馬の殿様が武内宿禰に一本化しただけであり、多数決で決するならいざしらず、百嶋神社考古学では高良玉垂命と武内宿禰が同一神であるなどとは、一切、考えていません。
ここで、考えるのが武雄市の黒尾神社です。
宿禰の母親である山下影姫を主神として祀る神社が黒尾神社と呼ばれており、実際に黒尾岳の麓の黒尾地区に鎮座し、周辺にも同名の神社が数社は存在しているのです。
また、宇佐八幡宮の参道右手に黒尾社が存在していることでも分かるように、どうも、現高良大社から八世紀に九州の宗廟(これは列島の宗廟を意味する)を奪った宇佐八幡宮は、日田同様に黒尾社と貶めようとしていることが見て取れるのです。
ただし、筑後に近すぎた日田では、まだ、高良玉垂宮の神威が衰えておらず、大原八幡宮の末社との扱いはできたものの、宇佐神宮の黒尾社のように境内社とすることまではできなかったようです。
つまり、できれば、高良玉垂命はいなかった。もし、いたとしてもそれは天皇の臣下でしかなかったのだ!とでも言いたげなのです。
ここまで見てくれば、宇佐八幡宮の実質的主神である「応神天皇など本当の天皇などではなく、応神=ホンダワケ、ホムタワケの別王(わけおう/これとは無関係ですが故渡辺光敏氏も「別」はベックでありウズベキスタンのように別の地域を支配する王の意味とします/古川)でしかないのであり、そもそも、正統皇統(周王朝の末裔としての…)の天皇とその勅使しか渡ることのできない呉橋(クレバシ)を応神天皇は渡ることができなかったのです。…」という故百島翁の言葉が蘇ってきます。
なお、八世紀、九州の宗廟を宇佐神宮に明け渡したことについては、「高良玉垂宮神秘書」(高良大社社務所において現在も\10,000で販売されています)をお読み下さい。
ここで、祭祀権においても最終的に九州王朝と近畿大和朝廷との入替わりが起こったのです。
ようやく、宇佐八幡宮勢力による「高良玉垂命隠しの実像が見えてきた思いがしています。

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裏参道には申し訳ないかのように玉垂社と書かれた神額の載る鳥居が置かれています
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 09:14| Comment(0) | 日記
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