ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ249
新ひぼろぎ逍遥 1100 七面大神とは何か?(下)の転載
20250306
太宰府地名研究会 古川 清久
七面大神(上)に於いて、取り急ぎ分かる範囲で七面天女 様 がどなたであったかを書いてみました。私どもは神社研究者の端くれに過ぎず、何を惚けた話をしているかとのお𠮟りを受けることは重々承知の上で尚も拘り、僅かな知恵を絞りだし、神社研究の延長からこの不慣れな仏教系の女神を描いたものです。しかし補足も必要でそろそろ神仏混交時代の仏神にも考察すべき時期が来ている事を考える中、明治に至り排斥された山岳修験によっても神々への考えを深めて見ようと思うのです。

何分、念仏宗でも西本願寺の信州門徒ではあっても、法華経など知る由もない門外漢であり、この七面大神、七面天女様についても多少想像が及ぶものであったことから考察を進めて見た訳です。
この女神様については、その実体が掴めないものと思われ、多くの説が出されネット上で展開されているようです。各々、魅力的な説ではあるのですが、神社の世界でもその時々の政情の影響から無縁では在りえず、多くの事が隠されそれが重層的に積み上げられている事から、一般には見えなくなり安定している状態にあるのです。
それは、「古事記」「日本書紀」を筆頭に多くの偽装、改竄がまかり通っている事から、そこから真実を探ることが非常に難しいのです。従って通説に拘らない立場から多少の考察を加えたいのです。
「七面大神」との無骨な名を選んだのは、神ならば私達にも考察を加えられるとの意味を込めたものでそれ以上の思いはありません。
ただ、全ての説を取り上げコメントを加えることは不可能ですので、有力に見える説やご提案についても幾つかの考察を加えようと思います。
まず、八面神とか八面神社、八面大王…なるものが在ることは私も多少は承知していました。
そこで、七面大神、七面天女…もその周辺の方であろうと考えるのも自然で、ある程度の推定が浮かび上がってきたのでした。
一つは八面山が大分県中津市三光村に在り、この一帯が元々秦氏が住み着いている事がありました。
秦氏については秦の始皇帝(しこうてい)の後裔(こうえい)でその祖弓月君(ゆづきのきみ)が「己が国の人夫廿県」を率いて渡来したという伝承を持った豪族であるが、実際の渡来は五世紀末ごろではないかとされており、渡来の背景には当時の朝鮮半島での政治情勢とのかかわりがあった。秦氏の故地とされる新羅(しらぎ)は五世紀後半には北方の高句麗(こうくり)の集中した攻撃を受けており、このような戦火を避けて倭国へ渡来したのではなかろうかと考えられている。 より
これは始皇帝の後裔氏族であり、始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族はそれに先行して列島に移動しているのです。
それは、列島が火山国であり、鉄、銅、金、銀…が取れる事を知っており、燃料の豊富な森林国としての倭国に移動しているからなのです。ここで、その証拠と思えるものをご紹介しておきます。
秦帝国が滅亡するのは実にあっという間で、BC 221年に史上初めて全土を統一するも、BC 206年には亡んでいるのです。
秦の滅亡前から、万里の長城の建設作業に徴発されるのを嫌い逃げた秦の臣民、敗残した氏族、そして遂には、秦の滅亡から、秦の王族、官僚・・・までもが半島を経由し列島に移動しているのです。
始皇帝の姓は嬴(エイ)諱は政(セイ)、つまり嬴 政(インチョン)ですが、同族として姻戚関係を結んだのが金山彦の一族だったのです。以下でも、宗像三女神の筆頭として知られる市杵島姫も正しい漢字表記をすれば、瀛ツ島姫であり、嬴 政の嬴にサンズイを付しているのです。
それは、鉱物資源と燃料に満ちた列島に渡海し金属生産を始めたかったからだと思うのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
このことから、山国川一帯から豊前に掛けてある時代の初期の統計では人口の9割がこの渡来系氏族が住み、その後もかなりの数の後裔が尚も住み着いている事を承知していた訳です。
また、我が百嶋神社考古学に於いても、関東で金鎖大神(東金砂神社、西金砂神社…)と呼ばれる、イスラエル系製鉄神=金山彦をある一枚の神代系譜で、「面足尊」としている事から八面神自体が金山彦であり、その震源地のはずだと考えると、その関係者以外には考えられないと思ったのでした。
当の宗像大社も現在はこの字を使いませんが、私も一度だけ、現場で出くわしたことがあります。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)888 市杵島姫が秦の始皇帝の贏政の「贏」が瀛津嶋姫と書かれる“朝倉市佐田町高木神社の境内摂社”を検索してご覧頂ければその実例が分かります。

先行(上)ブログでも書きましたが、伊弉諾と伊弉冉は早い段階で別れています。それが「日本書紀」にも垣間見れます。イザナミは別れ、熊野那智大社のクマノフスミと名を改めているのです。
第五段一書(十)(書き下し現代文)
ある書によると……イザナギはイザナミを追いかけて辿りついて、言いました。「わたしは、お前を失って悲しいから来たのだ」するとイザナミは答えました。「つながる者よ(=夫)。わたしを見ないでおくれ」イザナギは従わずに、イザナミを見てしまいました。イザナミはそれを恨み、恥じて「あなたはわたしの心を見た。わたしもあなたの心を見てしまった」と言いました。それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず「別れましょう」と言いました。イザナギは「負けない!」と言いました。その時吐いた唾が神となったのが速玉之男(ハヤタマノオ)といいます。次に穢れを払うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)といいます。二つの神が生まれました。イザナミと泉平坂(ヨモツヒラサカ)で言い争ったときにイザナギは「はじめは妻を失った悲しみから、恋しいと思っていたが、それは自分の心が弱いだけだった!」と言いました。黄泉の道の番をしている泉守道者(ヨモツモリビト)がイザナミに向かって言葉を促すと「わたしは、あなた(=イザナギ)とともに国を生みました。どうしてこれ以上、子を産むことを求めるのですか……わたしはこの国にとどまります。一緒に行くことは出来ません」このとき菊理媛神(ククリヒメカミ)が言葉を漏らしました。
イザナギはそれを聞いて褒め称え、黄泉の国を去りました。 古事記(現代語訳・口語訳の全文)
この七面大神の解明が必要となった時、最初に考えたのは、金山彦のお妃となったお二人のどちらか、大山祇の姉のオチの姫(大山祇神社の本宮が鎮座する愛媛県大三島に越智姓が多いのはオチの姫の末裔だからです)or博多の櫛田神社の大幡主=熊野速玉大社主神=神産巣日、神皇産霊、神魂の妹、埴安姫の何れかであろう。特に、金属精錬、冶金を行う際の鋳型を造る埴安姫(埴輪の土器生産)を行った(足名鎚と手名鎚の手名鎚)ではないかと思ったのですが、オチの姫では神武皇兄五瀬命が死に娘の吾平津姫(後の蒲池姫=松田聖子の御先祖ではないかと考えていますが)も阿蘇の金凝彦の妃と成り、肥後から出た形跡がないため、また埴安姫も九州から出た形跡がなく、山岳修験でも特に金属精錬と冶金との関わりが薄く…金山彦の一族の生業が阿蘇氏に移ったようで、どうも二人のお妃ではないと思ったのです。では、金山彦のもう一人の娘の櫛稲田姫ですが九州外では痕跡が拾えないため(出雲は近畿大和朝廷が九州を消すためにこさえたテーマ・パークと考えていますので…)、妹の伊弉冉(イザナミ)以外にはないと思うに至ったのでした。
一方、ネット上には七面天女とは何かという考察が多数流れています。この十日ほどそれらを読んできましたが、実に熱心な考察が加えられ、今更ながら日本人の真面目さには感心するばかりです。
それも法華の凝り固まりの成せる業と言えば失礼になるのでしょうが、折伏講論の演習とも言えそうです。
我々、神社研究に踏み入った者としては、元は神社に詳しい方も居られたのですが、マッカーサーの占領政策の延長上に戦後は神社研究が事実上されなくなり、今や教えを頂くとしても答えを頂ける人が消え、質問を受けるばかりと成りつつあるのです。結局はAIに神々の話を尋ねる以外方法の無くなる時も到来する様で、コンピューターからインターネットの爆発は、最終的に神の存在さえもAIに問わざるを得なくなるかも知れないのです。実際、神社を多少とも調べるにも遠征するよりネット検索の方がよほど成果はある訳で、それはそれで無視はできないのですが、隠された真実を探り出す作業はとなると、やはり現場を踏むべしと思うばかりです。
神社研究の世界では、この道に非常に精通された「玄松子の記憶」とか「神奈備」といった非常に優れた先行研究が在り、分からないことがあれば、まずは、敬愛する玄松子 様 などを検索するという方法があるのです。
ところが、さすがの「玄松子…」様も七面大神…様については一言も発信されていませんでした。
やはり、仏教の神は対象外と思われたのかもしれません。こうして、意を決して取り組む事とにし
たのでした。多くのものを全て読み込み理解した上で反論するなど不可能ですが、色々な説を纏めて
論じられている「七面天女伝説の諸説」というサイトがあります。

そこで、門外漢のが入門入門するにはと言うのは失礼ですが、非常に良くまとめられており、今回のテーマには最適ですので、自らの演習の意味もあり、ランダムに多少のコメントを加えたいと思います。
しかも、まことに勝手ながら、系統だって非常に精緻に書かれている秀稿ながら、順を選ばず、思いつくままに書かせて頂きたいのです。
そこで、最初に取り上げるのは、七面天女=市杵島姫説です。
とりあえず、冒頭に書かれている事から取り上げますが、残念ながら、日本書紀の偽装する罠に嵌っておられるようです。
一、『御義口伝』古写本(大石寺・要法寺所蔵)
元亀二(一五七一)年の写本が、大石寺と要法寺に所蔵されています。日興上人が日蓮聖人の法華経講義を筆録したものと伝えられていますが、現在は後世の偽作とされています。(執行海秀稿「御義口伝の研究」『立正大学論叢』第四・七号所収)。『御義口伝』に、提婆品の沙竭羅竜宮の龍女について、殊此八歳龍女成仏帝王持経先祖タリ。人王始神武天皇也。神武天皇地神五代第五鵜萱葺不合尊御子也。此葺不合尊豊玉姫子也。此豊玉姫沙竭羅龍王女也。八歳龍女姉也。然間先祖法華経行者也」(二六五四頁)と、七面天女の本地は提婆品の龍女という説があります。この龍女の姉は神武天皇の祖母にあたる豊玉姫であると書かれています。『日本書紀』の海幸山幸神話では豊玉姫を玉依姫の姉とします。玉依姫は共に海神(ワタツミ)豊玉彦の娘となります。また、親子とする説もあります。善女龍王は娑伽羅龍王の第三王女です。日本の皇室の先祖は法華経の行者であるとしたことは、龍女本地説に関連します。(室住一妙稿「七面大明神の伝説・縁起とその考証」『七面大明神縁起』所収五二頁)。
そもそも「古事記」は白江戦の大敗北の結果、天武天皇の一族が太宰府占領から逃れ奈良に入って以降作られたもので、「日本書紀」は乙巳の変ご奪権した藤原(阿蘇氏後裔)が作ったものです。
このため、後の藤原氏はその直接的な祖先にあたる神武僭称(贈る)崇神天皇こそが初代神武とするもので、結果、直系でも何でもないウガヤフキアエズの娘の大海姫を妃とした崇神(ハツクニシラススメラミコト)こそが初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)なのだという御伽噺を造ったものなのです。
何故そのような事が起こったかと言えば、
六、「七面大明神縁起」大中孝師
小湊誕生寺二六世の大中院日孝上人が書かれました。延宝八(一六八〇)年ころといいます。(森宮義雄著『七面大明神のお話』三〇頁)。本書に鬼門を閉じて七面を闢(ひら)く、ということから七面山とする説は他と同じです。山上の湖水は藍(あお)く清らかであり、どんな旱(ひでり)にも枯渇することがなく、その所に宝殿を構えて祀ったのが七面大明神であると書いています。この本地は計り知れないが、相伝によると吉祥天の応現であるとのべています。この相伝とは師弟関係からしますと、元政上人の「七面大明神縁起」と思われます。日蓮聖人との出会いについても、おおむね元政上人と同じです。容貌が端厳(きちんと整っていて威厳のあること)で、服飾も綺麗な婦人に水をあたえると龍身に変じます。その驚くほどの怖い姿は、眼光は雷を射るようである。爪と牙は刃を植えたようである。鱗の色は種々の色糸を用いて、華麗な模様を織り出した錦の織物のようである。舌の先端から穂のように激しい炎が湧きだしている。身の大きさは一丈(約三、〇三b)。花瓶のまわりを纏(まとわ)り繞(めぐ)ること二、三匝(めぐり回ること)。そして、首を矯げて(直す)回顧(うしろをふりむく)します。その睨む姿は恐ろしく怖畏(おそれおののく)するほどだったのです。ですから、この様子を見ていた波木井氏は疑うどころか、未曾有のことであると感動したのです。龍身をもとの婦人の姿に変え、霊山にて末法に法華経を持つ者を擁護する誓いを報ずるため、これよりは持経者の七難を除き七福をあたえ、身延山の伽藍を守護するといって沒します。沒(没)とは水に沈むということで、水のなかに隠れ去ったということになります。元政上人の「七面大明神縁起」とくらべますと、婦人が龍身に変わって波木井氏を見つめるところが誇張されています。また、六老僧の口伝として日蓮聖人が提婆達多品を説いていたときに蛇形が来て聴聞していた、日蓮聖人はこの蛇は八才の龍女であると言われた、という口碑をのべています。つまり、場所を草庵として西谷伝説を脚色し、女性は竜身になります。本書に六老僧の口伝がのべられていました。(『身延山史』三九頁)。