2025年05月31日

先行掲載 ひぼろぎ逍遥(跡宮)247 新ひぼろぎ逍遥 1106 川上 猛 早良避退ルートを探るトレッキングへの企画書の(再掲載)下

先行掲載 ひぼろぎ逍遥(跡宮)247

新ひぼろぎ逍遥 1106 川上 猛 早良避退ルートを探るトレッキングへの企画書の(再掲載)

20250410

太宰府地名研究会 古川 清久


推定 川上 猛 連行移送ルート踏破小規模トレッキングで見えてきたこと

最初に向かったのは、神埼市脊振支所から真北に上った伊福の手前の小集落腹巻の竜作地区でした。

 まず、「竜」は近畿大和朝廷の時代になると後漢の霊帝の末裔(阿智王)が以前から列島に移動していますので(劉邦の字を置き換えた、笠氏、龍…)単純には言えないものの、九州は明らかに龍王、龍宮、八龍(八大龍王)それに黒龍(久留米の「高良玉垂宮神秘書」にも黒龍紋章が描かれています)脊振村役場正面の広滝神社(「佐賀県神社誌要」にも搭載されず確認できませんでしたのでその理由も推定になり戦前の同誌編集時期の櫛田宮と淀姫神社の争論の結果と考えられます)恐らく鴨玉依姫=タギツ姫=八咫烏の実娘)、八咫烏系の一族が作った集落だと考えています。

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無題.pngトレッキングに同行されたF氏からヅーベット山ってどんな意味なのかと言われましたが、九州と言わず、西日本全域に展開する地名で、后別当、定別当、造別当と幾つかのバリエーションがあり、海鳴り、風鳴り、滝鳴り、川鳴りする谷の屈曲部、狭隘部に良く見られる地名ですとまではお答えしています。具体的にはネット検索すればすぐに出ますのでご自分でご判断を…と申し上げました。ただ、何故、地名語尾として別当が充てられているかは未だに見当が着かないでいます。まあ、修験の連中が着けた地名ではないでしょうか…。

対して、「伊福」は以前も触れましたので省きますが、伊吹山と日本武尊、伊福とヤマトタケルと対応しているとしか思えません。増してや、姉川の合戦の姉川上流の支流として妹川(現在は変名)があり、神埼市のJR伊賀屋駅東に姉川地名まであるのですから。きっと、古代の旧脊振村にはあったと考えたのでした。

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考えられることは、金山も含む脊振山の山裾に当たる伊福地区辺りで行われていた製鉄は、さらに効率を上げるために対岸のうきは市に移動しているのだと思うのです。

それは、主として製鉄は冬場の農閑期に大陸からの強い北西風が得られる山の北西斜面でも風が凝縮される谷地が最適で、強風による高温こそが良質の鉄を得る必須条件なのです。

恐らく、それが彼らが対岸の耳納山系に移動した理由だったのです。

実は、そのことが推定できる地名があるのです。それが神埼市「的」(イクワorイクハ)です。ここには、仁比山神社があり、ヤマトタケルの出撃拠点とされる白角折(オシトリ)神社があり、八天神社までもがあるのです。この移動がうきは市の生葉(イクハ)となり、ウキハとも呼ばれ、現在のうきは市の浮羽になっていると思われるのです。それが、両岸の佐賀市とうきは市に巨勢川

が流れている理由でもあるのです。それが、古代氏族の巨勢氏に繋がるのです。

通説は奈良県としますが、うきは市の妹川を流れる川が巨勢川であり、彼らのルーツもこの地なのです。

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無題.pngこの神埼市伊福(旧脊振村)から西隣の現佐賀市の旧三瀬村方面に向かいました。

三瀬(ミツセ)村に入ると、直ぐに大幡主の実子の八咫烏のエリアであることが見えてきます。

 始めに訪れたのは、井手野集落です。嘉瀬川の源流がこの辺りから流れ出しており、その古代の河口が川上峡であり、そこに淀姫神社が鎮座しているのです。その意味でも、川上峡は川下でしかなく、河口(神代どころか古代まで有明海の最奥部はこの辺りだったのです)、だからこそ旧大和町が存在し、現在でも「尼寺」と言う交差点が在り、国府が置かれ国分尼寺が存在していたのです。

 従って、河上 猛の河上=川上とは川上 猛の生誕地の南阿蘇の高森町最奥部の川上渓谷が注ぐ川上地区の川上地名が持ち込まれている事で説明できるのです。

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ほどなく三瀬村の井手野集落に入り、やはり…と思った事がありました。集落の中心地と思しき井手野公民館の近くに、ひときわ目立つ倉があったのです。その紋章を見ると、亀甲型の台座に二つの家系なのでしょうが家紋が打たれていたのです。

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無題.png家紋だけから言えば、梅鉢の菅公は博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの本家=八咫烏の後裔と、金山彦系ナガスネヒコの妹オキツヨソ足姫の本家同士で生まれた家系で、正しく博多の櫛田神社と(神埼の櫛田宮の本家かは不明ですが)、何れにせよ大幡主系と金山彦系の姻戚関係の結果生まれた家系であることが表現されているのです。

 さらに付言すれば、金嚢紋は大国主命の可能性を示しており、知られてはないものの大山祇の息子の大国主命は博多の櫛田神社の一族への入婿ですから宗像三女神の市杵島姫と豊玉姫(ウムガイヒメトキサガイヒメ)は大国主のお妃なのです。その意味では、宗像大社の本当の祭神も隠されてはいますが、大国主命なのです。まさか伊吹山に向かったヤマトタケルに倭姫命が渡した火打石の入った小袋の意味と考えるのは行き過ぎでしょうから。

 この井手野の鎮守様は玉里神社です。

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玉里の意味は豊玉姫、鴨玉依姫の玉であり、八咫烏=豊玉彦=豊国主(大幡主の後継者)意味です


 無題.png玉里神社は、本来、造化三神のカミムスビの後裔八咫烏(豊玉彦=豊国主)の玉里神社のはずですが、天照大御神の御札を持った公家が置かれていました。そもそもこの神社の鎮座地は佐賀市三瀬(村)藤原994で藤原の管理地に代わっているようで、彦山の高木大神、天照、正勝吾勝(阿蘇の草部吉見)に象徴されています。神崎郡は櫛田宮が鎮座する本質的には金山彦系の地域のはずですが、倉岡神社にも天照大御神を祀る大きな石塔が置かれるように要注意地帯だった様です。外にもこのような例は良く表れています。祭神については「佐賀県神社誌要」に搭載されておらず確認できません。以下はネット上のものです。「井手野」は通称地名なのでしょう。

無題.png社号 玉里大明神・(別名)玉里七郎神
祭神 少名彦命・十城別王神代勝利
神社境内の石碑には次のように刻まれている。(表面) 祭神 十城別王

神代勝利は高良大社の旧大祝家の一族で、山内(脊振山系)を拠点に戦国武将龍造寺隆信と北部九州の覇権を争い高良山奪回を目指した旧九州王朝系の人物です。十城別王は志々伎神社の主祭神で景行の息子か孫でしたね。北部九州海岸部中心に志々伎神社は10社近く分布しています。

玉里七郎神はこの地域限定の謎の祭神で、そのうち取り上げてみたいのですがここでは触れません。

 最後に向かったのは、三瀬峠(三瀬トンネル)に近づく最後の八龍神社と勝玉神社です。

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神埼市脊振支所正面の広滝神社から金山彦系の伊福集落を経由し、玉里神社右矢印1八龍神社右矢印1勝玉神社へと八咫烏系を思わせる玉、龍が付された神社が並び、起点が広滝神社だったことまで併せ考えれば、河上 猛 誅伐 そして、福岡市早良区の某所への恐らく移送と監視、抑留に、敗残した金山彦系と阿蘇氏の台頭を恐れた大幡主(故百嶋由一郎流に言えば雲南省昆明から亡命した白族の後裔による阿蘇氏への恐れ)と初期九州王朝を支えてくれた金山彦の孫にあたる長髄彦の妹オキツヨソ足姫が一族が生き残るために草部吉見の妃(実質は傍女となった)の悲哀と、オウスノミコト(後の日本武尊)の祖母への思い、衝突した神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)と九州王朝の危機…までもが見えてくると、百嶋先生がいみじくも神武の失政と言った事までもが見えてくるような気がします。

では、百嶋は何故ここまで知っていたのでしょうか?

それは、恐らく脊振村役場正面の広滝神社の関係者辺りから拾った話ではないかと思うので無題.pngす。

しかし、日本の神代史でも良く知られた話が潰え去ることなく、一端でもが辛うじて回収できた事は良かったと思っています。最低でも、広滝神社を含めて、八咫烏系神社が並び、伊福地名の意味までが確認できたことは独りよがりとは言いながらも実に面白い経験でした。では、八龍神社を考える事にしましょう。そもそもこの神社は川上の淀姫の西の平地にも降りてきているようなのです(集落は平地から山奥に広がったのではないのです)。これは佐賀市大和町池上の八龍神社。

 そもそも八大龍王神とはカミムスビ=博多の櫛田神社の大幡主の直系の実子=八咫烏=豊玉彦無題.pngであり、三瀬から降りてきたのか、元々、有明海最奥部の波際線に在ったのかは分かりませんが、佐賀県の有明海沿岸にも「龍王」(白石町)という地名があり、佐賀市内にも「十五」という地名までもが在るように、R音(実際はL音ですが)が発音できない海人族はD音で代行しているのです。二里の松原が虹の松原と呼ばれているのは典型です。尻取り遊びでラリルレロに窮するのも、元々日本語に存在していなかった事が示しされているのです。

 天草下島を中心に、十五神社とか十五社神社が450社存在している事(それを南北朝以降阿蘇氏が阿蘇12神+3神としている)も、その表れで、実は龍王=八大龍王=八咫烏を祀る神社なのです。実際にはもっとあるのですが一度に表示するのは残念ですができません。


対馬市豊玉町仁位1283の十五神社

この神社は、対馬空港の北14km程の辺り、豊玉高校のすぐ北側に鎮座しております。

御祭神 雷大臣命 由緒 大臣命は神功皇后新羅征伐の時、御軍に従い凱旋の後、対馬県主となり最初豆酘に館を定め、後阿連に移り再び加志に移り、韓邦の入貢を掌り祝官をして祭祀の礼を教え亀卜の術を伝へし神なり。下県郡阿連鎮座の雷命神社の分霊なり、勧請年暦不詳なり。八龍殿の社と云い天八龍地八龍の二殿として亀卜所八しんでんの社なり。大正2725日神社明細帳に編入せらる。境内由緒書 より。

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■所在地佐賀市三瀬村大字三瀬2183(土師) ■年代中世 ■登録ID1317

社号 八龍宮 祭神 綿津見神・龍田大神
 明治4年に提出された神社調差出帳には次のように記録されている。
「人皇38代天智天皇の御代大職冠藤原鎌足の末孫 藤原内匠は藤原山の領主であったが、建久2年(1191)に上京するとき、海上で暴風雨にあい、船が難航してあわや沈没しそうになった。内匠は一心に八龍宮を念じ、「私がもし遅滞なく岸に着くことができたら帰国の上は領地宗廟の神として崇め奉ります」。と祈誓したところ、不思議に風波が静まって無事に岸に着くことができた。そこで帰国ののちそのときの誓を守り、翌建久34月上旬に八龍宮を造建して綿津見神(海神)を祀り、藤原山村の宗廟として崇敬し、家来の山本左京太夫貞房を神主に命じた。この地は内匠の居住地であったので藤原村とよんだと伝えられている。これまで八龍宮と称していたが、明治の御一新によって綿津見神社と改称した。」 原文には和多津見神とあったが綿津見神に改め、読みやすくするため訳文にした。 社名改称のことは一般には知られていない。土地の人は現在でも八龍宮または八龍神社とよんでいる。
 山内に海神が祭られている不審は前記の由緒によって氷解するが、このほか、少彦名命・淀姫神など海に関係の深い神々が数多く祭られているところをみると、三瀬山内には海を渡ってきて定住するようになった人々が多かったことを示すものであろう。
 祭神の綿津見神は、上津綿津見・中津綿津見・底津綿津見の三柱の神で安曇連の祖先といわれ、志賀島を本拠とした海人族が祖神として斎き奉った神である。
 また、綿津見神のいるところを綿津見の国と言い、ここが龍宮城の所在地であるという説もある。
 このように八龍宮は海上鎮護の神として祭られ、伊勢参りやカミマイリをするときには海上の安全を祈願する人々も多かった。

 祭神の龍田大神については、明治14年に記録された長崎県庶務課誌の三瀬村誌の部に提出されているので近代になって合祀されたものであろう。以下略載。


三瀬村に藤原地区が在ること自体、後の藤原(阿蘇氏)が筑前肥前国境を管制高地として重視していた表れでしょう。肥後に龍田山があり、阿蘇の入口に立野の大峡谷が在るように、草部吉見=風神を祀る祭礼が奈良に持ち込まれてもいるのです。「龍田の神を立野に祀る」(「日本書紀」)明治により漸く藤原の呪縛から解かれた訳です。

川上 猛誅伐の恨みが藤原地区に齎されている事は背後に八咫烏がいたと阿蘇氏も知っていたので

すね。では、最後の勝玉神社です。

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所在地佐賀市三瀬村宿 ■年代近代 ■登録ID1324


社号 勝玉大明神
  祭神 神代勝利、合祀・宿七郎神
 明治8年(18754月、城山三瀬城趾に石祠を建立して、旧領主神代勝利を祭神として祀り、勝玉大明神と号したのが、この神社の起源である。社号は観音禅寺住職大輪和尚の書になるという。
古老の口碑によればこの石祠建立のときには、その運搬のために山内山外の旧神代氏領一円から多数の人々が積極的に参加協力したといわれ、往時の勇将神代勝利の仁徳が如何に偉大であったかがうかがわれたという。
 その後、明治23年(189047日、宿部落民一同によって、城山の麓の登りロに勝玉大明神の社殿を新築落成して神代勝利の霊を迎えて祀り、宿七郎神を合配した。

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三瀬の人にとって戦国時代の一番の英雄はなんといっても神代勝利公でしょう。その居城は三瀬城であり、宿はその城下町です。勝玉神社は無事ですが、昭和38年(1963年)観音寺が焼けたのは残念でした。
 三瀬城は、その昔登ってみた経験から言うと、縄張りは連郭式。曲輪の配置が本丸の目の前に二の丸がある、という形ですが、曲輪自体はさほど大規模ではありません。ただ、関東は土塁主体であるのに対して、関西(九州)らしく石垣がしっかりあるのが特徴かと思います。
 神代勝利公は、龍造寺・鍋島と戦いましたが、その支配圏は尼寺の南にまで及んでいました。元々北部九州の主と言えた少弐を担いでいたわけですが新興勢力の勢いには抗しがたく二回に渡って山内を追い出されましたが、最終的には復帰し、畑瀬に閑居して息子の長良に後を譲り、永禄8年(1565年)、畑瀬城に没しました。彼を葬った宗源院は、嘉瀬川ダムの都合で墓もやや上ったところに移されていますが、当時の佇まいは残っているようです。(以下略載)2023510日 嘉村孝 (三瀬出身。東京で「葉隠フォーラム」という名の歴史学者参加の勉強会を主宰。毎月開催で250回を数える。)http://hagakurebushido.jp/

普通は神社に見えないもので、最近まで知りませんでしたが、高良の大祝の後裔であり、九州王朝の本拠地の一つ高良大社奪還のために死闘を繰り広げた神代勝利公の名を遺す神社です。

但し、彼は竜造寺氏と死闘を繰り広げた戦国期の人で、勝玉神社の底流には豊玉彦が祀られている可能性が見て取れるのです。それは旧三瀬村井手野に玉里神社が存在することにも表れているのです。神代勝利は、山内に盤踞し、国東半島に逃げた九州王朝系氏族などにも呼び掛け最後まで戦いましたが、最終的には鍋島氏の臣下として明治以降もその一族は続きます。


神代勝利 神代氏は、武内宿禰の後裔とされ、高良大社の大宮司である物部氏から分かれた、かつては熊代と書いたのを神代に改め、高良大社の大宮司を務めた名族。父の代に没落し、肥前の千布村に流れ着いた。幼い頃は、千葉興常に養われる。(中略)その後、三瀬城主・野田宗利(三瀬宗利とも)に請われてその剣術師範となり、やがて弟子は500名に達する。三瀬を含む山内(神埼市佐賀市小城市の北部の山地一帯)の豪族らは、山内二十六ヶ山(山内を治める26の豪族の意)を束ねる人物を求めていたのであるが、野田宗利らが勝利をそれに推挙したため、二十六ヶ山の総領となった。ちなみに、天文17年(1548)頃は「武辺(もののべ)氏」とも称していた[2]。                 ウィキペディア20250411 14:13による


無題.png神代勝利に関しては、10年ほど前に、山内の指導者として担がれる話、竜造寺氏との激闘を綴った話を当時ネット上に出ていた話を読み、「山内の鷲神代勝利佐賀戦国武将物語」に目を通した程度ですが、自分の対象が神代〜古代であるため、それ以上は深入りはしていません。

 ただ、この勝玉神社が鎮座する宿と長谷山観音寺跡には非常に関心を持っています。紙数の問題で簡単にしか書きませんが、かつて、九州王朝論者で「法隆寺は移築された」を書いた米田良三氏が、遠路、足繫く三瀬村に通い、「長谷寺」を書き、「源氏物語」「枕草子」「和泉式部日記」…は、三瀬村と太宰府などを舞台に書かれているとしており、そのことを伝え聞いていた神代一族は長谷山観音寺を再建したものだったとまでしているのです。


建築家、古代史研究家。1943年三重県松阪市に生まれる。1968年東京工業大学建築学科卒業。建築から日本古代史を見直す研究をつづける一方、古代建築の基礎構造をヒントに耐震技術の開発を行っている

九州王朝の時代、柿本人麻呂も含め三大女流歌人も時代が異なり、平安朝の歌人としてリライトされており、本来は九州王朝の宮廷歌人だったとしているのです。
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米田先生は電話で一度お話した切りでしたが、本当に凄い建築者であり、古典文学にも精通した方でした。上の図の黄色の円内の山にかつて空中回廊を持つ本物の長谷寺があったのです。…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ