2025年05月29日

先行掲載 ひぼろぎ逍遥(跡宮)246 新ひぼろぎ逍遥 1105 川上 猛 早良避退ルートを探るトレッキングへの企画書の(再掲載)中

先行掲載 ひぼろぎ逍遥(跡宮)246

新ひぼろぎ逍遥 1105 川上 猛 早良避退ルートを探るトレッキングへの企画書の(再掲載)

20250409

太宰府地名研究会 古川 清久


近稿を再掲載した理由は41日午前に合計3名で下見のためのトレッキングを行ったからでした


少人数でトレッキングの下見を行ったのは、それほど多くの決め手とか痕跡が残っているとは思えない上に、大して見栄えのする神社があるとも思えないためでした。

こういった場合は、実際に関心を持つ地元の方とか、それなりに関心を抱く方しかお呼びできないと考えたからでした。また、少数ならば、天気さえよければ直ぐに調査に入る事ができるからでした。

 実のところ、かくいう私も佐賀県出身者ではあるものの伊福地区まではニ〜三度入ってはいるものの、同地から旧三瀬村の三瀬地区へのルートに入っていないため、現地の半分を知らないのでした。

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旧脊振村の役場が置かれた広滝から脊振山を福岡市早良区に入るルートは、3方向考えられるのですが、白木川沿いに向かうルートは距離が延びるため現実的には考えられないと思い外しました。

 無題.png現在から推測できる人口稠密地は青線で示す一番ケ瀬ルートですが、伊福を目指す赤線で示すルートでした。どちらも可能性があると思いますが、必ず伊福を目指したと思うのは、討伐した側のオウス命=ヤマトタケル(後の日本武尊)の出自が金山彦系だからです。

 勿論、一番ケ瀬ルートは主要ルートでこれまでにも何度も通っていたからでもあったのですが、この点は山勘と言えばその通りで、直感は否定できないのです。 右は琵琶湖の北の伊吹山 右矢印1

 伊福集落に拘ったのは、後のヤマトタケル=日本武尊の伊吹山のイメージがあったからです。

 鼻高々な凱旋を考えれば、彼らにとって、乱暴者の川上 猛を召し取った…と吹聴し、以後、彼の乱暴狼藉は無くなると宣伝したはずと考えるからです。以下の左の系譜は通説のもので、ウィキペディアで検索した日本武尊 伊吹山で検索した(20250403 08:23)ものによる。対して、右は我が百嶋由一郎最終神代系譜ですが比較してください。天武系を卑劣な方法で権力を簒奪し成立した天智系天皇制による都合の良い「日本書紀」による系譜は当然ながら偽装されているのです。

 九州王朝の初期を支えた金山彦系の後裔=ナガスネヒコの妹(オキツヨソタラシヒメ)を戦利品の

如く妃にした草部吉見に対する恨みを忘れなかった孫のオウスノミコト=ヤマトタケル(後の日本武尊)の阿蘇氏への恨みを知った八咫烏系が川上 猛=曳いては阿蘇系の排斥を狙ったのではないかと考えているのですが、ヤマトタケルの出自が金山彦系であったと分かれば、「伊福」を通過したとの推定に蓋然性が浮かび上がってくるのです。

 九州には、梶原、梶山、芋川、妹川、伊福、福山、帆足、多々良…といった製鉄、鍛冶、鋳物、金吹き…つまり製鉄に関わったと思われる姓を持つ方が多数おられます。特に伊福姓は後に耳納山系のうきは市に移動したと考えられており、これも現在は旧浮羽村出身で、現在平戸市在住の伊福さんからお聴きした話なのですが、旧浮羽町には10人を超える伊福姓の方が居られ、皆鍛冶屋だったと満

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日本武尊が景行天皇の子だとか応神天皇が神功皇后の子だとか好い加減にして欲しいですね。


州から戻った父から直接聴いたと教えて頂いたことがあります。もう二十年以上前の話です。

 恐らく、背振山南麓の神埼では冬場に北西の風を受け難い事から耳納山系に移動している様なのです。そして、脊振山系には金山彦の金山もあるのです。

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先に申し上げた通り、金山彦系の大和猛命=倭建命は後に滋賀県の伊吹山に向かったとしています。

実に面白い事に、伊吹山の麓には織田信長と浅井長政が激戦を繰り広げた講談でも良く知られる姉川の合戦の「姉川」があり、その上流の支流には「妹川」までもがあるのです。

もう現地を訪れたのは10年近い昔の話ですが、その際に合流部も確認していました。

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3姉池と妹池の民話 旧伊吹町に伝わる民話では,北部の曲谷に流れる 川の上流に姉池があり,それが姉川の名前の由来で あることを示し,妹池から流れる草野川を妹川と呼 ぶとしている.内容は次のとおりである. ・七尾山北方の温見が岳の尾根には姉池と妹池と いう二つの池がある. ・姉池というのは,唐の姉龍が住んでいる池に似て いることから名づけられた. ・姉池には水があるが妹池には水がない.昔は妹 池にも水があったが,この池の畔に住んでいた大 きな蜘蛛を退治してからは水がたまらなくなった. ・姉池は曲谷へ流れ,妹池は草野川の方へ流れるの で,姉川,妹川の名前が生まれた. ・曲谷では昔から,雌の龍の旗を立て,頭に一升枡 をのせ,ゆきばかまをはき,布一反をひきずって雨 乞いをしたという. また,さらに上流の甲津原には現在でも姉池と呼 ばれる池があり,二人の姉妹がともに同じ若者を慕 い,二人ともそれぞれ別の池に身を投げ,それが姉 池,妹池であるとする昔ばなしが伝わっている.こ れらの昔ばなしは民話「姉川と妹川」に二人の姉妹 が登場する基になったと考えられる. その他,伊吹山と七尾山の山腹に池があり,二人 の姉妹がそれぞれの池に身を投げ龍となって水を琵 琶湖に流し,それが姉川,妹川となり,その沿岸は肥 沃な土地となったとする昔ばなしも伝わっている.


そして、旧脊振村を降り、神埼市中心の平野部に降りてくるとJR長崎本線の佐賀駅の手前に伊賀屋駅がありその東に神埼市神埼町姉川地区が在るのです。

私はこの事を部分的にも知っていた事から、日本武尊は神埼から伊吹山に行っているのであり、伊福と同じ製鉄地名を残したと思っている訳です。

 笑いたい方はお笑いになって一向に差し支えありません。神埼市に姉川地名は在るのですが、妹

川は見つかりません。そのうち、「明治前期全国村名小字地名調査書」(内務省)を調べてみたいと

はまでは考えています。もし在るとすれば旧脊振村の可能性は高いのではないでしょうか。

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無題.pngまあ、旧脊振村の伊福地名が金山彦系の製鉄地名で、ヤマトタケルの伊吹山に関係があるのではないかというとんでもない話をしている訳ですから同情されて構いませんが、神埼市役所の正面には櫛田宮があり、神埼荘 総鎮守 櫛田宮祭神は、櫛稲田姫命、須佐之男命、日本武命を祭神としています(金山彦、長髄彦は隠れてます)。

 この神社は博多の櫛稲田姫の母親を祀る櫛田神社とは異なり、櫛稲田姫の父方を祀る神社です(ただし初代神武天皇=カムヤマトイワレヒコに敵対した長髄彦の関係から表向きは祀ってはいないのですが)の本来はイスラエル系の金山彦を祀る神社なのです。だから平家の貿易拠点にもなっているのです。

その末裔が日本武命と分かれば、神埼市に合併された旧背振村に川上 猛を誅罰したオウスノミコトがおり、白角折(オシトリ)神社を拠点に旧大和町の川上峡の淀姫神社付近に居た川上 猛へのテロ攻撃を行った事は十分に有り得る話なのです。そして、恐らく同族と思われる金山彦直系の神社である八天神社、オウスノミコト(日本武尊)外協力者の吉備津彦などの出撃拠点となった白角折神社、須佐能(長髄彦の父であり櫛稲田姫の夫神である)を祀る倉岡神社、そして神埼市役所正面に鎮座する櫛田宮が展開する神埼市とは正しく草部吉見への恨みを持ち続けた金山彦系(ヘブライ系=イスラエル系)の拠点となった地域だったからこそ、後に平氏(京都府京都市右京区:大酒神社〜太秦こちらもイスラエルともユダヤとも言われていますね)の日宋貿易の拠点となったのです。エルサレムそのものが平安京とか平和を意味しているのです。

そもそも、川上 猛が何処の何者であるかが分かっているが故に、藤原氏の先祖である阿蘇氏の不祥事を隠している内に当の本人達も真実を忘れてしまい、どうせ、日本武尊の熊襲退治なのだから鹿児島辺りの話であろうとしてしまっているのが、今の情けない古代史と言うより神代史への理解の実態なのです。

 そう言った中で、誅殺されているはずの川上 猛が、実は鹿児島ならぬ佐賀県の川上峡温泉の一角を拠点に交易を行っており、長髄彦を誅殺した実行犯の可能性のある草部吉見から5代降った川上 猛への誅伐を行い、実際にはその阿蘇氏の本流である重要性が在るが故に許され、脊振山を北に越え、その阿蘇氏の跳梁を恐れた可能性のある八咫烏系(カミムスビ神の息子)の末裔の一族が背後で操り、恨みを持ち続けたオウスノミコト外数名のテロ・グループが実行し、勝利の中で福岡市早良区の某所に移送され、その地からの移住も禁止された可能性が在ると思われるのですが、この衝撃的な事実を伝える必要性が在るとしてとんでもない話をしている訳です。

 増してや、その移送(それも推定でしか無いのですが…)のルートを探ろうと言うのですから、とんでもないと言うにも程のある話な訳なのです。これについては新ひぼろぎ逍遥から以下を…


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もしかしたら風三郎神社と宮沢賢治の風の又三郎には関係が

あるのではないか…と考えたのですが?

1073

諏訪の建御名方命と八坂刀売とは如何なる方々なのか ?

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長野県の伊那谷の中川村に風三郎神社が存在する背景とは何か ?

1071

天竜川流域=伊那谷に高森町(下伊那郡)があり、中川村

(上伊那郡)に風三郎神社があった


をお読み頂きたいと思います。

阿蘇系の末裔に対する敵愾心が金山彦系に継承されたかの背景を探っています。

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大雑把に言えば黄色い神社が金山彦系であり、私には、櫛稲田姫の母である埴安姫(豊玉彦=八咫烏の淑伯母)と思われる神社が青枠の神社です。どう考えても川上 猛の誅伐には八咫烏系が裏で操った様に見えるのです。ただ、これらは北部九州全域で起こった神代の大事件の全貌が見えなければ推定もできないのです。それにお付き合いできない方にはやはりご理解頂けないと思います。


そして、九州王朝の初期を背後で支えた金山彦系と周王朝の末裔(つまりイスラエル系)の正統皇統の呉の国の太伯王の後裔、初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)が衝突した事件は悲劇的な出来事でした。言わばイスラエル系同志で争いが生じたことは、前後関係は不明ですが、神武天皇の正妃であった吾平津姫(櫛稲田姫とは異なる大山祇の姉の大市姫=臙脂姫との間に生まれた)が恐らく子育て問題で衝突し、神武東征ならぬ神武巡行に旅立った狭野皇子=後の神武と金山彦の娘との衝突が起こり、金山彦と呉の太伯王の末裔との亀裂により、吾平津姫が神武と別れ、阿蘇の金凝彦(後の藤原は第二代綏靖天皇としていますが、実は「蘇民将来伝承」の巨肝将来なのです)。

藤原がやったことは、呉大伯王の末裔の周王朝の正統皇統のイスラエル系の天皇の後として血の繋がりも何もない民族も異なる(阿蘇氏は黎族ですから)人物=神沼河耳(龗神)を第二代に据えているのです。

 ここに至っては、男系男子の皇統など飛んでしまいますよね…。どの口が…お笑い種です。

 ただ、欠史八代(初代神武は本物として残してこの中には入れていませんが、それこそ良いとこ取りでしょう…)の中に、正統皇統の呉、周の末裔の天皇は、威徳、孝霊、孝元、開化(高良玉垂命)、仁徳までの神武を含め6代が本来の正統皇統天皇であり、神武僭称崇神(ハツクニシラススメラミコト)などは、開化の臣下として四道将軍としての指揮を執っただけで、初代神武は崇神としたのです。

 ほとんど漫画の世界なのです。

逆に開化天皇の正妃(皇宮皇后)は逆に九州王朝では天皇位に就ついている痕跡が在るのですが


百嶋由一郎最終神代系譜からマトタケル熊襲退治の背景を考える


 無題.png右の神代系譜をご覧に成れば、川上猛がどのような人物であるかお分かり頂けるでしょう。

 この神代系譜は久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」を基礎に百嶋由一郎が亡くなる前に書き残した最後の系譜ですが、

草部吉見と高千穂に居た高木大神の次女タクハタチジヒメの間に生まれた阿蘇ツ姫と現阿蘇神社の主神建磐龍(草部吉見の弟)の間に生まれた雨宮姫の娘=奈留多姫(後に建御名方の妃=諏訪の八坂刀女となる)と久留米の高良大社の王族とも言うべきウガヤフキアエズの間に生まれたのが兄の河上 猛であり、妹の淀姫(京都の伏見淀姫神社の元宮が川上淀姫神社)だった

のです。

 このことから河上 猛が久留米の高良大社の戦闘集団として重要な役割を持っていた阿蘇氏の本流の一族であったことがお分かり頂けるでしょう。

一方、最初に掲載した同じ百嶋由一郎最終神代系譜を見て頂くと、イスラエル系の金山彦(足名椎)と博多の櫛田神社の大幡主の妹埴安姫(手名椎)との間に生まれた櫛稲田姫とヤマタノオロチ退治のスサノウとの間に生まれたのが初代神武天皇と衝突した長髄彦の妹のオキツヨソ足姫だったのです。

 ナガスネヒコの乱以降なのでしょうが、その金山彦系を討伐した主力が草部吉見だったからこそ、その妹を妃としているのです。結果、天足彦=天足彦国押人命が生まれているのです。


ウィキペディア(20250408 18:09)で 天足彦国押人命 を確認しますが、


天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本皇族。『日本書紀』では「天足彦国押人命」、『古事記』では「天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと[1])」、他文献では「天足彦国忍人命」とも表記される。『日本書紀』『古事記』とも、事績に関する記載はない。5孝昭天皇皇子、第6孝安天皇の同母兄、第7孝霊天皇の外祖父である[1]和珥氏(和邇氏/丸邇氏)・春日氏小野氏ら諸氏族の祖とされる。


5孝昭天皇皇子と、とんでもないことに阿蘇氏の草部吉見が(勿論、後の藤原が元は阿蘇

氏だからですが)自ら褌を占め厚かましくも第5孝昭天皇に成り上がっているのです。

それが萬世一系とか藤原が造りでかした系図なのです。記紀聖典とか言っている訳で漫画ですね。

そんなことは最早どうでも良いのですが、その天足彦の子がヤマトタケルになるのであり、草部吉見が戦利品として扱かったオキツヨソ足姫を孫のヤマトタケルがどのように思っていたかは、熊襲退治に依って明らかになっているでしょう。

草部吉見への恨みが河上 猛に向けられたのです。ただ、注意を要するのは、それでも金山彦の血統はオキツヨソ足姫によって血統は守られ、存続を許されたとは言えるのであり、その点が、中国や朝鮮などとは異なるのであり、逆に、河上 猛も誅殺される事なく許されているのです。

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これらの背景を探るには、佐賀(佐賀市旧大和町、脊振村)〜福岡 福岡市早良区〜大分(豊後大野市)〜熊本県高森町 と探り続けた、パワー・ポイントなり、対応ブログをお読み頂きたいのです。

 まあ、今回のテーマは何処の話とも特定されていないヤマトタケルの川上 猛(熊襲)退治の舞台が佐賀県の有明海最奥部の脊振山山麓の川上峡(嘉瀬川河口)の話であり、誅伐したヤマトタケルの本拠地も佐賀市の東隣の神埼市であり、しかも脊振山南麓の旧脊振村の伊福辺りで製鉄を行っていた集団=金山彦と博多の櫛田神社の大幡主の娘=埴安姫との間に生まれたナガスネヒコの妹の孫の世代によって引き起こされているという事までを描いているのです。

 では、その根拠はと言われれば、辛うじて、旧「大和町史」、「健福寺の寺報」、熊本県の九州王朝論者の故)平野雅(日+廣)「倭国史談」など僅かに記録に書留められているに過ぎないのです。

これ以外の比較的権威のあるものとしては、佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告」の一部に、オウスの命が佐賀市鍋島町の有明海の波の洗う蛎久地区の現蛎久天萬宮辺りに上陸した時の伝承が何故か書き留められており、戸数3千、商家軒を連ねる九州随一の都会だったと…とあり、平野先生もそれを引用されていたのです(詳しくはP.P.及びブログをお読み下さい)。

 しかし、私にとってはゴルフ場建設のために移転した健福寺の元寺跡地付近で、当研究会の佐賀県在住者のメンバーのM氏がゴルフ場建設工事中の現場で、残されていた川上 猛の墓の墓誌が存在していた標柱を数十年前に偶然見ているという話を直接聴き込んだ事に強い信憑性を感じたのでした。

 彼は、「古事記」「日本書紀」を一応全部読んでおり、それだけに確実な話だったのです。

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無題.pngて、そろそろ(中)の紙数が限界に来ていますので、脊振の広滝で許された河上 猛の移動ルートを、何故、脊振村の伊福を通過したと考えたかに入ろうと思います。

オウスノミコトの故地と推定している伊福地区へと向かったと考えたのは河上 猛を誅伐したことを伝え言わば凱旋したかったと考えたからでした。

そこで、頭に浮かんだのは滋賀県舞原市の伊吹山でした。つまり、伊福という製鉄地名の移動でした。そもそも、滋賀県の滋賀は福岡市正面の志賀島の海人族が移動琵琶湖に移動した事により派生した地名であり、長浜市も米原市も福岡市の長浜と糸島半島の旧前原市(現糸島市)の移動であり、琵琶湖の湖西に旧安曇川町が在った事も安曇族の移動を意味しているのです。安土桃山時代の安土城も、安曇の置き換えですね…。

 無題.pngそして、ヤマトタケルの子が通説でも仲哀天皇(我々は贈る仲哀としますが)とされ、そのお妃であった神功皇后の出身地とされる一族の墓なるものが米原市に在ることも確認しました。当然、後に創られたものとは考えてはいますが、それはヤマトタケルの伊吹山への進出とも関連しており後世に創られているのです。

 そのように断言できるのは、佐賀県の旧脊振村の西隣の旧三瀬村(現佐賀市)には、神功皇后を祀る野波神社が在り、更にそれに留まらず、神功皇后の両親を祀る神社が在る事を知っているからなのです。特に、神功皇后の両親を祀る神社など全国を探しても無く、この下ノ宮に雪を踏み分けて五年程前の二月の非常に寒い時期に当会の神社トレッキングとして訪れた時は非常に感激した記憶が有ります。



 そもそも、仲哀死後の神功皇后は、久留米の高良大社で天皇位に就いた高良玉垂命=藤原が後に、第9代開化天皇としたのですが、三韓征伐など九州王朝最大の功績を残した天皇で、神功皇后との間に長子で後の仁徳天皇(オオササギ…九州ではシレカシノミコト)となる聖帝を設け、朝日豊盛、暮日豊盛…と五人の実子を設けているのです。仁徳帝が贈る応神の子など近畿大和朝廷が造った大嘘でしかないのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ