2025年05月28日

先行掲載 ひぼろぎ逍遥(跡宮)245 新ひぼろぎ逍遥 1104 川上 猛 早良避退ルートを探るトレッキングへの企画書の(再掲載)上

先行掲載 ひぼろぎ逍遥(跡宮)245

新ひぼろぎ逍遥 1104 川上 猛 早良避退ルートを探るトレッキングへの企画書の(再掲載)

20250128

太宰府地名研究会 古川 清久


近稿を再掲載した理由は41日午前に合計3名で下見のためのトレッキングを行ったからでした

話はひぼろぎ逍遥(跡宮)A1085「神代の浜辺、足跡を辿る」の転載 “東京都府中市 瀧神社”#319番外・多摩川に行ってみよう1瀧神社 20241230 から〜瀧神社 県別調査 @ 佐賀県編

まで遡ります。

 ここまでの作業で、この瀧神社の分布が九州ではどうなっているかを調べて見たくなったのでした。

 既に、九州全域では大体の分布は分かっていましたが、気になる地域を詳しく調べたかったのす。

 まずは、私の出身地の佐賀県から始めます。小さな県ですから数はないと思っていましたが、納得します。既に二度ほど参拝していましたが、兼大明神(広滝神社)となっていたので、以前は気付きませんでした。ご覧の通り神埼市に編入される前の旧脊振村の役場のあった中心地です。

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地図をご覧の通り、旧背振村の広滝の広滝神社が佐賀エリアと言うより、神代に於ける肥前(佐賀、長崎)の中心地の広瀧神社=瀧神社だったのです。皆さんにこの感動が伝わるでしょうか。

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無題.png当ブログを丹念にお読みになっておられる方にはお分かりかと思いますが、熊襲 猛を誅殺ではなく誅伐し許した現場の神社だったのです。

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旧脊振村広瀧の 廣瀧神社

 カーナビ検索 佐賀県神埼市脊振町広滝559-1

吉備武彦も川上 猛へのテロ部隊のお一人なのでしょうが、私も随分前に吉備神社と併せ一度参拝しております。岡山の総社の吉備津彦神社の関係者です。

無題.png当社は大吉備津彦命を主神とし、その異母弟の若日子建吉備津日子命と、その子吉備武彦命(キビタケヒコノミコト)、一族の神々を合わせ祀っております。大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子にあたられ、もとのお名前を五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)と申し上げ、武勇の誉れ高いお方であられます。

一説によりますと、第十代崇神天皇の御代、災害もなくなり天下もようやく治まってまいりましたが、都から遠く離れた地方には未だ朝廷に従わない者が多数おりました。そこで天皇即位十年に皇族の中から四人の将軍を選び、印綬を授け各地方に派遣し討伐することとなりました。すなはち、北陸道には大彦命(オオヒコノミコト)、東海道には武渟別命(タケヌナワケノミコト)、丹波には丹波道主命(タニハノミチヌシノミコト)、そして西道(後の山陽道)には大吉備津彦命が派遣されることとなりました。吉備津彦命と異母弟若日子建吉備津彦命は兵を率いて山陽道を進軍し、まず播磨国に達してここを「吉備の道口」と定められ加古川の畔で神祭を行っております。 同社HPより

 跡宮版だけでもこれぐらいはありますので、一から読むのは大変です。手っ取り早くは、10561055 を読まれれば、佐賀⇒福岡早良区⇒大分県豊後大野⇒熊本県高森町野尻川上神社へと誅殺を免れ(広瀧で許され)脊振を越え福岡市早良区に落ち延びた川上 猛の一族が今も纏まって住んで居られ、末裔の一族その分流か末裔かが後の阿蘇大蛇伝説の大神一族となり、最後にその出身地が高森町の野尻川上神社一帯であったと解かると思います。


 ひぼろぎ逍遥A(跡宮)

1070

川上 猛の「川上」は高森町の川上山、川上(城)に由来していた!

1056

8.188.25 川上 猛の生誕地を探る高森町トレッキングへの配布資料

1055

8.188.25 川上 猛の生誕地を探る高森町トレッキングへの配布資料

1054

川上 猛の妹淀姫=豊姫は…高良玉垂命の妃 探求編

969

河上 猛の墓所の痕跡は見出せなかった


936

ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも

行います ⓫

935

櫻に埋もれる佐賀県有田町の山田神社について

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような

土地だったのか?下 ❿

933

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような

土地だったのか?上 ❾

932

早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

927

大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向け

に用意したレジュメ ❹ 

925

福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々の

ご出身地を知りたい ❸ 

924

福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が

住み着いた現地を確認した ❷

923

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され

今もその一族は福岡市早良区に住んでいる❶

無題.pngこれでも川上 猛の話の34割程度です。

もしも詳しく知りたい方がおられたら、後は検索して見て下さい。次のパワポは全て網羅しております。希望される方はこの4つのパワー・ポイントを全て網羅した4部作をお送りできます。必要な方は090-62983254までご連絡ください。

 ここで、川上 猛 誅殺ならぬ誅伐の拠点となった同じく神埼市の神社を再度掲載しておきます。

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白角折(おしとり)神社は、創建年代は定かではありませんが、貞観15年(西暦873年:平安時代)に、従五位下を授けられた由緒ある古社です。城原川が谷より平野部に流れ出る水口の川沿いに位置しており、川(水利)を治める重要な地点に鎮座して、高志宮、櫛田宮とともに神埼荘の三所大明神として崇敬されています。

祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)です。

「おしとり」の由来と、武神ヤマトタケル白角折と書いて「おしとり」。なかなか読めないですよね。

白角折(おしとり)の名称は、日本武尊が熊襲征伐のときに白角折神社から的に向かって矢を射たという伝説から幣作りのおしとり部と関連があるという説、西方の国を制圧するときに鳥が白い角を持ってきて、戦況が有利になったことから「おしとり」と呼ぶようになったという説があります。

歴史的には、7世紀頃、大和朝廷は朝鮮半島の緊迫化により、九州に多くの軍事的部民(*1)を配置しました。神埼町竹原地区は、かつて戊久米里(つちのえくめり)と呼ばれ、その時代背景と、地名の久米から、軍事的部民の久米部の存在が推定されています。神社に近接する的(いくわ)という地名の由来も、軍事的部民的部との関連が考えられることから、武神としての日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がお祀りされたのではないでしょうか。1 朝廷や豪族に隷属し、労役や生産物を貢納した人々の集団

無題.png白角折神社の現在

白角折神社は、明治44年に仁比山神社に合祀され、御神体は仁比山神社に移されました。

また、幕末までは神楽が奉納されていたそうです。

現在は、朝日地区の人たちの手で管理されていて、年に一度の夏祭りが盛大に行われています。

 当会も、78年前に同社周辺の神社トレッキングを行っています。俗にヤマト・オグナによる熊襲 猛の出撃拠点が神埼であり、猛が居た場所が旧大和町(現佐賀市)の嘉瀬川河口(古代には有明海の最奥部ウヲーターフロントはこの地だったのです)川上峡の一角、現)淀姫神社の西、大願寺一帯だったのです。まさに、谷川健一の「白鳥伝説」の世界ですが、彼はこの神社を訪れていたでしょうか?さて、話はここから始まります。

廣瀧神社=兼大明神白折角神社も不思議にデータが出てきません。

大正15年の佐賀県神職会による「佐賀県神社誌要」を平成7年に復刻した同名の「佐賀県神社誌要」という非常に調べ難い(使い辛い)資料にも、何故か、この2社は掲載されていないのです。

これは、不思議極まりないもので、この重要な二つの神社が消されている事も関係しているのかも知れませんが、既に80年以上が経過しているため調べようもないのです。

この広瀧を流れ下る城原(ジョウバル)川の上流の水系の一つにも「荒瀬の滝」があります。

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無題.png初め、佐賀県では鳴神の庄の在る旧七山村 現唐津市の方かと考えていたのですが、まさか、川上 猛(熊襲 猛)を助命した現場の旧脊振村中心地の広瀧の兼大明神(別名:廣瀧)が、タギツ姫=瀧ツ姫=鴨玉依姫とは直前まで思いつかなかったのでした。それもこれも、「佐賀県神社誌要」に搭載されていなかったからでした。

そもそも、白折鳥(オシトリ)神社と廣瀧神社とが

同誌には搭載されてないのですから気付かなかったとしてもお許し頂けるのではないでしょうか。

後の日本武尊を祀る白折鳥(オシトリ)神社の正面にも金山彦系の八天神社(県内には3社)が在りますし、そもそも神崎市役所正面にも、金山彦の娘の櫛稲田姫を主神として祀る櫛田宮も存在するのです(こちらはそもそも移転する前の旧神埼町役場そのものが同社に隣接して存在していたのですから)。多分、佐賀県神職会も収拾が着かなかったため搭載を避けたのではないでしょうか。

まあ、この手の話は想像するのは面白いのですが、「SUN」ではないので、止めておきましょう。

 では、ここから重要な話をしたいと思います。それは、この脊振村の広瀧神社が八咫烏直系の鴨玉依姫=瀧ツ姫だったと解った途端、川上 猛を討伐した裏の勢力が白族=カミムスビ系の八咫烏だったのではないか?という衝撃の推定が可能になってきたのでした。つまり、阿蘇家と八咫烏の対立(カミムスビVSタカミムスビ)です。

 無題.png櫛田宮と言えば博多の櫛田神社としかお考えにならないかも知れません。

ただ、それは一面であって、櫛稲田姫にとって博多の櫛田神社はカミムスビ=大幡主系の妹埴安姫の兄である母方の櫛田神社でありその一面でしかないのです。

対して神埼の櫛田宮は櫛稲田姫の父である金山彦系の神社なのです。

簡単に言えば、博多の櫛田神社にはヤマタノオロチ退治によって櫛稲田姫の夫となった素戔嗚尊が祀られ、櫛稲田姫が主神として祀られているのではないのです。従って、神埼の櫛田神社は金山彦の直系である櫛稲田姫が祀られる父方の神社なのです。

 上図の黄円の土器山(ハジヤマ)は土師師の山であり、金山彦のお妃で櫛稲田姫の母神埴安姫の意味があるのです。その直下に八天神社があり、その直ぐ目の前に白角折(ヤマトタケル)神社が在るのですから、神崎市とは金山彦系の国だった事が分かるのです。そして、その上の脊振村の中心地に廣瀧神社があり、八咫烏の実子の娘である鴨玉依姫が祀られているのです。

 これが、ヤマトタケルの熊襲 猛退治の背後には八咫烏が居たと言っている構造なのです。

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「イカコヤ、イカコヤといいながら案内した。イカコヤとは出雲の方言で「さあ私と一緒に行きましょう」… 多鳩神社公式ホームページ

 この二代にわたる金山彦、カミムスビのスクラムの結果、瀧神社が鴨玉依姫を祀るネット・ワークを表していることに遅蒔きながら漸く気づいたのでした。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)上 八咫烏系譜(部分)右 再掲 佐賀県の瀧神社を調べることに費やした話でしたが、右の通称八咫烏系譜の右三分の一の略図に出てくるイカコヤ姫が金山彦の娘の櫛稲田姫であり、須佐能と別れた後の櫛稲田姫がイカコヤ姫と呼ばれているのです。つまり、八咫烏が庇護した金山彦の娘櫛稲田姫との間に派生した氏族が、北海道の南西部、江差+小樽(これももしかしたら尾足ですね…)函館一帯から、鹿児島まで広がる全国ネット・ワークの一部だったのです。 

皆さんも地元の瀧神社を検索されてみては如何でしょうか。必ず在るはずです。これが裏天皇組織とも言われる八咫烏のネット・ワークだったのです。瀧のある奥山は逃げやすく、攻撃されない安全な場所なのです。堰を落とせば外敵を容易に排除できるのです。水攻めを行い、梯子を引き上げ山に

逃亡できるのです。

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そこで、広滝から福岡市早良区原の諏訪神社に移り住む逃亡ルートを辿るトレッキングをやろうと思い立ちました。幾つかルートを考えましたが、あくまでも推定でやって見ることにしたのです。

始めに考えたのは直行ルートの佐賀県道305号脊振山公園線 でしたが、集落もない古代から人の住まない土地であり、ルートの様で、ここではないと思いました。

そこで、可能性が有りそうだと考えたのは、伊福集落から西に向かう46号線でした。号数が若いほど古い路線であり、少なくとも三つの神社、三つの集落が辿れるルートなのです。まずはここから始めましょう。

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確かに伊福から椎原、脇山を経て早良の中心部に入るルートは、距離は短そうですが、かなり険しく人家もないない山頂を越えなければならず、家族連れで避退するとなると人里を辿る方が安全かつ便利だったはずなのです。多分、期限を迫られ家財も運ぶ移動になり、ニ日か三日の行程とはいえ藪を搔きわける道は避けたはずなのです。それこそ雨でも降れば命も危ぶまれる事にもなるのです。

そう考えると、西の三瀬ルートには人家もあり、前述の三社つまり三つの里を辿れば良いため、比較的傾斜も緩くまだ楽だったと考えるのです。勿論、三瀬峠は越えなければならないのですが。

 無題.pngこのルート上に在る神社を考えると、多少、面白いことに気付きます。

勿論、現在の神社から古代を見通している訳ではあり、どれほどの意味が在るかは妖しい限りですが、先に展開した通り、川上 猛討伐の背後に居たのは八咫烏だった…とすると、早良に送り込むとしても、彼らの息の掛かった安心できる集落を通過したであろうことは間違いなく、受け入れ易いという気がするのです。そして、

旧脊振村伊福は日本武尊=ヤマトタケルが凱旋した可能性のある製鉄の故地かも?

➊ 三瀬の井手野の玉里神社 佐賀市三瀬村三瀬994

❷ 三瀬の土師 の八龍神社 佐賀市三瀬村三瀬2183

❸ 三瀬の三瀬 の勝玉神社 佐賀市三瀬村三瀬1474

 まあ、予想通りでしたが、この三社は元より、旧三瀬村の神社は ❸ からも近いの杉神社と、杠の野波神社しか記事が無く、これらの神社を調べる手段がありません。

後は、明治の神名帳やネット情報と現場での判断、実調にしか頼れません。


➊ 里神社:

無題.png社号 玉里大明神・(別名)玉里七郎神 祭神 少名彦命・十城別王・神代勝利神社境内の石碑には次のように刻まれている。(表面) 祭神 十城別王

建永元年1216日創建 距今713

号 玉里七郎神 大正7127日改築 (側面) 大正8916日建碑

 なお、鳥居額には玉里大明神と刻まれている。

 鎌倉時代の建永元年1206)の創建とあるが、口碑にはそれ以前にもっと上流の一谷に近い処にあったが、洪水山崩れにあい現在地に流れついたのでここに再建されたと伝えられている。

 祭神は十城別王だけになっているが、神社明細帳には祭神少名彦神と記されている。

 また、神社由緒調の当社々伝には祭神 神代勝俊第83代土御門天皇建永元丙寅十二月当社ヲ創建シテ井手野村ヨリ具座村迄六十余戸ノ氏神トス。而シテ元ハ玉里神社卜号ス。

とある。神代勝俊とあるのは神代勝利のことであろう。しかし勝利は建永元年よりも300余年後の永正8年(1511)に生まれているので創建当時の祭神は神代勝利ではなかったわけで、神代勝利はずっと後に合祀きれた神である。このように民俗の信仰は時代の変遷とともに変わっているが、少名彦命・十城別壬・神代勝利という3柱の祭神が当神社に祀られたことはまちがいない。以下省略

❷ 神社

社号 八龍宮 祭神 綿津見神・龍田大神 明治4年に提出された神社調差出帳には次のように記録されている。「人皇38代天智天皇の御代大職冠藤原鎌足の末孫 藤原内匠は藤原山の領主であったが、建久2年(1191)に上京するとき、海上で暴風雨にあい、船が難航してあわや沈没しそうになった。内匠は一心に八龍宮を念じ、「私がもし遅滞なく岸に着くことができたら帰国の上は領地宗廟の神として崇め奉ります」。と祈誓したところ、不思議に風波が静まって無事に岸に着くことができた。そこで帰国ののちそのときの誓を守り、翌建久34月上旬に八龍宮を造建して綿津見神(海神)を祀り、藤原山村の宗廟として崇敬し、家来の山本左京太夫貞房を神主に命じた。この地は内匠の居住地であったので藤原村とよんだと伝えられている。これまで八龍宮と称していたが、明治の御一新によって綿津見神社と改称した。」原文には和多津見神とあったが綿津見神に改め、読みやすくするため訳文にした。 社名改称のことは一般には知られていない。土地の人は現在でも八龍宮または八龍神社とよんでいる。 山内に海神が祭られている不審は前記の由緒によって氷解するが、このほか、少彦名命・淀姫神など海に関係の深い神々が数多く祭られているところをみると、三瀬山内には海を渡ってきて定住するようになった人々が多かったことを示すものであろう。
 祭神の綿津見神は、上津綿津見・中津綿津見・底津綿津見の三柱の神で安曇連の祖先といわれ、志賀島を本拠とした海人族が祖神として斎き奉った神である。
 また、綿津見神のいるところを綿津見の国と言い、ここが龍宮城の所在地であるという説もある。
 このように八龍宮は海上鎮護の神として祭られ、伊勢参りやカミマイリをするときには海上の安全を祈願する人々も多かった。

 ❸ 勝神社

社号 勝玉大明神 祭神 神代勝利、合祀・宿七郎神
 明治8年(18754月、城山三瀬城趾に石祠を建立して、旧領主神代勝利を祭神として祀り、勝玉大明神と号したのが、この神社の起源である。社号は観音禅寺住職大輪和尚の書になるという。
古老の口碑によればこの石祠建立のときには、その運搬のために山内山外の旧神代氏領一円から多数の人々が積極的に参加協力したといわれ、往時の勇将神代勝利の仁徳が如何に偉大であったかがうかがわれたという。
 その後、明治23年(189047日、宿部落民一同によって、城山の麓の登りロに勝玉大明神の社殿を新築落成して神代勝利の霊を迎えて祀り、宿七郎神を合配した。 出典:三瀬村史p724

熊代勝利をご存じない方が多いかもしれませんが、彼も久留米高良山の大祝の一族の末裔(九州王朝の末裔の一族)で、高良山奪還のために、山内(佐賀の後背地背振山中)に立て籠もり龍造寺一族と激突した)武人で現地の豪族に担がれた人物です。ただ、この神社も玉(豊玉彦の玉)が付されているのです。八龍も八大龍王=豊玉彦を意味しその娘が豊玉姫であり廣瀧神社のタギツ姫なのです

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ