ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1069 続 賀来(加来)一族とは何か
20241010
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
呉さんに引き続き加来さんがお出でになることになりました。「賀来」姓と言えば美人女優の賀来千香子 さんが良く知られています。さっそうとおいでになったのも、白のアウディを乗りこなす女性でした。呉さんについては、しばらく前に書いた 新ひぼろぎ逍遥から
1020 | 熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か? |
1062 | 呉さんが当研究会の研修所においでになりました |
を、お読み頂きたいと思います。夏になると、八木さんとか帆足さんとか珍しい名の方との接触が増えています。これらも検索されれば出てくるはずです。
前ブログ 1068 賀来一族について に於いてこのように書きました。
今回取り上げるのは、以下の黄色のマーカーの部分です。
ネット検索を繰り返していると、大変、有難いことに左の「賀来(加来)氏の研究」加来 利一に遭遇しました。
以下、250シートにもなる大著ですので、無論、全文の掲載は致しませんしできません。ただ、関心をお持ちになった方は、是非、全文に目を通される事をお勧めします。
冒頭の数葉を引用しますが、当方の決まりで青字の明朝体で表示させて頂きます。
尚、アンダー・ラインとマーキング、ボールド表示は当方によるものです。
これだけでも、賀来氏が阿蘇大蛇伝説の大神一族であることが分かります。一方、半島の新羅から入っていると考えていた佐伯氏も再考する必要に迫られています。これは後に回しますが、先ずは、賀来一族大神氏起源への端緒を掴めたことが有難かったと思うばかりです。以上引用部分
佐伯氏は半島からの渡来民とばかり考えていたにも拘わらず、佐伯氏が賀来の一族になっているという話は私にとっては衝撃であって、俄かには信じられなかったのでした。誤りはブログを先行させたことにありました。
直ぐ数葉先にはそうではいことが書かれていたのです。実に錯覚良くない良く見る宜し“ですが、今回は、それに関する話になります。
佐伯氏 天孫降臨の時に彦火瓊々杵尊を先導した天押日命(あめのおしひのみこと)を祖とし、大伴室屋の時に大伴氏から別れた神別氏族である[1][2]。王権に仕え、宮廷警備等の任につくようになった後、外敵からの攻撃を「遮(さへ)ぎる者」という意味で「さへき」と呼ばれるようになったとの説がある(歴史的仮名遣では「さへき」、現代仮名遣いでは「さえき」)。訛音として「さいき」(「さゐき」)がある。
中央伴造として佐伯部を率い、宮門警備や武力勢力として朝廷に仕えた。因みに警備を担当した宮門は、氏族名から「佐伯門」と名付けられたが、平安宮では唐風文化の影響から、「さへき」に音通する「藻壁(そうへき)門」と改められた[3]。姓は初め「連」であったが、天武天皇13年(685年)に同族の大伴氏等とともに「宿禰」を賜姓された[4]。主殿寮には殿部の一つとして佐伯部の名が残る。
著名な出身者としては中大兄皇子に従い蘇我入鹿を殺害した佐伯子麻呂、奈良時代から平安時代にかけて官界で活動し、参議・太宰帥を歴任した佐伯今毛人がいる。また武人を多く輩出し、蘇我馬子に従い穴穂部皇子を誅殺した佐伯丹経手(子麻呂の父)、征越後蝦夷将軍の佐伯石湯、征東副将軍の佐伯葛城(石湯の孫)などがいる。
今毛人の他には議政官に登るものもなく[1]、中流貴族からやがて地下官人へと没落していった。戦国時代頃までは伴氏・和気氏・百済王氏とともに、天皇即位の際などに氏爵を受ける氏族とされていた[5]。
佐伯氏を称する地下家には本草学者小野蘭山を輩出した小野家等がある。また画家で岸派を創設した岸駒は有栖川宮家に仕え、佐伯氏を称した。 ウィキペディア20241011 16:00 による

以上の他に、豊後史蹟考の系図の基となった、大神姓佐伯氏系図があるが、ともに佐伯氏は惟栄の子惟久の後とする大きな誤りをしており、あまり信頼性がない。豊前緒方氏の系図は、他の系図にくらべて、かなり良いものであるが、豊前賀来氏の伝承は見えない。
豊前佐田の大神姓賀来氏の系図では、豊前賀来氏の祖惟興等も佐伯三郎惟康の子としているが、この系図の信頼性もまた少ない。惟興は惟栄・惟康と同世代の人とすべきである。」としている。
また、図田帳との関係についても、「点線のある名前は弘安八年(1285)の豊後図田帳に出てくる人物である。
同一世代に位置することは当然である。この点、従来の佐伯氏系図等には大きな誤りがある。これは、かって豊後に勢力を奮った緒方一族と結び付けて、大神姓佐伯氏の系図を作成したためと考えられる。又南北朝時代には大神姓氏族も南北に別れて争っており、大友氏に系図を提出するに当って、都合の悪い処即ち南朝方は削除したものと考えられ、世代が時代と合わない処がある。 佐伯惟康は緒方惟栄と共に平家と戦っており、従兄弟である。しかし、宇佐宮破壊をもたらした宇佐公道攻略には参加しなかったと見え、頼朝によ
る佐伯一族の領地没収はなかった。惟久には惟忠―惟長の別名があるが、兄弟であった可能性がある。
平家物語や源平盛衰記等の戦記物が出たのは、千二百年代の始めであるので、豊後の緒環伝説が出来たのは、これより少し前、緒方惟栄の時代と見られる。天正の頃になると、武家は系図が物を言う時代であったので、ほぼ大友氏の家督相続代数に合うように、尤もらしく、系図の継ぎ剥ぎが成された模様である。 とにかく以上の如く、豊後賀来氏の出自は、佐伯三郎惟康の後で、以後四代の系図を明確になし得た。」としている。
「賀来考」で賀来秀三氏は、さらに豊前の賀来氏が、緒方惟義の弟惟興から始まることを、文書の記録を用いて、論証されているが、そのことは、ここでは、再録しないこととする。。
「賀来考」は、国会図書館に納本されているので、詳しく見たい方は参照していただきたい。
系図の写真部分は、賀来秀三氏のご許可を得て「賀来考」をそのまま引用させていただいた。深く感謝したい。
この研究では、秀三氏が提示された 佐伯氏系賀来氏の系譜を以て、豊後賀来氏の創氏時代の系譜とすることに異存はないが、惟興の扱いには今ひとつの疑問が残る。
◎ 佐伯氏系豊後賀来氏系譜のまとめ
「賀来考」では 点線のある名前は弘安八年(1285)の豊後図田帳に出てくる人物である。これらの人物が、同一世代に位置することは、この系図の信憑性を高める。とされておりこれも異論はない。
しかし、豊後国誌の系譜では、賀来惟康の子として、惟興、惟貞、惟成を惟ョの弟として記述しており、又それぞれ、大畑、犬丸、塩田の各城主としている。ただし、この系譜では惟家を緒方惟栄の子としていることで、年代が合わなくなっている。
しかし、大神維盛から佐伯惟家まで、200 年以上が経過しているので、八代程経過していると考えられるのに、この系図では維盛以下に惟平と惟用の二代のみを記述しているにとどまる。このことは、各氏のいずれの系図にも共通している。
緒方惟栄が平家に叛いた寿永元年(1181)、佐伯惟康と共に一ノ谷で闘ったとされる元歴元年(1184 源平盛衰記)、緒方氏つなぎの城を築城したとされる同年(築城郡志)等を勘案すると、惟家を緒方惟義の子としたところが誤りであり、豊後史蹟考の系図の惟興はやはり、惟義の弟ではなく惟康の子とすることでよいと考える。
2 賀来の騒動(氏姓の争い)前後の豊後の賀来氏
平成二十六年(2014)春、山口県下関市在住の賀来恵美さんから、電話連絡があり、我が家に古文書が多数伝わっているので、見ていただけないかとのことであった、そこで、コピイを送っていただいたところ、行方不明とされていた豊後賀来氏本家が所有されているべきものである様に考えられた。
大分県や大分市の博物館に見せて、真偽を確認してもらってくださいと、連絡したところ、鑑定の結果大部分が真物であることが分かった。その後は、山口賀来氏が、さらに詳しく調査されているが、ここでは、その史料をこれまでに見いだされていた賀来氏関係の資料と照合し、判明した事項について、享禄三年(1530)の賀来の騒動の頃を中心に、記述しておきたいとおもう。
3 肥後の賀来氏
肥後の賀来氏については、その来歴を知る重要な文書がある。
この文書は寛永十八年(1640)頃、細川藩士の賀来佐左衛門尉が大内蔵助をして、大友右京亮正照に提出した文書で、賀来ものがたり史料編にも収録してある。
「賀来氏来歴覚え」で、「私の.祖父大神兵部少輔.同名三七父子儀、豊後之内 天賀城ヲ持居申候、 大友屋形樣御居城上野原ヨリ一里半、御近所ニテ御座候、」で始まり 大友家に廿一代つとめ、大友家の時代には七人衆之内で、親子共に御名乗を一字づつ貰ったこと、朝鮮征伐にも加わったこと、家康が会津表に出立つする際にも 感状を貰ったこと、 三七は名を老後は兵右衛門と言ったこと。
同名の賀来中書は、朝鮮征伐の際 三十六才で討死したこと。同名の賀来弾正が大友政親とともに長門で切腹したこと、宇留津城等でも忠義をつくしたことなど、豊後賀来氏に関する文書に残る出来事が逐一記されている。その後は、黒田と競り合い、和談なったこと。小倉で手柄を立て細川家に仕えたと記されている。
この内容に、適合する者を豊後賀来氏の中で求めると、天正十年(1582)に親父兵衛門鎮光の跡を賀来松寿に相続させるという義統の文書がある。また、天正十七年(1589)には、「賀来三七旧名統久、幼名松寿丸、後号大神神九郎」という内容の吉統の加冠状など数通の文書がある。
このことから、今後の検討を要するが、鑑綱の弟に兵衛門鎮光があり、統久につながり、細川藩の賀来の一部となったのではないかとも考えられる。
古文書では、治綱の次男とされる賀来神九郎の事跡は、延徳元年(1489)に、大友親勝を介錯した。享禄四年(1531)義鑑より領地を授かった。天文元年(1532) 義鑑豊前侵攻に伴い部下が傷を負い、感状を賜った。天文二年(1533)、同三年にも、大内氏との戦いで義鑑から感状を貰っている。等が有り、此の名前を継承したとも考えられる。
4 安心院(佐田、房畑、山蔵)の賀来氏 佐田氏は、宇都宮佐田系譜等により、宇都宮氏の九州下向に伴い下向した宇都宮家の重臣で、佐田の地頭であったことは、多くの文書にも残って居る。
佐田荘に関係した賀来氏としては永正六年(1509)に境界論議の際の文書に、佐田の地頭佐田左衛門大夫と同代官賀来神左衛門尉の名がある、また、永正九年(1512)には、四方指案なる文書の中に賀来大蔵惟秀なる名があり、惟秀は佐田の代官であったとみられる。惟秀は 1500 年頃豊後賀来荘から来たという記録もある。
また、明応十年(1501)には、賀来藤兵衛尉が大内義興から宇都宮の家来として感状を貰っている。大永四年(1524)の条々手日記には、賀来善右衛門尉、神左衛門尉の名がある。いずれも佐田氏の配下であったとみられる。その後も、佐田氏の部下としての賀来氏の名前は多くの文書に残って居る。
しかし、賀来惟達氏の大神系譜に出てくる、賀来景吉の名が見つからない、、さらに、調査する必要があると思われる。
佐田氏も黒田、細川と仕官しており、熊本の賀来氏は、豊後の賀来氏と、豊前の佐田の賀来氏の二つ系統があるようである。
◎ 賀来惟達氏の大神系譜は、賀来道生氏のご尽力によって、電子化され、2015 年 12 月に国会図書館電磁データベースに収録されている。
◎ 引用文書等や内容のあらましについては、資料として添付した賀来氏年表を、その詳細については、中世賀来氏史料集を参照していただきたい。
◎賀来ものがたり及び同資料集も、当然、訂正すべき箇所があるが、山口県下関市在住の賀来氏(豊後賀来氏の宗家の末裔である。)の資料収集も行われつつ有るので、ここでは、旧版のまま添付するにとどめる。