ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1068 賀来(加来)一族とは何か(後)
20241006
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
大分県宇佐市 佐田賀来家関連史跡 「試撃行」様より
佐田賀来家は佐田村の大庄屋。一族から反射炉を製作した賀来惟熊、本草学者賀来飛霞などを排出しました。宇佐市安心院町佐田で、佐田賀来家関連を巡ります。
宇佐市安心院町佐田周辺→
(a賀来家屋敷跡,b佐田神社,c賀来家墓所)「賀来家屋敷跡(石垣)」。↓県道716号線沿いから見えます。ここに島原藩領の大庄屋賀来家の屋敷があり、周辺地域5000石を統括統轄しています。しかし西南戦争で起こった百姓一揆で焼失し、現在は石垣を残すのみとなっています。

女優賀来千賀子は佐田賀来家の直系との事。TV朝日「旅サラダ」でここを訪れたようです。コメントに直系ではないとの指摘アリ。とはいえ説明板に書かれていますので、今のところ修正は致しません。
以下省略
私が賀来の一族を単純なイスラエル系氏族ではないと思ったのはこの反射炉の賀来惟熊の存在を知ってからでした。「惟」を使うのは阿蘇氏だからです。
しかも、土地柄から、阿蘇氏でもその派生氏族としての大神惟基、大神惟栄(阿蘇大蛇伝説で著名ですね)著名な大神、緒方の一族と関係があるのではないかと思ったからでした。
その後、これを裏付ける論考資料と遭遇することになります。

賀来惟熊は、幕末の佐田賀来家の当主で、民間で初めて鉄製砲を含む大砲鋳造に成功した人物です。惟熊は、ヨーロッパの軍事科学にもとづく高い技術力と、多額の費用を必要とする大砲鋳造事業を4人の息子とともに現在の宇佐市安心院町佐田(当時の島原藩領)で成し遂げました。惟熊は、没後44年の大正13(1924)年、幕末の海防強化に貢献した人物の一人として贈従五位(ぞうじゅごい)の恩典を受けています。
この阿蘇系の大神一族については、既に、今夏の南阿蘇高森町最深部の神社トレッキングについて多くのブログを書いたばっかりでしたが、関心を持たれましたら竹田市の穴森神社、豊後大野の宇田姫神社とか大神一族などを検索して下さい。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
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これらのブログやトレッキングも含め、漸く豊後大野の大神一族が阿蘇氏の本流であった川上 猛の一族が、この賀来、佐伯の一族のルーツに繋がっていることが見えて来たのでした。
天御中主命(白山姫)の弟白川伯王の子大幡主(カミムスビ)の子八咫烏鳴の姪の市杵島姫と大年神=草部吉見の子こそが、佐田大神=大山咋なのです。すると賀来の一族はどういちづけるべきなのでしょうか…。皆さんも束縛から脱し一緒に考えましょう。もう、熱田も抜けて神社庁も御終いなのですから。
ネット検索を繰り返していると、大変、有難いことに左の「賀来(加来)氏の研究」加来 利一に遭遇しました。
以下、250シートにもなる大著ですので、無論、全文の掲載は致しませんしできません。ただ、関心をお持ちになった方は、是非、全文に目を通される事をお勧めします。
冒頭の数葉を引用しますが、当方の決まりで青字の明朝体で表示させて頂きます。
尚、アンダー・ラインとマーキング、ボールド表示は当方によるものです。
これだけでも、賀来氏が阿蘇大蛇伝説の大神一族であることが分かります。一方、半島の新羅から入っていると考えていた佐伯氏も再考する必要に迫られています。これは後に回しますが、先ずは、賀来一族大神氏起源への端緒を掴めたことが有難かったと思うばかりです。
前垣
江戸時代の本草学者である賀来飛霞をはじめとして、現代まで、学会、財界、実業界、芸能界など、各界で活躍する「賀来(加来)氏」は数多いが、そのルーツは、大分県大分市賀来に有ると思われる。中世までの賀来氏は、その多くは豊後と豊前とに居住しており、おおむね、賀来と名乗っていたようであるが、中世末期以降は、豊前では加来と名乗った者も多い、しかし中世の古文書では区別されていないようである。
この賀来氏の起源について、先に「賀来ものがたり」と「同史料集」を刊行したが、その後、古文書を中心とする文献を精査したところ、さらに、新しくまた詳細に裏付けられたことも多くあった。そこで、前本の追加改訂として、本研究を纏めることとした。
1 賀来の由来と賀来氏の創氏と継承
賀来と名付けられた荘園名の初見は、治承元年八月十八日(1177)の大春日日立並下文であるが、地名賀来の初見は、長寛二年九月三日(1164)の柚原宮師職料田の譲り状である。また、柚原宮を賀来社とする文書の初見は、治承元年八月十六日(1177)の官宣旨である。これらのことから、豊後国大分郡阿南荘の一部(東部)が賀来社の名にあやかって賀来荘と名付けられたものと考えられる。
さらに、柚原八幡宮を賀来社と名付けた由来や賀来荘の名を取って賀来と名乗った賀来氏の由来については、賀来秀三氏の論文(平成六年刊行、「賀来考」)がある。これを抄録すると「久寿二年(1155)まで、黒田里といわれた地名が、長寛二年(1164)には、賀来となっている。この間に地名賀来への変更の事情があったと考えられる。
大友家文書録「賀来氏来歴覚え」に柚原宮に勅使を下し、社領を成して「賀来社」と決まったという文がある。
さらに、大神姓系図に見える賀来氏には、緒方惟義の弟である惟興の後を賀来氏とするものと、緒方惟栄の従兄弟であると考えられる佐伯惟康の子惟頼の後とするものの二系統があり、疑問がある。
豊後図田帳には、大神姓佐伯氏系の地頭として、佐伯政直・惟資、堅田惟光、賀来惟永等の名が見える。一方、柞原八幡宮文書によって、佐伯惟康以後四世代の賀来地頭の系図を読み取ることが出来る。
佐伯氏系賀来氏は、賀来荘が確定した約二十年後の、治承三年(1179)以後に発生していて、緒方系賀来氏とは、ほぼ一世代の開きが、系図から推定出来ている。従って、緒方系賀来氏は、佐伯系賀来氏の前に、賀来庄に居た可能性がある。この推測を解明するために、この時代の史料にもとずいて検討する。
由原八幡宮社領の主体であった賀来庄の地域は、始めは大宮司大神広房の領有する所で有ったが、久安四年頃(1149)勅勘を蒙り、鳥羽院に近侍していた平時信が拝領した。同五年時信の卒後は、二女で平重盛の妻が譲り受けたものと考えられる。小松殿重盛は豊後に領地を持ち、緒方惟栄はその家人であった。緒方惟栄は、清盛より譲り受けた豊前鬼ガ城を拠点として、豊前に勢力を張る。治承三年七月(1179)重盛が卒し、同四年十月頼朝が挙兵するや、惟栄も直ちに平家に反旗を翻した。しかし一方、この様な史料からは、賀来庄の発生に関係する様な手懸りは得られなかった。
豊後国司に就いて見るに、平治二年(1160)の冬、藤原頼輔が豊後守となって以来、その子頼經、孫宗長と三代の間、国主・国司を続けて豊後を統治しており、惟栄の行動とも密接な関連がある。賀来庄の発生とも関係が有りそうに見える。
豊前緒方氏一族には、香春城の緒方氏を始め、源平戦の繋ぎの城に始まる、大畑城・宇留津城等の賀来氏等があり、中世の戦記物、太宰管内志、豊前志等によく出て来る。
しかし、豊前賀来氏は天正末期の戦乱で滅び信頼の出来る出自伝承を失っている。一説には佐伯惟康の後とするものも有るが、これには疑問が多い。
由原八幡宮を賀来社と称した文書の初見は、治承元年の官宣旨であることを先に示したが、平安末期〜鎌倉期に掛けて、「賀来社」を使用した古文書を調べてみると、これらは皆、官庁側の文書であることに気付いた。肥後賀来氏による、「ヨロコビキタルノヤシロ」から「賀来社」となった、と言う伝承を思えば、地名賀来は「賀来社」と言われた後に、賀来社の御座す庄として、賀来庄が生じた可能性がある。果たして、長寛二年の宮師僧院清譲状に見える地名賀来は賀来御庄であることが判明した。
かくして、賀来庄の発生時期は、黒田里と云われていた久寿二年(1155)より。長寛二年(1164)までの十年間に有ったと想定される。
この頃の国司は藤原頼輔であり従来の国司とは異なり特異な存在であった。そこで頼輔一族に就いて調査した。永歴元年(1160)に頼輔が豊後守と成った時、子の頼經を目代として駐在せしめ、留守所の在った大分郡に鎮座する柚原八幡宮に対して、仕事始めの祈願を行った。このときの事情は承安二年五月付け(1022)の八幡由原宮宮師僧定清并御前検校僧尊印等解に見える。この解文は、建春門院の御願寺であ
る最勝光院の建設費用として、阿南郷東部の黒田里周辺に在った大般若修理料田・仁王講田・最勝講田等に対して、重複賦課することは苛責に堪難きこと故、停止される様にと国衙に請願し、許可されたものである。
この重複賦課の説明には、「上記料田等に対する万難公事の停止奉免は既に多年に及びなかでも仁王講田は、刑部卿頼輔殿の御任始めに、万難公事を停止奉免せしめたもので、これにより、御寿福を祈願し、子孫御繁盛の賀を成した云々、かつ屡々後白河法皇の宝算を祈願した云々」とあり注目される文である。
以上、賀来荘と賀来氏との発生に就いて、種々の角度から検討を進めてきた。賀来荘と成った土地の領家が、どの樣に移り代わり、伝承されて行ったかに就いては、まだ充分な検討は出来ていないが、いつ頃どの様にして造られ、また命名されたかは、ほぼ解明出来たものと考えている。即ち、永歴元年(1160)に藤原頼輔が豊後守となった時の御任始めに、由原八幡宮に祈願した時、また勅使が社領を寄贈した時、「賀来社」と賛えてより、由原社を国衙や都では「賀来社」と称するように成った。由原宮領地の主要部分を占める黒田里周辺の地域を、荘園化して賀来御荘と称し、領家平重盛より、当時豊後で有力な豪族であり、家人であった緒方惟栄を通じて、賀来荘下司職或は地頭の補任を打診したものと推定される。
ところで治承三年(1179)に、緒方惟栄の従兄弟である佐伯三郎惟康が、領家(一条家)より下司職を拝領する以前に、惟栄の弟賀来惟興が、豊前中島城主と成って、豊前に転出しているという伝承があり、最初の賀来庄下司職は惟興であったと推定される。柞原八幡宮文書の中に、惟興に閧する記録が見えないのは、この頃はまだ、鎮西での平家の勢力は強く、由原宮と下司職との間には、記録に残るような問題は生じなかった為であろう。
惟興は初めて賀来氏を称したが、治承三年に平重盛が没するや、惟栄の指揮に従って、豊前中島城主となって転出した。惟興は豊前賀来氏の祖で、元歴の頃には大畑城に移り、緒方氏が上毛郡に地名緒方を残したのと同様に、賀来氏も大畑に地名賀来(現在は加来)を残した。
天正時代まで続いた大畑(賀来)城・宇留津城等の豊前賀来氏は秀吉の九州出兵に関連して、吉川や黒田勢に滅され、豊前・筑前の各地に散って行った。
緒方系賀来氏の跡を受けて、治承三年に賀来荘下司職と成った佐伯三郎惟康は、子息四郎惟頼を派遣し、賀来四郎惟頼と称せしめた。これが豊後賀来氏の祖である。文治三年(1187) 惟頼は地頭職に補任され、その子惟綱は貞応三年(1224)に新補地頭となる。以後賀来荘地頭を代々継承した。」
以上の研究は、当時の賀来氏関係の系譜を推定し、豊後図田帳との関係も考察している。これは、きわめて納得のいくものである。以下、系譜研究の部分を引用する。
「豊後大神姓系図には、惟用の後で、緒方氏系の賀来氏と、惟家の後で、佐伯氏系の賀来氏とがある。以下は、これらの二系統の系図を収録したものである。
以下略載
では、ここから我々の最大の関心事である「賀来」氏が何者かに踏み込みたいと思います。
前述したとおり、豊後大野を中心とする大神一族とは、恐らく、阿蘇家宮司家初代の惟人、奈留田姫(兄妹or姉弟)の次世代である川上 猛、淀姫(豊姫)であろうというところまで辿り着きました。
それについては、前述のブログの大半は公開が始まっていますので、詳細はそこから検索して頂くとして、先ずは、稀代の神社研究者であった百嶋由一郎が残した神代系譜の一部からご説明させて頂こうと思うものです。ただ、大神一族と川上 猛を繋ぐ糸については、紙数の問題からここでは省略しますので、関心を持たれる方は以下をお読み頂きたいと思います。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
928 | 続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ |
927 | 大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ |
さて、問題はここからになります。このままでは、仮に賀来の一族が大神一族だったとしても、これでは阿蘇氏そのものと理解されてしまうことになるからです。
一言で阿蘇氏と言っても本質を把握できません。この民族集団とは、高千穂の三田井に本拠地を持っていた高木大神(高御産巣日神)を言わばスポンサーとして成立したものであり、雲南省麗江から海南島南西部を中継地として列島に侵入(避退)してきた苗族などとも近接する黎族の一派であり、草部吉見=ヒコヤイ(ハエ)ミミは、高木大神の次女である栲幡千千姫命を妃とした高木一族への入婿であり、高木大神が半島の新羅は大邱から列島に進出していたイスラエル系の氏族である事を考えれば、血統としてはその血脈の半分をイスラエル系とした新たな民族集団とまでは言えるのです。一方、母は異なるものの、初代神武天皇の后であった吾平津姫(後の蒲池姫)を母として生まれた神沼河耳(金凝彦=後の藤原はこれ を第二代綏靖天皇としたのですが)の子の健 磐龍(草部吉見の腹違いの弟)も、金山彦の娘である吾平津姫を母としていることから、両者ともにイスラエル系の血を曳いていることになるのです。
その意味で、草部吉見の娘である阿蘇都姫と弟健磐龍の間に生まれた悲劇の雨宮姫、そのまた娘である奈留田姫とウガヤフキアエズ(カミムスビ系の血を曳く高良一族)との間に生まれたのが川上 猛と淀姫とすれば、川上 猛とは逆族扱いにはなったものの、栄えある血統を持った一族であり、その後裔が祖母山北麓の豊後大野を中心に中近世に大きな力を発揮する大氏族に発展した大神氏が後の賀来(加来)の一族として発展したことは、その意味で脅威を感ぜざる得ないのです。川上 猛については相当に端折ましたが、上の4つのパワー・ポイントを纏めたものを読まれれば、全てのブログを読むよりは早いかと思います。希望の方は090-6298−3254まで…
