2025年05月18日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1067(後) 八咫烏(中将)とその末裔が居たはずの日田の入口「夜明」には蟻通神社が祀られていたのではないか

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1067(後)

八咫烏(中将)とその末裔が居たはずの日田の入口「夜明」には蟻通神社が祀られていたのではないか

20241020 太宰府地名研究会「有王社は蟻通神社だった」講演への配布資料として”

20240918

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


無題.png

日田氏 日田氏の登場                    ウィキペディア20240319 18:25


源平合戦期の日田氏の惣領は永秀で、永秀は原田種直から平家方に味方するように誘われたが、源氏に味方して櫛崎城を修築して頼朝の下知を待った。その後、平家が太宰府に没落すると、臼杵惟隆・緒方惟栄らとともに三笠原を攻略することになった。ところが、臼杵は原田勢に緒方は菊池勢に阻まれ、ひとり日田永秀のみが平家を追い落した。この軍功により、建久五年(1194)、源頼朝から日田荘地頭職安堵の下文を与えられ、御家人日田氏が誕生したのである。


ここで皆さん何か気付きませんか?…そうです。ここも蟻通同様の地形なのです。

その意味では通航の難所であり、それを守る蟻通しが行われていた場所なのです。

その認識が当の大蔵氏に在ったかは皆目分かりません。そのような場所は権力を争う要衝であり、その意味でその地を守る神が祀られていたと思うのです。

さて、ここから筏流しを行っていた人々の事を考えて見ましょう。

 新ひぼろぎ逍遥

1003

再び大分県日田市の「加々鶴」地名を考える


257 日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする民俗学者吉野裕子説から20151026

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 無題.png久留米地名研究会の天ケ瀬温泉五馬高原研修所にいる事が多くなると、大分県日田市から久留米市や筑豊の田川市に向かう事が非常に多くなります。

そうなると、決まって、国道210号線の加々鶴(カカヅル)トンネルを抜け夜明ダム上流の夜明橋付近を頻繁に通過する事になります。以前から気にはしていたのですが、ようやく意味が分かりました。

今回は、この奇妙な「加々鶴」(カカヅル)という地名の話です。

 国道210号(現386号)線の加々鶴バス停

もう亡くなられて久しいのですが、吉野裕子という民俗学者がおられました。

 その著書の一つに非常に良く知られた「蛇」があります。

この論旨を我流に要約すれば、案山子(カカシ)とは田んぼの収穫を荒らすネズミや雀を追い払う蛇を擬制したものであり、「無題.pngカカシ」の「カカ」が蛇の古語で、「シ」は人を意味している。

 それの説明として、正月の「鏡餅」の「カガミ」も「カカ」+「ミ」(巳)であり、蛇がトグロを巻いているものを、豊穣のシンボルとして、感謝を表したもの…になり、蛇の一種として「ヤマカガシ」があることも蛇が「カカ」と呼ばれていた痕跡となるのです。以下、ネット上から参考に…


日本原始の祭りは、蛇神と、これを祀る女性(蛇巫=へびふ)を中心に展開する。
1.女性蛇巫(へびふ)が神蛇と交わること蛇に見立てられた円錐形の山の神、または蛇の形に似た樹木、蒲葵(ピロウ=ヤシ科の常緑高木)、石柱などの代用神や代用物と交合の擬(もど)きをすること。今も沖縄および南の島々に、祭祀形態として残る
無題.png
2.神蛇を生むこと蛇を捕らえてくること
3.蛇を捕らえ、飼養し、祀ること
縄文土器にはたくさんの蛇の文様が登場する。縄文人の蛇に寄せる思いは、次の2点である。これらの相乗効果をもって、蛇を祖先神にまで崇(あが)めていった。
1.その形態が男性のシンボルを連想させること
2.毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃で倒す強さ埴輪の巫女が身につけている連続三角紋、装飾古墳の壁に描かれる連続三角紋・同心円・渦巻紋も、蛇の象徴であると推測される。
稲作の発達につれて弥生人を苦しめたのは、山野に跳梁(ちょうりょう)する野ネズミだった。ネズミの天敵は蛇である。弥生人は、ネズミをとる蛇を「田を守る神」として信仰したと思われる。
日本人は、蛇がトグロを巻いているところを円錐形の山として捉えてきた。それが円錐形の山に対する信仰につながる。三輪山はその名称がすでに神蛇のトグロの輪を意味し、神輪(みわ)山の意がこめられている。          日本の蛇信仰(吉野裕子著) - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」より

無題.pngお分かり頂けたでしょうか?    旧筑後軌道の鉄道トンネル改修後

この吉野裕子の「かかし」=蛇説については、久留米地名研究会(当時)の永井正範氏から教えられ、以前から気にはしていたのですが、加々鶴トンネルの上の高井岳にそれらしき形状(「おかがみ」山)を発見できなかった事から(ただし、一キロほど上流から見ると「おかがみ」山のように見えるため高井岳も可能姓はありそうです)、それっきりにしていたものです。ただ、良く考えると、国道210号(現386)線から嘉麻峠へと

旧筑後軌道の鉄道トンネル改修後

向かう211号線の夜明鉄橋北側の小山が、まさしく「おかがみ」山だったのです(次の写真)。

この一帯は夜明ダムが完成する昭和28年頃まで、筑後川流域の旧安楽寺領(太宰府天満宮の前身)などの杣山から切り出された木材が、古くは太宰府まで持ち込まれるために筏に編成されて下流に送られる中継地だったのです。

右岸からは彦山方面から大肥川が流れ込み、筏流しを行う海人族により多くの木材が編成される場所だったのです。そのような場所だからこそ変則的な交差点には志賀島の志賀海神社が祀られているのです。

あとは、グーグル・アースや国土地理院による地図閲覧システムなどで、現地をご自分で検証してご判断下されることをお勧め致します。

この一帯が「筑紫」「豊」の国境をなす場所である理由は、大蛇行部の険しい地形にあることは明らかですが、この蛇行する無題.png大峡谷は詰まり易く、時として大きな堆積を起こす事によって、ダム化する事によって上流部に水平堆積が進み日田の平野が形成されたとも言えそうです。

 この加々鶴地名の「カカ」は「オカガミ」山か「蛇行部」を以て、蛇を神と見なす海人族に「カカ」と名付けられた可能姓はあると思います。

 では、「鶴」はと言えば、蛇行地を蔦の蔓とも見立てられますし、鶴(鶴自体が蔓から付された名称でしょうが)の首状の地形に見える事から「鶴」が充てられたとも言えるでしょう。

 なお、地名研究では「鶴」地名は断崖地名(足摺岬)ともされますので申し添えます。

日田市川下の国道210(現386号)号線「夜明橋梁」付近          以上 ひぼろぎ逍遥257

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無題.png無題.png東京都に赤池濃の三女として生まれる。1934年女子学習院本科を卒業し、1936年に同院高等科を卒業。1942年『風のさそひ』を上梓。専業主婦となるが、日本舞踊を習っていたことから民俗学に関心をもち、1954年津田塾大学卒業、1970年著書『扇』を刊行、1977年「陰陽五行思想から見た日本の祭」により東京教育大学文学博士の学位を授与される。在野の学者として著書多数。全集全12巻がある。2008418日、心不全のため死去。         ウィキペディア 20240116 09:52



加々鶴トンネル

 加々鶴トンネルの下流23キロに夜明ダムと古代の筑紫、豊の国境があるのです。

 このような大蛇行の地形は低平地の泥地にはあるのですが、田栄神社付近は50100メートルを超える断崖絶壁の巨大岩塊地帯でありこの様な地形がどのように出現したのか今もって理解できないでいます。ともあれ、この地形こそが蛇に見立てられ、「カカ」と呼ばれた事は間違いないはずです。

 では、この地名を付した人々とは一体どのような人々だったのでしょうか?

 一言で言えば、海人族と言えば解かった様な気がするのですが、直ぐに同意を頂けるとも思ってはいません。            ※ 加賀ではなく加々が正しいはずです。グーグルのミスでしょうね。

 この「海人族」という概念は、元々、宝賀 寿男(東大法学部出身の官僚から弁護士)が言い出したもので学者ではないのでしょうが、何故かそれなりに定着しています。何やら、柳田先生を思い出します。

 一般的には九州でも中心部に近い豊後の山岳地帯の入口に近い場所に“どうして海人族が入っているんだ”と思われる方が多いかも知れません。筑後川河口からは優に7080キロはあるからです。

 それに答えるには、多少頭を働かせる必要があるかも知れません。

そもそも筑後平野は列島でも最大級の平野である事は皆さん良くご存じでしょう。

 海に隣接する場所で平地ができるのは海の中に土砂が流れ込むと水平堆積が起こり平地ができます。

 類型になりますが、この現象が山中で起きるには、河川が土砂崩れなどで閉塞され自然のダム湖ができると水中では同じような堆積が起こり同様の平地が生じます。

 そこで決壊が起こり水が抜けるか、それを意図的に決堤させると一挙に大量の平らな農地ができるのです。勿論、安全のために少しずつ行ったでしょうが。

 これが全国に分布する蹴破り伝説であり、近い例では熊本県の阿蘇谷の健磐龍の蹴破り伝承であり、菊池、山鹿、植木に広がっていたと言われる古代湖「茂賀浦」です。

 そして筑後平野の最奥部に夜明ダムがあり、加賀鶴トンネルがあるのです。

つまり、筑後平野とは有明海の最奥部の痕跡地だった事が分かるはずなのです。

 とすると、海人族が今は筑後川と言われている古代久留米湾とでも言うべきところまで入っていた事はお分かり頂けるのではないでしょうか?

 その証拠と言うほどのものではありませんが日田市大字夜明の夜明駅のそばに神社が置かれています。それが志賀神社であり、博多湾の志賀島の海人族が祀ったものである事がお分かりになるでしょう。

 恐らくは、大肥川流域からも木材が流されこの少し上辺り筏が組み直しされていたのでしょう。

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そうすると、昭和28年に夜明けダムが造られた結果終了させられた筑後川の筏流し、川流しを行っていた人々がどのような人々であったかが蘇ってくるはずです。

 それは博多湾側から有明海に回ってきた志賀島の一族であり俗に海人族と呼ばれた人々だったのです。

 彼らのご先祖様達は筑後川の奥地まで入り込み、びっくりするような大木を切り出し、小さなものは現地で繰り抜き、大きなものは大川市の筑後川河口まで流し大船に仕立てていたはずです。

 そう考えれば、日田の奥の天ヶ瀬温泉も海人族が活動していたから付されたものである事が見えてくるはずです。海人(アマ無題.png)ケ瀬温泉だったのです。

 また、平安朝どころか大和朝廷以前まで遡るはずですが、太宰府天満宮の前身の安楽寺領が日田周辺にも散見されます。これは古代の杣山の名残のはずで、現在の林野庁がでたらめな人工林を利権目的だけで増産し、売れもせずに災害を引き起こし続けているのとは対照的に急傾斜地を避け管理された林地=杣山が保たれ大寺院、寺社の用材をこの地で育て筑後川を利用し太宰府まで供給していたのです。

 既に、その頃までには既に大木は太宰府近辺には無かったはずなのです。

 まあ、六十年ごとには改修の必要もあり、そのペースで森は育てられていたのであり、筑後川の河口まで運び大船を造る場合は左岸に流し、宝満川を利用して太宰府に運ぶ場合には右岸に振り分け、中流域に在ったと思われる多くの中州で早めに振り分け左右に移動させていたのです。

 そこに船越と言う地名(久留米市田主丸町船越)が現存している事は半ば歴史を証言しているのです。

 詳しくは、グーグル・マップなりグーグル・アースなりで、周辺の地形や環境を確認して頂きたいのですが、かく言う私自身は、この筑後川沿線の400メートルほどの国道トンネル(210号)がどうのとか言う話の前に、もしも吉野裕子先生が生前にこのトンネルを通っておられたら…と思うと、いつも冷静に考えることができず、ついつい燥いでしまう自分を恥じている事に気付いてしますのです。

そして、このことに気付いている人がどれくらいいるだろうと思い続けているのです。

 まずはこの周辺の地形を見て頂きたいと思います。

カカは夜明の大蛇行地であり、蛇のとぐろを意味しているはずで、ツルはこの一帯の険しい崖を意味しており、鶴と美しい字を当ててはあるものの、鶴首の蛇行と崖地のヅリ落ちるの意味が込められているのです。              福岡市中央区赤坂 不知火書房 0927816962に 販価1575

 無題.pngもしも多少とも興味を持たれたら、筏流しの中乗りさんであった渡辺音吉さんの証言をお読み頂くと、この一帯の事がより鮮明に浮かび上がってくる事でしょう。

 そもそも、渡辺姓も渡りの部=渡部(愛媛の大山祗神社の一族)であり、物資や人員を搬送していた志賀島の海人族であることを証言しているのです。

まさしく中乗りさんの名としてもその人生を体現されているようです。

まだ、「カカ」が蛇を意味しているなど信じられないと思われる方は多いと思いますので僭越ながら補足させて頂きますが、蛇でも比較的大きいものにヤマカガシがありますね。

これなども蛇=ヘミ、ヘビが案山子である事を伝えています。

穀物生産を行うと、貯蔵していたものが雀や鼠に食い荒らされる事が最もまずい事で、船舶では鼠を退治するために猫が載せられ、田んぼには案山子が置かれました。

それはそのまま蛇を意味しており、表現は悪いですが、蛇人間を意味していたのです。勿論、「し」はヒト=「シト」(こちらが原型)であり、「あんしとたちゃ」…ですね。

こうして蛇は穀物を守る神にまで高められ、富の象徴となり、とうとう財布の中にまで蛇の飾りが入れられ、趣味は悪いのですが数十年前まで蛇皮の財布が大阪のおばちゃんなどに珍重されたのでした。

従って、蛇神様とは富の象徴であり、決して邪教などとは考えないで頂きたいのです。

それは揚子江流域の春秋戦国の呉の国から稲=米を必死で携え持ち込んできた人々の思いが込められており、長江も巨大な龍であり、蛇でもあったのです。

近年も揚子江ワニと言われる小型のワニが龍のモデルではないかとささやかれているのです。

そして、夜明ダムの近くには有王神社までがあるのですが、現在、この神社は近畿大和朝廷の植民地総督として進出してきた大原八幡宮=日下部氏〜大蔵一族が祀る瀬織ツ姫(藤原の祓戸の神であり、実は金山彦の娘である櫛稲田姫)とされています。

この原型を考えれば、これもヤタガラスを祀る神社だったのであろうと思うのです。これについては別稿とさせていただきます。この神社の祭神も実はカミムスビの神(博多の櫛田神社の主神=大幡主)の子豊玉彦(日田の中心部には玉川町がありますね)=ヤタガラス=龍王であり、海の龍は海蛇でもあるのですが、これが有王神社と関係がある事は次のお話にしたいと思います。


 後はパワー・ポイントで報告させて頂きますが、重要な点をご紹介しておきます。

❶ まず、日田市の中心部には玉川町があり(勿論、豊玉彦の「玉」)、日隈、月隈、星隈があります。

その事から、博多を本拠地としていたカミムスビ=大幡主の一族が展開していた事は明らかです。


❷ そして、九州王朝系の玉垂宮や若宮神社も中心部に残っています。


❸ 日田に隣接し、大山町があり、木の花ガルテンがありますね。良くこのような名を付けたと思います。この名称は、本来、古代日向のはずの大山祇の娘「コノハナノサクヤ」の北の本拠地と言わんばかりなのです。実際、大山水天宮があるのです。

この意味は、八咫烏の父神のカミムスビ=大幡主と義理の兄弟となった大山祇は、ウマシアシカビヒコジ(「古事記」の冒頭にちょっとだけ登場します)と天御中主の間に生まれた氏族であり、阿蘇氏からの防衛など臨時首都防衛の任務も持っていたと考えています。

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➍ 旧制日田中学=現日田高校には校旗として三本足の烏が描かれていたと言います。今もあるそうですが…。それは、日田は八咫烏の本拠地でもあった事を示しているのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1067(前) 八咫烏(中将)とその末裔が居たはずの日田の入口「夜明」には蟻通神社が祀られていたのではないか

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1067(前)

八咫烏(中将)とその末裔が居たはずの日田の入口「夜明」には蟻通神社が祀られていたのではないか

20241020 太宰府地名研究会「有王社は蟻通神社だった」講演への配布資料として”

20240918

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 筑後川中流域を遮る夜明ダムが完成したのは戦後しばらくの昭和28年(70年前)でした。

これを境に河口の大川や大潮の満潮時に宝満川を(閘門などを利用し)溯上させ、太宰府までも木材が搬送された(推定)可能性もある「筏流し」は消失することとなったのでした(安楽寺領の分布から)。

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「袋野堰:筑後川の四大井堰を歩く」様より借用(この全景写真は筑後川河川事務所発行の「筑後川流域基礎情報」による。)とのことです。Copyright (C) 2008 筑後川の四大井堰を歩く All Rights Reserved.とあり、問題であれば直ぐに削除します…。

 これが福岡県と大分県を分かつ県境(特に古代には、豊と筑紫の国境)であり、一帯の大峡谷、断崖を見れば誰でもが頷けるものです。

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さて、この地理院地図にを付した岬状の山上に神社が在る事はお分かりになると思いますが、有王社とされています。ただ、この神社は「平家物語」に登場する俊寛を訪ねた有王童子を祀るものではない…と考えた事からこの蟻通神社に関するブログ10本が始まったのでした。

 それについては、既にネットに公開していることもあり全文をお読み頂けるのですが、今回はこの概略をお伝えしたいと考え作成したのが、PP.に対応されない方に対する手書き資料にするものです。

無題.png

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

1021

有王社は蟻通神社  “有王社は、何故、周防の

櫛崎から持ち込まれたのか”

1020

有王社は蟻通神社  “推定 祭神を入れ替えた

大蔵氏入府以前の日下部氏とは何か?”

1019

有王社は蟻通神社 ❾ “祭神を入れ替えた後漢靈帝の

別れ阿智王の一族としての大蔵氏”

1018

有王社は蟻通神社 ❽ “事代主のブログ氏の蟻通神社”を転載

1017

熊本県玉名市大浜町の外嶋宮の住吉神の不思議 “二人の住吉様”

1016

佐賀県神埼市の高志神社とは何か?

1015

豊後の夜明ダム正面に行徳家本家がある 

 “有王社の基層に蟻通神社があったと考えたならば“

1014

蟻通神社をご存じでない方のために ❻

1013

続々大分県日田市の「有王社」を疑う“ 

「平家物語」の有王童子がここに祀られる必然性は無い 

1012

続 大分県日田市の「有王社」を疑う 

 “蟻通神社を消したのかor有王社で八咫烏を守ったのか”

1011

熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か?

1010

大分県日田市の「有王社」を疑う “新ひぼろぎ

逍遥からの転載” 

1009

豊後の日田市は八咫烏(=豊玉彦=豊国主)の都だった ❷

1008

日田市大原八幡宮の元、元々宮を当会の宮原誠

一氏が報告されています➋

1007

日田市大原八幡宮の元、元々宮を当会の宮原誠

一氏が報告されています➊

1006

大分県日田市の「有王社」を疑う 


紀元前後から7世紀までの日田とはどのような国だったのか

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ご覧の通り、筑後川は大分に降った雨までも集めて多くの土砂を下流に運び出し、実質、日本最大の平野を造り出して来た事がお分かり頂けるでしょう。恐らく紀元前後までは有明海が相当奥まで入っていた可能性がある訳で、そのどん詰まりが夜明だった時代もあった事でしょう。

まず、地形を見て頂ければ、お分かりの通り、内陸部の山々に囲まれた小平野が日田であることは一目瞭然です。その西の入口にあるのが前述した夜明の大蛇行地であり、今でこそ容易に入ることが出来ますが、これほどの要害が存在する事は西からの攻略を阻んでいることは明らかで、下流から侵攻する敵を迎え撃つための管制高地が地理院図でを付した現有王社であったろう事は容易に想像できるのです。

そして川に沿って進出してくる敵を両岸の崖地から弓で急襲すれば、敵の矢は全く届かず、一方的に上から叩くため撃退することは可能なはずなのです。そして、小国の手前の杖立の大峡谷、天ケ瀬の大峡谷でも後退して迎撃は可能である訳で、非常に護るに良い地だった事が分かるのです。

想定している外部勢力とは7世紀の白江戦で敗残した後の唐による太宰府占領軍であり、その時点で、九州王朝(佃収説推定 天武政権)は臨時首都を日田に於いていた可能性さえあるのです。

恐らく北の防衛ラインは関門海峡だったはずで、その奥に、周防(周王朝の防衛とも読める)なり防府があることはその示唆であり、実はこの一帯にも有王社が置かれているのです。

この点、先行ブログで、ここに有王社を祀る必然性は全く無いとした部分は訂正させていただきます。ただ、これで決定的だとは言い難い気もします。もう少し背景を探る必要がありそうです。

大蔵永秀が持ち込んだ有王社は下関に在りました。場所は、関門海峡の瀬戸内海側です。


櫛崎城                            ウィキペディア20240319 17:35

櫛崎城(くしざきじょう)は、山口県下関市長府宮崎町(長門国豊浦郡)にあった日本の城。串崎城とも表記され、雄山城、長府城、長府陣屋とも称する。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記