ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1066
宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか? ❺
“大山祇のご先祖様 は菊池川河口から侵入し、後に西都市に移動した”
20240911
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
再掲載
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
179 天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 C “西都原に大山祗命の痕跡がある!” 20151030
宮崎県延岡市、日向市の南、都農町から木城町、川南町、西都市など延岡市から宮崎市の間が今回のフィールド・ワークのエリアですが、全ての神社についてブログに書く事はできませんので、どうしても特徴的で読者の皆さんが関心を示されるものを選んで何社かを書く事になります。
今回ご紹介するのは西都市の石貫神社です。

カーナビ検索 宮崎県西都市三宅4615−ロ石貫神社
西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。
この石貫神社については地元では知られているようですが、北部九州にお住まいの方にはほとんど知られていません。
この事には、そもそも「大山祇命」を直接祀る神社が北部九州には少ない事があり、コノハナノサクヤのお父さんといった事以外、馴染みが少なく印象が薄い事があると思うものです。
ただ、今回の「天高く、青空に誘われ日向の神社探訪」は、大国主と大山祇命の痕跡を辿ることがテーマですから、日向に幟を揚げた大山祇命のお社を見出したのは有難い限りです。
さらに言えば、百嶋神社考古学の立場からは大山祇命(実は月読命)は大国主の父親であり、妹にあたるコノハナノサクヤはニニギと直ぐに別れ、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒に古代の日向である溝部町に前玉(サキタマ)神社として祀られ後の埼玉県の地名の起源となった前玉神社になっているとするのです。
由緒
当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命」(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。往時は、社殿、境内、宏壮森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の『古帳神社知行目録』によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)等、幾度に渡り神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社地は没収された。
石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。 敬愛するHP「神奈備」様より



この石貫神社がもしかしたら本物ではないかと考える理由は、この旧溝部町の前玉神社の存在を知っているからですが、大山祗命の娘であるコノハナノサクヤが、埼玉は本より関東全域で桜姫と呼ばれている事の起源が、この神社の直ぐ東側を流れる桜川を起源にしているのではないかと考えるからです。

参考
このコノハナノサクヤ姫が桜の意味を示しているのだという。
文中には桜という文字は出てこない。
初見するのは下巻(しもつまき)の履中天皇の宮殿の名前が「伊波礼の若桜の宮」のそれである。
国語辞典では「木の花」は桜花の異称。「此の花」は梅花の雅称としているように、コノハナノサクヤ姫は桜を表しているというのが定説となっている。
サクヤのヤは感動を意味する助詞で、木の花が美しく咲いているという感動を美しい乙女に重ねた名前でその花は桜でなければならないという推測である。
桜は古には佐久良、佐区羅、佐具良などと書かれ、その語源も麗らかに咲くから咲麗(さくうら)からさくらになったなど諸説あってはっきりしていない。 HP「いけばな歳時記」から 再掲載以上
西都原第2古墳群でも伝「大山祇古墳」の在る北側丘陵直下に石貫神社があります。
しかも、10人が並んで次々に参拝できる立派な階段が寄進されているのです。
往古、大山祇参拝の風習があった事は容易に想像できるのです。
また、付近には桜の神紋も艶やかな日向二之都萬神社があり、大山祇の娘コノハナノサクヤが祀られているのです。

このように、父神の大山祇が石貫神社に、高木大神の息子瓊瓊杵命の妻となった木花開耶姫祀られ、日向市の南に隣接する、都農町に日向二之宮 都農神社が、大国主命が主神として祀られているのです。

このように、大山祇が石貫神社に、大山祇の長女の神大市姫=罔象女神が鹿児島県姶良町某所に祀られ、息子の大国主命が都農町に、木花開耶姫が西都市の都萬神社に祀られ、正しく古代日向国=鹿児島+宮崎こそ大山祇の一族のホーム・グランド=本国だった事が分かるのです。
違うだろう、大国主命は古代出雲王国の主なんではないのか…と思われる方がおられるでしょうが、その問題は後に回し、ここでは、「石貫」神社の意味をお話し致しましょう。
稀代の神社研究者であった百嶋由一郎は玉名の石貫に入ったトルコ系匈奴(王 昭君派)は、空き地であった稲作不適地(霧島火山帯の東部域は卓越する西風によって水が溜められなかったのでした)であった日向に入ったようです。彼らは稲作漁労の民ではないからです。
石貫神社から西都原台地につながる169段の石貫階段を登った右側にあります。
古墳は、全長96mの柄鏡式前方後円墳で、コノハナサクヤヒメの父神オオヤマツミノカミの墳墓といわれ、西都原古墳群では数少ない名の付いた古墳です。西都原古墳群の90号墳です。


熊本県玉名市の新幹線玉名駅の傍に横穴式石棺墓を持つ石貫地区があるのです。

石貫神社から西都原台地につながる169段の石貫階段を登った右側にあります。
古墳は、全長96mの柄鏡式前方後円墳で、コノハナサクヤヒメの父神オオヤマツミノカミの墳墓といわれ、西都原古墳群では数少ない名の付いた古墳です。西都原古墳群の90号墳です。
大山祇系の一族(金海金氏の金越智=ウマシアシカビヒコヂと天御中主命との間に生まれた)は金冠伽耶から玉名に入り、後に西都市に移動しているのです。では、彼らはどこからやって来たのでしょうか。
これについても ひぼろぎ逍遥 621(続編622、623)をご覧になって下さい。一部再掲載します。
621 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上) 20180728
現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえれば、アフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。

他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。
さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、 “この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(これらについては後述します)。
百嶋神代系譜の緑枠で囲った部分の金越智=ウマシアシカビヒコヂ〜大山祗〜大己貴(+神大市=罔象女神ミヅハノメ+木花咲耶姫)の系統こそが列島に入って来たトルコ系匈奴(南匈奴)と考えられていたようです。
ちなみに、本物の神武天皇の本物のお妃であったアイラツヒメも金山彦と大山祗トルコ系の神大市=罔象女神の間に産れたプリンセスであるためトルコ語の月=アイラールからアイラツ姫と呼ばれたのです。
中国領 塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)は、現在、ウイグル人(トルコ系とされる)が住み着いていますが、キルギス人もいるようです。このキルギスも、ギリシャに「キルキス」と言う都市名があり、元々はギリシャ系ではないかとも思うのですが、どうせこの辺りはトルコ系、ペルシャ系、ギリシャ系、ユダヤ系…の混血が進んでおり議論しても意味はないのでしょう。写真はキルギス帽を被る老人。
キルキス / ラテン文字表記:Kilkis / ブルガリア語: Кукушはギリシャの中央マケドニア地方の都市で、キルキス県の県都。 2011年の行政改革で、ヘルソ、ドイラニ、ガリコス、キルキス、クルッサ、ムリエス、ピクロリムニの7つの旧市が合併し、現在のキルキス市となった。
ウィキペディア(20180729:10:11)による
いずれにせよ、かつてこの地はシルクロードの東西交易の要衝であり、塔什庫爾干(タシクルガン)の石城山は誇り高いこの地のシンボルだった時代があったのです。
どうも、この中国表記の=石頭城、石城山が熊襲=トルコ系匈奴と共に列島に入っているようなのです。
以前から気にしていたのが長崎県川棚町石木(イシキ)、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)、鹿島市の石木津(イシキヅ)…でした。当時は奇妙な地名だなあ…程度だったのですが、故)百嶋由一郎氏がはっきり言われたのが、熊本県玉名市の石貫(石貫穴観音横穴や石貫ナギノ横穴群外多数の横穴式石室を持つ古墳群)、宮崎県西都市の石貫神社(オオヤマツミとコノハナノサクヤを祀る神社)であり、正面の西都原第 二古墳群に伝大山祗の墓=柄鏡型前方後円墳があるのです。
また、大分県にもあります。旧石城川村(湯布院と高崎山の間の山中の村)です。この由布市から大分市に向かう谷間の一帯も山神宮外大山祗〜大己貴祭祀が濃厚なエリアです。
この外にも、山口県光市の石城山神籠石、愛媛県越智郡上島町岩城(イワギ)は平安時代に「石城」の表記で記録のある地名で、そもそも大山祗を祀る瀬戸内海の大三島は愛媛県にあるのです。
さらに、東北の福島県の石城郡、いわき市・南相馬市の相馬の馬追を思い出して下さい。
いわき市のいわきは石木、岩木、磐城=タシクルガンなのです。
そして、出羽三山の湯殿山、羽黒山にも岩木山がありますね、ここも大山祗祭祀が非常に濃厚なところなのです。
当然にも甲州騎馬軍団が跋扈した山梨県にも無いはずはありません。
石和温泉の石和(今は笛吹市ですか)です。
ここからコノハナノサクヤを祀る富士山の河口湖一帯に掛けて、石尊神社が数多く拾えますが、これも、まず、大山祗=月読命なのです。
まだまだありますが、このように実際にトルコ系の民族が入っているようなのです。
参考
「石貫神社」について ○創建:天平5年(733年)と伝えられています。○御祭神:コノハナサクヤヒメの父神のオオヤマツミノカミ。○オオヤマツミノカミ:山の神で、「天神」・「国神」・「海神」の三神の大神。○大祭日:11月29日。石貫神社から169段の階段を上った西都原古墳群内の『大山祇塚(おおやまつみづか)』の前方部前で神事が挙行されます。 西都市観光協会
ここで「岩城」「石城」「岩木」「石木」地名を拾っておられるサイトがありますのでご紹介します。
です。
岩手県一関市 岩城(いわき)
秋田県秋田市 下新城岩城(しもしんじょういわき) 秋田県湯沢市 岩城(いわき)岩城橋(いわきばし)
秋田県由利本荘市 岩城(いわき)道の駅岩城(みちのえきいわき) 秋田県南秋田郡 五城目町 岩城町(いわきまち)
群馬県高崎市 岩城(いわき)
三重県津市 岩城(いわき)
島根県江津市 岩城山(いわきやま)
愛媛県越智郡 上島町 岩城島(いわぎじま)
熊本県芦北郡 津奈木町 岩城(いわき) 熊本県球磨郡 錦町 岩城(いわじょう)
福島県大沼郡 昭和村 石城山(いしじろやま)
福井県坂井市 丸岡町 石城戸町(いしきどちょう)
京都府八幡市 男山石城(おとこやまいししろ)
鳥取県東伯郡 湯梨浜町 羽衣石城址(うえしじょうし)
山口県光市 石城山(いわきさん)石城山神籠石(いわきさんこんごうせき) 石城神社(いわきじんじゃ)
愛媛県大洲市 石城峠(いししろとうげ)
福岡県福岡市 博多区 石城町(せきじょうまち)
長崎県対馬市 金石城跡(かねいしじょうあと)
大分県別府市 石城川(せきじょうがわ) 大分県由布市 石城川(せきじょうがわ)
青森県弘前市 岩木川(いわきがわ)岩木高原(いわきこうげん) 岩木山(いわきさん)
岩木茜橋(いわきあかねばし) 岩木橋(いわきばし) 上岩木橋(かみいわきばし)岩木山神社(いわきさんじんじゃ) 岩木川(いわきがわ)
青森県黒石市 岩木町(いわきまち) 青森県五所川原市 岩木川(いわきがわ) 青森県つがる市 岩木川(いわきがわ)
青森県中津軽郡 西目屋村 岩木川(いわきがわ) 青森県北津軽郡 板柳町 岩木川(いわきがわ)
青森県北津軽郡 中泊町 岩木川(いわきがわ)
岩手県八幡平市 岩木(いわき)
秋田県大仙市 岩木沢(いわきさわ)
山形県西村山郡 河北町 岩木(いわき)
山形県最上郡 鮭川村 岩木(いわき)
群馬県多野郡 吉井町 岩木(いわき)
新潟県糸魚川市 岩木(いわき)岩木トンネル(いわきとんねる) 新潟県上越市 岩木(いわき)
富山県富山市 岩木(いわき)岩木新(いわきしん) 富山県南砺市 岩木(いわき)
京都府京丹後市 岩木(いわき)
兵庫県赤穂郡 上郡町 岩木(いわき)岩木川(いわきがわ) 岩木トンネル(いわきとんねる)
岡山県真庭市 岩木(いわき)
愛媛県西予市 岩木(いわき)
山形県米沢市 石木戸(いしきど)
埼玉県本庄市 石木沢(いしきざわ)
岐阜県加茂郡 白川町 石木(いしき)
奈良県奈良市 石木町(いしきちょう)
徳島県三好郡 東みよし町 石木(いしき)
高知県高知市 小石木町(こいしぎちょう)
佐賀県鹿島市 石木津川(いしきづがわ)
佐賀県小城市 石木(いしき)
長崎県東彼杵郡 川棚町 石木(いしき)石木郷(いしきごう)石木川(いしきがわ)
長崎県北松浦郡 佐々町 石木場免(いしこばめん)
熊本県芦北郡 津奈木町 石木田(いしきだ)
宮崎県串間市 石木田(いしきだ)
これくらいの拾い出しがあれば、全国的傾向の一端は窺い知れるとは言えるでしょう。深謝します。
これらの中には全く無関係のものが紛れ込んでいる可能性は否定できませんが、トルコ系匈奴の入ったエリアで、石木、石城、岩城、岩木、磐木、巌木(もしかしたら教楽木、京良城も)…といった姓の方はその血の一部を引いている可能性はあるのではないかとさえ考えています。多分、四国の石槌神社も…。
トルコ系匈奴などと言えば気がふれたかのように思われるかもしれませんが、奈良にはペルシャが入っているとか、京都の祇園祭の山車に描かれた絵柄はユダヤ系民族が入っているとしか思えないと言われているのですから、ペルシャはOKでトルコはナンセンスはないでしょう。しかし、このトルコ系匈奴が無視されている理由は、唯一、彼らが朝敵とされた熊襲とかなり重なっていたからなのでしょう。
「記」「紀」にも書いてないし、中には「和名抄」とか「新撰姓氏録」のどこに痕跡があるのか…と言われる方もおられるでしょうが、書いてあるものが正しく(どうせ偽書ですが)、書いてないものは無視すると言われているだけの話でしかなく分からない事を調べるのが研究である事を忘れておられるのです。
しかも、朝廷から排斥された氏族や民族についてはおいそれとは分かるはずはないのです。
ここまで追い込まれてくると、タシュクルガン(中国表記:石城山=モンゴル表記?石頭城=朝鮮表記?)を置き換えたのが、先に拾い出されている地名に反映されているのではないかとの作業仮説程度ぐらいは許して欲しいものです。
百嶋翁の考えもようやく見えてきましたので、栄えある塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)への誇りと郷愁を持つ人々が列島に移動し、この地名が付されたのではないかとの仮説を出しておきます。
地名と併せ、周に大山祇、三嶋神社、山神社、山神宮…それに大国主も大山祇の子であることから、これらを含めてこのような祭祀が拾えるエリアはトルコ系匈奴の進出地と考える価値はあるのではないでしょうか?
まず、重要なのは百嶋先生が言われていた玉名市と西都市の二つの石貫地名ですが、これが石城山、石頭城とどのような関係にあるかを考えてみましょう。まず、九州(瀬戸内海側の豊前を除きますが)では本州のO音がU音と対応する傾向があることを知っています。栂(トガ)は栂(ツガ)ですし、大事はウーゴトですし、オッタマゲタはウッタマゲタ…となるのです。U音とO音の対応です。
つまり九州のイシヌキは本州のイシノキと対応しており、石貫(イシヌキ)は、恐らくイシノキの原型であり、「石木」、「石城」の事なのです。
山口県光市の神籠石はそのまま「石城山」として中国風表記がそのまま残っているようですが、この山口県東部には大山祇祭祀も多い上に、半島からモンゴル高原まで分布していたとされる古代朝鮮語の村、砦、集落を意味するムレ、ムル、モロ型地名と考えられる「群」「牟礼」型地名が多いこととも対応しているのです。
「牟礼」型地名については、ネット検索されれば山ほど展開されていますのでご自分でご確認ください。
ついでに、佐賀県の神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)も仮説を立てておきます。吉野ケ里の「里」型地名が佐賀県東半部には3000ほどの小字として残っています。「石動」(イシナリ)は石の里の事ですから、イシナリの「ナ」は「ソコナオナゴ」の「ナ」つまり「ソコノオナゴ」(「ナ」は所有の格助詞の「ナ」なのです)、であり、石ノ里の意味になるのです。そうです「里」は北朝鮮のミサイル発射実験場の舞水端里(ムスタンリ)核実験場の豊渓里(プンゲリ)などが代表的な地名で皆さんも良く聴かれているでしょう。
佐賀県の西部には伊万里焼の伊万里もありますね。つまり、石動(イシナリ)も石ノ里である事が分かるのです。 写真は国指定史跡 石城山神籠石(山口県光市、田布勢町)

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)