2025年05月09日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1064 宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか? ❸ “菊池氏は大山祇系=トルコ系匈奴(王照君 系南匈奴=東西分裂後の東匈奴の南北分裂による南匈奴)”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1064

宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか?

“菊池氏は大山祇系=トルコ系匈奴(王照君 系南匈奴=東西分裂後の東匈奴の南北分裂による南匈奴)”

20240907

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


再掲載


新ひぼろぎ逍遥 723 菊池氏とは熊襲(トルコ系匈奴)であった“ようやくその尻尾を掴んだ”20190129


 たあいもない邪馬台国九州説論者は可愛いだけですが、ただただ九州王朝論系の本を齧っているだけの古代史ファン(こういった方も所詮は研究者でもなんでもないのです)も殆ど議論されていない問題に熊襲の影が横たわっています。

 まず、九州王朝論者と言われる方でさえ肥後に肥前に対しては殆ど目を注いでおらず、ましてや、さらに南の古代日向の国=鹿児島、宮崎に至っては未知の領域として放置して来たのでした。

 その中で、唯一、存在感を示されたのが熊本市にお住まいだった故)平野 雅曠(ヒラノマサヒロ氏)=孤高の九州王朝研究者であり、もう一人の優秀な研究者の佃 収氏(存命) なのですが、平野先生の著書(「火の国山門」外3著)も真面目に読まれた方はほとんどおられないと思います。

 この辺りからして、九州王朝論を検証可能な場所が目の前に転がっているにも拘わらず、現地に足を運ぼうともせず、伝承を拾おうともせず、痕跡が残る寺社を調べようともしていないのです。

 古田武彦氏も鬼籍に入られ、それを継承せんとする○○古代史の会も自前の研究者を失い、一度も古田の著作を読んだこともないような会員の割合が増大し、今や通説派の教育委員会関係者や学芸員が流す大嘘を真に受け平伏するに至っているのです。

 このあまりにも情けない自称九州王朝論者の実態を見るにつけ、改めて古田の時代にだけに九州王朝論が存在していた事に気付くのですが、さて、愚痴はこの程度にして、前に進む議論を進めます。

 この神社の重要性をメンバーの数名に教えたところ一ケ月を待たずしてこの神社を見たいとの話が持ち上がり、福岡から大分から熊本から6名の参加者が集まり、車二台で参拝する事になりました。

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この狭上稲荷神社は西米良村という宮崎県でも辺境中の辺境の地なのですが、その中心地の村所地区からも7キロ登りさらに3キロ谷底に降りるとようやく辿り着く正しく辺境の地に息づき僅かな小平地に鎮座しているのが狭上稲荷神社なのです。

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既に直接的なリポートは ひぼろぎ逍遥(跡宮)の711712で書いています。


712

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(下)

711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上)


この神社の重要度は語り尽くせないほどですが、まずは祭神をご覧頂きましょう。

鹿児島、宮崎については明治期に祭神が入れ替えられているものがあまりにも多く、鹿児島、宮崎に関しては「神社誌」を持たない事から、以下のサイトを利用させて頂くことにします。


宮巡〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜運営:宮崎県神道青年会 による


九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川と板谷川の合流点に位置する。地内には二基の古墳があり、小川の古墳一基とともに西米良古墳として県史跡に指定されている。一基は菊池記念館の裏の山中にあり、一基は当社の南側に位置している。

旧称狭上稲荷大明神と称し、創立年月日は不詳であるが、社蔵の由緒記によれば次のごとくである。

皇御孫尊阿田之長屋にご臨座し、大山祇命の娘、姉の磐長比唐畏れ給い、妹の木花咲哉比東ワ十鈴川上川に去ってしまった。大山祇命は跡を慕いて狭上の深川に跡を垂れ給う。爰に御陵あり、しかし空国にして祭る者がなかった。世降りて当社御陵を知る人も稀になっていた。時に天正年中、山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。西世法師の夢に白髪の老翁が現れ、我は是れ大山祇命なり、我陵を以て稲荷を祭り尊敬せば汝が子孫長久なる事疑う事なし、と言われた。西世法師山谷の狐魅我を犯すとしてそのままにしていた。また夢見があったので此の神を祭り尊敬すると日数を経ずして白狐稗粟大小豆を携えて来て西世法師に与えた。その後米良佐太夫の時に新たに社を建立した。その子孫の米良半右衛門と言う者が球磨表に越したので、その後中武氏神司となりここに居住した。

この由緒によれば、創建は古く菊池氏の入所後、氏の弟米良佐太夫の再興に係り、その子孫によって代々護持されてきたものである。                     ( 児湯郡 / 西米良村 )


大山祇命 倉稲魂命 大宮姫命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先


 同社の由緒記によっても明らかですが、この神社は菊池氏によって造られている事が分かるのです。

 実はこの事が極めて重要で、これまで菊池氏が何者なのかを判別する必要から菊池系氏族の住み着いたと思えるエリアの神社をいくら調べても中々如何なる神を奉斎する氏族なのかが分からなかったのです。

 これまで菊池系の神社をかなり見てきましたが、菊池則隆、武光、武時…といった先祖神は祀られているのですが、神代に繋がる神々が全く見えないのでした。

 ところが西米良村という辺境中の辺境の地のさらに奥地に祀られた神社が大山祗系であった事が今回初めて解明できたのでした。以前気付いていたのは東米良の銀鏡神社の磐長姫程度であって、これだけでは解明ができませんでした。

南北朝動乱期に於いて絶えず宮方として阿蘇氏と共に闘い続けたのは菊池氏でしたが、この氏族が何者であるかは大きな謎でした。

 特に、阿蘇氏の異い鷹羽と同様に並び鷹羽(西郷系は一枚鷹羽)を紋章としてしている事から、阿蘇氏の分流などと間違った解釈をしていた時期もありましたが、どう考えても阿蘇氏とは異なる氏族である事への思いは強く、彼らが祀る神々を何としても着きとめたいと考えて付けてきました。

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ようやくここに至って分かって来たのですが、彼らが宮方として南朝に組して闘う時に自らが熊襲=朝敵である事を隠す必要があったからこそ自らが奉斎する神々を隠してきたことが分かったのでした。


天正年間とは言え生粋の菊池氏が山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師

の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。”が密かに持ち込んだ事実であり、まさに自らの氏族しか入り込まない安全な場所に於いて奉斎していたという事実は菊池氏が本来祀っていた祖神が大山祗系であったことが見えて来たのでした。ここで、百嶋由一郎最終神代系譜(一部)をご覧頂きましょう。

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鹿児島県だけで登場する大宮姫伝承の大宮姫(天智天皇のお妃との話も登場する)でこの女神様の存在だけは不明ですが、銀鏡神社の磐長姫も含めて考えれば、狭上神社に祀られている神々は大山祗系のそれなのであり、菊池氏とは大山祗系のトルコ系匈奴だった事が改めて浮き彫りになったのでした。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

712

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(下)

711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上)

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続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu

622

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

621

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)

   

ビアヘロ075 トルコ系匈奴が持ち込んだ地名について 


 ひぼろぎ逍遥

719

人吉盆地 あさぎり町久鹿の天子神社の「クシカ」とは

トルコ系匈奴の地名ではないのか? A

718

人吉盆地 あさぎり町久鹿の天子神社の「クシカ」とは

トルコ系匈奴の地名ではないのか? @


 今回の狭上稲荷神社の発見は極めて重要で、菊池氏の逃城として予め用意されていた東西米良、寒川などに奉斎されている神々を再度丹念に見ていく必要もあるのですが、狭上稲荷神社、児原稲荷神社から児湯郡から西都市に掛けての多くの稲荷神社の解析を行って行けば、西都市を本拠地とした大山祗系氏族の奉斎する神々が何かが浮かび上がって来るのではないかと考えています。

事実、西都市から宮崎市に掛けては異常なほどの稲荷神社の分布が認められます。

今後、我々の作業もこのエリアの稲荷神社の調査を行うことになるでしょう。

 もしかしたら、菊池氏の逃げ込み城、逃げ込み集落と言うよりも、元々菊池氏とは宮崎県西都市から都城市辺りから進出した氏族だったのかも知れません。

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そして、この一帯こそトルコ系匈奴の本拠地だった可能性が高いのです。

 その理由は、このトルコ系匈奴の一派が進出して来たのは少なくとも天孫降臨の前だった事は間違いがなく、天孫ニニギがコノハナノサクヤと出会い、大山祗から磐長姫とともに妃として送られ、妹のコノハナノサクヤだけが残されたという許しがたいふざけた話が残されているのです。

 勿論、百嶋神社考古学ではイワナガヒメ=アカルヒメとコノハナノサクヤヒメ=前玉姫とは姉妹の関係ではないのです。それには神代系譜を詳しく読み解いてもらう事になりますが、恐らく半島の新羅領域の金海伽耶の金 越智の一族が大陸の江南から進出した稲作漁撈の民であった倭人の領域を避け、稲作不適地であり空白地に近かった古代日向に進出した民族だったのです。

 そうすると、多分紀元百年程度の時期に半島から進出した民族だったと考えられそうです。

 その意味では、呉の太白の後裔氏族が列島に移動したのは呉の滅亡(前五世紀=473年)後でしょうからその時期に倭人が列島に移動し、その後も、越も楚も滅び、越人、楚人も入っているでしょう。

恐らく紀元前には雲南省から避退した黎族(阿蘇氏)、白族(天御中主命)が海南島を経由し肥後に入っているようです。

 既に、そこには朝鮮半島の伽耶を基盤にした高木大神系氏族が展開していたのですが、入婿として受け入れられたようです。

 このように多くの民族の進出によって列島の民族が形成されていったのですが、日本の歴史でもかなり重要な菊池氏に象徴される氏族が朝敵ともされた熊襲であり、だからこそ宮崎県都濃町に日向一の宮の都濃神社が鎮座し大国主命が主祭神とされていたのです。

大山祗系氏族をトルコ系匈奴と申し上げると違和感をお持ちの方は多いと思います。この疑問には、ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ075 トルコ系匈奴が持ち込んだ地名について を再掲載したいと思います。

 これまで何度も申し上げてきた事ですが、故)百嶋由一郎氏は大山祗系の人々とは半島の金海金氏であり、金首露王とアユタヤ王国王女(高木大神の同族)から送り込まれた許黄玉との間に産れた金越智氏と白山姫(白族)との間に産れているとお考えだったようです。

 さて、今回はこのトルコ系民族が持ち込んだのではないかと考えている地名の話をします。

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百嶋由一郎015金印神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残された音声CD、手書きデータ、神代系譜を必要とされる方は09062983254まで


始めにお断りしておきますが、これはトルコ語そのものといったものではないものの、この民族が定着した所に付されやすい地名と言った程度のものでしかありません。

吾平(アイラ)のようにハッキリしたトルコ語の音の置換えを意味してはいないものの、地域の祭祀と地名が対応することから、この地区は彼らが住み着いたものではないかと言った程度の話です。

「吾平」は神武僭称偽神武こと崇神(ハツクニシラス…)ではなく、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の本物のお妃となったアイラツヒメ「アイラ」がトルコ語のアイラール(月)と対応する明らかなトルコ語であることは、依然、お話しました。関心をお持ちなら以下をお読み下さい。


再掲載

ひぼろぎ逍遥 スポット055 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった”


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同様に元百嶋神社考古学グループの関東・ビューロー・メンバーの「宮古の縁側日記」でも本格的に取り上げておられます。

アイラと言う意味2016-08-01 12:41:04 テーマ:自然  前ブログでアイラツ姫について書いたのですが、他に気が付いた事があったので少しまとめておきます。

aylar- 名詞, トルコ語 | sprawk - ウェブ、あなたの道を翻訳 

https://www.sprawk.com/ja/term/トルコ語/aylar

aylar [Noun] 1. , つき (日本語) - one of the twelve divisions of the calendar year; 用語 "aylar"トルコ語翻訳、定義、例と一般的な関連語を持っています。

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そうです、トルコ国旗に描かれる通り、アイラツヒメとはアイラールaylar)姫(月子ちゃん)の事だったのです。

ニニギの墓とされる吾平山陵も良くよく考えれば奇妙な事に思えてくるのです。

ニニギの妃は神武の妃のアイラツヒメではなくコノハナノサクヤなのですから…。

 アイラール問題は一先ずおくとして、星は何かと調べるとユリディズ 「Yıldızでした。

地球:デュニャ 「Dünya月:アユ 「Ay 星:ユリディズ 「Yıldız 木:アアチュ 「Ağaç」(Tree)、タフタ 「Tahta」(Wood) 海:デニズ 「Deniz」 雪:エレクティリック 「Elektrik」 風:ルズガル 「Rüzgar

火:アテシ 「Ateş」 水:ス 「Su

「トルコ語で地球、月、星、木、海、雪、風、火」 から

星は何かと調べるとユリディズ Yıldızが気になりますが、まさか融月王のユーヅーではないでしょうね…。水:ス 「Su」もそのまま気になります。中国の淮水、弱水…といった川名は彼らによるものでしょう。

馬は…まあ、思考の暴走に陥るのでこの辺りでとめますが、神社のフィールド・ワークを続けていると、地名と大山祗、大国主系の領域にある種の対応に気付く様になってきます。

はっきり分かるのが、三日月であり、外にも石垣、柿ノ木、牟礼、群、諸…といったものがあるのですが、一度には片づけられませんので、少しずつ試みて見ようと考えています。

ちなみにトルコ語の三日月は Hilal ay (ayはアイラールですね)であり、馬は atだそうです。

では、第一回目として、気になっている三日月地名を拾うことにしましょう。

下調べのための作業用のノートをそのまま公開するのも申し訳ないのですが、所詮、専門家でもない素人の作業とお笑いください。しかし、三日月は現在のトルコの国旗にも採用されており、彼らにとっても最もシンボリックなものである事は確実です。

このように列島のどこかには必ず痕跡を留めているはずなのです。そして不思議な事に、日本は日の丸として太陽を、彼らは月と星を描いているのです。どちらにせよ、神武天皇のお妃の名がトルコ語だったのですから、外来語として色々な形で取り込まれているはずなのです。

 最低でも、鹿児島県の姶良も人吉の相良もアイラール起源かも知れないのです。        以上

ネットに公開する直前の編集時点での補足 20250424

百嶋最終神代系譜を見て頂くと金山彦自身はイスラエル系ですが、大幡主の妹埴安姫との間に生れたのが櫛稲田姫で、先のお妃の大山祇の姉のオチノ姫との間に生れたのが吾平津姫です。母親がトルコ系であることから、母親が月にちなんでアイラツ姫と名付けたのだと思います。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記