2025年05月06日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1063 宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか? ❷

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1063

宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか?

20240907

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊襲=トルコ系匈奴については、これらの系譜から読み取って下さい。これまで何度も申し上げてきた事ですが、故)百嶋由一郎氏は大山祗系の人々とは半島の金海金氏であり、金首露王とアユタヤ王国王女(高木大神の同族)から送り込まれた許黄玉との間に産れた金越智氏と白山姫(白族)との間に産れているとお考えだったようです。

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百嶋由一郎015金印神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで


以下、補足と言うより蛇足に近いですが、興味がおありならお読みください


再掲載


新ひぼろぎ逍遥 700 白浪五人男も天御中主系の人々ではないのか 20181016


 「白浪五人男も天御中主系の人々ではないのか」と、言っても、元々、創られた架空の話であってこのようなことを考える事には何の意味もない、言わば只の遊びですから気楽に考えて頂きたいと思います。

 一般的に「白浪物」と言えば石川五右衛門とか鼠小僧次郎吉…といった盗人物なのですが、最も人気があるのが、白浪五人男の二幕目第三場「稲瀬川勢揃いの場」での「志らなみ」の傘をもっての揃い踏みになるでしょう。

 この五人衆を見ていると、設定が江戸〜上方が東海地方だったとしても、どうも白族(天御中主〜大幡主〜ヤタガラス)の匂いがしたため、少し探ってみようと思ったのです。

最低でもこの出し物を考えた人々の中にはこの白族の血が継承されているような気がしたからでした。

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ペリーの来航から日も浅い嘉永末年の江戸は、屋台骨が揺らぎ始めた幕府のもと、雄藩の藩士や郷士が日夜気ぜわしく道を行き交う、騒然とした世相にあった。政情の先行きが不透明ななか、人斬り浪人が横行するようになると江戸の治安も乱れはじめ、庶民の不安は募るばかりだった。

そんななか、講釈師・二代目松林伯圓がつとめる盗賊を主人公にした講談が人気を集めるようになる。これに目をつけた二代目河竹新七(のちの黙阿弥)は、盟友・四代目市川小團次のためにこれらの講談を次々に脚色して歌舞伎化した。これが白浪物の興りである。

安政年間から新七は実に次から次へと白浪物を書き連ね、それを小團次が次から次へと演出して舞台で主役をつとめたので、前者は「白浪作者」、後者は「白浪役者」と呼ばれるようになった。小團次にいたっては「白浪役者」がさらに転じて「泥棒小團次」とまで呼ばれるようになり、この人聞きの悪いあだ名にはさすがの小團次も閉口したという。


ただ、何故「白波」「白浪」が盗賊に通じるのかが分からないのです。

まさか、白族が倭人や倭寇の海賊行為に繋がるとの意識が働いているのではないかとも思わないではないのですが。以下で少し謎が解けました。


「白浪」の由来 「白浪」の名称は、かつて中国で「盗賊」を意味した「白波賊」(はくはぞく)という語に由来する。後漢末に黄巾の乱を起こした盗賊・張角の残党が、のちに河西(現在の山西省)の白波谷(はくはこく)に立てこもったことから白波賊と呼ばれるようになったが、後になるとこれが盗賊を意味する語として定着した。日本では近世にこの「白波」が訓読みされて「しらなみ」となり、さらにこれに当て字した「白浪」が義賊を表す語として定着した。

ウィッキペディア(20181016 1403による


日本 駄右衛門 にっぽん だえもん    変名 玉島逸当(たましま いっとう) 玉」も八咫烏

問われて名乗るも おこがましいが産まれは遠州 浜松在十四の年から 親に放れ身の生業(なりわい)も 白浪の沖を越えたる 夜働き盗みはすれど 非道はせず人に情けを 掛川から金谷をかけて 宿々(しゅくじゅく)で義賊と噂 高札に廻る配符の 盥越し(たらいごし)危ねぇその身の 境界(きょうがい)も最早(もはや)四十に 人間の定めは僅か 五十年六十余州に 隠れのねぇ賊徒の首領 日本駄右衛門


掛川から金谷の金谷とは 三重県伊賀市川西金谷のことですし、伊賀氏は伊賀伊予守(大山祇を暗示)


 弁天小僧 菊之助 べんてんこぞう きくのすけ

さて其の次は 江の島の岩本院の 児(ちご)上がり平生(ふだん)着慣れし 振袖から髷(まげ)も島田に 由比ヶ浜打ち込む浪に しっぽりと女に化けた 美人局(つつもたせ)油断のならぬ 小娘も小袋坂(こぶくろざか)に 身の破れ悪い浮名も 竜の口土の牢へも 二度三度だんだん越える 鳥居数八幡様の 氏子(うじこ)にて鎌倉無宿と 肩書も島に育って 其の名さえ弁天小僧 菊之助(菊池の「菊」ですね)


以下、 無題.png無題.pngより


 かつて江の島には、岩屋本宮、上之宮(中津宮)、下之宮(辺津宮)の三宮があって、それぞれ、岩本坊、上之坊、下之坊という別当寺があった(いずれも古義真言宗)。

 現在の旅館岩本楼は、岩屋本宮の別当「岩本坊」。岩本坊は、一山の総別当だったといわれ、「江島寺」とも呼ばれていたという。

 中世には間宮氏が経営し、岩本楼には、鎌倉公方足利成氏から間宮氏に送られた感謝状をはじめ、小田原北条氏からの書状が残されている。

 江戸時代には京都仁和寺の末寺となり、江戸幕府からは、1649年(慶安2年)、江の島全山の山林竹木等諸役免除の朱印状が与えられ、1706年(宝永3年)には、片瀬村に社領15石の朱印地が与えられた。また、江戸時代には、院号の使用が許され「岩本院」と称していたという。(仁和も八咫烏系)


忠信 利平 ただのぶ りへい

続いて次に 控えしは月の武蔵の 江戸育ち幼児(がき)の頃から 手癖が悪く抜参りから ぐれ出して旅を稼ぎに 西国を廻って首尾も 吉野山まぶな仕事も 大峰に足をとめたる 奈良の京碁打(ごうち)と云って 寺々や豪家へ入り込み 盗んだる金が御嶽の 罪科(つみとが)は蹴抜(けぬけ)の塔の 二重三重(ふたえみえ)重なる悪事に 高飛びなし後を隠せし 判官の御名前騙り(おなめぇがたり)の 忠信利平


赤星 十三郎 あかぼし じゅうざぶろう

又その次に 連なるは以前は武家の 中小姓(ちゅうごしょう)故主(こしゅう)のために 切取り(きりどり)も鈍き刃(やいば)の 腰越や砥上ヶ原(とがみがわら)に 身の錆を磨ぎ直しても 抜き兼ねる盗み心の 深翠(ふかみどり)柳の都 谷七郷(やつしちごう)花水橋の 切取りから今牛若(いまうしわか)と 名も高く忍ぶ姿も 人の目に月影ヶ谷(つきかげがやつ)神輿ヶ嶽(みこしがたけ)今日ぞ命の 明け方に消ゆる間近き 星月夜其の名も 赤星十三郎

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現在も熊本県山鹿市の中心部に「十三部」(実は久留米市にも)があり偶然ですが赤星歯科まで…


砥上ヶ原は藤沢の地名です。また、谷を「やつ」と呼ぶのは、東日本であり(一部薩摩にも)、月影ヶ谷(つきかげがやつ)神輿ヶ嶽 も鎌倉の地名ではあるのです。

ただ、勝手ながら「赤星」姓の集積と「十三」地名が重なるのは山鹿市になるのです。


南郷 力丸 なんごう りきまる 漁師崩れの早瀬主水家若党 四十八(よそはち)

さてどんじりに 控えしは潮風荒き 小ゆるぎの磯馴(そなれ)の松の 曲りなり人となったる 浜育ち仁義の道も 白川の夜船へ乗り込む 船盗人(ふなぬすびと)波にきらめく 稲妻の白刃に脅す 人殺し背負(しょ)って立たれぬ 罪科(つみとが)はその身に重き 虎ヶ石(とらがいし)悪事千里と いうからはどうで終い(しまい)は 木の空と覚悟はかねて 鴫立沢(しぎたつさわ)しかし哀れは 身に知らぬ念仏嫌ぇな 南郷力丸


鴫立沢(しぎたつさわ)も大磯の地名ですね。この程度の薄い材料でここまでやることに意味はないのですが、まず、弁天小僧吉之助に宗像三女神の影を見出したのが切っ掛けでした。

 勿論、弁天様=弁財天様は江戸期に流行したインドの水の神様ですが、それは神社への信仰の強化を企図したもので、その実体は白族の一派である宗像の市杵島姫に通じるのです。

 市杵島姫も天御中主や罔象女と共に水分神(ミクマリ)の水の神様ですよね。

 そう考えて、キャッチ・コピーに登場する江の島の岩本院を洗うと、京都仁和寺の末寺ですから石清水八幡系であり、宗像大社の岩屋本宮、上之宮(中津宮)、下之宮(辺津宮)の三宮でしたので、まずは、ピッタリと言った訳で、ここでは大幡主系と五人衆の一角がかなり鮮明に繋がったのでした。

 そもそも岩本姓も橘一族と繋がるもので、男山八幡宮48坊にも岩本坊があるのです。

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日本 駄右衛門 もその変名に玉島逸当があり、「玉」が入るのも、豊玉彦、鴨玉依姫…に通じますね。

赤星 十三郎 もどう考えても、九州の橘一族を感じてしまうのです。何故かと言われれば、赤星姓が集中する菊池市の奥には橘一族の直系の橘 諸兄を主神とする天地元水神社までがあるからなのです。

いずれにしても橘一族(白族後裔)の流れを汲む人物が「白浪五人男」の創作に何らかの形で関与しているのではないかと考えていましたが、やはりそうでした。

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青砥稿花紅彩画 石川五右衛門、鼠小僧と並ぶ日本屈指の盗賊「白浪五人男」の活躍を描く。

明治の名優五代目尾上菊五郎の出世芸となった作品。17歳の時から生涯6度演じており、最後の舞台も弁天小僧だった。菊五郎の自伝によれば芝居の関係者の直助と言う男が三代目歌川豊国画の錦絵を見せに来たら、自分自身が弁天小僧の扮装で抜き身の刀を床に突き刺して酒を飲む絵柄だったので早速河竹新七に脚色を依頼したとある。

別の説ではある日新七が両国橋で女物の着物を着た美青年を見かけてみてふと思いつき、そのことを豊国に話すと豊国はそれを錦絵にしてさらに新七がそれをもとに劇化したという。劇の宣伝文である「語り」には「豐國漫畫姿其儘歌舞伎仕組義賊傳」(大意:豊国の下絵に描かれた姿をそのまま歌舞伎に仕立て上げた義賊伝である)とあり、いずれにせよ豊国の作品からヒントを得て作られたことは間違いない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 お分かりでしょうか?豊国なる人物こそ豊玉彦=豊国主=八咫烏の別名、秦氏なり大幡主に関わる人物だったようなのです。以上 さて、ここから本題に入ります。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記