ひぼろぎ逍遥(跡宮)A 1061 高森町の永野祖母嶽神社は祖母山一帯で最も価値ある一社
20240905
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
大分、宮崎との県境に接する熊本県の南阿蘇でも高森町の最深部に於いて5社を廻る神社トレッキングを行いました。
8月18、25日の二回のトレッキングで廻った5社は、以下の通りです。
18日は、30人と参加者が多かった事から➎の 永野祖母嶽神社 を外しました。それは、道路工事によって、駐車場と神社への進入路に問題を感じたからでした。ところが、25日は参加者が10人程度と少なかったため、➍ 尾下菅原神社を外し懸案であった ➎ 永野祖母嶽神社 を訪れたのでした。
と、言うのは車10数台で山奥の小集落に入るのは難しいと判断したからでした。しかし、同神社はこの間考えてきた、祖母山山頂に祀られる祭神の問題に決着を着ける価値ある1社だったからです。

永野祖母嶽神社 カーナビ検索 熊本県高森町都留 (地番確認中)取り敢えず2823付近

「熊本県神社誌」に於いて185pの最後尾に書かれる“村社祖母神社は、高森町役場から東1キロの町の外れにある旧村社”とされ、大分県境に近接する祖母山に近い永野祖母嶽神社とは異なります。
「熊本県神社史」では阿蘇津姫命以下9柱とされるもので全く祭神が異なるのです。
と、すると、ネット情報と同地の方からの聴き取りする以外にはなく、18日のトレッキングに参加された方々にも呼びかけ、再度、この一社だけを対象にした調査トレッキングを企画しても良いと思っているところです。それほどの価値がある一社だったのです。
永野祖母嶽神社の祭神問題
1)永野祖母嶽神社 |南阿蘇 高森町ポータルサイト

熊本県阿蘇郡高森町津留2823付近(甲斐様傍)
『永野祖母嶽神社』は、隣は大分県竹田市という高森町の東端、野尻地区の永野集落にあります。 御祭神は、天つ日高日子穂穂出見命(アマツヒコヒコホホデミノミコト)=山幸彦、豊玉毘賣命(トヨタマヒメノミコト)、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)、玉依毘賣命(タマヨリヒメノミコト)、神日本磐余彦命(カムヤマトノイワレヒコノミコト)=神武天皇、吾平媛命(アラヒメノミコト)、木花佐久夜毘賣(コノハナサクヤヒメ)です。 “日向三代”(コノハナサクヤヒメ、ホヲリノミコト(山幸彦)、ウガヤフキアエズノミコト)と言われる歴代の神々とその妃神が祀られており、阿蘇系の神が入っていないという不思議な神社です。 |
この祭神がそのまま信用できればその通りなのですが、もう少し落ち着いて考える必要がありそうです。既に、熊本県神社史には搭載が無いことは明らかです。結局、独力で祭神を復元する事が必要です。
ここで、少し視野を拡げて目と鼻の先にある県境を越えて高千穂町河内の奥にある祖母嶽(そぼだけ)神社を見ましょう。昨年秋の高千穂町トレッキングで訪れた神社です。

御祭神日子穂穂出見命(ひこほほでみのみこと)・豊玉姫命(とよたまひめのみこと) |
天津湯彦命(あめつゆひこのみこと)が分かり難いですが、こちらも豊玉姫をメインに阿蘇系の意思が貫徹されている様に見えます。天津湯彦命は「先代旧事本記」(旧事紀天神本紀)では、安芸国造等祖となっているので、その手の検索を試みて下さい。まあ現段階では逃げておきます。ただ、高千穂町河内一帯にも物部系の神は複数確認することができます。
ところが、現地を踏むと高森教育委員会作成と思われる標柱に由緒が書き留められていたのです。
➊ 筆頭に書かれた 3神 日子補々出見命・豊玉比当ス・鵜芽葦不合命 は、山幸彦、豊玉姫、ウガヤフキアエズであり、俗に「海幸山幸神話」に登場します。我々、百嶋神社考古学の者からは言わせれば、海幸彦=草部吉見=ヒコヤイ(ハエ)ミミから釣針(チ)を借りた山幸彦(猿田彦=ニギハヤヒ=後の伊勢の外宮豊受大神の第二夫神)がそれを失い、途方に暮れていたところ通りすがった塩土(筒)老翁が龍王の住む龍宮(対馬の木坂の海神神社=対馬國一之宮 海神神社)or和多都見神社と考えられています)に行けとアドバイスした事はご存じのとおりです。

対馬市 豊玉町 仁位 字 和宮 和多都見神社(山幸と豊玉姫が出会い
三年添ったのはこちらでしょうね)
❷ 天依比古命は飯依比古命・少彦名命とする説がありますが、当面、保留させて頂きます。
❸ 神日本磐余彦命・吾平姫命は、初代神武とその御后です。通説の崇神こそ本物の初代神武天皇説は、そうしたい後の藤原が捏造したもので、言われる所の神武僭称贈る崇神(ハツクニシメススメラミコト)初代天皇とする大嘘は百嶋神社考古学は、一切認めません。当時、若き神武=狭野命(鹿児島県高原狭野神社)は吾平津姫(宮崎県日南市油津 吾平津姫神社)と巡りあうのです。その本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)が金山彦の長女の吾平津姫を后とし、第4代威徳天皇が生まれるのです。しかし、その吾平津姫は神武巡行(東国への調査旅行に出かける)神武と別れ、阿蘇神社の最奥神殿に祀られている金凝彦(第2代贈る綏靖)と一緒になるのです。これで阿蘇氏は天皇家の血筋であると強弁しているのです。
❹花房姫 この女神様は高千穂町河内の上野神社で発見して以来、かなりの間 正体が分からなかったのですが、大分の耶馬渓に花房姫神社が在ることに気づきナガスネヒコの妹オキツヨソタラシ姫と分かりました。詳細は、新ひぼろぎ逍遥 スポット 327 宮崎県高千穂町上野の上野神社の花房姫を大分県中津市山国町守実温泉の英山社に確認した 中)をお読みください。
❺ 木花開邪姫命も高木大神の息子ニニギの妃となった美しい女神として知られます。この方は大山祇の娘で大国主命の妹になるのです。これらの記述はかなり正確に伝えられています。ただ、にわかには理解できないと言われる方も多いでしょうが、悲しい事にそれが現在の神社を取り巻く世界の偽らざる実情なのです。


❻ 最期になりますが、祖母岳大明神の下宮 と言う表現(実名を隠して)で偽装されていますが、恐らくこの一柱こそが、この神社の元々の本物の祭神である金山彦の息子で吾平津姫の兄でもある神武皇兄五瀬命(五ヶ瀬町に居たからこそ五瀬命(別名:武雄霜凝彦)とも呼ばれた若き金山彦の息子なのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)一度に多くの神々を表示するには150%程度に拡大してご覧ください
大分県竹田市の健男雄霜凝彦神社

祭神 健男霜凝彦(金山彦の息子)=神武皇兄五瀬命 神武の義理の兄
由緒
祖母山山頂の上宮、祖母山北麓の下宮・神幸所、及び穴森神社 健男霜凝日子神社、延長5年(927)編纂『延喜式』にて豊後国の式内小社として記載された健男霜凝日子神社の論社ろんしゃです。下宮は、南面祖母山と対する山稜の中腹、約240段の石段を登った岩窟内に鎮座しています。
「九州の神社」様より

健男霜凝日子神社は上宮(祖母山の山頂)、下宮(麓の神原地域)、そしてここ神幸所の
3ヵ所からなり、嫗岳大明神や健男社(たけおしゃ)とも呼ばれる。
祭神は、健男霜凝日子神(風雪、除雪の神)、彦五瀬命(神武天皇の兄)、豊玉姫(海の神)。
さらに、合祀などで15神を祀っている。
「たけ旅 観光スポット」様より
大分県豊後大野市の健男霜凝日子神社


大雑把ですが黄色の破線左が竹田、右が豊後大野です。
左の阿蘇大蛇伝説の発端となった穴森神社と健男霜凝日子神社がありますが、右の豊後大野側にも健男霜凝日子神社があります。この祖母山北麓の東西に健男霜凝日子神社が在り、外にも九重、久住…一帯にもそれほど多くはありませんが、同じの神社が存在しています。
それこそが、祖母山頂に豊玉姫と姥岳神社として鴨玉依姫が祀られる前に存在した金山彦系の先在神だった事は疑い様がありません。
同様の意味で、この永野祖母嶽神社とは祖母山南麓で健男霜凝日子を奉斎する貴重な一社と言えるのです。勿論、高千穂の最奥部の土呂久地区の祖母嶽神社にもその痕跡は辿れますが、それは事実上消失の際に近づいており、この永野祖母嶽の存在の貴重性は特筆すべきものと言えるのです。
この神社の特徴は、高森町の最奥部とは言え、完全に阿蘇系の痕跡を持たない、表面的にも祭神に阿蘇系が存在しない神社であり、それだけでも貴重な古層を凍結保存した神社であると言えるでしょう。
表向き祭神とされている8神にさえ、阿蘇系の片鱗さえも認められず、祭神ではなく伝承とはするものの、祖母山には豊玉姫命、武雄霜凝彦命一柱二柱の神を崇めまつるという。祖母山に豊玉姫が祀られる以前の、非業の死を遂げた神武皇兄五瀬命を単独で崇め癒す祭祀さえも思わせる時代さえ今に伝える神社と言えるのです。その意味では、実に素晴らしい一社を発見させて頂き良い経験をさせて頂きました。
最期に、古層を留める貴重な神社とは言え、尚も豊玉姫を祀る意味は、高千穂の三田井と国境を接する神社であることが関係していると思います。それは、豊玉姫の父神は八咫烏=豊玉彦(神産巣日、神皇産霊、神魂…の息子)ですが、母神は高木大神の長女豊秋ツ姫(次女は草部吉見の妃となった栲幡千千姫命)であり、高千穂の最高神の高木大神への畏怖と恭順を見せている事も同時に思わせるのです。ここで紙面編集の都合により終わりとしますが、神殿内には10体と20体とも言われる神像があるのです。この解析まで踏み込みたいのですが、再訪し、お許しを得てお話をお聴きした後からと考えています。
これも含めて、続編を書くことになると思います。
さて、境内を散策していたメンバーから「八角」があるとの声が上がりました。スターアニス(Star Anise ~ Certified Organic)です。四川省なども産地である貴重極まりない中国の漢方薬の一つです。これは(トウシキミ「樒」=しきみ)とも呼ばれていますが、これで、高千穂町河内に四季見原があり、祖母山に向かう高森町の東北部に色見の熊野坐神社、上色見熊野坐神社が在る意味が分かってきました。長崎市式見も併せ考えると八咫烏が関係してますね。マツブサ科シキミ属の常緑小高木これは仏教との関係も深く、墓花とも言われるものです。
「花房姫」修正バージョン
➊ 筆頭に書かれた 3神 日子補々出見命・豊玉比当ス・鵜芽葦不合命 は、山幸彦、豊玉姫、ウガヤフキアエズであり、俗に「海幸山幸神話」に登場します。我々、百嶋神社考古学の者からは言わせれば、海幸彦=草部吉見=ヒコヤイ(ハエ)ミミから釣針(チ)を借りた山幸彦(猿田彦=ニギハヤヒ=後の伊勢の外宮豊受大神の第二夫神)がそれを失い、途方に暮れていたところ通りすがった塩土(筒)老翁が龍王の住む龍宮(対馬の木坂の海神神社=対馬國一之宮 海神神社)or和多都見神社と考えられています)に行けとアドバイスした事はご存じのとおりです。
❷ 天依比古命は飯依比古命・少彦名命とする説がありますが、当面、保留させて頂きます。
❸ 神日本磐余彦命・吾平姫命は、初代神武とその御后です。通説の崇神こそ本物の初代神武天皇説は、そうしたい後の藤原が捏造したもので、言われる所の神武僭称贈る崇神(ハツクニシメススメラミコト)初代天皇とする大嘘は百嶋神社考古学は、一切認めません。当時、若き神武=狭野命(鹿児島県高原狭野神社)は吾平津姫(宮崎県日南市油津 吾平津姫神社)と巡りあうのです。その本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)が金山彦の長女の吾平津姫を后とし、第4代威徳天皇が生まれるのです。しかし、その吾平津姫は神武巡行(東国への調査旅行に出かける)神武と別れ、阿蘇神社の最奥神殿に祀られている金凝彦(第2代贈る綏靖)と一緒になるのです。これで阿蘇氏は天皇家の血筋であると強弁しているのです。
❹ 花房姫 この女神様は高千穂町河内の上野神社で発見して以来、かなりの間 正体が分からなかったのですが、大分の耶馬渓に花房姫神社が在ることに気づきナガスネヒコの妹オキツヨソタラシ姫と分かりました。詳細は、新ひぼろぎ逍遥 スポット 327 宮崎県高千穂町上野の上野神社の花房姫を大分県中津市山国町守実温泉の英山社に確認した 中)をお読みください。
❺ 木花開邪姫命も高木大神の息子ニニギの妃となった美しい女神として知られます。この方は大山祇の娘で大国主命の妹になるのです。これらの記述はかなり正確に伝えられています。ただ、にわかには理解できないと言われる方も多いでしょうが、悲しい事にそれが現在の神社を取り巻く世界の偽らざる実情なのです。
❻ 最期になりますが、祖母岳大明神の下宮 と言う表現(実名を隠して)で偽装されていますが、恐らくこの一柱こそが、この神社の元々の本物の祭神である金山彦の息子で吾平津姫の兄でもある神武皇兄五瀬命(五ヶ瀬町に居たからこそ五瀬命(別名:武雄霜凝彦)とも呼ばれた若き金山彦の息子なのです。
強い関係性が有りますので興味を持たれた方はこちらもお読みください。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
980 | 祖母山を南から見ると ❷ “元々山頂に祀られていたのは 神武皇兄五瀬命だった” |
979 | 祖母山を南から見ると ❶ “祖母山は元は神武皇兄五瀬命 を祀っていたか?” |