ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ241 新ひぼろぎ逍遥 @ 1081の掲載
2025年1月新春三社詣り神社トレッキング(ガランドヤ古墳+石井神社…外)参加の日田市の皆さんへ
20250115
太宰府地名研究会 古川 清久(現日田市在住)
日田市で三度目のトレッキングを行うに際して、以前から考えてはいたものの尻込みしていたテーマにいよいよ杉山氏(「事代主のブログ」管理者)が、磐井の乱の石井(「古事記」は石井と書いている事から…)の問題に踏み込んで頂けることに期待しているところです。
さて、日田についても ひぼろぎ逍遥+○○神社 などダブル検索をされればお分かりになる通り、大原八幡宮から玉川町の玉垂宮、有王社、五十鈴神社、金凝神社…外、多くの神社や史跡を取り上げてきたことをご存じの方もお有られるかも知れません。まずは、入口、周辺から。
最近取り上げたテーマでは、久留米〜日田を繋ぐ国道210号線で現在代替えトンネル工事が行われている加々鶴(カカヅル)トンネルの「カカ」とは蛇を意味している…としたブログでした。
ひぼろぎ逍遥(アメーバーブログ)
257 日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする民俗学者吉野裕子説から”
20151026
新ひぼろぎ逍遥(さくらブログ)
1003 再び大分県日田市の「加々鶴」地名を考える 20240108
詳細はネット検索されるとして…その一部を紹介します
この加々鶴地名の「カカ」は「オカガミ」山か「蛇行部」を以て、蛇を神と見なす海人族に「カカ」と名付けられた可能姓はあると思います。では、「鶴」はと言えば、蛇行地を蔦の蔓とも見立てられますし、鶴(鶴自体が蔓から付された名称でしょうが)の首状の地形に見える事から「鶴」が充てられたとも言えるでしょう。尚、地名研究では「鶴」地名は断崖地名(足摺岬)ともされますので申し添えます。
東京教育大学文学博士の吉野裕子が提案したのは蛇(ヘビ、ヘミ)がヤマカガシ、御鏡餅(ヘミのとぐろ)、山田のカカシ…に象徴されるとして提案したのですが、皆さん良く御存じの夜明の急流の筑後川の大蛇行(岩塊の断崖絶壁)を大蛇に見たてたのが、筏流しを行った海人族だったはずなのです。それが判るのが、夜明駅正面の合流部に志賀神社(志賀島の安曇族)が鎮座している事です。
そして日田市に編入された天ケ瀬温泉の天瀬町に海人の意味が込められている事からも解るのです。左はP.P.
最近、考えている事に、“日田は臨時首都だったのではないか…”と言うテーマが有ります。
何を言っているのかと思われる事は十分理解しますが、最低でも夜明の大峡谷を知るならば、そう考えるには理由が有るとご理解頂けるのではないかと微かな希望を持っています。
それは、球磨川、川内川をも上回る水量を持つ九州最大の大河筑後川を溯上することは、古代には極めて困難で、仮に迂回するとしても2〜3倍の労力と時を必用とする上に、仮に強行突破するとしても三国志の世界の桟道を造るしかなく、山上から岩を落とされる危険を考えれば諦めざるを得ないと思うからです。
もし、正規戦を考えるとしても、兵員の補充、物資の搬送=兵站を考えれば、上流側が有利な上に、上流の崖上に少数の弓兵を配置すれば、敵の矢は届かない上に、崖上からは一方的に攻撃ができる訳で、敵の進軍は容易に阻止できるどころか殲滅できる事になる訳です。
それが、大東亜戦争の超ド(ドレッドノート)級戦艦の大艦巨砲主義に拘った遅れたアウトレンジ戦法だったのでした。
既に、プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス…英国東洋艦隊を台湾、仏領インドシナを経由した96艦攻、一式陸攻85機が壊滅させた、アウトレンジ戦法は究極の航空攻撃に変っていたからでした。
ただ、このアウトレンジ戦法は古代には効いたはずであり、日田は西に対して鉄壁の要害を持つ内陸部の安全な土地であり、国であったと思うのです。
これは、よそ者だからこそ羨望のまなざしで日田にビームを送る戯言と言えばその通りです。ただ、大峡谷は日田の奥にも在る事はお分かりだと思います。それは松原、下筌ダム前後の懸崖は、一つは菊池への(兵戸峠)、もう一つは阿蘇小国への進入路でもあるのです。これほどの要害は、南北朝期に兼永親と側近の五条家が盾籠もった日向神ダムの矢部村が浮かびます。
ただ何方が守る側であるかでベクトルはたちどころに入れ変わる訳で、元寇を前にした北条政権が武田鉄矢のご先祖の一族(今も現地に50家は在るのです)が南小国町に配置され万願寺に置かれた地頭 北条氏と北条政権の防衛に当たっているのです。
始め阿蘇氏への防御も考えはしたのですが、そもそも北条氏は愛媛経由で東海、関東に入った阿蘇系氏族で、その証拠と言われれば三つ鱗の紋章を使っているからです。そうです「平家物語」にも登場する豊後大野に展開した阿蘇大蛇伝説の大神惟基、惟栄(宇佐神宮焼討で知られる)だった訳で、一応、警戒はするも心配はしてはいないなかったはずです。
それも、大山から続く杖立温泉周辺の200mの大峡谷があったからで、杖立川の鈴ケ岳〜下城橋梁辺りに弓兵の500も並べれば、モンゴル軍(実際は大半朝鮮人+中国江南軍)だろうが、容易に防衛できたはずなのです。この鈴ケ岳という地名も現地の北条氏が付したものではないかと考えていますが、それは、天ケ瀬温泉と豊後中川駅辺りに五十鈴神社が在るからです。下城から南小国居る人々に鎌倉武士団の屈強な末裔もかなり居られるようです。
因みに、五十鈴神社の五十鈴姫様は、阿蘇北宮=国造神社の大山咋(父母神:阿蘇草部吉見、市杵島姫)=日枝山王=松尾大神=佐田大神(現在島根県神社庁は猿田彦に替えていますが)=出雲二宮佐田大神と下賀茂の鴨玉依姫との間に生れた活玉依姫と事代主の間に生れたお姫様で、藤原が第10代とした神武僭称贈る崇神のお妃になった今で言えば皇后様という事になるのです(我が百嶋神社考古学ではそもそも崇神を天皇とは認めませんが)。その五十鈴姫様の五十鈴を頂き鈴ケ岳としたのは阿蘇氏の流れを汲む北条氏と見るのですが、山に問うたとしても、ただ、やまびこが返るだけでしょう。同地の神社10社程を見せて頂いたのですが、確証は得られないのは当り前ですね。付言すれば、崇神の子に豊城入彦がいます。当時、崇神は確実に豊後に居たはずで、久留米の高良大社と頻繁に移動していたからこそ、同地に五十鈴姫が居られ、久留米市の手前の田主丸に「豊城」交差点が今も確認できるのです。百嶋由一郎も間違いなく豊城入(ニュウ)彦は実際に同地に住んで居たと言っておりました。つまり、崇神(ハツクニシラス)も息子も豊と久留米を頻繁に移動していたのです。ついでと言うか行き掛り上と言うか、日田市に大山町が編入された事にも思いを馳せています。それは、木の花ガルテンに関する話になります。ドイツ語は兎も角も、木の花とはどう見てもコノハナノサクヤ=木花之佐久夜毘売の事ですよね、彼女は高木大神のドラ息子ニニギの妃になるのですが、姉のアカル姫を返した事で良く知られていますが(勿論、実の姉でもなんでもないのですが)、これは複雑な説明になりますのでここでは触れません。
この神代の美しい女神が、日田の近所に居たという話はついぞ聞いた事もない話であり(普通は通説のインチキ神話に準え大山祇の本拠地の古代日向(鹿児島+宮崎)とするはずですが、良くもガルテンというか大山町が建設に関わるコンサルタントの提案を採用したものだと感心しています。どうも宮崎神話を検証していると、日田が舞台かもとも思う様になったのは、幾つか思い当たる事があったからです。それは、造化三神の神産巣日、神皇産霊、神魂(カミムスビ)=博多の主神 櫛田神社の大幡主の子である八咫烏と木花之佐久夜はニニギと別れた後に一緒になっている事に思い至ったからでした。これについては、以下を検索して頂きたいのですが、現霧島市の鹿児島空港付近の非常に分かり難い場所に、前玉神社が在り、最終的に埼玉県の行田市の前玉(サキタマ)神社と成り、埼玉県の県名にまで成っているのです。
このお二人の間に生れたのが神主玉の一族で関東武士団=鎌倉殿の13人に成っておられる可能性もあるのです。鎌倉政権は岩清水八幡系の橘一族がプロデュースした復活した物部氏(貴族化した阿蘇氏=藤原は関東武士団をモノノフ=物部氏と知っていたのです)の新興政治勢力集団だったのです。
ひぼろぎ逍遥 67 霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る
ひぼろぎ逍遥(跡宮)23 コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪
前玉神社 キタマジンジャ 祭神 福玉大明神 サチタマダイミョウジン 霧島市溝辺町三縄204↓

恐らく、それに類する話をガルテン建設の砌、伝えられていた地元関係者(まあ寺社ですね)の話を拾ったからこそこの名が付されたのではないかと思うようになったのです。
大山町は間違いなく日向から北上した熊襲=大山祇系氏族(半島の金冠伽耶国の金海金氏=東西分裂後の東匈奴の南北分裂により南下した王昭君の末裔)の一族で、コノハナノサクヤもトルコ系の美形だったはずなのです。そこで、思い当たるのが、大山町の大山水天宮社です。これ以外は考えられません。八咫烏が日田に居たことは色々な痕跡があり間違いないと思っていますが、久留米の水天宮はそもそも八咫烏の伯母に当たり造化三神のお一人です。夫は「古事記」1巻冒頭にも僅かに登場するウマシアシカビヒコジ=トルコ系匈奴の権化とも言うべき隠された神なのです。熊本城の最下部に昭君の間が置かれた事も秀頼を迎え徳川と一戦と城造り邁進した清正公のやった事なのです。杷木は大山祇系の町ですしね。
日田の南の筑後川分流に大山町が在る理由は間違いなく首都防衛のための防衛軍だったはずです。
あまりにも多くのテーマを乱発するのも考え物ですので、そろそろ、臨時首都日田と言う話に持っていきたいのですが、以下の様にかなりの数になりますので詳しくはそちらをお読みください。
1030日田を八咫烏王国とすると 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(収稿)“川上神社は牛頭天皇社なのか”❾
1022 日田を八咫烏王国とするとかつて取り上げた宇佐は駅館川河口の川上神社が蘇ってきた ❶
1022 | 日田を八咫烏王国とするとかつて取り上げた宇佐は 駅館川河口の川上神社が蘇ってきた ❶ |
1021 | 有王社は蟻通神社だった “有王社は、何故、周防の 櫛崎から持ち込まれたのか” |
1020 | 有王社は蟻通神社 ❿ “推定 祭神を入れ替えた大蔵 氏入府以前の日下部氏とは何か?” |
1019 | 有王社は蟻通神社 ❾ “祭神を入れ替えた後漢靈帝の 別れ阿智王の一族としての大蔵氏” |
1018 | 有王社は蟻通神社 ❽ “事代主のブログ氏の蟻通神社”を転載 |
1015 | 豊後の夜明ダム正面に行徳家本家がある ❼ “有王社の 基層に蟻通神社があったと考えたならば“ |
1014 | 蟻通神社をご存じでない方のために ❻ |
1013 | 続々大分県日田市の「有王社」を疑う“ ❺「平家物語」の 有王童子がここに祀られる必然性は無い |
1012 | 続 大分県日田市の「有王社」を疑う ❹ “蟻通神社を 消したのかor有王社で八咫烏を守ったのか” |
1010 | 大分県日田市の「有王社」を疑う “新ひぼろぎ逍遥 からの転載” ➌ |
1009 | 豊後の日田市は八咫烏(=豊玉彦=豊国主)の都だった ❷ |
1008 | 日田市大原八幡宮の元、元々宮を当会の宮原誠一氏が 報告されています➋ |
1007 | 日田市大原八幡宮の元、元々宮を当会の宮原誠一氏が 報告されています➊ |
1006 | 大分県日田市の「有王社」を疑う ❶ |
1005 | 再び大分県日田市の「大原八幡宮」を考える |
左のp.p.をお読み頂ければ有難いですね。要は、夜明の有王社は事の善悪は偽装であり、近畿大和朝廷成立後の八咫烏隠し(れ)太宰府占領当時の対唐政策=九州王朝隠し、藤原氏=阿蘇氏対策、源氏対策(九州は大半平家だった時代もあるのですから)、これを短い文章でご説明するのは余りにも無理がありそうです。一応試みますが、全てが舌足らずとなり無理があるのです。ただ、九州王朝の時代、
日田の手前=夜明の前まで有明海は迫っていたはずです。
白村江の大敗北の結果、文官の郭務悰、武官の劉仁願によって太宰府が占領されたことはあまり知られていません。積極的に探究しているのは、九州王朝論者と一部の古代史マニアでしかなく、記紀が表立っては無視するも旧唐書、宗書…に記述がある以上史実のはずで、そもそも都府楼とは唐の都督府の意味だからです。如何に神国日本は歴史上占領された事のない国であると装うとも、否定は無理なのです。従って、戦艦ミズリーからD.マッカーサーの進駐軍は二度目の占領軍になるのです。
この時、久留米、日田、周防…が平穏であったはずはないのであって、最低でも占領下の十年弱は緊張した空気に覆われていた事は間違いがないはずなのです。
この1400年前の北部九州を考えると、日田の西の朝倉
、杷木、大石堰、浮羽の辺りまでは、潮が入る湿地帯、浅い海だか河だか分からない状態だったはずなのです。勿論、大潮の満潮時には海岸線は更に奥まで入る巨大感潮河川。上は久留米大学の大矢野教授による
その奥に周囲が山に囲まれ、多くの川が集まる水の豊かな日田盆地だったと考えると、九州王朝の副都、最低でも臨時外交部が置かれてもおかしくない様な要所だったはずなのです。
さて、その日田の西に開いた場所が夜明である事が分かってくると、どうも夜明一帯の管制高地に有王社(平家追討の謀議を企て失敗し喜界ケ島だかに打ち捨てられた俊寛僧頭に会いに行く有王童子)が置かれているのが夜明ダム正面なのです。こんなものが、何故、祀られているのか全く理解に苦しむのです。しかも、有王社の参拝殿には大きな龍王の彫物が置かれているのです。皆さん 八大龍王神をご存じでしょうか?神社に詳しい方はたちどころに、龍王、龍神、豊玉彦…と言われえるでしょうが、何故か十社は簡単に拾える大分県でも、宇佐神宮のお力からでしょうが、大半は不明と隠されている様で、国東市国見町の龍神社外数社が豊玉彦=八咫烏と正確に伝えておられます。ご参拝を。
元々、平家が追い落とされる前に祀られていたのは間違いなく八咫烏であったはずで、元は蟻通(し)神社だったはずで、現在九州には存在しませんが、和歌山県(田辺)、大阪府(泉佐野)などに3〜4社数えられる程度です。この蟻通之神とは、曲がりくねった河川で木材を流す時に幹の上下を誤るとクルクル廻るとか(幹根を前に流すのが正解で、これはS28年に完成する夜明ダム閉塞前まで残った筏流しそのものです)、珠の曲がりくねった穴に如何にして糸を通すか答えろと中国の皇帝に答えを要求され…無理なら国を奪うと脅したところ、中将=列島の外交通詞が穴に蜜を流し糸を結んだ蟻を這わせて糸を通し危機を脱した…といった話が残っているのです。今と同じですね。これについては是非ネット検索を試みて下さい。それが、八咫烏だったとすれば、かなり辻褄が合うのです。その意味では俊寛僧頭に感謝ですね。これが怪しい思った切っ掛けだったのです。
そもそも、日田市の中心部に玉川町が在りますね。それは豊玉彦=豊国主命が居たから付された地名だと思います。さらに言えば、これは日田在住者で日田高校の出身者から教授された受け売りですが、旧制日田中学の校旗が三本足烏で、帽章も金鵜(神武天皇の道案内をした鳶)だったそうで、校旗も畳まれて今も校長室に丁重に保管されているとの話もあるそうで、何とも興味深い事ですね。
