2025年03月01日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ241 新ひぼろぎ逍遥 @ 1081の掲載 2025年1月新春三社詣り神社トレッキング(ガランドヤ古墳+石井神社…外)参加の日田市の皆さんへ

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ241 新ひぼろぎ逍遥 @ 1081の掲載

20251月新春三社詣り神社トレッキング(ガランドヤ古墳+石井神社…外)参加の日田市の皆さんへ

20250115

太宰府地名研究会 古川 清久(現日田市在住)


日田市で三度目のトレッキングを行うに際して、以前から考えてはいたものの尻込みしていたテーマにいよいよ杉山氏(「事代主のブログ」管理者)が、磐井の乱の石井(「古事記」は石井と書いている事から…)の問題に踏み込んで頂けることに期待しているところです。

さて、日田についても ひぼろぎ逍遥+○○神社 などダブル検索をされればお分かりになる通り、大原八幡宮から玉川町の玉垂宮、有王社、五十鈴神社、金凝神社…外、多くの神社や史跡を取り上げてきたことをご存じの方もお有られるかも知れません。まずは、入口、周辺から。

最近取り上げたテーマでは、久留米〜日田を繋ぐ国道210号線で現在代替えトンネル工事が行われている加々鶴(カカヅル)トンネルの「カカ」とは蛇を意味している…としたブログでした。

ひぼろぎ逍遥(アメーバーブログ)

257 日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする民俗学者吉野裕子説から

20151026

新ひぼろぎ逍遥(さくらブログ)

1003 再び大分県日田市の「加々鶴」地名を考える                 20240108

無題.png 詳細はネット検索されるとして…その一部を紹介します

この加々鶴地名の「カカ」は「オカガミ」山か「蛇行部」を以て、蛇を神と見なす海人族に「カカ」と名付けられた可能姓はあると思います。では、「鶴」はと言えば、蛇行地を蔦の蔓とも見立てられますし、鶴(鶴自体が蔓から付された名称でしょうが)の首状の地形に見える事から「鶴」が充てられたとも言えるでしょう。尚、地名研究では「鶴」地名は断崖地名(足摺岬)ともされますので申し添えます。

 無題.png東京教育大学文学博士の吉野裕子が提案したのは蛇(ヘビ、ヘミ)がヤマカガシ、御鏡餅(ヘミのとぐろ)、山田のカカシ…に象徴されるとして提案したのですが、皆さん良く御存じの夜明の急流の筑後川の大蛇行(岩塊の断崖絶壁)を大蛇に見たてたのが、筏流しを行った海人族だったはずなのです。それが判るのが、夜明駅正面の合流部に志賀神社(志賀島の安曇族)が鎮座している事です。

 そして日田市に編入された天ケ瀬温泉の天瀬町に海人の意味が込められている事からも解るのです。左はP.P.

 最近、考えている事に、“日田は臨時首都だったのではないか…”と言うテーマが有ります。

 何を言っているのかと思われる事は十分理解しますが、最低でも夜明の大峡谷を知るならば、そう考えるには理由が有るとご理解頂けるのではないかと微かな希望を持っています。

 それは、球磨川、川内川をも上回る水量を持つ九州最大の大河筑後川を溯上することは、古代には極めて困難で、仮に迂回するとしても2〜3倍の労力と時を必用とする上に、仮に強行突破するとしても三国志の世界の桟道を造るしかなく、山上から岩を落とされる危険を考えれば諦めざるを得ないと思うからです。

 も無題.pngし、正規戦を考えるとしても、兵員の補充、物資の搬送=兵站を考えれば、上流側が有利な上に、上流の崖上に少数の弓兵を配置すれば、敵の矢は届かない上に、崖上からは一方的に攻撃ができる訳で、敵の進軍は容易に阻止できるどころか殲滅できる事になる訳です。

 それが、大東亜戦争の超ド(ドレッドノート)級戦艦の大艦巨砲主義に拘った遅れたアウトレンジ戦法だったのでした。

 既に、プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス…英国東洋艦隊を台湾、仏領インドシナを経由した96艦攻、一式陸攻85機が壊滅させた、アウトレンジ戦法は究極の航空攻撃に変っていたからでした。

 ただ、このアウトレンジ戦法は古代には効いたはずであり、日田は西に対して鉄壁の要害を持つ内陸部の安全な土地であり、国であったと思うのです。

無題.pngこれは、よそ者だからこそ羨望のまなざしで日田にビームを送る戯言と言えばその通りです。ただ、大峡谷は日田の奥にも在る事はお分かりだと思います。それは松原、下筌ダム前後の懸崖は、一つは菊池への(兵戸峠)、もう一つは阿蘇小国への進入路でもあるのです。これほどの要害は、南北朝期に兼永親と側近の五条家が盾籠もった日向神ダムの矢部村が浮かびます。

ただ何方が守る側であるかでベクトルはたちどころに入れ変わる訳で、元寇を前にした北条政権が武田鉄矢のご先祖の一族(今も現無題.png地に50家は在るのです)が南小国町に配置され万願寺に置かれた地頭 北条氏と北条政権の防衛に当たっているのです。

始め阿蘇氏への防御も考えはしたのですが、そもそも北条氏は愛媛経由で東海、関東に入った阿蘇系氏族で、その証拠と言われれば三つ鱗の紋章を使っているからです。そうです「平家物語」にも登場する豊後大野に展開した阿蘇大蛇伝説の大神惟基、惟栄(宇佐神宮焼討で知られる)だった訳で、一応、警戒はするも心配はしてはいないなかったはずです。

無題.pngれも、大山から続く杖立温泉周辺の200mの大峡谷があったからで、杖立川の鈴ケ岳〜下城橋梁辺りに弓兵の500も並べれば、モンゴル軍(実際は大半朝鮮人+中国江南軍)だろうが、容易に防衛できたはずなのです。この鈴ケ岳という地名も現地の北条氏が付したものではないかと考えていますが、それは、天ケ瀬温泉と豊後中川駅辺りに五十鈴神社が在るからです。下城から南小国居る人々に鎌倉武士団の屈強な末裔もかなり居られるようです。

因みに、五十鈴神社の五十鈴姫様は、阿蘇北宮=国造神社の大山咋(父母神:阿蘇草部吉見、市杵島姫)=日枝山王=松尾大神=佐田大神(現在島根県神社庁は猿田彦に替えていますが)=出雲二宮佐田大神と下賀茂の鴨玉依姫との間に生れた活玉依姫と事代主の間に生れたお姫様で、藤原が第10代とした神武僭称贈る崇神無題.pngのお妃になった今で言えば皇后様という事になるのです(我が百嶋神社考古学ではそもそも崇神を天皇とは認めませんが)。その五十鈴姫様の五十鈴を頂き鈴ケ岳としたのは阿蘇氏の流れを汲む北条氏と見るのですが、山に問うたとしても、ただ、やまびこが返るだけでしょう。同地の神社10社程を見せて頂いたのですが、確証は得られないのは当り前ですね。付言すれば、崇神の子に豊城入彦がいます。当時、崇神は確実に豊後に居たはずで、久留米の高良大社と頻繁に移動していたからこそ、同地に五十鈴姫が居られ、久留米市の手前の田主丸に「豊城」交差点が今も確認できるのです。百嶋由一郎も間違いなく豊城入(ニュウ)彦は実際に同地に住んで居たと言っておりました。つまり、崇神(ハツクニシラス)も息子も豊と久留米を頻繁に移動していたのです。ついでと言うか行き掛り上と言うか、日田市に大山町が編入された事にも思いを馳せています。それは、木の花ガルテンに関する話になります。ドイツ語は兎も角も、木の花とはどう見てもコノハナノサクヤ=木花之佐久夜毘売の事ですよね、彼女は高木大神のドラ息子ニニギの妃になるのですが、姉のアカル姫を返した事で良く知られていますが(勿論、実の姉でもなんでもないのですが)、これは複雑な説明になりますのでここでは触れません。

 この神代の美しい女神が、日田の近所に居たという話はついぞ聞いた事もない話であり(普通は通説のインチキ神話に準え大山祇の本拠地の古代日向(鹿児島+宮崎)とするはずですが、良くもガルテンというか大山町が建設に関わるコンサルタントの提案を採用したものだと感心しています。どうも宮崎神話を検証していると、日田が舞台かもとも思う様になったのは、幾つか思い当たる事があったからです。それは、造化三神の神産巣日、神皇産霊、神魂(カミムスビ)=博多の主神 櫛田神社の大幡主の子である八咫烏と木花之佐久夜はニニギと別れた後に一緒になっている事に思い至ったからでした。これについては、以下を検索して頂きたいのですが、現霧島市の鹿児島空港付近の非常に分かり難い場所に、前玉神社が在り、最終的に埼玉県の行田市の前玉(サキタマ)神社と成り、埼玉県の県名にまで成っているのです。

 このお二人の間に生れたのが神主玉の一族で関東武士団=鎌倉殿の13人に成っておられる可能性もあるのです。鎌倉政権は岩清水八幡系の橘一族がプロデュースした復活した物部氏(貴族化した阿蘇氏=藤原は関東武士団をモノノフ=物部氏と知っていたのです)の新興政治勢力集団だったのです。

ひぼろぎ逍遥 67 霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る

ひぼろぎ逍遥(跡宮)23 コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪

前玉神社 キタマジンジャ 祭神 福玉大明神 サチタマダイミョウジン 霧島市溝辺町三縄204

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恐らく、それに類する話をガルテン建設の砌、伝えられていた地元関係者(まあ寺社ですね)の話を拾ったからこそこの名が付されたのではないかと思うようになったのです。

 大山町は間違いなく日向から北上した熊襲=大山祇系氏族(半島の金冠伽耶国の金海金氏=東西分裂後の東匈奴の南北分裂により南下した王昭君の末裔)の一族で、コノハナノサクヤもトルコ系の美形だったはずなのです。そこで、思い当たるのが、大山町の大山水天宮社です。これ以外は考えられません。八咫烏が日田に居たことは色々な痕跡があり間違いないと思っていますが、久留米の水天宮はそもそも八咫烏の伯母に当たり造化三神のお一人です。夫は「古事記」1巻冒頭にも僅かに登場するウマシアシカビヒコジ=トルコ系匈奴の権化とも言うべき隠された神なのです。熊本城の最下部に昭君の間が置かれた事も秀頼を迎え徳川と一戦と城造り邁進した清正公のやった事なのです。杷木は大山祇系の町ですしね。

 日田の南の筑後川分流に大山町が在る理由は間違いなく首都防衛のための防衛軍だったはずです。

 あまりにも多くのテーマを乱発するのも考え物ですので、そろそろ、臨時首都日田と言う話に持っていきたいのですが、以下の様にかなりの数になりますので詳しくはそちらをお読みください。

1030日田を八咫烏王国とすると 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(収稿)川上神社は牛頭天皇社なのか”❾

1022 日田を八咫烏王国とするとかつて取り上げた宇佐は駅館川河口の川上神社が蘇ってきた 

1022

日田を八咫烏王国とするとかつて取り上げた宇佐は

駅館川河口の川上神社が蘇ってきた ❶

1021

有王社は蟻通神社だった “有王社は、何故、周防の

櫛崎から持ち込まれたのか”

1020

有王社は蟻通神社  “推定 祭神を入れ替えた大蔵

氏入府以前の日下部氏とは何か?”

1019

有王社は蟻通神社 ❾ “祭神を入れ替えた後漢靈帝の

別れ阿智王の一族としての大蔵氏”

1018

有王社は蟻通神社 ❽ “事代主のブログ氏の蟻通神社”を転載

1015

豊後の夜明ダム正面に行徳家本家がある  “有王社の

基層に蟻通神社があったと考えたならば“

1014

蟻通神社をご存じでない方のために ❻

1013

続々大分県日田市の「有王社」を疑う“ 「平家物語」の

有王童子がここに祀られる必然性は無い 

1012

続 大分県日田市の「有王社」を疑う  “蟻通神社を

消したのかor有王社で八咫烏を守ったのか”

1010

大分県日田市の「有王社」を疑う “新ひぼろぎ逍遥

からの転載” ➌

1009

豊後の日田市は八咫烏(=豊玉彦=豊国主)の都だった ❷

1008

日田市大原八幡宮の元、元々宮を当会の宮原誠一氏が

報告されています➋

1007

日田市大原八幡宮の元、元々宮を当会の宮原誠一氏が

報告されています➊

1006

大分県日田市の「有王社」を疑う ❶

1005

再び大分県日田市の「大原八幡宮」を考える

無題.png左のp.p.をお読み頂ければ有難いですね。要は、夜明の有王社は事の善悪は偽装であり、近畿大和朝廷成立後の八咫烏隠し(れ)太宰府占領当時の対唐政策=九州王朝隠し、藤原氏=阿蘇氏対策、源氏対策(九州は大半平家だった時代もあるのですから)、これを短い文章でご説明するのは余りにも無理がありそうです。一応試みますが、全てが舌足らずとなり無理があるのです。ただ、九州王朝の時代、

日田の手前=夜明の前まで有明海は迫っていたはずです。

 白村江の大敗北の結果、文官の郭務悰、武官の劉仁願によって太宰府が占領されたことはあまり知られていません。積極的に探究しているのは、九州王朝論者と一部の古代史マニアでしかな無題.pngく、記紀が表立っては無視するも旧唐書、宗書…に記述がある以上史実のはずで、そもそも都府楼とは唐の都督府の意味だからです。如何に神国日本は歴史上占領された事のない国であると装うとも、否定は無理なのです。従って、戦艦ミズリーからD.マッカーサーの進駐軍は二度目の占領軍になるのです。  

この時、久留米、日田、周防…が平穏であったはずはないのであって、最低でも占領下の十年弱は緊張した空気に覆われていた事は間違いがないはずなのです。

この1400年前の北部九州を考えると、日田の西の朝倉

、杷木、大石堰、浮羽の辺りまでは、潮が入る湿地帯、浅い海だか河だか分からない状態だったはずなのです。勿論、大潮の満潮時には海岸線は更に奥まで入る巨大感潮河川。上は久留米大学の大矢野教授による

その奥に周囲が山に囲まれ、多くの川が集まる水の豊かな日田盆地だったと考えると、九州王朝の副都、最低でも臨時外交部が置かれてもおかしくない様な要所だったはずなのです。

 さて、その日田の西に開いた場所が夜明である事が分かってくると、どうも夜明一帯の管制高地に有王社(平家追討の謀議を企て失敗し喜界ケ島だかに打ち捨てられた俊寛僧頭に会いに行く無題.png有王童子)が置かれているのが夜明ダム正面なのです。こんなものが、何故、祀られているのか全く理解に苦しむのです。しかも、有王社の参拝殿には大きな龍王の彫物が置かれているのです。皆さん 八大龍王神をご存じでしょうか?神社に詳しい方はたちどころに、龍王、龍神、豊玉彦…と言われえるでしょうが、何故か十社は簡単に拾える大分県でも、宇佐神宮のお力からでしょうが、大半は不明と隠されている様で、国東市国見町の龍神社外数社が豊玉彦=八咫烏と正確に伝えておられます。ご参拝を。

 元々、平家が追い落とされる前に祀られていたのは間違いなく八咫烏であったはずで、元は蟻通(し)神社だったはずで、現在九州には存在しませんが、和歌山県(田辺)、大阪府(泉佐野)などに34社数えられる程度です。この蟻通之神とは、曲がりくねった河川で木材を流す時に幹の上下を誤るとクルクル廻るとか(幹根を前に流すのが正解で、これはS28年に完成する夜明ダム閉塞前まで残った筏流しそのものです)、珠の曲がりくねった穴に如何にして糸を通すか答えろと中国の皇帝に答えを要求され…無理なら国を奪うと脅したところ、中将=列島の外交通詞が穴に蜜を流し糸を結んだ蟻を這わせて糸を通し危機を脱した…といった話が残っているのです。今と同じですね。これについては是非ネット検索を試みて下さい。それが、八咫烏だったとすれば、かなり辻褄が合うのです。その意味では俊寛僧頭に感謝ですね。これが怪しい思った切っ掛けだったのです。

 そもそも、日田市の中心部に玉川町が在りますね。それは豊玉彦=豊国主命が居たから付された地名だと思います。さらに言えば、これは日田在住者で日田高校の出身者から教授された受け売りですが、旧制日田中学の校旗が三本足烏で、帽章も金鵜(神武天皇の道案内をした鳶)だったそうで、校旗も畳まれて今も校長室に丁重に保管されているとの話もあるそうで、何とも興味深い事ですね。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2025年03月03日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ241 新ひぼろぎ逍遥 @ 1082の掲載 2025年1月新春三社詣り神社トレッキングで参拝する日田市石井の石井神社 “当会メンバー 杉山氏の 事代主のブログから日田市石井神社@〜Aの転載“

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ241 新ひぼろぎ逍遥 @ 1082の掲載

20251月新春三社詣り神社トレッキングで参拝する日田市石井の石井神社

“当会メンバー 杉山氏の 事代主のブログから日田市石井神社@〜Aの転載“

20250117


太宰府地名研究会 古川 清久


今回は、当会メンバーの杉山氏のブログを転載させて頂く事にしました。企画を同氏にお任せしましたので、トレッキング資料外全てをお任せしましたので、主要な参拝神社のリポートも私は書いておりません。

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石井神社@

2014-10-29 22:57:06

テーマ:継体天皇筑紫の君磐井

本日は日田で大原八幡宮に次ぐ神社石井神社を御紹介します。
 
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祭神 止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)
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石井神社
「石井は古代の郷駅が置かれた土地で、この石井神社も日田では大原八幡宮に次ぐ由緒のある神社である。
 大和朝廷が諸国に国造をおいたとき、鳥羽宿祢が日田国造となり、三芳の会所宮に庁を設けたと伝えられるが、後に日田郡司大蔵永弘が宿祢をこの石井神社に祀ったという。
 また当社の神宝である同鉾は、嘉禄元年(1225)に津江山の住人が掘出したと古書に記したものと思われ、長さ77.5糎、幅7糎の中広銅鉾である。昭和503月、日田市指定有形文化財に指定されている。」 日田市文化財調査委員会
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石段を昇ると山門です
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本殿です
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みごとな彫刻です       石井神社 カーナビ検索 大分県日田市石井182

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続いて摂社です
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「かむながら」と読むようです
神道(しんとう、かんながらのみち)は、日本の宗教。山や川などの自然や自然現象を敬い、それらに八百万の神を見いだす多神教。自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた ウィキより

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祭神の止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)ですが
止波宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖、止波宿禰を定めたとある。
 また、豊日志には、止波宿禰は刃連(三芳町)に居住し農耕を教えたとあり、現在でも会所山(よそやま)の中腹には、止波塚と呼ばれる古墳も存在している。
豊西記には、止波が没したので百姓はその徳を懐かしんで祠を880年に会所山に建てたと言われ、これが石井神社の創立となっている。
 豊西記には、後に石井郷に移り、今の石井神社になったと記述されている。また、890年に日田の軍司に任命された大蔵永弘が、石井村に奉遷し、この時に田島の住民も転居させたとある。
これはこの人物は次の人物のことを言っているのかもしれません。
昔、欽明天皇の頃(539571)日下部君の祖先にあたる邑阿自という人が都 で靭部(靭とは矢をいれて背中に背負う道具普通藤葛等でつくった筒状の物)として 仕えていて、後に日田郡のこの村に移り住んで居を構えたので、靭負村(ゆぎおひの むら)と言っていた.後の人が改めて靭編郷(ゆぎあみのさと)と言うようになった。 この村には玖珠川があってこれは玖珠郡の東南の山から流れだし、石井まで流れて いる.また阿蘇川(現大山川)が流れ込んで合流して一つの川となっている、日田川 (現三隈川)と謂うのはこの川の事である。
 刃連(ゆきい)は万葉集で靭編(ゆきあみ)とよむ。刃連神社は靭編神社別名日下部 (くさかべ)神社ともいい、今から約1460年前のもので大原神社よりも古い。祭神 は日下部君らの祖邑阿自(そむらあじ)以下最初の日田郡司で、日田市全体を治め、農 工業の祖神と崇敬されてきた。
この記載で気になる部分は 止波宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖と有る点です。 
つまりこの人物は葛城氏と同じ祖先を持ち阿蘇の人であると書いています。
御存知のように葛城氏は 武内宿禰の子孫です するとこの邑阿自もまた武内宿禰の子孫ということになります。
東漢氏と武内宿禰の子孫 もしかすると蘇我氏は平群氏ではなくこの日下部氏の子孫なのかもしれません。


石井神社A

2016-06-25 20:44:31

テーマ:継体天皇筑紫の君磐井

『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されている。

杷木神社の項で、杷木から豊前に逃げるには2コースあると書きました。

東峰村から抜けるルートには、磐井の足跡は発見できませんでした。

しかし日田のコースには、もしかしたら磐井ではないかと思われる足跡が見られました。

その場所とは、以前ご紹介した石井神社 大分県日田市石井182


祭神 止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)

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石井神社

「石井は古代の郷駅が置かれた土地で、この石井神社も日田では大原八幡宮に次ぐ由緒のある神社である。

大和朝廷が諸国に国造をおいたとき、鳥羽宿祢が日田国造となり、三芳の会所宮に庁を設けたと伝えられるが、後に日田郡司大蔵永弘が宿祢をこの石井神社に祀ったという。

また当社の神宝である同鉾は、嘉禄元年(1225)に津江山の住人が掘出したと古書に記したものと思われ、長さ77.5糎、幅7糎の中広銅鉾である。昭和503月、日田市指定有形文化財に指定されている。」

日田市文化財調査委員会

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以前ご紹介しているのであとは省略します。

実はある書物を読んでいて「筑紫の君磐井」のことを「岩井」あるいは「石井」と表示している書物がありました。

「古事記」にも「磐井」は「石井」と記してあり。

更に『筑後国風土記』逸文の、磐井が豊前に逃亡したとあります。

そこで「磐井」「岩井」「石井」を検索すると、その道筋に「石井」と名が付く神社がありました。

そしてそこは大蔵氏(東漢氏)の主筋である日下部氏を祀る神社でした。

同じ意見が無いか調べてみますと

『豊後日田古代文化史』 志手 環氏は、石井を「いしい」と呼んでいるが、『風土記』の意からみれば「いはい」と呼ぶべき様に思われる。

石井は、今「伊志伊」と訓んでいるが、『古事記』等に石を「伊波」と呼んでいる。磐井は石井で伊波伊であり、その磐井が日田に縁故があり、日鷹吉士や日下部の一族で、この地に繁栄した事が偲ばれ、磐井もの地で生まれ地名になったのか、母方の郷であっと推測できる。としている。

更に祭神の止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)ですが

止波宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖、止波宿禰を定めたとある。

また、豊日志には、止波宿禰は刃連(三芳町)に居住し農耕を教えたとあり、現在でも会所山(よそやま)の中腹には、止波塚と呼ばれる古墳も存在している。  

刃連(ゆきい)は万葉集で靭編(ゆきあみ)とよむ。刃連神社は靭編神社別名日下部 (くさかべ)神社ともいい、今から約1460年前のもので大原神社よりも古い。祭神 は日下部君らの祖邑阿自(そむらあじ)以下最初の日田郡司で、日田市全体を治め、農 工業の祖神と崇敬されてきた。  

豊西記には、止波が没したので百姓はその徳を懐かしんで祠を880年に会所山に建てたと言われ、これが石井神社の創立となっている。  

豊西記には、後に石井郷に移り、今の石井神社になったと記述されている。また、890年に日田の軍司に任命された大蔵永弘が、石井村に奉遷し、この時に田島の住民も転居させたとある。

この話を総合すると、「石井」とは「いわい」であり日下部氏であり止波宿禰と同一人物もしくは同族と読める気がするのですが・・・

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長くなりましたが推測はこのぐらいで今回撮った写真をご披露します。

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この流れが欽明・用明・聖徳太子に続いていくような気がします。

斉明天皇と中大兄皇子が朝倉に宮を置いたのも、これが理由かもしれません。

神社の詳細は、石井神社@をお読みください。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:43| Comment(0) | ビアヘロ

2025年03月06日

ビアヘロ243 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る(実踏編)⓮ 山梨県 若宮八幡神社

ビアヘロ243 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る(実踏編)⓮ 山梨県 若宮八幡神社


20221005

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


韮崎市と言えば甲府の西に位置する甲府盆地の外れのような場所ですが、武田家最後の城となる「新府城」が置かれ、信玄が建てた武田八幡宮がある土地になります。

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既に信州から甲斐に入り国境を越えていますが、もう最後の一本にしますので、「信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る」の最後として、そのまま、武田の晩年の本拠地の神社を取り上げることにします。まだまだ、書きたいことはあるのですが、もう11本も書けば十分ではないかと思っていますし、そろそろ、研究会のイベントも増えて来ていますので、そちらへ傾注しなければならなくなっており、余裕もなくなっているのが偽らざるところです。

もし読者で余力のある方がおられたら以下のぶどう寺リポートと併せて読んでいただければ、今回取り上げる武田氏のご先祖がどこからやってきたかがより鮮明に浮かび上がってくることでしょう。

56年前、このぶどう寺問題に取り組み、大体の見当を着けていました。

ところが、決め手に欠け、それ以上は踏み込まないでいたのですが、今回、武田八幡宮を見せて頂き、武田氏のご先祖様は戦国期から1000年以上前に九州から入っていたという確信を持つに至ったのでした。今回はこの信じ難い驚愕の仮説を提出する事にします。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

 

349

勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には

何故「三階松の神紋」があるのか?”

 

348

勝沼ワインの里の大善寺 F “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)A

 

347

年毛神社と神代製塩池について “宗像、津屋崎境界領域の

謎の古社”

 

346

蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜

 

345

勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

 

344

勝沼ワインの里の大善寺 E “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)

 

343

勝沼ワインの里の大善寺 D “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(下)

 

342

勝沼ワインの里の大善寺 C “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(中)

 

341

勝沼ワインの里の大善寺 B “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(上)

213

勝沼ワインの里の大善寺 A “大善寺の全国的傾向”

 

212

勝沼ワインの里の大善寺 @ “山梨県甲州市勝沼町勝沼の

五所神社の神宮寺”

 
     

 その前に下の神社、街中の若宮八幡神社の画像をご覧下さい。


韮崎若宮八幡宮 カーナビ検索山梨県韮崎市若宮1丁目4-14

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無題.png 4年前にこの神社にも参拝していたのですが、今回、神社の紋章が唐花紋=花菱である事に改めて気付きました。同社は町中にあるのですが、今回、山の辺の道を通り、武田八幡宮に遭遇し、改めて若宮を慌てて調べると、唐花紋=花菱紋を使っている事に気付いたのでした。

 個人的には、武田菱とも四つ割り菱とも言われる紋章について、以前から偏見(実は誤解)を持っており、これはその形状から、左下の高皇産霊神(タカミムスビ)高木大神(多氏=阿蘇氏を取り込んだ)系の紋章ではないかと理解していたため理解が遅れたのですが、最近になってこれは花菱の変形なのだとようやく気付き、数年を無駄に過ごしたことにようやく気付いたのでした。

 無題.pngもう少し早く気づけば、信濃、甲斐の調査に数年早く辿り着けていたはずで、ぶどう寺調査の延長に作業をさらに進めることが出来ていたはずですが、その分残念でなりません。

 まあ、何はともあれ、正しいレールに戻る事ができたため、今後は武田氏の解明に前進できるのではないかと考えている所です。

 唐花=花菱には共感し四目紋にはマイナスに反応するのは、大国主命の国譲りの現場が福岡県の朝倉郡であり、建御名方が諏訪に追放されるのも同じく福岡県の筑豊地方=田川郡一帯だった事を知っているからであり、そのような他人が苦労して造り出した国土を高木大神、天照、草部吉見=正勝吾勝…(三悪人)が奪う事は許せないという、思いが働いていたからだと思うのです。

 この点、神代史探査に私情を持ち込むべきではなかったのですが、まあ、無視して頂き先に進ませてください。

 落ち着いて考えれば何でもなかったのですが、花菱デザイン化されたものと何故気付かなかったかが情けない限りです。

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言うまでも無く甲州騎馬軍団の背中に着けた旗指物用の家紋は大量生産のための簡略化された物であり、落ち着いて考え花菱の変形が四つ割り菱である事に気付くべきだったのです。

 では、今回のテーマである晩期の武田信玄の本拠地である韮崎市の武田八幡宮をご覧下さい。

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武田八幡宮 カーナビ検索山梨県韮崎市神山町北宮地1185


 絢爛豪華ではない虚飾を排した造り、質実剛健の佇まいを持つ身の引き締まる思いのする神社です。

この点、徳川家の日光東照宮の対局を成しているとまでは言えそうな気がします。

 では、武田八幡宮を覧下さい。読み終えたら我々久留米市近辺の者にとっては驚愕の事実(真実)に遭遇する事になるかも知れません。

 まず、駐車場、道路など、不必要な舗装工事がされていないだけでも好感が持て、適度な水分と結果としての冷涼感が漂い、参拝者の老人が暑さに負けて参拝を諦めエアコンの効いた車に戻るなどと言う馬鹿げた事が起きないだけでも良い事だと思うばかりです。

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さて、ここから今回のハイライトです。参拝殿がある事にはなっているのですが、直ぐに神殿に遭遇する変わった造りの神社で、不思議なことに本殿の隣には我々にとっては非常に親近感を持つ本物の天皇様、神様を祀る脇殿が置かれていたのです。

 宇佐から勧請されたものが本殿ならば、武田家のご先祖様が守り通した神様が大切に残されていたのです。本来的に武田家が祀っているのはこの若宮八幡宮だったことをここに来て初めて理解しました。

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ここでは、当グループのエース級主筆宮原誠一氏の「宮原誠一の神社見聞諜」NO.59を読んでいただくべきでしょう。なお、「高良玉垂宮神秘書」144pには、下記の神門紋が掲示されています。

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三韓を攻め従え給う。その後、皇后は月神(玉垂命)と夫妻になり給う。
311条 高良の御紋・木瓜(もっこう)のこと。
神功皇后が筑前国四王寺の嶺において大鈴を榊の枝に掛け七日間、異国退治を祈られた時、東の空に白雲が現れ、四方に開け、四方に光を放ち、四王寺の嶺に降臨された。四方に開けた白雲は四天王なり。紋の中に四本の鉾を交えているのは四天王の鉾なり。これをそのままとって門光(もんこう)と名付けたり。
異国追伐の時の高良の御紋はこれなり。四方に光を放っている故、門の光と書く。
高良(大菩薩・玉垂命)、四天王に従じて天降られた所を四王寺ヶ嶺と名付けたり。

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十字に交わる鉾は四天王の鉾、中心の小さい剣は斜め十字剣。四方に広がるのは白雲といわれる。
百嶋先生講演「久留米地名研究会」 201125
高格式ユダヤ系等の木瓜、剣唐花の紋をお使いになっているのは高良大社、或いは、大善寺玉垂宮です。この紋は神様の紋ではなく、その神様をお守りしたのがユダヤ・イスラエル系の人々ですという意味です。武内宿禰の紋章は天皇家の紋章、五七の桐です。武内宿禰さんは系統的には本物のイスラエル系統です。ところが胤は、九州王朝の系統です。
伊勢皇大神宮の神紋に気づかれた方はいますか?門光です。開化天皇が四王寺山にお立ちになった時に、まばゆいばかりの光が周囲に散ったのです。現在では、花菱といいます。これが高良神紋であり、住吉神紋です。門光以前の紋章は桐です。男は五七、女は五三の桐です。(玉垂命の紋は五七桐紋、神功皇后の紋は五三桐紋)

【高良大社の神紋】
高良大社の神紋は、案内パンフレットには下記のように載っている。
中央の木瓜紋は門光紋でないと奉斎氏族(彦火々出見命・ニギハヤヒ)の紋となる。

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右は、百嶋神社考古学研究の基礎となった「高良玉垂宮神秘書」ですが、当会の

メンバー10人ぐらいは所蔵しているようです。

この本には神功皇后と高良玉命=開化天皇とが夫婦であると書かれており、その長子(シレカシノミコト)が仁徳=オオササギであるとされているのです。通説派の仁徳は応神の子であるなどと言った大嘘を信じたい方はご自由に。(古川)


玉垂命の紋章は五七桐紋、武内宿禰の紋章も五七桐紋、二人は孝元天皇の異母兄弟であるが故に、高良大社の祭神について、「高良玉垂命は武内宿禰」という間違った話が一人歩きして来た。武内宿禰は高良玉垂命(開化天皇)の臣下であり、「記紀」では、神功皇后の臣下として目立った働きをされるが、高良玉垂命が「記紀」から消されているために、結果的にそう見えるだけで無題.png、本当は「高良玉垂命(開化天皇)と神功皇后」の臣下として働いておられる。「記紀」から高良玉垂命の主語が抜けているだけで、「神功皇后」を「高良玉垂命(開化天皇)と神功皇后」と置き換えると、話の展開が現実性を増す。
「高良玉垂宮縁起」では、高良玉垂命と神功皇后が共に新羅海戦で戦っておられる姿が描かれている。結果、神功皇后=女傑英雄 のイメージが薄れてくる。…中略
高良大社(高良玉垂宮)の神輿に門光紋が打ってある。高良大社の祭神は玉垂命を前面に出し、神功皇后を隠し、宮地嶽神社の祭神は神功皇后を前面に出し、玉垂命を隠してある、という。高良玉垂宮神秘書からすると、 玉垂命=開化天皇=物部保連=月神 

 右は普段は神輿蔵にあり人目に触れない神輿の直垂に使われている意匠です。これも門光と呼ばれる唐花紋=花菱紋です。

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002百嶋系図(極秘)003込(部分)


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ