2025年02月01日

新ひぼろぎ逍遥 1085 のビアヘロ238への緊急転載 新ひぼろぎ逍遥 1085 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ➊(前) 新ひぼろぎ逍遥 1085 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ➊

新ひぼろぎ逍遥 1085 のビアヘロ238への緊急転載

新ひぼろぎ逍遥 1085 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ➊(前)

20250118

太宰府地名研究会 古川 清久


2025年が始まりましたが、恒例の新春三社詣りトレッキングは大分県日田市で行いました。

今回は、「事代主のブログ」のライターである杉山氏と日田市在住の佐々木氏による企画でした。

私も近いことからいつでも行けると後回しにしていた事から、実は初見の神社だったのです。

同社については、事代主のブログを読まれるとして、私のリポートは彼らに関係なく書かせて頂こうと思います。まず、場所の説明から始めます。

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石井神社 カーナビ検索 大分県日田市石井182

大宰府地名研究会 2025119日(日) 三社参り日田トレッキング


  日田+大宰府集合場所(当会メンバー)日田天領水の里 元氣の駅 日田天領水の里

無題.png

無題.png石井神社→ガランドヤ古墳→日田→久津媛神社→高住神社

日田向け案内

日時:119日(日) 10001600

主催:太宰府地名研究会

共催:日田の古代に誇りを抱く人々

定員:先着30名(資料代)

テーマ 筑紫の君磐井から導く日田の壮大なるロマンの旅

参加費:1000


日田の方の申し込み先:メールのみ fanpu87@yahoo.co.jp(佐々木)まで

1000 石井神社(主祭神:鳥羽宿禰)          カーナビ検索日田市石井182

1045 装飾古墳ガランドヤ古墳 資料 資料担当 佐々木 カーナビ検索日田市石井1181

1145 昼食と豆田散策

天領日田資料館 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の復元品(入場料は個別支払い)日田市豆田町117

1400 日田地名の女神 久津媛神社(50m先に鳥羽宿禰の塚あり) 日田市日高31

1450 高住神社         資料担当佐々木        日田市天瀬町馬原

1600 解散         ※  当日、都合により石井神社は最後に廻しています。


筑紫の君磐井と言えば、装飾古墳。日田にも、ガランドヤ古墳意外には、報恩寺古墳や穴観音古墳装飾古墳が存在しています。『日本書紀』では磐井ですが、『古事記』では石井と書いています。日田市の三隈川以南の日田は石井郷という大きな地域でした。日田の筑後川以南については、阿蘇や菊池などとの縁が深く、この磐井とも関係していた可能性が高いと思います。石伊の意味は、石体と水神との縁からの意味があるかもしれません。

日田の戸山神社には、石体大明神との縁が書かれて、大蔵氏と鷹神に通じています。また、日田の古代史に登場する、石井源太夫は田島の地名の由来で農耕と深く関わっています。また、田島神社や田道間守?との関連、但馬の地名にも関係している可能性も秘めています。他に、成務天皇の頃の鳥羽宿禰(葛城直)と謎めいた人物が登場し、石井神社の主祭神はこの、鳥羽宿禰(葛城系図の荒田彦と兄弟)です。

石井神社の神宝は「剣」です。剣と言えば熱田神宮。その熱田の祭祀に、源太夫という名が絡み、乎止與命との縁が注目される。豊国という鳥信仰に通じ、日田の高住神社も鷹の神紋の可能性が高い。磐井(いはい)という石体と鳥信仰から導く6世紀の、日田と大鳥郡(大阪)、尾張・美濃の実体がみえてくるのかもしれない。

磐井については、日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を伝世していた可能性も否定はできなく、剣に関わっていれば、三種の神器の謎が解けるかもしれない磐井こと石井。

行基や役行者そして弘法大師さえ、通じている可能性もある。また、明治時代の加藤咄堂の研究によると、用明天皇二年に勅を受けて宮に入った豊国法師は、日本における僧のはじめとされる豊後国日田郡の藤原恒雄(忍辱)を指すという。神仏習合も見えてくるか?

当日連絡 事務局(中島)090-52892994 編集員(古川)090-62983254 雨天等中止

今回の企画を準備した当会のメンバー「事代主のブログ」氏は石井神社 @ 2014/10/29、A 2016/06/25で、以前からリポートを書かれています。

この事から、私が後追いで書くのも烏滸がましいことから、この二本を先にお読み頂き、同氏が触れていない部分について書くことにします。以下、解説文のみ。

無題.png

@  2014/10/29 日田市 石井神社 テーマ:継体天皇 筑紫の君磐井

本日は日田で大原八幡宮に次ぐ神社石井神社を紹介することにさせて頂きます。

祭神    止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)

石井神社  「石井は古代の郷駅が置かれた土地で、この石井神社も日田では大原八幡宮に次ぐ由緒のある神社である。

大和朝廷が諸国に国造をおいたとき、鳥羽宿祢が日田国造となり、三芳の会所宮に庁を設けたと伝えられるが、後に日田郡司大蔵永弘が宿祢をこの石井神社に祀ったという。

また当社の神宝である同鉾は、嘉禄元年(1225)に津江山の住人が掘出したと古書に記したものと思われ、長さ77.5糎、幅7糎の中広銅鉾である。昭和503月、日田市指定有形文化財に指定されている。」 日田市文化財調査委員会

石段を昇ると山門です 本殿です みごとな彫刻です 続いて摂社です 「かむながら」と読むようです。                     これが惟神の神額を持つ摂社です(古川)

神道(しんとう、かんながらのみち)は、日本の宗教。山や川などの自然や自然現象を敬い、それらに八百万の神を見いだす多神教。自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた ウィキより

祭神の止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)ですが

止波宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖、止波宿禰を定めたとある。

 また、豊日志には、止波宿禰は刃連(三芳町)に居住し農耕を教えたとあり、現在でも会所山(よそやま)の中腹には、止波塚と呼ばれる古墳も存在している。

豊西記には、止波が没したので百姓はその徳を懐かしんで祠を880年に会所山に建てたと言われ、これが石井神社の創立となっている。

豊西記には、後に石井郷に移り、今の石井神社になったと記述されている。また、890年に日田の軍司に任命された大蔵永弘が、石井村に奉遷し、この時に田島の住民も転居させたとある。

これはこの人物は次の人物のことを言っているのかもしれません。

昔、欽明天皇の頃(539571日下部君の祖先にあたる邑阿自という人が都 で靭部(靭とは矢をいれて背中に背負う道具普通藤葛等でつくった筒状の物)として 仕えていて、後に日田郡のこの村に移り住んで居を構えたので、靭負村(ゆぎおひの むら)と言っていた.後の人が改めて靭編郷(ゆぎあみのさと)と言うようになった。 この村には玖珠川があってこれは玖珠郡の東南の山から流れだし、石井まで流れて いる.また阿蘇川(現大山川)が流れ込んで合流して一つの川となっている、日田川 (現三隈川)と謂うのはこの川の事である。

刃連(ゆきい)は万葉集で靭編(ゆきあみ)とよむ。刃連神社は靭編神社別名日下部 (くさかべ)神社ともいい、今から約1460年前のもので大原神社よりも古い。祭神 は日下部君らの祖邑阿自(そむらあじ)以下最初の日田郡司で、日田市全体を治め、農 工業の祖神と崇敬されてきた。

この記載で気になる部分は 止波宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖と有る点です。 

つまりこの人物は葛城氏と同じ祖先を持ち阿蘇の人であると書いています。

御存知のように葛城氏は 武内宿禰の子孫です するとこの邑阿自もまた武内宿禰の子孫ということになります。

東漢氏と武内宿禰の子孫 もしかすると蘇我氏は平群氏ではなくこの日下部氏の子孫なのかもしれません。


A  2016/06/25 日田市 石井神社 テーマ:継体天皇 筑紫の君磐井

『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権

軍はその跡を見失った)と記されている。

杷木神社の項で、杷木から豊前に逃げるには2コースあると書きました。

東峰村から抜けるルートには、磐井の足跡は発見できませんでした。

しかし日田のコースには、もしかしたら磐井ではないかと思われる足跡が見られました。

その場所とは、以前ご紹介した

石井神社 大分県日田市石井182 祭神 止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)

石井神社

「石井は古代の郷駅が置かれた土地で、この石井神社も日田では大原八幡宮に次ぐ由緒のある神社である。

大和朝廷が諸国に国造をおいたとき、鳥羽宿祢が日田国造となり、三芳の会所宮に庁を設けたと伝えられるが、後に日田郡司大蔵永弘が宿祢をこの石井神社に祀ったという。

また当社の神宝である同鉾は、嘉禄元年(1225)に津江山の住人が掘出したと古書に記したものと思われ、長さ77.5糎、幅7糎の中広銅鉾である。昭和503月、日田市指定有形文化財に指定されている。」 日田市文化財調査委員会

以前ご紹介しているのであとは省略します。

実はある書物を読んでいて「筑紫の君磐井」のことを「岩井」あるいは「石井」と表示している書物がありました。

「古事記」にも「磐井」は「石井」と記してあり。

更に『筑後国風土記』逸文の、磐井が豊前に逃亡したとあります。

そこで「磐井」「岩井」「石井」を検索すると、その道筋に「石井」と名が付く神社がありました。

そしてそこは大蔵氏(東漢氏)の主筋である日下部氏を祀る神社でした。

同じ意見が無いか調べてみますと

『豊後日田古代文化史』 志手 環氏は、石井を「いしい」と呼んでいるが、『風土記』の意からみれば「いはい」と呼ぶべき様に思われる。

石井は、今「伊志伊」と訓んでいるが、『古事記』等に石を「伊波」と呼んでいる。磐井は石井で伊波伊であり、その磐井が日田に縁故があり、日鷹吉士や日下部の一族で、この地に繁栄した事が偲ばれ、磐井もの地で生まれ地名になったのか、母方の郷であっと推測できる。としている。

更に祭神の止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)ですが

止波宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖、止波宿禰を定めたとある。

また、豊日志には、止波宿禰は刃連(三芳町)に居住し農耕を教えたとあり、現在でも会所山(よそやま)の中腹には、止波塚と呼ばれる古墳も存在している。

刃連(ゆきい)は万葉集で靭編(ゆきあみ)とよむ。刃連神社は靭編神社別名日下部 (くさかべ)神社ともいい、今から約1460年前のもので大原神社よりも古い。祭神 は日下部君らの祖邑阿自(そむらあじ)以下最初の日田郡司で、日田市全体を治め、農 工業の祖神と崇敬されてきた。

豊西記には、止波が没したので百姓はその徳を懐かしんで祠を880年に会所山に建てたと言われ、これが石井神社の創立となっている。

豊西記には、後に石井郷に移り、今の石井神社になったと記述されている。また、890年に日田の軍司に任命された大蔵永弘が、石井村に奉遷し、この時に田島の住民も転居させたとある。

この話を総合すると、「石井」とは「いわい」であり日下部氏であり止波宿禰と同一人物もしくは同族と読める気がするのですが・・・

長くなりましたが推測はこのぐらいで今回撮った写真をご披露します。(本ブログでは省略)

この流れが欽明・用明・聖徳太子に続いていくような気がします。斉明天皇と中大兄皇子が朝倉に宮を置いたのも、これが理由かもしれません。神社の詳細は、石井神社@をお読みください。

※  マーカー、ボールド表示、赤字…は当方で行ったもの

杉山氏がきちんとした基礎調査を行っておられるようですので、それに依拠するとして、筑紫の君磐井は、母方の地ともされる日田市石井を経由し、当時、九州王朝の神宮であった、安心院、宇佐への逃亡を企図し石井を中継したものと思います。これは、「法隆寺は移築された」(大宰府から斑鳩へ)を書いた故)米田良三も「逆賊磐井は国父倭薈だ」でもそう書いており、その後も米田は「東アジアの悲劇」「現代を解く・長谷寺考」…外 多くの貴重な著作を残しています。これらを読むと、如何に米田良蔵が九州王朝の真実を追求していたかが良く判り、他の論者の著書を読むのが馬鹿馬鹿しくなるほどで、通説派の邪馬台国は全国に百カ所も候補地があるとイカサマ古代史を展開している邪馬台国シンポジウムを遣らかしている疑似邪馬台国畿内説論者から田川辺りで行政の芸人に成り下がっている自称九州王朝論者などの漫画の様な話にウンザリしている中、今回の杉山氏の石井神社へのメスは、まだまだ、奥深く抉ってくれる事を期待しています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:17| Comment(0) | ビアヘロ

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20250118

太宰府地名研究会 古川 清久




東漢氏と武内宿禰の子孫 もしかすると蘇我氏は平群氏ではなくこの日下部氏の子孫なのかもし]

れません。と正しくも杉山氏は書かれていますが、この東(列島)に移動した漢族が近畿大和朝廷の植民地総督宜しく九州王朝の副都とも言うべき豊後日田に入って来た、大陸からの亡命者で新たな近畿大和朝廷=藤原(元は阿蘇氏)の新たなエージェントとなった人々だったのです。

そうです、それが日田では、大蔵、財津…であり、列島全体に拡がった田尻、原田、秋月、笠、龍…の一族だったのです。それが分かると豊臣秀吉が秋月を滅ぼし、何故、田尻、原田を日向の端に追いやったかという事も今にして思えば良く判るのです。それは、秀吉のお妃だったネネの一族が桐紋を使う一族でもあり、漢帝国と激闘を繰り返したトルコ系匈奴(王昭君の東西分裂後の南匈奴の一族)だったからなのです。

一応、フルネームは避けますが、お会いしたのは田尻と言われるご高齢ながらも現役の会社の経営者の方でした(と言っても現役の一級建築士としてご活躍の方で当方など遠く及びもつかない矍鑠の方ですが)。ご挨拶もそこそこに早速飛び出てきたのが漢帝国の始祖の劉邦から始まる系譜だったのです。実際にはA3一枚のコピーだったのですが、そこには驚くべき事が書かれていたのです。

それは「大蔵姓田尻氏正統系譜」肥後国玉名郡玉水村立花田尻家系譜 とされるもので、皆さん“項羽と劉邦”で良くご存じの漢帝国の始祖劉邦から始まる連綿たる系譜であり、その一枝として

の田尻家ご当主101代とするものだったのです。」

そもそも綾部は漢(アヤ)の置き換えで、文、綾…は漢氏ではないかとか言われる事は一応知っていました。ところが、百嶋先生が言われていた八女の黒木の一族と関係の深い原田と田尻は同族であったという事が事例として良く理解できましたし、この間謎であった日田の大原八幡宮の宮司家であった大蔵氏(財津氏)も実は霊帝の流れを引く漢の皇族の末裔だった事が分かってきたのです。

また、“原田氏が重要な氏族で一族の事を調べている方がおられ、私のところにも電話で聞いてこられた方がおられた…”と水俣病で知られた故)原田正純教授から直接お話をお聴きしてもいました。さらに言えば、久留米には笠(カサ)姓の方がかなりおられ、龍姓もあることから、もしかしたらこの「笠」姓は笠 智衆の「笠」同様、劉備玄徳の「劉」姓の置き換えではと考えてきました。

お話では @自らの一族は中国から渡ってきたものとは家伝として聞いてきた。A日本でも比較的知られる後漢の第26代霊帝から続く第28代獻帝の別れの漢の皇族の第31代阿智王が応神期に列島に移住してきた。B鎌倉期に頼朝から金峰山に領地を貰い住み着いた…。外にも多くの興味深い話を聴きましたが、ここでは第一報としてさわりの部分だけ、つまり基本的なことだけをお知らせすることにしたいと思います。 では、系譜をご覧いただきましょう。

 前漢後漢を通じて、〜26代霊帝〜28代獻帝辺りまでは中国の系譜のままですが、それ以降は家伝のものとお聴きしました(後漢靈帝之曾孫 阿智王)。

 事実、第29代以降は「帝」の称号が地方皇族としての〇〇「王」に変りますから、第31代漢皇族阿智王(応神天29年帰化)の時に列島に移住したものと考えられます。


七姓漢人… 阿知使主(阿知王)については『日本書紀』『続日本紀』『新撰姓氏録』などに日本への帰化についての記録がある。『日本書紀』によれば、応神天皇209月、倭漢の祖の阿智使主と、その子都加使主が、17県の党とともに帰化した。続日本紀』延暦四年(785年)六月の条によれば漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと、阿智王の末裔氏族東漢氏出身の坂上苅田麻呂が述べた。右衞士督從三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也漢祚遷魏。阿智王因牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。伏願天恩遣使追召之。乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。永爲公民。積年累代。以至于今。今在諸國漢人亦是其後也。臣苅田麻呂等。失先祖之王族。蒙下人之卑姓。望 。改忌寸蒙賜宿祢姓。伏願。天恩矜察。儻垂聖聽。所謂寒灰更煖。枯樹復榮也。臣苅田麻呂等。不勝至望之誠。輙奉表以聞。詔許之。坂上。内藏。平田。大藏。文。調。文部。谷。民。佐太。山口等忌寸十一姓十六人賜姓宿祢。 - 続日本紀』延暦四年六月条

新撰姓氏録「坂上氏条逸文」には、阿智使主と同時期の来日である七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・ 高)およびその子孫、桑原氏佐太氏等と、仁徳天皇の時代に阿智使主が朝鮮半島から連れてきたとされる村主氏が記されている。ウィキペディア(Wikipedia20190816 0822による


 この系譜を見てこの間感じていたいくつかの問題への謎を解くことができるとともに、さらに深入りできる新たな謎解きへの糸口を見出しました。

  故)百嶋由一郎氏が間違いなくアーリア系と話しておられた田尻氏が原田氏と同族であったこと。漢族と言ってもその内部にはシルクロードの終着点であった邯鄲(カンタン)辺りには多くの西域の人々が入っていたのであって、単に漢族として一括りにはできないかも知れないのです。

  以前トレッキングでも取り上げましたが、事実上西豊後の一之宮とも言える日田市の大原八幡宮の社家でもあった大蔵氏の一族が、この阿智王の後裔であったと分かったのでした。詳細は↓

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

697

物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か?

696

日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の

大原八幡宮を疑い再考へと”

695

大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の

大原八幡神社”

694

大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の

大原八幡神社”

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福岡県苅田町での神社と古墳のトレッキングから 

今回は資料だけをお見せします

  この系譜からはさらに重要な情報が得られます。第34代(阿智王の孫)から36代まで坂上姓を名乗っているのです。直ぐに坂上田村麻呂が頭をよぎりますが、第40代に有名な7世紀半ばの阿部比羅夫が記載されていますので、「日本書紀」が坂上田村麿の東北制圧の業績を近畿大和朝廷の業績と見せ掛けようと時代を繰り下げてないとも限らないので、もしかしたらこの坂上姓3代は無関係ではないのかも知れません。しかし、田村麻呂は8世紀末とされることからこの3代は直接的には繋がりません。しかし、後から見せていただいた原田氏の系譜(原田一族側で作成されたかなり大きな一族資料)には坂上田村麻呂がはっきり書かれていますので無視できません。

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坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代公卿武官。名は田村麿とも書く。忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫坂上苅田麻呂官位大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。

@     前後しますが、第40代として阿部比羅夫が登場します。阿部姓はここだけですが、その理由は阿部貞、任宗任の近畿大和朝廷への抵抗があったためかも知れません。

阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣冠位大錦上越国守・後将軍大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658)から3年間をかけて日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。

ウィキペディア(Wikipedia20190816 1134による

D  この阿智王の後裔氏族にとって大きな発展期となったものは第47代征西将軍大蔵朝臣春實(正五位太宰少弐貮 豊前、筑前、肥前、対馬を支配下に置く)であり、その後大蔵から原田に改姓する頃には福岡県大牟田市三池を拠点としています。

E  ただ、この系譜は阿智王後裔の一つのブランチでしかないことは理解しておくべきでしょう。

55代原田実種=肥後初代田尻主計頭から肥後田尻氏が始まったとしています。しかし、単に頼朝から与えられた時から始まったとすることも単純すぎ、元々の故地であった可能性もないとは言えないでしょう。それについては後段で議論します。とりあえず、非常に魅力的な系譜について概括しました。

無題.pngさて、漱石の「草枕」に峠の茶屋が出てきますが、熊本市の西に聳える金峰山のかつての自らの領地(鎌倉〜室町〜南北朝期)であった地に阿智王の拝堂が造られ劉邦、霊帝、阿智王が祀られています。

付近には峠の茶屋、芳野郵便局、岳龍寺がありますが、ここでは芳野郵便局の住所を書いておきます。

多少分かりづらいので、不明なら同局に尋ねられたら分かりやすいかも知れません。

 数日後、別資料もお見せしますとの事で再び訪問しましたが、これもその一つで、原田一族側から作成された「大蔵朝臣原田家歴傅」です。ここにも同様の先祖が掲げられています。重複しますが、再度確認します。注目すべきは40代と42代の間に分家として坂上田村麿がはっきり書かれていることです。

 「原田家歴伝」と田尻家系譜とには恐らく起点が異なるか数え方が違うためか二代ほどずれが生じていますが、田尻家系譜の43代が田村麿の代理なのか田村麿と関係のある方が書かれていることになります。なお、写真は田尻家当主ご夫妻が「原田家歴伝」を頂いた原田一族の研究者を尋ねられた時(20年程前)の写真です。

無題.png

実はこの神社は当方の会のトレッキングでも訪問した福津市の神社で、現在は女性の宮司が跡を継

いでおられる 年毛神社(福岡県福津市勝浦943 пF 0940-52-3774)のようです。

先代の宮司が原田一族の研究者だったのではないかと思われます。実は、この神社に伝わる資料にかつてこの地が松浦潟と呼ばれていたとの記録があり、これだけをもって魏の使いが入った末羅国だとして卑弥呼の邪馬臺(壹)国筑豊説に導いた九州王朝論者があり、この行政の芸人になった人物は現在も田川郡内で講演を続けています。最後に面白い話をお知らせしましょう。

 この田尻一族系譜を見せて頂いた田尻家101代ご当主の旦那寺は皆さんどなたもご存じの山田洋二監督の映画「男はつらいよ」フーテンの寅さんに登場する帝釈天御前様こと笠智衆の生家の寺無題.pngだった のです。以前から金峰山に漢の後裔の氏族が入っているとの噂は承知しており、もしかしたら笠 智衆(俳優としての名も実名を採用)の笠(リュウ)は劉備玄徳の劉氏の「劉」ではないかと考えてきました。

 図らずも、劉氏の後裔の田尻氏がこの寺(浄土真宗本願寺派)の檀家であったという事はその可能性がかなり高くなったのです(玉名郡玉水村(現玉名市天水町)立花に浄土真宗本願寺派来照寺の次男として生まれる。)

 そうです、御前様も劉氏の一族だった可能性が高いのです。このことに気づいたのは久留米市に笠姓が対岸の鳥栖市にも龍姓が多いことに気づいていたことがきっかけでしたが、この点でも仮説が幾分裏付けられた事になり、謎の一端がほぐれてきた思いがしています。

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一般的にこの劉邦後裔東漢氏については、岡山県倉敷市辺りから奈良に入ったとされますが(阿智神社がありますね)、半島からの入口は九州西岸だったはずですし、帯方郡から同行した「七姓民」の姓名(池園、浦志、鬼木、中園、水上、窪、石井、牧園、富田、鳥越)の分布を見ると、単純に奈良から全国に展開したとはとても考えられず、それも考えて見たいと思っています。次報でこの問題に触れます。そこまで風呂敷を広げないとしても、漢の末裔が肥後に入っていることを示す好例であることだけは間違いないのです。                        次葉の一部

                                                                                  

編集上紙面に限界がありますので、次代については割愛します。個人的に必要とされる方は対応します。これが日田市では新たな支配者となった大原八幡宮の一族の本質なのです。原田、田尻、大蔵、財津、坂上、阿部、笠(初代劉邦の劉の置き換えが「笠」なのです)、龍…の一族の皆さん自らのルーツをお考えになったらいかがでしょう。多少のアドバイスは可能ですので、当方にご連絡頂ければ、多少はお手伝いできると思います。09062983254まで。以上、ビアヘロ104 201985日 全国の九州王朝論者に向けて!緊急報告“肥後に後漢の霊帝の後裔が入っていた”からの引用 


新ひぼろぎ逍遥 1086 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 

に続く…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:50| Comment(0) | ビアヘロ

2025年02月02日

新ひぼろぎ逍遥 1086 のビアヘロ239への緊急転載 新ひぼろぎ逍遥 1086 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ❷

新ひぼろぎ逍遥 1086 のビアヘロ239への緊急転載

新ひぼろぎ逍遥 1086 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 

20250122

太宰府地名研究会 古川 清久


1085 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ➊ 20250118〜の続き

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筑後川の中流域の日田盆地で多くの支流を取り込んだ筑後川は、久留米、太宰府方面へと流れますが、山々に囲まれた日田が如何に安全に宇佐、大分へと繋がる要地であった事かが良く判ります。

その筑後川左岸の一画が石井地区(白線の破線部)で、そこに石井神社が鎮座しているのです。

ただ、豊後一宮と言ってもおかしくない大原八幡宮以前に存在していたとされる、石井神社を考える時、大蔵永弘に象徴される大原八幡宮の宮司家=日田の支配者大蔵一族が専横を振るうのは9世紀半ば辺りからのはずで、それ以前の日下部氏が大蔵一族に直結しているとも考えられないため、普通は草部吉見(阿蘇高森のヒコヤイミミ)が、半島との印象を消すために草部から日下部(つまり高木大神の入婿となった新羅の伽耶部の意味を消し去り、日下=日の本の部と…「古事記」も書く様に、その現地でも置き換えた阿蘇系氏族の支配下に入り、最終的に日田全域を支配する近畿大和朝廷の出先としての代理人=後漢の霊帝の後裔阿智王の一族=大蔵一族の支配構造に組み込まれたのではないかと考えるです。

そこまで考えてくると、参拝殿左に置かれた惟神の意味が見えてくるのです。

皆さんは、阿蘇宮司家が「惟人」から始まっている事をご存じでしょうか。

以下、ウィキペディアで「阿蘇惟人」を検索すると、祭神として阿蘇十二神が出て来ます。

202501211333による

以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。


一の神殿(左手、いずれも男神)

一宮:健磐龍命(阿蘇都彦命[3]- 神武天皇の孫。たけいわたつのみこと。

三宮:國龍神 (吉見神・彦八井神[4]-二宮の父、神武天皇の子。くにたつのかみ。

五宮:彦御子神 (阿蘇惟人)- 一宮の孫。阿蘇大宮司家につながる[5]。ひこみこのかみ。

七宮:新彦神 - 三宮の子。にいひこのかみ。

九宮:若彦神 - 七宮の子。阿蘇神社社家につながる[5]。わかひこのかみ。

二の神殿(右手、いずれも女神)

二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃。三宮の娘。あそつひめのみこと。

四宮:比東芬q神 - 三宮の妃。ひめみこのかみ。

六宮:若比盗_ - 五宮の妃。わかひめのかみ。

八宮:新比盗_ - 七宮の娘。にいひめのかみ。

十宮:彌比盗_ - 七宮の妃。やひめのかみ。

諸神殿(最奥、いずれも男神)

十一宮:速瓶玉神 (國造神)- 一宮の子。国造本紀によれば、初代阿蘇国造に任命された。はやみかたまのみこと。

十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。綏靖天皇を指す。皇統につながる[5]。かなこりのかみ。

ご覧の通り、惟人=健磐龍の孫から阿蘇宮司家が始まるのです。

ついでに言えば、三宮が草部吉見(藤原が第五代孝昭天皇とした)で、十一宮が日枝神社の大山咋

十二宮が、神沼河耳=草部吉見の父神=藤原が第2代綏靖天皇としたのですが、それは初代神武の本物のお妃であった金山彦の娘の吾平津姫を妃としたというだけの事なのです。

しかも、蘇民将来伝承の「巨胆将来」なのです。初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の血筋でもなければ、萬世一系などではさらさらないのです。


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上の写真右の円内には梅鉢が打たれており菅公が祀られているので道真公とその一族のはずです


無題.png実際、微かに「菅公廟」らしく読め、道真公を祀っているのに、「惟神」と書いているのは、藤原による菅公を阿蘇家の下と貶めているのかも知れません。そこに多くの樋口姓の方の標柱が建てられているのですから、多分、この樋口の一族は、道真公太宰府への事実上の配流に随行した言わば送使の樋口大膳の一族の末裔の方のはずです。

実際、日田から30キロほど東に進むと玖珠町があり、さらに南に入ると菅原と言う集落があります。

ここに、道真公は隠れていた事もあり、地元の豪族の娘が菅公のお世話をしていたようです。

確か百嶋先生からは、二系統の菅公の血をひく一族が生まれており、福岡市の姪浜の菅原神社=天満宮に女千木の神社があり、それは道真直系の神社と言われておられました。

それはともかくも、この石井神社に、何故、これほどの樋口姓の方が居られるかは不明です。これについては今後の課題です。

一応、菅公の出自を考えると、筑後川の水運を司る志賀島の海神族=志賀島の安曇族=博多の櫛田宮の一族の大幡主=カミムスビ神の本家と金山彦の孫ナガスネヒコの末裔の本家同志の婚姻関係によって成立した一族であり、木材を搬送筑後川に流し太宰府まで持ち上げる能力を持った人々と(豊国主=豊玉彦=八咫烏)、製鉄と金属加工の能力を持った家系が関係しており、石井が製鉄に関係する人々が住む地区でもある事から、菅公を祀る氏族が住む事、菅公を太宰府までお送りし、危機を何度も救った樋口の一族が居られることも納得が行くのです。

恐れながらも、神殿を考えたいと思います。以下、当会杉山氏のトレッキング資料から…

無題.png祭神の止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)ですが

止波宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖、止波宿禰を定めたとある。

また、豊日志には、止波宿禰は刃連(三芳町)に居住し農耕を教えたとあり、現在でも会所山(よそやま)の中腹には、止波塚と呼ばれる古墳も存在している。

ただ、江戸期の表現としての石井大明神が止波(鳥羽)宿禰だったかも単純には受入できないとも思うのです。

『先代旧事本紀』は物部文書であり、九州王朝も基本的には物部氏の政権であって、それを大人しく近畿大和朝廷の出先機関となった同社がそのまま日下部氏〜大蔵一族に大人しく引き継がれるはずは無いのであって、昔はそういった神が祀られていると言った意味でその範囲で理解すべきなのです。彦坐王、建御名方系なら別ですが…。

勿論、明治維新以降か終戦後か、政情の変化を利用し、偽っていた祭神を廃し、本来の神に戻されたとすれば、それは穏やかですが、このような祭神の入替えは我と神社の存続を第一と思う宮司家の考えに支配されており、日田の大原八幡宮が応神天皇を主神として祀るためにも、元々宮(鞍方尾)、元宮(求久里)を経て元の物部神を隠し改変しているのであり、その事は、福岡県苅田町とみやこ町の大原神社が日田の大原八幡宮からの勧請として物部神を祀っていることからも十分に考えられることなのです。本記でこの問題を考えようと思われる方は、「福岡県神社誌」全三巻をお調べになれば直ぐにお分かり頂けるでしょう。尚、当方の新ひぼろぎ逍遥でも良ければ、以下を検索しお読みください。


新ひぼろぎ逍遥

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物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か?

707

日田市の会処宮について “「事代主のブログ」からの転載”A

706

日田市の会処宮について “「事代主のブログ」からの転載”@

704

日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮”

703

大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社”

702

大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社”

尚、何度かお電話で話した事のある、旧「美風庵だより」様も石井神社を取り上げられています。

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勝手に引用しながら異論を書き込むのは失礼にはなりますが、百嶋神社考古学として多少コメントを加えさせて頂きます。

恐らく、旧「美風庵だより」様は、欠史八代を超え日本の第16代天皇、『日本書紀』が大鷦鷯天皇=仁徳天皇は九州王朝の天皇ではないと考えておられるのかも知れませんが、仁徳=オオササギ=高良山ではシレカシノミコトとする、開化天皇と神功皇后との間に生れた長子(五人兄弟の実子)であり、事実上、最後の九州王朝(呉の太伯の末裔=周王朝の正統皇統でそれ以外は認めない)天皇であり、あまりにも影響が大きかったため消せなかったため近畿大和朝廷も天皇扱いとしたのであり、この時代、仁徳天皇は本拠地を浪速(落語の「高津の富」高津宮)に移しているのです。勿論、応神天皇の子などとしているのも真っ赤な大嘘です。ただ、子孫とされ乱暴者扱いされた雄略辺りまでは九州王朝の痕跡を辿れそうなのです(百嶋由一郎もそのように話しておりました)。

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百嶋由一郎極秘神代系譜


無題.png鳥羽宿祢の話で会所山の話が出ましたので、この件についても触れざるを得ません。画像は「空」SORAそら様のものです。こちらも私と同じ頃から書かれており、ネット上で頻繁に出くわします。いつも参考にさせて頂いています。

その前に、景行天皇もやたら持ち上げられていますが、こちらも草部吉見絡みで、伊勢の外宮様の山幸彦以前の夫=海幸彦で、その間に生れた御年神(熊本県玉名市出身で同市の疋野神社の主神)の子が景行天皇と格上げされているのです。

その景行までもが天皇(第12代)扱いされ、玉名から山鹿に川を登り、出迎えたのが山鹿灯篭祭になっているのです。多分、明治の県社昇格に絡んでいると思うのですが、調べる気にも

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なりません。灯篭まつりの“ヨヘホヨヘホ”も元々、祇園祭をやっていたのが大宮神社であり、ヤーベ、ヤファエ、エホバ…の一つの表現なのです。元々、大宮神社は阿蘇12神も景行も祀っていたはずのないイスラエル系の神社(金山彦主神=地神として今も祀られていますが…)で、阿蘇系は南北朝争乱期以来、景行は明治の県社昇格の為に持ち込まれた祭神のはずなのです。当然、宮司家はご存じのはずです。知らなきゃ潜りですね。景行は九州の山奥を探検隊を率いて巡っただけの事なのです。この景行もオオ足(タラシ)彦と、所謂タラシ系とされている理由は、スサノウ自体が伊弉諾と伊弉冉の子であり、伊弉冉はイスラエル系の金山彦の妹の流れを汲んでいる事からヨヘホヨヘホと松明で出向えたのです。

そもそも、百嶋由一郎氏のお姉様も山鹿の名家に嫁いでおられ、百嶋家も明治の納税百傑に3家入っておられる様で、周辺のどの神社からも生の情報が得られる大地主の御曹司だった事から真実の話を得られる立場におられたのでした。脇道に入りましたので、以降は次のブログに廻します。


新ひぼろぎ逍遥 1087 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 に続く…


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ