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諏訪の建御名方命と八坂刀売とは如何なる方々なのか ?
20241226
太宰府地名研究会 古川 清久
この事を理解して頂くためには多くの事を語らなければなりません。
まず、諏訪には四つの諏訪神社が在ります。上社(本宮、前宮)下社(秋宮、春宮)です。

ここ十年程、甲信越の神社調査を続けていますが、伊那谷から甲州街道に入るには、人口が稠密な塩尻や諏訪を避け、上の地図に出てはいませんが国道152号で直接諏訪盆地に入ります。このため、そこは既に諏訪市ではなく茅野市で、同地の上社前宮に良く参拝しています。勿論、四社全てをじっくり見て巡るには半日ではとても収まらず、最低でも二日はないと詳細に見ることはできないのです。
今秋も甲信越に入りましたが、伊那谷から直接、茅野市に入り、上社前宮を見て甲府を目指しています。それはこのルートを採ると守屋神社正面を通過できるため、そこで参拝し、守屋山からの神水を補給させて頂き山中湖に向かうためなのです。
前置きはこれぐらいに、そろそろ本題に入りますが、今回のテーマを“諏訪の建御名方命と八坂刀売とは如何なる方々なのか ?”としました。参考のために、学者や通説派の学芸員などが馬鹿にする ウィキペディア(20241114 13:39)から引用させていただきます。権威に踏ん反り返る連中よりまともです。
建御名方神(たけみなかたのかみ) 上社本宮祭神。『古事記』の国譲りの段では、大国主神の御子神として登場する。『先代旧事本紀』では大己貴神(大国主神)と沼河比売(奴奈川姫)の子とされ、「信濃国諏方郡諏方神社に鎮座す」と明示されている[2]。 八坂刀売神(やさかとめのかみ) 上社前宮・下社主祭神。建御名方神の妃とされるが、記紀に記載はない。 |
では、我が百嶋神社考古学の立場からこの諏訪神社をどのように見ているかをご説明申し上げます。
かなり込み入っており、容易には理解し難い内容になりますので、多少御辛抱頂きます。

あくまで百嶋神社考古学の立場ですが、まず初めに、建御名方命が何者であるかをご説明申し上げます。
彼が大国主命の次男などと言うのは「古事記」が書いているだけの事で、実際には異なります。
大国主命が大山祇の息子であることは、前ブログで述べましたし、そもそも、民俗学で良く言われる、田植えの時期になると山の神が下りてきて桜の木に腰掛けるという田植えの話ですが、大山祇(山の神)と大幡主=神産巣日(カミムスビ=博多の櫛田神社の主神で田の神)は、鹿児島の経営に於いて山の神―大山祇と田の神様として擬神体を形成し強固な姻戚関係を結んでいたのです(神代系譜の上部)。
これは金山彦の一族とも同様で、相互に強固な繋がりを創っていたのです。系譜を見れば明らかです。
この三つの民族が、通説が言う神武僭称贈る崇神(ハツクニシラススメラミコト)ではない本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)を担ぎ、初期九州王朝を支えた連合王権の三柱となっていたのでした。
それはともかくとして、大山祇は息子の大国主を神産巣日に送り、市杵島姫と豊玉姫(三女神の二神への入婿)とし、代わりに大幡主は妹の埴安姫をお妃として送り込んでいるのです(勿論、その政略結婚を行ったのは親神達だったのですが)。
従って、百嶋神代系譜にはどこにも大国主の子としての建御名方命など全く出てこないのです。
この事実を知らないか知られたくなかったからか、「古事記」は配下の建御名方命を大国主の息子と扱っているのです。
その上にこの建御名方命は草部吉見の実の息子なのです。この点については、拡大部Aの吉見とナガスネヒコの妹の間に天足彦、御年神、建御名方命の三人の息子が生まれている事を確認して下さい。
この三人の兄弟は共に神武と衝突したナガスネヒコの父、祖父の血を受けた兄弟なのですが、一人は、ハイキノカミ(全国の日置、早岐、比企、引野、羽曳野…地名はこの一族の展開地です)として草部吉見の元で奪った金山彦系の製鉄地を仕切り、その功績で第6代孝安天皇(熊本県玉名市の疋野神社の神様で玉名の方です)にして貰っているのです。藤原は吉見さんの後裔ですからどうにでもなったのです。
勿論、当然、草部吉見は雲南省麗江に起源を持つ九黎族の一派であって、呉の太伯王の血筋ではないのですから武人としての実力はあったとしても格式は低く、正統皇統の天皇家の人物でもなければ、その臣下一人でしかないのです。この草部吉見は第5代孝昭和天皇になっているのです(後の藤原によるもの)。

草部吉見が呉の太伯の流れ(周王朝の末裔)を汲む初代神武とは全く繋がらない身分も低い臣下でしかなかったのですが。多くのお妃の一人であるオキツヨソタラシの長男の天足彦も日本武尊=ヤマトタケルの父、贈る仲哀天皇の祖父になるのですから、初めは面食らうのはしかたがないのです。
さて、前図は長髄彦で検索した ウィキペディア(20241114 21:33)の記述です。
百嶋神社考古学では神武東征は崇神の業績で、神武巡行は神武の業績と考えています。
当然にも、長髄彦と神武との衝突も実際には北部九州で起こっている可能性を考えています。
具体的には、福岡県飯塚市の伊岐須外数ケ所を考えています。
これについて関心を持たれる方は以下をお読みください。つまり、関東の息栖のルーツなのです。
しかも、伊岐須は「好字令」(和銅6年=713年)以前の三文字表記ですので、この観点からは、こちらが先で、関東は後付けのテーマ・パークの様な存在である可能性が高いのです。
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スポット253 伊川とは何か? “福岡県飯塚市伊岐須に注ぐ伊川 ... 以下、前記のウィキペディア
長髄彦『日本書紀』では長髄彦であるが、『古事記』では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とも表記される。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。『古事記』では特に討伐の場面もなく主君の邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が神武天皇に服属したとするが、『日本書紀』では自己の正統性を主張するため互いに神璽を示し合ったが、それでも長髄彦が戦い続けたため饒速日命(邇芸速日命)の手によって殺されたとされる。 『先代旧事本紀』では神武天皇が紀伊半島を迂回し長髄彦と再び対峙した頃には、既に饒速日命は亡くなっており、宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)が天孫(神武天皇)への帰順を諭しても聞かなかったため殺したとする。なお、長髄とは『日本書紀』では邑の名であるとされている。
ただ、三男が建御名方命なのですが、彼は父の吉見から離脱し、対抗勢力の山幸彦=饒速日=猿田彦=五十猛の陣営に移行しているようなのです。
傍から見てきた様ですが、“彼には父への複雑な思いがあったのではないか“と考えています。
そもそも、金山彦とその娘である櫛稲田姫を妃とした須佐之男(新羅の王子様)という栄えある流れを汲んだ兄妹であって、妹の瀛津世襲姫は兄の長髄彦=ナガスネヒコを殺されたことを恨んでいなかったはずはないのです。その瀛津世襲姫を母として持つ、自らの思いがそうさせたのではないかと思うのですが、簡単に言えば叔父を殺した男の息子となっている自らの立場と、大国主命の配下として国土開発を行い、国造りの最中の土地を奪った父を許せなかった事が、草部吉見=海幸彦の対抗勢力となった山幸彦の陣営に自らを移行させたのではないかと考えているところです。
分かりやすく下世話に表現すれば、草部吉見は戦利品でもあるかのように母を妃にしているのですから。
これを許すことができなかったとしても、建御名方命が異常な人物だったとはできないとまでは思うのです。
このナガスネヒコ問題に関しては東海地区の百嶋神社考古学研究会メンバーの山ちゃんブログをご紹介しておきます。余裕のある方は36話をお読みください。
1.長髄彦の家系
表 長髄彦を中心とする家系
名前 | 血縁関係 | 生年 | またの名など |
スサノオ | 父 | AD127年 | 天日槍命・天手力雄命・骨正など |
櫛稲田姫 | 母 | AD134年 | 瀬織津姫 |
市杵島姫 | 腹違いの姉 | AD147年 | 母アカル姫 別名スセリ姫 |
長髄彦 | 本人 | AD150年 | 岐神 |
八坂刀売 | 妻 | AD184年 | 旧名奈留多姫 |
瀛津世襲足姫 | 実の妹 | AD152年 | |
安日彦 | 義兄 | AD138年 | 草部吉見・天忍穂耳・大年神 |
辛国息長大姫 | 腹違いの妹 | AD154年 | 母神大市姫 別名天細女 |
生年は故百嶋氏の推定
2.長髄彦の叛
九州王朝に対する反乱の理由について、故百嶋氏は述べていませんが、おそらく支配地を廻る戦いであったと推測します。
戦いは『記紀』が記すような長閑な戦いではなく、激しい戦闘が九州の地で繰り広げられたようです。
この反乱について、ブログ「神社見聞牒」を主催する宮原誠一氏は以下のよう記しています。
ブログ「神社見聞牒 宮原誠一」
「戦闘は福岡県矢部川(八女市矢部村の三国山に源を発し、上流から中流域にかけては筑肥山地の北縁を西に流れ、有明海に注ぐ)以北の北筑後から福岡市東部一帯で行われ、決戦の地は吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ケ里町)で、総括指揮官は神武天皇と共立された「ヒミコ」で、構成は大国主率いる匈奴・物部軍とニギハヤヒ率いる北筑後物部軍及び邪馬壹国連合軍で、戦いの激しさは吉野ケ里遺跡公園の西の墓地群に見ることができる。やがてナガスネヒコ軍は、降伏勧告を受け入れ、ナガスネヒコ軍は配下氏族と共に東北地方へと配転された。」