2025年01月01日

新ひぼろぎ逍遥 1073  のビアヘロ235への転載(前) 諏訪の建御名方命と八坂刀売とは如何なる方々なのか ? 諏訪の建御名方命と八坂刀売とは如何なる方々なのか ?

新ひぼろぎ逍遥 1073  のビアヘロ235への転載(前)

諏訪の建御名方命と八坂刀売とは如何なる方々なのか ?

20241226

太宰府地名研究会 古川 清久


この事を理解して頂くためには多くの事を語らなければなりません。

まず、諏訪には四つの諏訪神社が在ります。上社(本宮、前宮)下社(秋宮、春宮)です。

無題.png

ここ十年程、甲信越の神社調査を続けていますが、伊那谷から甲州街道に入るには、人口が稠密な塩尻や諏訪を避け、上の地図に出てはいませんが国道152号で直接諏訪盆地に入ります。このため、そこは既に諏訪市ではなく茅野市で、同地の上社前宮に良く参拝しています。勿論、四社全てをじっくり見て巡るには半日ではとても収まらず、最低でも二日はないと詳細に見ることはできないのです。

今秋も甲信越に入りましたが、伊那谷から直接、茅野市に入り、上社前宮を見て甲府を目指しています。それはこのルートを採ると守屋神社正面を通過できるため、そこで参拝し、守屋山からの神水を補給させて頂き山中湖に向かうためなのです。

前置きはこれぐらいに、そろそろ本題に入りますが、今回のテーマを“諏訪の建御名方命と八坂刀売とは如何なる方々なのか ?”としました。参考のために、学者や通説派の学芸員などが馬鹿にする ウィキペディア(20241114 13:39)から引用させていただきます。権威に踏ん反り返る連中よりまともです。

建御名方神(たけみなかたのかみ)

上社本宮祭神。『古事記』の国譲りの段では、大国主神の御子神として登場する。先代旧事本紀』では大己貴神(大国主神)と沼河比売(奴奈川姫)の子とされ、「信濃国諏方郡諏方神社に鎮座す」と明示されている[2]

八坂刀売神(やさかとめのかみ)

上社前宮・下社主祭神。建御名方神の妃とされるが、記紀に記載はない。


では、我が百嶋神社考古学の立場からこの諏訪神社をどのように見ているかをご説明申し上げます。

かなり込み入っており、容易には理解し難い内容になりますので、多少御辛抱頂きます。


無題.png

あくまで百嶋神社考古学の立場ですが、まず初めに、建御名方命が何者であるかをご説明申し上げます。

彼が大国主命の次男などと言うのは「古事記」が書いているだけの事で、実際には異なります。

 大国主命が大山祇の息子であることは、前ブログで述べましたし、そもそも、民俗学で良く言われる、田植えの時期になると山の神が下りてきて桜の木に腰掛けるという田植えの話ですが、大山祇(山の神)と大幡主=神産巣日(カミムスビ=博多の櫛田神社の主神で田の神)は、鹿児島の経営に於いて山の神―大山祇と田の神様として擬神体を形成し強固な姻戚関係を結んでいたのです(神代系譜の上部)。

これは金山彦の一族とも同様で、相互に強固な繋がりを創っていたのです。系譜を見れば明らかです。

この三つの民族が、通説が言う神武僭称贈る崇神(ハツクニシラススメラミコト)ではない本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)を担ぎ、初期九州王朝を支えた連合王権の三柱となっていたのでした。

それはともかくとして、大山祇は息子の大国主を神産巣日に送り、市杵島姫と豊玉姫(三女神の二神への入婿)とし、代わりに大幡主は妹の埴安姫をお妃として送り込んでいるのです(勿論、その政略結婚を行ったのは親神達だったのですが)。

従って、百嶋神代系譜にはどこにも大国主の子としての建御名方命など全く出てこないのです。

この事実を知らないか知られたくなかったからか、「古事記」は配下の建御名方命を大国主の息子と扱っているのです。

その上にこの建御名方命は草部吉見の実の息子なのです。この点については、拡大部Aの吉見とナガスネヒコの妹の間に天足彦、御年神、建御名方命の三人の息子が生まれている事を確認して下さい。

この三人の兄弟は共に神武と衝突したナガスネヒコの父、祖父の血を受けた兄弟なのですが、一人は、ハイキノカミ(全国の日置、早岐、比企、引野、羽曳野…地名はこの一族の展開地です)として草部吉見の元で奪った金山彦系の製鉄地を仕切り、その功績で第6代孝安天皇(熊本県玉名市の疋野神社の神様で玉名の方です)にして貰っているのです。藤原は吉見さんの後裔ですからどうにでもなったのです。

勿論、当然、草部吉見は雲南省麗江に起源を持つ九黎族の一派であって、呉の太伯王の血筋ではないのですから武人としての実力はあったとしても格式は低く、正統皇統の天皇家の人物でもなければ、その臣下一人でしかないのです。この草部吉見は第5代孝昭和天皇になっているのです(後の藤原によるもの)。


無題.png

草部吉見が呉の太伯の流れ(周王朝の末裔)を汲む初代神武とは全く繋がらない身分も低い臣下でしかなかったのですが。多くのお妃の一人であるオキツヨソタラシの長男の天足彦も日本武尊=ヤマトタケルの父、贈る仲哀天皇の祖父になるのですから、初めは面食らうのはしかたがないのです。

さて、前図は長髄彦で検索した ウィキペディア(20241114 21:33)の記述です。

百嶋神社考古学では神武東征は崇神の業績で、神武巡行は神武の業績と考えています。

当然にも、長髄彦と神武との衝突も実際には北部九州で起こっている可能性を考えています。

具体的には、福岡県飯塚市の伊岐須外数ケ所を考えています。

これについて関心を持たれる方は以下をお読みください。つまり、関東の息栖のルーツなのです。

しかも、伊岐須は「好字令」(和銅6年=713年)以前の三文字表記ですので、この観点からは、こちらが先で、関東は後付けのテーマ・パークの様な存在である可能性が高いのです。


ひぼろぎ逍遥 431飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は ...

ひぼろぎ逍遥555 唐津市伊岐須神社の三光神社と餘部の伊岐佐神社とは ...

スポット253 伊川とは何か? “福岡県飯塚市伊岐須に注ぐ伊川 ... 以下、前記のウィキペディア


長髄彦日本書紀』では長髄彦であるが、『古事記』では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とも表記される。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。『古事記』では特に討伐の場面もなく主君の邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が神武天皇に服属したとするが、『日本書紀』では自己の正統性を主張するため互いに神璽を示し合ったが、それでも長髄彦が戦い続けたため饒速日命(邇芸速日命)の手によって殺されたとされる。 『先代旧事本紀』では神武天皇が紀伊半島を迂回し長髄彦と再び対峙した頃には、既に饒速日命は亡くなっており、宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)が天孫(神武天皇)への帰順を諭しても聞かなかったため殺したとする。なお、長髄とは『日本書紀』ではの名であるとされている。


ただ、三男が建御名方命なのですが、彼は父の吉見から離脱し、対抗勢力の山幸彦=饒速日=猿田彦=五十猛の陣営に移行しているようなのです。

傍から見てきた様ですが、“彼には父への複雑な思いがあったのではないか“と考えています。

そもそも、金山彦とその娘である櫛稲田姫を妃とした須佐之男(新羅の王子様)という栄えある流れを汲んだ兄妹であって、妹の瀛津世襲姫は兄の長髄彦=ナガスネヒコを殺されたことを恨んでいなかったはずはないのです。その瀛津世襲姫を母として持つ、自らの思いがそうさせたのではないかと思うのですが、簡単に言えば叔父を殺した男の息子となっている自らの立場と、大国主命の配下として国土開発を行い、国造りの最中の土地を奪った父を許せなかった事が、草部吉見=海幸彦の対抗勢力となった山幸彦の陣営に自らを移行させたのではないかと考えているところです。

分かりやすく下世話に表現すれば、草部吉見は戦利品でもあるかのように母を妃にしているのですから。

これを許すことができなかったとしても、建御名方命が異常な人物だったとはできないとまでは思うので無題.pngす。

このナガスネヒコ問題に関しては東海地区の百嶋神社考古学研究会メンバーの山ちゃんブログをご紹介しておきます。余裕のある方は36話をお読みください。


1.長髄彦の家系

表 長髄彦を中心とする家系

名前

血縁関係

生年

またの名など

スサノオ

AD127

天日槍命・天手力雄命・骨正など

櫛稲田姫

AD134

瀬織津姫

市杵島姫

腹違いの姉

AD147

母アカル姫 別名スセリ姫

長髄彦

本人

AD150

岐神

八坂刀売

AD184

旧名奈留多姫

瀛津世襲足姫

実の妹

AD152

 

安日彦

義兄

AD138

草部吉見・天忍穂耳・大年神

辛国息長大姫

腹違いの妹

AD154

母神大市姫 別名天細女

生年は故百嶋氏の推定

2.長髄彦の叛

九州王朝に対する反乱の理由について、故百嶋氏は述べていませんが、おそらく支配地を廻る戦いであったと推測します。

戦いは『記紀』が記すような長閑な戦いではなく、激しい戦闘が九州の地で繰り広げられたようです。

この反乱について、ブログ「神社見聞牒」を主催する宮原誠一氏は以下のよう記しています。

ブログ「神社見聞牒 宮原誠一」

「戦闘は福岡県矢部川(八女市矢部村の三国山に源を発し、上流から中流域にかけては筑肥山地の北縁を西に流れ、有明海に注ぐ)以北の北筑後から福岡市東部一帯で行われ、決戦の地は吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ケ里町)で、総括指揮官は神武天皇と共立された「ヒミコ」で、構成は大国主率いる匈奴・物部軍とニギハヤヒ率いる北筑後物部軍及び邪馬壹国連合軍で、戦いの激しさは吉野ケ里遺跡公園の西の墓地群に見ることができる。やがてナガスネヒコ軍は、降伏勧告を受け入れ、ナガスネヒコ軍は配下氏族と共に東北地方へと配転された。」



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新ひぼろぎ逍遥 1073  のビアヘロ235への転載(後) 諏訪の建御名方命と八坂刀売とは如何なる方々なのか ?

新ひぼろぎ逍遥 1073  のビアヘロ235への転載(後)

諏訪の建御名方命と八坂刀売とは如何なる方々なのか ?

20241226

太宰府地名研究会 古川 清久


ここで、話を本来の建御名方命に戻します。拡大図 A のとおり、あくまでナガスネヒコは彼の叔父に当たる人なのですから。では、最後に拡大図 B に入りましょう。

ここで未だに謎とされるたままの 八坂刀売 が何者であるかが分かるのです。ご理解頂ければですが。

ここからの話は、私達も漸く分かった事です。このため、今夏、ヤマトオグナに誅殺されたという皆さん良くご存じの川上(熊襲)猛の、故地が熊本県高森町でありその母が名を改め建御名方命のお妃になられているというとんでもない話に繋がることになるのです。

 故)百嶋由一郎はここまでお分かりだったのです。つくづく有難いと思うばかりですが、もし百嶋先生がおられなかったとすれば、通説派のお伽噺にもならないでたらめな話に未だに騙され続けていることになっていたのです。 

ここまでくると、歴史発掘とか神代を探るとか言う方々の話がほとんど漫画にしか見えないことになるのです。大変失礼ですがお笑い種ですね。

 今夏、川上 猛の生誕地を探るとして、熊本県高森町の最深部を探る、トレッキングを行いました。

 皆さんのご都合もありますので、主要には二度に亘り、山口、福岡、大分、熊本、宮崎、から延べ、560人が参加されましたが(それでも参加できない方々のためにも補足を行いましたが)、実はこの川上 猛とウガヤフキアエズの妃となった豊姫=淀姫こそが八坂刀の御素性だったのです。詳しくは次葉の更なる拡大図をご検討下さい。

 ここで、お考え頂きたいのは、奈留多姫=八坂刀売が阿蘇宮司家の初代とされる惟人の姉か妹という阿蘇家の本流中の本流の女性であることです。高貴とはまでは言はないものの、そのような要人が建御名方命のお妃となり諏訪への道行きとなったという大きな出来事に驚くのですが、阿蘇家の側にも大きな変化が生じている事が分かるのです。

 まず、奈留多姫の母は悲劇の雨宮姫(兄草部吉見と弟健磐龍の血を引く)で、東方に進出し後の藤原氏に成長する基礎を造ったのが阿蘇氏の兄草部吉見と阿蘇を守った腹違いの弟健磐龍であることです。

 その東方への進出も、高木大神の意思に依るものと考えられ、後の神武僭称贈る崇神(吉見の孫)であり、その更なる東方進出の謂わば尖兵となったのが、風三郎こと興ツ彦=入彦というタクハタチヂ姫との間に生まれた三郎だった事になるのです。してみるとある時期の高木大神の拠点となった宮崎県高千穂町の三田井に近い、現在の草部吉見神社の東1.5キロにある三郎社だったことが良く理解できるのです。

 ここで、少し話を戻しますが、川上 猛の話に戻すことにします。この間当ブログをお読みになっている方ならば、ある程度理解されているとは思うのですが、初めて川上 猛が阿蘇氏であったという話を知った方には寝耳に水であると思いますので、多少、触れておきたいと思います。ブログとしては、新ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)のバック・ナンバーをお読みいただく必要があります。

 ただ、その量もかなりのものになるため、トレッキング用の配布資料と全体を把握できるパワー・ポイントをご覧になる方が良いのではないかと思いますので、それらから一部をご紹介しておきます。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

1070

川上 猛の「川上」は高森町の川上山、川上(城)に由来していた!

 

1061

高森町の永野祖母嶽神社は祖母山一帯で最も価値ある一社

1056

8.188.25 川上 猛の生誕地を探る高森町トレッキングへの配布資料

 

1055

8.188.25 川上 猛の生誕地を探る高森町トレッキングへの配布資料

 

1054

川上 猛の妹淀姫=豊姫は…高良玉垂命の妃 探求編

 

1050

今回の高森町野尻川上(淀姫)神社へのトレッキングで宿泊が必要ならば

 

1048

盆明けの既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング

 

1045

草部吉見 様の苦労

 

1044

ブログ「ホトカミ」様の映像が伝える野尻川上神社

 

1043

新たに野尻川上神社の傘下に入った人々とは

 

1042

阿蘇南郷谷の最奥部に鎮座する御霊神社とは何なのか?

 

1041

既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング

 

1040

阿蘇南郷谷の最奥部に鎮座する川上神社に参拝した “野尻川上神社”

 

1039

阿蘇南郷谷の最奥部に新たに淀姫系川上神社を確認した“野尻川上神社”

 

新ひぼろぎ逍遥

1067

熊襲 猛誅殺で知られるヤマトタケル=後の日本武尊を祀る白鳥神社の疑わしさ

1066

野尻川上神社トレッキングを前に南阿蘇村下田の西野宮神社を再確認しておきます

1065

トレッキングで巡る5社の祭神を再確認しておきます

1064

大神惟栄をウィキペディアと併せ考える

1060

盆明けの既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング 0818+25

1059

盆明けの既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング

1058

川上 猛と日本武尊を別の百嶋神代系譜から見ると

1057

川上 猛と淀姫の両親を祀る糸島市の産宮神社

1056

川上 猛の父神ウガヤフキアエズの子 安曇磯羅とはどの様な人物か

1055

熊襲 猛誅伐の舞台1800年前の肥前の川上峡はどのような国だったのか

1054

熊本県大津町平川に何故、淀姫神社が在るかが分かった

1053

川上 猛が脊振山を越え早良のどこに落ち延びたかが分かった理由

1052

南阿蘇高森町 野尻川上(淀姫)神社トレッキングへの配布資料

無題.png

10年越し探査により、佐賀(佐賀市川上峡)、福岡(福岡市早良区)、大分(豊後大野市)、熊本(高森町)で何とか漕ぎつけたP.P.ですが、必要とされる方は、09062983254までご連絡下さい

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最終神代系譜(部分図)


 ここで、簡単に概要をお話しておきますが、若き 川上 猛は、佐賀県のほぼ真ん中を流れ下る川上峡谷の当時の河口部(従って有明海の最奥部の汀線付近)である旧大和町大願寺辺りに拠点を置き、恐らく交易を行っていたと思われます。そこで、金山彦系のナガスネヒコの後裔に当たる女装したヤマトオグナ(オウス命)のテロ攻撃を受けたのです。神話では誅殺されるのですが、百嶋神代系譜に依れば、その栄えある家系から、旧背振村(現神崎市)の広滝で助命され、背後の脊振山を北に越え、福岡市早良区の原の諏訪神社周辺に現在も纏まってお住まいになっておられるようなのです。

 百嶋由一郎は、講演でもこのことに触れておられましたが、その方々が早良区の何処にお住まいになっておられるか、また、そのお名前が何であるかについては、申訳がないので言えないとされ、そのまま亡くなられたのでした。ただ、それでは、永遠の謎として歴史に流されてしまうことから、何とかして探ろうと、早良(サワラ)の神社を片っ端から調べていたのですが、埒が明かず、諦めていたのですが、幸いなことに、百嶋先生の手書きデータの中にこれに関係する記事を発見し、現地を訪問すると立ちどころに謎は解けたのでした。それが五年ほど前の事でしたが、今思えば実に奇跡的に回収できたと思うのです。

 つまり、早良区の諏訪神社を調べれば良かったのでした。しかも、早良には一社しかなかったのでした。

無題.png

ここまでは申し上げますが、紙数の問題もあり、後はブログをお読み頂きたいと思います。大分の豊後大野市一帯と、熊本の高森町の最奥部の野尻川上神社を知ることによって、この謎は完結するに至ったのでした。

そこで、阿蘇家の本流であった奈留多姫が、何故、敗残した建御名方命と道行きとなった事の背景にも、海幸彦草部吉見系と山幸彦=猿田彦=五十猛系(物部氏本流)との対抗、衝突が存在したのではないかという思いが消せません。

特に、奈留多姫(後の八坂刀売)は川上 猛という言わば逆賊扱いとなった母としての無念さが働いており、共に不遇な将来を受け入れざるを得なくなった共感が、道行きの原因だった様にも見えるのですが、これは、想像に過ぎますので無視して頂きたいと思います。

「この様な推測の根拠は」と言われることは承知の上ですが、百嶋神代系譜上の祭神の配置状況から言えば、そもそも、川上 猛を誅罰(殺してはいないため誅殺ではないのですが…)した後の日本武尊ことオウス命とは草部吉見とオキツヨソ足姫(ナガスネヒコの妹)の間に生まれた天足彦の子であり、その意味では阿蘇系の派生氏族内の争乱にも等しく、そこまで行かないとしても、その関係者の間では、かなりの動揺が生じていた言わばお家騒動であった可能性はあるのであって、この要素が奈留多姫に建御名方命に走った動機にはなるように見えるのです。事実、百嶋先生も、奈留多姫は熊襲及びゆかりの人々を早良区に残して諏訪にゆかれましたと書いておられるのです。

ただ、後の藤原は阿蘇氏であるが故にか…オキツヨソタラシヒメは山幸彦の妃となったなど「日本書紀」は書いているのです。決して騙されないようしなければならないと思うばかりです。

百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は、090-62983254までご連絡下さい

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:30| Comment(0) | ビアヘロ

2025年01月03日

新ひぼろぎ逍遥 1074 のビアヘロ236への転載  もしかしたら、風三郎神社と宮沢賢治の風の又三郎には関係があるのではないか…と考えたのですが ?

新ひぼろぎ逍遥 1074 のビアヘロ236への転載 

もしかしたら、風三郎神社と宮沢賢治の風の又三郎には関係があるのではないか…と考えたのですが ?

20241121

太宰府地名研究会 古川 清久


 無題.pngこの直感は、天竜川左岸に風三郎神社を見出した時からのものでした。ただ、その段階ではこの風三郎神社が本当にヒコヤイミミの子である新(ニュウ)彦=興ツ彦の事であることを確信するまでは後回しにしていたのでした。

右は「中川村 風三郎神社 祭神」で再掲した記事です。

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我々、百嶋神社考古学の者にとっては、期待していた通りの記事で、「級長津彦命」(しなつひこのみこと)と「級長戸辺神」(しなとべのみこと)とは、級長津彦命が草部吉見=ヒコヤイ(ハエ)ミミで、級長戸辺神が高木大神の次女の栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)との間にもうけた高千穂の三田井にいた高木大神系の直系の跡継ぎになる人物なのです。ここまでくると、阿蘇系神社に精通した方でも中々分からない部分になるかも知れません。

恐らく、草部吉見そのものは進出した三郎かその後裔氏族によって祀られたものであろうと考えています。その時代はまだまだ34世紀であり、初期九州王朝の真っただ中という時代であり、海幸=ヒコヤイミミ、山幸=猿田彦=ニギハヤヒの深刻な対立が起こっている段階でもないはずなのです。

ただ、三郎は建御名方命に対して20年程年若であり、実際に出会っている可能性もあるはずなのです。

さて、“風三郎と風の又三郎とは関係があるのか”というテーマに入りましょう。

まず、風の又三郎という宮沢賢治の晩年の短編ですが、私も確か中学生の頃にNHKで見たような気がしています。

どう考えても風三郎神社という名称は非常に印象的な名前で、龍田神社の話を知らない人でも心が躍るような社名であるため、宮沢賢治が信州に縁故がないとしてもかなり気になるものだったのです。

そこで、これについて検索を繰り返していると、かなり魅力的な話が出てきたのでした。

ただし編集の都合から、書体、色、レイアウトなどは変えています。できるだけ原本をお読み下さい。


特定非営利活動法人

風ノ三郎伝説無題.png

 


 

宮澤賢治の童話「風の又三郎」の基となった「風野又三郎」のなかに「そんな小さなサイクルホールなら僕たちたった一人でも出来る。(中略)甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ヶ岳の麓の野原で休んでたろう。(中略)下に富士川の白い帯を見てかけて行った。」と、岩手県生まれで山梨県を訪れたことがない賢治の作品の一節に八ヶ岳や富士川などの名前がでてくることから、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)の寮で同室であった韮崎市(旧駒井村)出身の保坂嘉内から聞いた八ヶ岳の三郎風の話をヒントに書かれたのでないかと言われている。

三郎風とは八ヶ岳おろしの別称で、甲斐国史(1814年)には八ヶ岳に風ノ三郎ガ岳があったことが記されている。現在、風ノ三郎ガ岳がどの山であったかは定かではない。さらに風切りの里と呼ばれる北杜市高根町清里樫山地区には、暴風雨除けの「風の三郎社」があり、雨乞いをする「八ヶ岳権現社」、晴天を祈願する「日吉神社」と合わせて三社参りといって、270年前から終戦の頃まで「オハンネリ」といって米を紙に包んで奉納する神事が行われていた。

風の三郎伝説は、福島・新潟・長野県などにもあり、いずれも210日などの風水害から農作物を守り、五穀豊穣を願う信仰で、八ヶ岳山麓では高根町樫山と南牧村平沢の集落だけです。さらに嘉内が中学時代に描いた鳳凰三山から甲斐駒ケ岳に向って尾を引いて飛んでいくハレー彗星のスケッチに「銀漢(注:銀河のこと)ヲ行ク彗星ハ夜行列車ノ様ニニテ遙カ虚空ニ消エニケリ」の文章が添えられていることから、「銀河鉄道の夜」も嘉内から聞いた彗星の話しがヒントになったかもしれないとのことです。賢治と嘉内は同じ理想を持ち、文学などを通じて生涯の親友となるが、やがて宗教観の違いなどから離れていってしまう嘉内への心情を、「銀河鉄道の夜」の中で孤独な少年ジョバンニ(賢治)とその友人カンパネルラ(嘉内)に置き換えて書いたともいわれています。はたして賢治は嘉内から風ノ三郎伝説や彗星の話を聞いたのでしょうか。      (小村寿夫)

風切りと呼ばれる赤松の防風林と八ヶ岳:風ノ三郎ガ岳はどこに。この防風林の中(右方)に八ヶ岳権現社がある。

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八ヶ岳権現社:そば処北甲斐亭の近くの「五幹の松」と呼ばれる赤松(高根町指定天然記念物)の根元に明和元年(1764)造年の八ヶ岳権現社の小さな石の祠(右)と、「風切りの松 風の三郎」と彫られた新しい石碑が並んでいる。

無題.png日吉神社:上手集落はずれの山腹にあり、鳥居をくぐって石段を登ると古い社が建っている。300年ほど前から行われている日吉神社の筒粥の神事は、毎年旧暦の114日から15日の未明にかけて大鍋に米と葭の筒を入れて炊き、葭筒の中の粥の入り具合で作物の出来具合などを占う神事で高根町の無形民俗文化財に、また、石段両脇の3本の杉の大木が高根町の天然記念物に指定されている。

無題.png風の三郎社:東原集落の利根神社の中に小さな石祠の風の三郎社(右)が利根神社(左)と並んで祀られている。風の三郎社は他の場所から移されたもので、苔むした祠の屋根が時代を感じさせる。

賢治と嘉内の碑:韮崎文化ホールの前にある銀河鉄道を模した嘉内が理想の農業を目指した花園農園と嘉内の歌稿、賢治の書簡が書かれた石碑。

無題.png銀河鉄道展望公園:南アルプスを望む韮崎市穂坂町には、夜、中央本線の列車の帯が空に駆け上がって行く銀河鉄道のように見えるという銀河鉄道展望公園がある。

まずは、風三郎神社ではなく、甲信越などに広がる風の神信仰の色合いの濃い一般的な風の神信仰に関するものをお知らせしました。



次も、伊那谷と言うより八ヶ岳南麓の話になります。

ただ、宮沢賢治が韮崎に住む生涯無二の親友「保坂嘉内」からこれらの話を聞き、「風の又三郎」を書き上げたのではないかという話がある。と書かれているように、かつて現山梨県韮崎市に住んでいた保坂嘉内との交友を取り上げており、この点、風三郎神社と「風の(野)又三郎」との接点も意識されているようです。


無題.png
無題.png

次は、ウィキペディアから保阪嘉内を検索し拾ったものです。無題.png20241119 22:13よる

 

保阪嘉内 保阪 嘉内(ほさか かない、1896明治29年〉10月18 - 1937昭和12年〉2月8)は、日本詩人宮沢賢治の親友として知られ、賢治の代表作とされる『銀河鉄道の夜』のカムパネルラのモデルとも言われる。

経歴山梨県北巨摩郡駒井村(現:韮崎市)出身[6]。父は郡役所書記であった。韮崎高等小学校から1910年に山梨県立甲府中学校(現:山梨県立甲府第一高等学校)に進む[1]。星の和名に詳しい野尻抱影に英語を教わり、また文芸同人誌に作品を発表していた。中学入学の年にハレー彗星の最接近を観察しスケッチをつけた。

盛岡高等農林学校へ

無題.png岡高等農林在学時、同人誌『アザリア』のメンバーと(後列左)。嘉内の右が宮沢賢治。前列は左が小菅健吉、右が河本義行。

1915年に甲府中学を卒業すると、東北帝国大学札幌農科大学(現:北海道大学)を受験するが不合格となり、翌1916年に盛岡高等農林学校農学科第二部に入学する。出身地である山梨の農民生活の改善が進学の目的であった。寄宿舎(自啓寮)では賢治と同室となる。嘉内が石川啄木に興味を持っていることを知った賢治は、入学直後に啄木の短歌に詠われた旧制盛岡中学校(賢治の母校でもある)校舎のバルコニーに嘉内を案内した。賢治は嘉内の進学理由に共感したという。5月には寮の懇親会で自作の戯曲「人間のもだえ」を上演、賢治は「全智の神ダークネス」役で出演した。

191771日に高等農林で文芸同人誌『アザリア』が創刊されると、嘉内は賢治、小菅健吉河本義行とともに、その中心メンバーとなった。同年7月、賢治が率いるフィールドトリップに参加、秩父地質を探り『秩父始原層 其他』に短歌296首を収めた。そのうち岩石や鉱物、地質現象を読み込んだ154首を手がかりに当時のフィールドトリップ(巡検)案内と照らし、訪ねた地点や注目した鉱物の産出地の追跡が地質の専門家によって試みられている。専門書『地質学教科書』にもある秩父長瀞の結晶片岩に魅かれたこと(片岩26首・剥岩5首・シスト2首・結晶片岩1首)、また自然科学の知識の分析から、理系であって文学の素養を備えた人物としての個性を読み取ることができる。

しかし、19183月発行の第6号に寄稿した「社会と自分」という文章の中に、「今だ。今だ。帝室を覆すの時は。ナイヒリズム」という一節があったことが問題視され、退学処分となる。賢治は学校当局に再考を求めたが処分は覆らず、退学が決まり寮を出る嘉内に賢治は『漢和対照妙法蓮華経』(島地大等編)を贈った。この年の暮れも押し詰まったころ、日本女子大学校在学中だった賢治の妹トシが入院し、賢治は母にしたがって看病に上京する。賢治は会う機会を求めて駒井の保阪家宛てに手紙を送るものの、このときは再会していない。

営農、入隊、文芸記者 嘉内は東京で明治大学に学籍を置き、農業を支える志を貫こうと札幌もしくは駒場の農科大学への進学に向け勉強に取り組んだが、母の急死に遭い断念し、山梨に戻って農業活動に入る。191911月から1年間は志願兵として近衛輜重兵大隊に応召した。除隊後は山梨で職に就く傍ら、勤務演習に数度参加して1923年に士官(少尉)に任じられた。農林学校を離れたとはいえ同窓と手紙で交流を重ねており、小菅健吉の書簡録によると、1918年から7年ほどアメリカに滞在した健吉のほか、「アザリア」の仲間だった鯉沼忍と河本義行、やがては健吉・隆子夫妻、嘉内・さかゑ夫妻との親交をうかがうことができる。国柱会に入会して浄土真宗からの改宗をめぐって父と対立した賢治からは、多くの手紙が送られた。その中には嘉内にも国柱会への加入を勧めるものがあったが、父が神道・禊教の関係者であったためそれに応じることはなかった。賢治は家出して上京していた19217月、上野帝国図書館(現:国際子ども図書館)で面会したとされるが、その日の嘉内の日記では「宮澤賢治 面会来」と書かれた文字を上から斜線で消している。この時期を境に賢治から嘉内への手紙の数は大きく減り[29]、以後再び会うことはなかったとされる。1924年から1925年まで山梨日日新聞に文芸記者として勤務し、短歌欄に投稿したさかゑと結婚、その後、念願の農業生活に入り、柳宗悦小宮山清三らと諏訪で講演した1926年と、1927年、1929年に子どもをさずかる。1928年には歌集出版を企図したが、出版社の火災で預けていた歌稿を失い断念した。営農中に在郷軍人会の分会長や駒井村会議員といった役職にも就く。

以下略載

正確な表現ではありませんが「閑話休題」として


引用したアザリアですが、小坂氏が同人誌の編集権を握っていたとすれば、よく意味が分かるのです。

1917年71日に高等農林で文芸同人誌『アザリア』が創刊されると、嘉内は賢治、小菅健吉河本義行とともに、その中心メンバーとなった。

  無題.pngazareaは、スペイン語のazarea(アサレア)であって、日本でも一般にはアゼリアとかアザレアと濁音で呼ばれていますが、アサリア清音で発音するのが正しいはずで(皆様よくご存じの怪傑ゾロ=狐も実は「ソロ」でそれはスターウォーズのハン・ソロでも分るでしょう)、花の西洋ツツジのことなのです。
残念ながらアルゼンチン・タンゴをこよなく愛する私にも、タンゴにアサリアという単語の入った曲は知らないのですが、それは乾燥した痩せた土地でも良く育つという「節制」や「充足」を意味する花言葉が奔放で場末(アラバレロ)風の酒場の意味にそぐわなかったからではないかと思っているところです。
しかし、その痩地故にこそ、甲風のワインの材料であるぶどうが育ったのであり、何が幸いするかは分からないものです。

そこで話は変わりますが、武田信玄公の晩年の居城が躑躅ヶ崎城でしたね。無論、躑躅はツツジの意味ですので、同人誌「アザリア」は甲斐出身の保坂嘉内が躑躅から付したものだったと思うのです。


躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館(または日本の城[注 1]。甲斐国守護武田氏の居館で、戦国大名武田氏の領国経営における中心地となる。

ウィキペディア 20241122 12:43

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山梨県北巨摩郡駒井村(現:韮崎市)出身の保坂嘉内の出身地の駒井村は躑躅ケ崎館に近い、韮崎市藤井町駒井ですので、アザリアの意味も、南アルプスを西に越えた現中川村の風三郎神社もその奥宮も知っていた可能性があるのです。勿論、アルプス越えになりますので冬場は無理としても、一泊の行程であれば明治大正期の健脚であれば、当然、可能な範囲のはずなのです。折しも、「アザリア」発行期はロシア革命の真っただ中であり、中央本線全通(1911年に名古屋まで)もその5年程前の事なのです。

甲斐から伊那なり飯田に向かうとしても、諏訪や塩尻まで遠回りはしないはずで、手前の茅野からは結局山越えするしかないのであって、明治大正期は皆、諏訪の手前の茅野まで行かずに、健脚の人は直行していたはずなのです。この話が寄宿舎(自啓寮)で賢治と同室となった宮沢賢治との会話に出ないはずはないのであって、風三郎神社の存在が短編「風の(野)又三郎」と不思議な転校生としての保坂が風の又三郎のモチーフになったと思うのです。しかし、この三郎神社の主が阿蘇の草部吉見(ヒコヤイミミ)の親子だったとはまでは、今もなお誰も知らないはずなのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ