2024年09月01日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 227 新ひぼろぎ逍遥1064(20240809)の転載 大神惟栄をウィキペディアと併せ考える

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 227 新ひぼろぎ逍遥106420240809)の転載

大神惟栄をウィキペディアと併せ考える

20240816

太宰府地名研究会 (神社考古学研究班)古川 清久

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以上は「苗字由来net様のデータをご紹介したものです。以前は、姓名分布&ランキングを多用しておりましたが、3月で閉鎖終了となりましたので、今後はこれを活用させて頂きたいと思っています。

今回、豊後大野の大神一族が記紀神話で有名な川上 猛(俗称熊襲 猛)の後裔氏族であろうとの推定から、この姓名分布からもアプローチしたいと考えたものです。


緒方惟栄は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。豊後国大野郡緒方荘を領した。通称は三郎。諱は惟義、惟能とも。大神惟基の子孫で、兄弟に惟長、惟隆、惟憲がいる。 『平家物語』に登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子孫であるという伝説がある。    ウィキペディア20240809 10:39による


 この大神外緒方などの全国分布を見る時、分かり難いですが幾つかの興味深い点に気付きます。

 まず、大神姓の分布は、最低でも九州起源であると言う事が見て取れ、東にも相当に広がっている事が分かります。絶対量の事を申し上げてはいませんのでその範囲でお考え下さい。

 一方、緒方が最も権威がある中心的一族の様に見えます。古代には、少なくとも阿蘇氏の本拠地は九州の中心部であり、緒と尾とは頭が緒であり、尾は末端の意味があったはずで、本家と分家と言うよりも御屋形様と臣下の上下関係を表すはずで、指揮と臣従を意味している様に見えます。

 つまり尾方と尾形でも肥後に残った(つまり本店)臣下と、前線に出向いた(つまり支店)配下の意味

が感じられます。

また、緒形も尾形も地方、戦場に出た指揮官と配下の違いが反映されている様に見えるのです。

 頭に浮かぶのは、崇神天皇指揮下で実行されたとされている(あくまでもされている)四道将軍です。

 これは九州王朝の高良玉垂命(阿蘇氏=多氏の後の藤原氏も渋々第9代天皇とせざるを得なかった開化天皇+神功皇后コンプレックス複合体)の指揮下で日本海側北上に送り込まれた実は安部一族(開化の腹違いの兄=大彦の一族)であり、そこでも新潟に緒形、尾形がピークを見せているのです。

 その安部氏と合流したのが東関東に進出した崇神の息子の一人で、故に「会津」と言うという記紀に良くある語呂合わせとしての地名説話なのです。

 無題.pngついでに小形姓を見ると、やはり佐賀、熊本、大分方面から東北地方に進出し、定着した人々に見えますね。これは後の時代ですしょう。多分、安部の貞任、宗任が潰された後の時代であるように思います。起点は京都の舞鶴と言うよりも福井の敦賀辺りからでしょうか。分布からはそう見えます。

 崇神の別名はツヌガノアラシト=都怒我阿羅斯等

 敦賀にやって来ていた(阿羅)伽耶の人=ヅーヅー弁地帯では人はシトですね。阿蘇国造大山(クイ)咋を祀る甲佐神社の主神は贈る崇神の親なのです。

 まあ、不確かな作業ですが、崇神がやった中国地方、畿内から東日本征服戦争にも阿蘇氏が関係している事が良く分かります。ただ、間違えないで頂きたいのは、これもは九州王朝が年嵩でも配下の崇神の息子の世代にやらせたことなのです。 上は小形 

 ただ、この事によって後の藤原が草部吉見の孫の世代の崇神の業績を偉大に見せ彼こそが神武より業績が大きいものとしたのです。津田よ!それが欠史八代などと言う大嘘の原因なのです。神武僭称贈崇神

大神が何故、緒形なのだ!と言われる方も居られるでしょうが、宇佐神宮の辛島一族、大神比義の一族、そもそも、この豊後大野を潤す大野川(上流の大谷川その一部が川上渓谷)が阿蘇草部吉見の支配領域に端を発している事、有名な阿蘇大蛇伝説の一族が元は大神一族と呼ばれていたという事が、ここに来て漸くはっきりしたことから、今回の高森町野尻川上淀姫神社を主眼に高森町辺境最深部の殆ど目立たない小社数社と草部吉見(後の表向き春日大神、鹿島大神=事実上の藤原氏の祖)を巡る8/18,8/2550人規模(7県)の方々(50人規模)をお呼びするトレッキングへの一助となるべくこの小稿も書くに至ったものです。勿論、川上 猛はヤマトオグナ=オウスノミコトによって誅殺されているはずだ…とか、何故それが大神一族と繋がるのか?と言った話は先行ブログでは書いていますのでそちらをお読み頂きたいのですが、佐賀県に川上峡が存在し、そこに、淀姫神社が在る事、京都の伏見の淀姫神社の由緒に、肥前の淀姫神社を元宮とする旨が書かれ、大阪の淀川の地名起源も淀姫神社に端を発している事から、当時はそれ程の権威を淀姫(ウガヤのお后ですから)は持っていたのだと分かる訳です。

現在もこの淀姫は高良大社の麓の高良下宮社=祇園神社に隣接する南の境外地(最後の高良大社大祝一族=鏡山家の屋敷跡の高速道路買収残地に加輪髪媛の墓が残されている事でも分かるのです。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)965をお読みください。

965 緊急報告高良大社下宮社の背後地(大祝司邸宅跡)に佐賀川上峡の淀姫の墓所があった!” ❶


肥前でも東の佐賀には、ほとんど気付かない程度ですが、川上 猛に関する伝承が残っています。

また、更に東の神埼市には、誅殺した側とされる後の日本武尊に関わる白折角神社もあります。

先を急ぎますが、故)百嶋由一郎はどこでその情報を得たかは分かりませんが、「脊振村(現神埼市)広滝で許され、脊振山を越え福岡市早良区の某神社の周りに今も纏まってお住まいになっています」と講演会で話しております。ただ、「可哀そうでその名前(姓氏)もその神社も分かっているが言えない」と話し鬼籍に入ってしまいました。こうして永久に解らない謎になったと思ったのですが、数年後、百嶋先生の手書きデータの中にその謎を解く記述を発見したのでした。

それは、川上 猛兄妹の母奈留多姫が、葦原中津国を奪われた建御名方(他にも証明はしていますが、出雲神話の舞台も朝倉郡であって決して出雲の国で起こった事ではないのです)の妃となり諏訪への道行きとなった…と言うメモだったのです。

阿蘇氏本流の奈留多姫は川上猛など一族と別れ名を八坂刀女と名を改め、建御名方と一緒に諏訪に向かったのでした。つまり、これまで早良の神社を探っても分からなかった神社が早良区原の諏訪神社と分かったのでした(早良区に諏訪神社は一社のみ)。そして、日を改め10人を超えるメンバーを集め同社に参拝すると、その周りには9軒の大神(こちらはオオガミ)さんが住んでおられたのでした。

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百嶋最終神代系譜(部分)


大神惟基 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』                20240810 05:20 による


出生伝説 『平家物語』や『源平盛衰記』などに記されている、祖母山大明神の神体である蛇との蛇神婚伝説で殊に有名である。

『平家物語』には、豊後国国司の刑部卿藤原頼輔とその息子で代官の藤原頼経が、京から、平氏一族を匿う九州の武家らを源氏に従わせよとの旨の命を受け、これを緒方惟義に下命した件があるが、ここで緒方の先祖「あかがり大太」のことが語られている。

すなわち、豊後国の山里に住んでいた娘の許に、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆されて娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後をつけると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はついに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろう無題.pngと告げ、息絶える[注釈 1]。やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。

件の大蛇は、日向国にあがめられ給える高知尾の明神の神体なり。この緒方の三郎は、あかがり大太には五代の孫なり。    

ネットでも【古典朗読】現代語訳 平家物語(1)/尾崎士郎を聴けます。

−平家物語 巻第八

平家物語は作者が不明であるが、このことから緒方惟義の五代前の祖とされる大神惟基が、あかがり大太にあたるとされている。

大分県竹田市の健男霜凝日子神社(穴森神社)には、この大蛇が住んでいたと伝えられる岩穴がある。

人物 出生伝説は有名であるが、惟基自身の生涯については詳細はわかっていない。

その祖については、宇佐八幡宮の創建者である大神比義や、畿内の貴族であった大神良臣などが候補として挙げられている[2]

豊後国海部郡を本拠とし、藤原純友の副将であった佐伯惟基(是基)を惟基と同人物として擬する説もある[要出典]が、年代上問題があるとされる。

神婚伝説のためか、神社の創建や再興との関わりが伝えられている。熊本県人吉市にある青井阿蘇神社は、大同元年(806年)大神惟基が阿蘇神社の祭神12柱のうち3柱を分祀して創建したと伝えられる。

また、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社は、社伝によると、弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興されたとされる。子孫  長男:高千穂(高知尾)太郎政次 - 日向国臼杵郡高千穂郷を本貫とし、三田井氏の祖となる。次男:阿南次郎惟秀 - 豊後国大分郡阿南郷を本貫とし、阿南氏の祖となる

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2024年09月03日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 228 新ひぼろぎ逍遥1066(20240812)の転載 野尻川上神社トレッキングを前に南阿蘇村下田の西野宮神社を再確認しておきます

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 228 新ひぼろぎ逍遥106620240812)の転載

野尻川上神社トレッキングを前に南阿蘇村下田の西野宮神社を再確認しておきます

20240816

太宰府地名研究会 (神社考古学研究班)古川 清久


 記紀で皆さんが最もよくご存じの説話の一つにヤマトオグナ=オウスノミコトによる熊襲 猛退治があります。

今般、この川上 猛の出生地が高森町の外輪山東側外延部の野尻川上神社であろうとの粗方の見当が着いたことから、我々のネット・ワークで呼び掛けたところ、佐賀、福岡、大分、熊本という我々の研究会のホームグ・ランドを越え、山口、宮崎に加え、兵庫からも参加者が出た事から、雨天順延などを含め、818日(日)と25日(日)に930高森町スーパーマーケット「フレイン」に集合し、野尻地区と言う宮崎県高千穂町との国境に接するエリアの56社を探訪するというトレッキングを企画したものです。

 有難いことに50名近い参加申し込みが有り、盆過ぎの標高800メートル(普通の年ならば本来は涼しいのですが今年はどうなのか…)地帯を乗用車で巡るというトレッキングになります。

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西野宮神社(南阿蘇村) カーナビ検索 熊本県阿蘇郡南阿蘇村大字河陽606


祭神は、阿蘇大明神・甲佐大明神・高来大明神など16柱で、「下野の巻狩」を仕切っていた宮である。

325号線沿いにある鳥居から境内へと続く長い参道を登ると「鎮守の森」にふさわしく何本もの大樹が亭亭(ていてい)と聳(そび)え、ひんやりとした空気が漂う。中世の頃、下田城主下田氏が阿蘇神社の権大宮司を勤めながら神主をしていた歴史の古い由緒ある神社である。阿蘇大宮司が臨席した大切な「下野の巻狩」の祭りもこの西野宮が取り仕切った。

阿蘇神社から見て西にある宮という意味で「西野宮」と呼ぶとも伝えられる。720日の夏祭りには御輿が三基繰り出し、無病息災を願って、御輿くぐりをする人々で賑わう。

南阿蘇村HP

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南阿蘇鉄道の下田城駅自体が温泉を持つ駅である上に、巨大な湧水池を持つ白川吉見神社、地震から復興した地獄温泉 青風荘、垂玉温泉 瀧日和…と言った、言わば、南阿蘇南郷谷の中心部の言わば支配的な神社ながらそれほど知られない同社についてブログを書いたのは多少の理由があります。

南阿蘇で、当研究会と十数年前から最も親密な関係を持っていたのが、八坂(祇園)神社であり、何度か田尻宮司をお呼びして、炎のピラミッド研究に関わる講演会を行っていたのでした。

これについて関心をお持ちの方は、別途、パワー・ポイントも作成していますが、とりあえずは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から、以下の20本ほどのブログをお読み頂ければと思います。

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東京大学の某学会でさえ注目し講演会を開いた(もう20年近く前ですか…)、これほどの凄い研究を、熊本県は元より、中央の神社庁から同県神社庁は、一切無視し続け、燦然と光り輝く田尻研究も存在しなかった事になっているのです

 当会は、数年前にも北九州小倉での講演会を企画したのですが、遠方故に辞退され西原村での講演に切り替えた経緯があります 宮司の年齢も考えると、条件が許せば、再度、筑紫野市での講演を企画したいと考えているところです

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年間500社もの神社を巡る二十年近い神社探訪でも最も驚いた事がこの田尻宮司による阿蘇を中心とする11社の研究でした。南阿蘇村八坂神社の田尻宮司は1997年の地理情報システム学会(東京大学)ばかりではなく、当時、熊本県観光連盟主催(県観光振興課後援)の「ふるさと寺子屋塾」においても講演されていました。今、明らかになる「火の国の炎のピラミッド」以下要約。


自然の阿蘇五岳と人為の神社群。それらの位置関係を調べると、驚くべき事実が浮かび上がってきます。それらの神社群が黄金比の拡大数列であるフィボナッチ数列と呼ばれるものによってキチンと配置されているのです。具体的に言うと、阿蘇神社とその補完社である霜宮、八坂神社とその補完社である竜王社(久木野神社)、この4点に囲まれた図形は、きれいな平行四辺形になります。そしてその中心に阿蘇五岳があります。ちょうど噴火口と火口湖の中間地点が中心となります。その中心を通る北北東に傾いた二十二度四十二分の線の延長上に国造神社があります。その他の阿蘇郡内の小国両神社、草部吉見神社、吉松宮、群外では健軍神社、甲佐神社、三角の郡浦神社、これらは阿蘇の三摂社といわれ、特別に所縁のある神社ですが、これらの火の国最古の十社と阿蘇五岳の山頂の三角点を厳密に結ぶと、きれいに配置がなされています。そして、神社の境内の造り、石垣、建物までも、すべて類似性と対称性を持って造られていることがわかりました。それらの配置のすべて数学的に計算されており、阿蘇五岳の中で、高岳の炎を噴き上げる姿を核となし、自然の五岳と人為の神社群の組み合わせによって、ピラミッド状に造形されているのです。

 八坂神社 

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一関八坂神社 カーナビ検索 熊本県阿蘇郡南阿蘇村一関660 0967-62-9611


話が八坂神社に振れましたので、再び西野宮神社に戻しますが、まず、阿蘇の北と南とは全く文化圏も恐らく民族さえも異なっており、南郷谷は古い先住民が住んでいると思っています。

これは、蹴破りが行われた阿蘇谷は新しく、南郷谷は地形的にも浸食が進んでおり、古くから人が定着している事が推定できるからでもあるのです。

事実、阿蘇の全域の支配者である阿蘇氏=多氏は北の阿蘇谷に集中しており、実は、南阿蘇には阿蘇神社が数えるほどしかないのです。

高千穂に近い草部吉見神社、高森阿蘇神社、津留年之神社…ぐらいで、南阿蘇は阿蘇ではないと言いたいのですが、そこに阿蘇氏として君臨するのが西野宮神社になるのです。

まず、この事を理解しないと、南郷谷の性格は理解できないと言うべきでしょう。

 祇園神社、しかり、吉見の名は入っているものの、有名な白川(水)吉見神社にしても、罔象女神(ミヅハノメ)が主神であり、大山祗と草野姫(=カミムスビの妹)との間に生まれた、神大市姫の事であり、その弟が大国主命(彼はカミムスビへの入婿であり出雲の人ではないのです…ここに藤原が造ったトリックがあるのです)であり、その妹がコノハナノサクヤヒメになるのです。

 このように、金山彦系、大山祗系、大幡主(カミムスビ)、八咫烏系の領域が南阿蘇なのです。

 その上に君臨するのが西野宮神社であるとお考えいただきたいのです。

 そして、近年脚光を浴びているのが上色見の熊野坐神社(八咫烏=カミムスビの跡継ぎ)であり、その西隣の色見熊野坐神社となるのです。

結局、南阿蘇とは、高千穂の三田井に君臨した高木大神(タカミムスビ)の次女栲幡千千姫(タクハタチジヒメ)命を妃とし事実上の入婿となった草部吉見の戦闘力と阿蘇谷の金山彦系鬼八=喜八を滅ぼした阿蘇谷の健磐龍に制圧された世界が南阿蘇=南郷谷なのです。

そこまで理解した上で、初めて、この支配者としての西野宮神社が浮かび上ってくるのです。

 オールクマモトは、下田西野宮神社 について として祭神を以下の様に書いています。


健磐龍命 速瓶玉命・甲佐大明神・高来大明神など16柱と言われているが、詳細は不明とある。


健磐龍命 速瓶玉命(国造神社の大山咋) 甲佐大明神(これも主神は大山咋)そして大御所 高木大神

12神(草部吉見神社の12神)ならば、分かり易いのですが、それについては情報が不足しています。

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この神社の歴史は古く、中世の頃に下田城主下田氏が阿蘇神社の権大宮司を勤めながら神主をしていたと伝えられています。

一説には、阿蘇神社から見て西に鎮座するため「西の宮」と呼ばれるようになったとも。


阿蘇系の神社を見て回っても、なかなか高木大神が祀られている所はありません。

その意味では、非常に貴重な祭神とは言える訳であり、後は退役自衛官でこの神社に残された所謂「西野宮文書」を古文書として読み解いて居られるI氏の作業に期待したいところです。

 そして、その古文書を読む会に参加されている、当会の女性メンバーのM女史がおられた事から今回同社をブログとして取り上げたのでした。

 彼女が、野尻川上神社を教えてくれたことから、今回のトレッキングが始まったのでした。


百嶋由一郎が西野宮神社について語った事


 恐らく、先代先々代の宮司から聴いた話だと思うのですが、この西野宮には、高木大神が草部吉見について語った話が伝えられている様なのです。古文書研究会(西野宮神社の古文書を読む会)のI氏からは同社資料を頂いたのですが、どうもその中には含まれていなかった様でした。

 我々が聴いたところでは、「草部吉見=ヒコハエミミ」を栲幡千千姫(次女)への入婿とした高木大神がヒ無題.pngコハエミミを「まだまだ若くて経験が足らない…」とほほえましく見ていると言ったという程度の話なのですが、高木大神の生の言葉が伝わっていた、若しくは同社に高木大神が立ち寄っていたと言う事まで考えられ、ある種の戦慄とその実在性を感じさせる話だったのです。

 音声データは残っていますが、40時間の中から探し出さなけばならず、今秋の南魚沼郡への神社調査の折に、行きかえりの車中で聴き込み特定したいと考えています。

百嶋由一郎最終神代系譜を含め90シート近い神代系譜のスキャニング・データDVD、手書きデータ

スキャニング・データDVD40時間近い講演録音声CDを必要とされる方は090-6298-3254(古川)へ

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2024年09月05日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 229 新ひぼろぎ逍遥1067(20240812)の転載 熊襲 猛誅殺で知られるヤマトタケル=後の日本武尊を祀る白鳥神社の疑わしさ 

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 229 新ひぼろぎ逍遥106720240812)の転載

熊襲 猛誅殺で知られるヤマトタケル=後の日本武尊を祀る白鳥神社の疑わしさ 

20240816

太宰府地名研究会 (神社考古学研究班)古川 清久


先に ひぼろぎ逍遥(跡宮版)の10年近く前のブログ(20160601)をお読み頂きたいと思います。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)267 王太子宮をご存知ですか? @ “広島県尾道市、福山市の知られざる古社群”

です

話は2016522日まで遡ります。

この日、豊の国古代史研究会主催の神社トレッキングで筑豊の7社を巡ったのですが、その第3ポイントの田川市猪国の白鳥神社が気になり、前々日に再度「福岡県神社誌」を確認しました。

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すると、この白鳥神社(祭神:大足彦忍代別天皇、日本武尊、稲目姫命)がそのような社名になったのは、高々明治4年の話であり、それ以前は鎮守大明神と呼ばれ、祭神自体もそのままには受け入れられないと言う驚愕の事実に直面したのでした。

 正確に言えば、元禄五壬申年三月までは「王太子宮」という馴染みのない社号の神社だったものを本社の社號を王太子宮と稱せしを…「小笠原忠雄豊前小倉の城主に補せられて國内巡視の節御社参、社號を鎭守大明神と改稱せしめられ、正徳二壬寅…」明治四年に至りて更に社號を白鳥神社と改稱せり上巻173p)とあったのでした。

 勿論、神社の祭神入れ替えは良くある話であり、神社研究者にとってはこの程度の事に驚いていたら何もできないどころか、それを前提に神社を調べているのがまずは常識なのです。

しかし、愕いたのはその王太子宮」という異様な社名でした。

慌ててネット検索を繰り返すと、広島県の尾道市から福山市に掛けての海岸部にこの社名を持つ神社が数社ある事に気付き、とりあえずは落ち着きを取り戻したのでした。


 以下も文章は続きますが、重要なのは青枠内であって、以下も掲載はしますが、本来の祭神を祀る王太子宮に関する話になりますので、ここで一旦は話を切る事にしました。

 つまり、元々は神武巡行伝承(筑豊から広島、岡山に顕著)に関わる神社であって本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)を祀る巡行時の行宮の一つだったのです。

 故)百嶋由一郎が言っていたのは、新羅征伐など大きな業績を残した神功皇后+高良玉垂命の指揮下で行われた四道将軍など東国への版図の拡大も実際には開化天皇の令下で年嵩の崇神の息子や開化天皇の腹違いの兄大彦(恐らく日本海側を北上した安部一族)が行ったのが神武東征だったのです。

その功績を後の藤原は神武巡行より大きなものだとして、初代神武の功績も藤原の祖である崇神(神武僭称贈るハツクニシラススメラミコト崇神)のものとして、初代神武も実は崇神のつまり藤原の祖による業績として描こうとしたのでした。つまり、美々津から出たなどとされた神武東征も高良玉垂命の指揮下で行われた崇神によるもので、本物の神武天皇の巡行伝承を消し去り、明治の神社の国家神道化の流れの中で県社、郷社、村社に肖るためには、行宮程度では俸給が貰えない事から、祭神を初代神武天皇から勇ましい日本武尊に入れ替える事を以て、肖ろうとした事が一目だったのでした。

そして、田川郡内には白鳥神社がかなり在るのです。確かこの他にもあったと思います。

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今回取り上げた、田川市猪国の白鳥神社の場合は幸いにも「福岡県神社誌」によって判別が利いたことから分かりましたが、残りの数社も筑豊なら疑わざるを得ないのでした。つまり、反対した町議を日本刀で殺してまで、セメントの材料を得るために神の山とされた香春岳を削るというとんでもない事をやらかす土地柄だけに、正に白鳥神社はそのままでは全く信用できないと思った訳です。

 と、いう事は、谷川健一が好きな白鳥伝説ですが、真面目な神社研究者には慎重になって頂きたいと思うばかりです。

 今回、日本武尊による熊襲 猛こと川上 猛誅伐の話を取り上げ、川上 猛の出生地、生誕地、故郷…を探る、50人規模のトレッキング8.188.25を控えているだけに、改めて取り上げたものです。

自らの肖りの為に祭神を入れ替るなどという浅ましい事は、氏子や歴史に対する反逆に等しい事であって、本来の氏子による自らの鎮守様への信頼を失わせ、ひいては神社からの離脱を一層進める事になる事とでしょう。まあ、戦後80年の神社への尊崇の念が消失しつつあると言うより、最終段階に入り始めた様ですので(また、大神社が神社庁から離脱し単立神社になりますね…)。


全国の神社を束ねる宗教法人・神社本庁(東京)から離脱手続きを進めていた鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)の吉田茂穂宮司(82)が20日、記者会見し、「内部から本庁の正常化を目指すことを断念せざるを得ない」などと述べ、本庁執行部に対する不満が離脱の理由だと明らかにした。2024/06/20

読売新聞オンラインによる


 以下は、偽神武こと崇神天皇が行った事と塗り替え、本物の神武天皇による巡行伝承を消し去ろうとすることに対して書いたリポートになりますので、関心をお持ちの方はお読みください。

もし宜しければ今も神武巡行伝承を色濃く残す 山梨県甲府市の天津司神社 天津市舞を探って下さい。

ひぼろぎ逍遥 天津司舞 とダブル検索を…。


 おりしも、数日後(2526日)には広島県福山市で行われる予定の第74期将棋名人戦羽生VS佐藤大盤解説会に参加するつもりでしたので、これに合わせてこの王太子宮の調査をすることにしたのです。

 23日夜には九州から関門トンネルで本州に渡り、一路国道2号線を東に向かい、24日の朝からは山口県岩国市、広島県廿日市市周辺の神社を数社見て回り、25日は朝から事前に当たりを付けていた王太子神社、王太子宮の候補地を探り始めていたのでした。

ネット上で「王太子」「尾道市」でダブル検索すると、ある程度の情報が拾えます。

以下は一例ですが、今回は非常に助かりました。


広島県尾道市〜福山市


@  地図帖をひらいた人が10人いれば、10人とも「この場所は福山市」と思い、よく見れば「尾道市」となっているところ。 ... 山道から見る富士山のような山、この山には「王太子神社」があり地図にも道が記載されているので

A  潮崎神社 祭神神武天皇で、神武天皇御東征時ここに御船を着かせられ艫綱を大柳木に繋がれしかば後に柳津と名づく。帝はここより御上陸し給ひ宏壮なる宮居を御影山上に構へ舟楫を修め兵食を整え給ふこと三年に及ぶ

B  王太子社 平田に在り神武天皇を祀る・潮崎神社を神事を同じくする

C  王太子神社 高島中央部の山を高山といい、その中腹にある神社。神武天皇・忍穂耳命を祭る。天皇の駐蹕を伝える。

D  皇森神社 王太子宮ともいい吉備高島宮址と伝える。……


「神武天皇東遷経路 吉備国」「高島宮〜広島県下の神武天皇関連伝承」(古代史の復元)「神武天皇を祭る神社は廣島と岡山に多い」他より


 まず、百嶋神社考古学では、宮崎の美々津辺りからだろうとあくまで推定された「神武東征」は、藤原により第10代と勝手に格上げされた贈)崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)によるもので、本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のものではないとします。

一方、神武巡行伝承は、九州西岸、北九州、そしてこの広島県下の海岸部、岡山県岡山市東区西大寺の安仁神社などに、おぼろげながらも残されています。

これらは、ネット上にも多少は情報があり、先行ブログ「神武北九州伝承」(古代史の復元)などで一部を確認できます。

 調査は始めたばかりです。学会、通説、神社庁…などは無視し嘲笑することでしょうが、そのような利権に関与される方々の御高説には一切関心はありません。

 有明海、不知火海、天草に、何故、御所浦島があるのか?樋之島があるのか?何故、筑豊の川崎町に神武天皇が一家を呼び寄せた…という話があるのか?研究、調査の必要性は十分過ぎるほどあるのです。

いずれにせよ、今回はこの話になります。

 調査はこれからも続きますが、結論から言えば、今回、高良玉垂命の臣下でしかなかった成り上がりの偽神武(崇神)ではなく、この本物の初代神武天皇に関係する神武巡行に関わる三つの神社を確認する事が出来たのでした。

高山の王太子神社


「古代史の復元」氏が書かれていた高山の王太子神社が最初の探訪地でした。同氏はこのように書かれていました。


高島中央部の山を高山といい、その中腹にある神社。神武天皇・忍穂耳命を祭る。天皇の駐蹕を伝える。


高山は直ぐに分かりましたが、だからといってどのような社がありどこが参道かは皆目見当が付きません。 しかし、当て途のない調査でも道は自ずと開けるものです。

 まず、どこなのか見当が付かない方が多いのではないかと思います。普通は尾道市の東隣の福山市としか思えない場所に飛び地として存在しているのがこの高山の一帯なのです。

 古代には、その大半は明らかに島だったことが想像できる所です。

その高山の南には百島がありますが、故)「百嶋由一郎氏は瀬戸内海から名前を買ってきた…」と言われていました。

先生は、戦後の農地解放まで、「長者番付百傑に親族3者が入っていた…」と言われていた名家ですから、明治維新前後の政治的激変に備え、一族の出自を含め防衛的に名前を変えておられた模様なのです。

 従って瀬戸内海には百島はここしかないため、百嶋神社考古学のルーツはここに端を発していたとも言えそうなのです。

 それはともかく、高山の下には高尾という集落があります。どうやらここに王太子神社もありそうなのですが、さらに進むと満越集落の綺麗な砂浜が広がり厳島神社が鎮座していました。

 ここで、ついでとばかりに神社を見せて頂いていると、年金生活に入られたばかりの地元の親切な方に声を掛けられました。

 「王太子神社を見に来たんですが…」と申し上げると、「ああ、王太子さんですね…」とたちどころに重要な情報が転げ落ちてきたとの事でした。

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お名前は差し障りがあるため控えますが、仮にUさんと申し上げておきます。

 付近の中堅造船所を退職された方で、この一帯の事についても、また、神社についても良くご存じの方で、どうやら、最適の方に最高のタイミングで遭遇したのでした。

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さっそく付近の神社と併せご案内頂くことになりました。

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王太子神社への参道と神額(三つの下がりは九州を感じさせます)


「あらまほしきは先達なり」の謂いのとおり、息切れしながらも同社の参拝殿、神殿に到達できました。

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 社殿周辺には特別にこの神社を特定させるようなアイコン、神紋、縁起、摂社はなく、手がかりを得られずに戻ることになりました。

このような場合は、数多くの同類の神社を見て、そのファクターの多さで類推する以外方法はありません。いつかこの神社を見たことが役に立つ時が訪れる事を確信し下山する事にしました。

社殿は昭和三年に整備されたようです。それ以前のこの神社の在り様を詳しくご存じの方は最早おられない事でしょう。最低でも昭和三年に十歳以上でなければ分からないからです。

無題.png昭和三年は昭和天皇の御大典の年です。それ以上の事は分かりません。


即位の礼(そくいのれい)は、天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。即位式(そくいしき)の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。

ウィキペディア(20160602 18:00による


「王太子」という言葉自体が地位を継ぐ男子を意味していますが、この王太子神社、王太子宮なる神社は尾道、福山から岡山に掛けて、また四国にもあるようで、神武東征とは異なる神武巡行伝承と重なるさらに古い時代の伝承を引いている事だけは確実なようです。

これらを分かる範囲で全体を把握できればいくらかでも本質に迫ることが可能に成るかも知れません。


 10年近く前に神武巡行伝承を探る、筑豊、広島、岡山への神社調査を行っていました。この時、ブログは4本でしたが、岡山でも同じぐらい書いたと思います。また、筑豊でも川崎町でも神武東征伝説を追っていますが、そのうちご紹介しても良いでしょう。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

270

王太子宮をご存知ですか? C “広島県尾道市浦崎の住吉神社”

269

王太子宮をご存知ですか? B “広島県福山市藁江の王太子神社”

268

王太子宮をご存知ですか? A “広島県福山市内海町の皇森神社”

267

王太子宮をご存知ですか? @ “広島県尾道市福山市の知られざる古社群”

 

以下は、268 王太子宮をご存知ですか? A 広島県福山市内海町の皇森神社  


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百嶋由一郎最終神代系譜を含め90シート近い神代系譜のスキャニング・データDVD、手書きデータ

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ