1019 有王社は蟻通神社 ❼ “祭神を入れ替えた後漢靈帝の別れ阿智王の一族としての大蔵氏”
20240315
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
秦の始皇帝の一族としての秦氏、太秦の一族は良く知られていますが、漢の劉邦の末裔と称する一族については殆ど知られてはいません。
彼らは等しく阿智王の一族であり、中でも良く知られているのが坂上 田村麻呂で、以前から菊水インターや豊後大野に編入された朝地町などに坂上神社があり、何なのか全く分からなかったのですが、最近阿智王の一族の列島への進入の事実を知る事によって漸く推定が可能になりました。
現在、この一族は菊池川から上陸し豊後に入っているのではないかと考えています。そう考えれば、朝地町も、阿智王の一族が入っているから「朝地」と名乗っている事が分かってくるのです。
まあ、仮説も仮説の段階ですが。実は朝地(アチ)町なのです。
日田とは北部九州でも最も奥まった内陸部に在る都市です。
何故かその支配一族となったのが大原八幡宮の大蔵一族です。
大蔵氏(豊後国) 大蔵氏(おおくらし)は、豊後国日田郡、現在の大分県日田市の慈眼山周辺を拠点に日田郡の一部を支配していた地方の土豪。鎌倉幕府、室町幕府政権下の御家人。東漢氏大蔵氏族の庶家(分家)を称する。「豊後大蔵氏」とも呼ばれ、地名をとって「日田氏」とも称した。諱の通字は「永」。大友氏系では「親」をあてる。家紋は洲浜紋を使用した。
概要 平安時代後期、11世紀終わりから1432年(永享4年)まで、400年弱の間、永弘の代の835年(承和2年)から16代永包の代の1444年(嘉吉4年)までの590年余りの間の日田地方を支配した。
豊後の大蔵氏は古代に九州の日田地方を支配していた日下部氏に代わって日田郡司になった。また擬任郡司ともされる。位は散位であって、検校を称する。
その後、日田での地位を確立していった大蔵氏は、中央の貴族に従属して、勢力を確固なものとしていった。鎌倉時代には、源氏方に加勢したことで所領が安堵され、鎌倉幕府政権下の御家人に取り立てられた。室町時代には室町幕府近侍の御家人である奉公衆であった。文化面においても大蔵氏は、大原八幡宮や永興寺(ようこうじ)、岳林寺(がくりんじ)を造営し華やかな文化を形成していったが1444年(文安元年)、身内の家督争いによって16代で滅亡し大友氏より養子を迎えて大友氏系で日田氏を再興したが、その大友日田氏も6代で系譜が途絶える。 ウィキペディア 20240315 09:05
繰り返しになりますが、数年前、阿智王の一族を知り細やかながらもこの後漢の霊帝の後裔氏族の問題に取り組んできました。この一族はやはり九州、それも肥後の菊池川流域から熊本に掛けて入っているようで、遠くは長野県の阿智村(中央高速の昼神温泉郷で著名)など、この一族は広がりを見せています。
九州では具体的には田尻、原田、秋月、大蔵、財津が知られており、個人的には笠、龍という姓を持つ人々も同族と考えています。
「男はつらいよ」のフーテンの寅さんを叱責する帝釈天の笠智衆も「笠」姓で、私に劉邦の101代と書かれた系譜を見せて頂いた田尻さんもこの熊本県小天町(玉名市)にある笠智衆の出身の寺の檀家だったのです。これについても、別にパワー・ポイントを作成しています。

