2024年07月18日

1017 熊本県玉名市大浜町の外嶋宮の住吉神の不思議 “二人の住吉様”

1017 熊本県玉名市大浜町の外嶋宮の住吉神の不思議 “二人の住吉様”

20240303

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


先に ひぼろぎ逍遥(跡宮)に 1011 熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か?を書いています。本稿は、その伏線となるものである事から本稿をお読みになるのならば、できれば、蜑父(タンプ)姓とは何か?をお読み頂きたいと思います。

この蜑父(タンプ)姓とは非常に稀な姓をお持ちと言う以上に、もしかしたら日本国ではなく白江戦=白村江戦どころか紀元前5世紀(呉越同舟の呉から亡命してきた夫差の末裔の一族の列島への避退した時期)にその王族一行から重臣たちを何波にも亘って案内した一族で、その栄えある功績を得た人々ではないかと考えているからです。

この外嶋宮については、過去何回か書いていますので、場所等に関しては外嶋宮の鎮座地は蜑父一族が現在もまとまって居住されている所と重なる事は今回の新たな発見になります。

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延久元年(1069)創建との社伝を持つ神社ですが、故)百嶋由一郎は生前、石碑の漢文を読み、“住吉様、住吉様…ここには二人の住吉様が出てくると言っておりました。

まず、住吉宮とは筒男命と呼ばれる海の神様を祀るものとされている事は良く知られています。

ところが、現在は多くの住吉神社が上、中、底筒男の三神を全て祀っていると称しているケースが多いようです。

ところが、この主神は各々異なる神を祀られているところがあるのです。

博多の住吉は中筒男(神武僭称贈る崇神)を、下関の住吉は上筒男(安曇磯羅=アズミノイソラ)を、大阪の住吉大社は底筒男(藤原によって第9代とされた開化天皇=高良玉垂命)を祀っていると言ったのは百嶋先生でしたが、特に瀬戸内海(大阪から博多…そして対馬まで)には多くの(数百、数千…の)住吉様が祀られていますので、先生もどのような意味で言われていたかについては分かっていません。

ただ、重要な視点と考えますので、ここで再度改めて書き留めておきたいと思うものです。

 その意味で、この外嶋宮を考えなければならない様に思うのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 開化が何故、底筒男かは何度も言われました。まだ分かりませんが。ウガヤフキアエズ〜安曇磯羅の側から太宰府の四王司山で神権を返還され、久留米の高良山で天皇に就いているとは聴いております。

 勿論、「高良玉垂宮神秘書」の解読によるものです。

 少なくとも、上筒男の父であるウガヤフキアエズは釣り針を失い恋仲となった山幸彦と豊玉姫の子であり、その意味では対馬の海神神社〜和多都美神社に居たのですし、中筒男の贈る崇神にしても、ツヌガノアラシトの名の通り、敦賀と半島の荒伽耶を頻繁に行き来していたのであって、確かに住吉の名を抱いても違和感はなさそうです。

 では、玉名市や玉名歴史研究会などの古い資料から、先生の遺言にも似た解読を考えて見たいと思います。そう考えれば、1011 熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か?

を書いた意味を幾分ともお分かりいただけるのではないかと思うものです。


百嶋由一郎が残した90枚近い神代系譜、講演録音声CD、手書き資料スキャニングDVDを必要な方は

090-62983254までご連絡下さい。以下は資料です。



漢籍は欠字もあり読み辛いですが、特異な方は挑戦して下さい。

書き下しも付けています。

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2024年07月21日

1018 有王社は蟻通神社 ❻ “事代主のブログ氏の蟻通神社”を転載

1018 有王社は蟻通神社 ❻ “事代主のブログ氏の蟻通神社”を転載

20240312

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 当会のメンバーに全国的にも知られた「事代主のブログ」を書いておられるS氏がおられます。

 同氏には複数のブログがあり、もう一つが「神話を科学する」(神社探訪)というもので、これを「神話を科学する」「蟻通神社」とグーグルでもヤフーでもW検索すると、以下が出てくるのです。

 そこで、転載を依頼すると了解されましたので、今回の掲載となった訳です。


蟻通神社

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2020.10.142020.11.19

これまでの事を次第に竜王に申し給えば、応えていわく、この世界に三年逗留されれば、その間に願いを達して申すと云いければ、彦火々出見尊そのとおりに致す、と仰せられる。


高良玉垂神秘書 第一条   この物語に出てくる豊玉姫の父 竜王こそが豊玉彦なのです。


目次

1.蟻通神社参道 2.日本に出された三つの難題と答 3.由緒4.摂社

2.  分析

蟻通神社

この人物は実在の人物であり記載もあり、その伝承を伝える神社が大阪府に存在します。

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紀貫之冠の関の由来
平安時代の歌人紀貫之は、紀州からの帰途、馬上のまま蟻通神社の前を通り過ぎようとします。するとたちまち辺りは曇り雨が降り、乗っていた馬が、病に倒れます。そこへ通りかかった里人(宮守)の進言に従い、傍らの渕で手を清め、その神名を尋ねたところ「ありとほしの神」と言ったのを聞いて歌を詠んで献上します。その歌の功徳で神霊を慰め、霊験があらわれたため、馬の病が回復し、再び京へと旅立ちます。実は里人(宮守)は、蟻通明神の神霊だったという伝承です。このお話は、枕草子「社は」の段に記載されています。案内版より

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つらゆき
かきくもり あやめも知らぬ大空に ありとほしをば 思うべしやは

紀貫之の故事伝承のお話の後、神社に「蟻通(ありとおし)」と名をつけた由来のお話が続きます。 昔、唐土(もろこし)の国が日本を属国とするため提示した三つの難題に対して主人公の中将が老いた父の助言に従い帝に進言し、問題が解決されます。この三つ目の難題の答となった蟻に糸を結んで七曲りの玉に緒を通したという説話が「蟻通神社」の縁起、社名伝説となりました。智恵のある中将の父によって日本は難を逃れることができました。帝は、褒美を下賜しようとしますが、中将は、老いた両親を助けて欲しいと答えます。  当時、老人は都払いにするという決まりがあったからで、これを聞いた帝は感心して、この習わしを改め、世の人々に親孝行を奨励したといわれています。 後に、この孝養の深い中将と智恵のある両親は、蟻通明神として祀られました。
歌の意味は、「七曲がりに曲がりくねっている玉の緒を貫いて蟻を通した蟻通明神とも人は知らないでいるのだろうか」


蟻通神社について

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日本に出された三つの難題と答

一、削った木の元(根)と末(先端)の見分け方?
答・・・川に投げ、方向変えて先に流れる方が木の末(先端)である。

二、蛇の雌雄の見分け方?
答・・・尾の方に細い棒を指し寄せ、しっぽを動かす方が雌である。

三、うねうねと中が折曲がっている玉に糸を通す方法
答・・・蟻の腰に細い糸を結んで、玉の出口になる方に蜜を塗ると蟻は、蜜の香を嗅ぎつけて、出口に出てくる。


蟻通神社について

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足神神社
祭神  宇麻志阿斯訶備比古遅神
通称・足神様 御神徳・健脚・足の病の癒やし云々とある

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拝殿 本殿


由緒

祭神 

大己貴命 蟻通明神
社伝によれば第9代の開化天皇の御宇勧請により、弥生時代中期にあたる紀元93年に、五穀豊穣・国土開発を祈る目的で祀られたのが始まりである。

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拝殿

拝殿前に神楽殿がありますが、謡曲「蟻通し」を演じる為のものでしょう。 本殿


摂社

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愛宕神社 迦具槌命
  多賀神社 伊邪那岐命・伊邪那美命
  住吉神社 底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足姫命
  和泉五社 大島神社・穴師神社・聖神社・積川神社・日根神社

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分析

蟻通明神は別名 中将と呼ばれています。紀貫之 清少納言以前に中国で中将の位を拝領した人物の記載があります。

景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都 
景初二年(238)六月、倭の女王は大夫難升米らを帯方郡に遣わし、天子に拝謁し朝献したいと求めた。郡太守の劉夏は役人を派遣し、魏の都に送らせた。
帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到
帯方郡太守劉夏が使者をつかわして、汝の大夫難外米と次使都市牛利を送り、汝の献上した男の奴隷四人、女の奴隷六人と班布二匹二丈を持って到着した。
汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授 
汝の国は、はるか遠くにあるのに、使者を遣わし貢献してきたのは、汝の忠孝である。
私は汝を大変慈しみ、いま汝を親魏倭王とし金印と紫綬を装封して帯方郡太守に託し授ける。
汝其綏撫種人勉爲孝順 汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞 今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還
汝は倭人を綏撫し、我に孝順をつくせ。汝の使者難升米、年利は遠路を苦労してやって来た。
いま難升米を率書中郎将、年利を率善校尉とし、銀印青綬を与え、彼らに会って、ねぎらって送りかえす。
其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授 其八年太守王?到官
その六年、王は詔して、倭の難升米に黄幢を帯方郡に託して授けた。その八年、帯方郡の太守王?が任官した。
政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還
張政らは激文を発し、壱与に告諭した。
壱与は、倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を派遣し、張政等が帰国するのを送らせた。


『三国志魏書』東夷伝・倭人条古代への扉

熊野の別の伝承では、高野山天野の丹生都比売神社の第三殿の神を蟻通神とし、別名 大食津比売(おおげつひめ)伊勢の外宮です。当たらずとも遠からずで この「魏志倭人伝」にある難升米こそが中将であり豊玉彦と伝わります。この難升米が卑弥呼にとって重要な役割りをしていたことは書からも伺えます。       以上引用部分

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今回転載させて頂いたブログは、当会の主要メンバーのお一人によって書かれたものです。

 関東から九州に移ってこられてまだ10年足らずですが、直ぐに九州から畿内に掛けての多くの神社を踏破されており、少なくともフィールド・ワークに関してはトップ・クラスの探訪を続けておられます。

 冒頭に以下のように書かれています。

高良玉垂神秘書 第一条 この物語に出てくる豊玉姫の父 竜王こそが豊玉彦なのです。


中国の皇帝(後漢の霊帝)から難題を吹っ掛けられた人物=「中将」=八咫烏=豊玉姫の父 竜王こそが豊玉彦なのです。

蛇足ながら、この後漢の霊帝の一族(阿智王)がごっそり入っているのです。

具体的には、日田の大蔵、財津の一族、外に原田、田尻、秋月、坂上…私の理解では新たに笠、龍も劉邦の劉の置き換えで、始皇帝の一族である秦氏ばかりが強調される中で漢の一族も政権存続も傍流となる事も含めて列島に移動しているのです。

近畿大和朝廷にとって九州王朝の中枢部であった北部九州一帯を制圧するには重宝な氏族だったのです。

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当たらずとも遠からずで この「魏志倭人伝」にある難升米こそが中将であり豊玉彦と伝わります。この難升米が卑弥呼にとって重要な役割りをしていたことは書からも伺えます。と書かれていますが、これについてもひぼろぎ逍遥(跡宮)に南姓の一族が集中している神社が宇佐の駅官川河口に存在することを書いています。興味をお持ちの方は以下をお読み下さい。南姓の一族はの一族にもなっているのです。

750

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再々考)

“全国の川上神社の祭神を調べよう”

749

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再考)

“一体川上神社とは何なのか?”

748

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)

“金屋集落は廻船業者の街”

747

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(中)

“金屋の南さんとは何か”

746

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(上)

“駅館川河口を見下ろす川上神社”

百嶋由一郎が残した神代系譜(90枚)、講演録音声CD(9枚)、手書きデータスキャニングDVD(4枚)を必要な方は09062983254までご連絡ください。

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2024年07月24日

1019 有王社は蟻通神社 ❼ “祭神を入れ替えた後漢靈帝の別れ阿智王の一族としての大蔵氏”

1019 有王社は蟻通神社 ❼ “祭神を入れ替えた後漢靈帝の別れ阿智王の一族としての大蔵氏”

20240315

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 秦の始皇帝の一族としての秦氏、太秦の一族は良く知られていますが、漢の劉邦の末裔と称する一族については殆ど知られてはいません。

 彼らは等しく阿智王の一族であり、中でも良く知られているのが坂上 田村麻呂で、以前から菊水インターや豊後大野に編入された朝地町などに坂上神社があり、何なのか全く分からなかったのですが、最近阿智王の一族の列島への進入の事実を知る事によって漸く推定が可能になりました。

 現在、この一族は菊池川から上陸し豊後に入っているのではないかと考えています。そう考えれば、朝地町も、阿智王の一族が入っているから「朝地」と名乗っている事が分かってくるのです。

まあ、仮説も仮説の段階ですが。実は朝地(アチ)町なのです。

 日田とは北部九州でも最も奥まった内陸部に在る都市です。

 何故かその支配一族となったのが大原八幡宮の大蔵一族です。


大蔵氏無題.png(豊後国) 大蔵氏(おおくらし)は、豊後国日田郡、現在の大分県日田市の慈眼山周辺を拠点に日田郡の一部を支配していた地方の土豪。鎌倉幕府、室町幕府政権下の御家人。東漢氏大蔵氏族の庶家(分家)を称する。「豊後大蔵氏」とも呼ばれ、地名をとって「日田氏」とも称した。諱の通字は「永」。大友氏系では「親」をあてる。家紋は洲浜紋を使用した。

概要 平安時代後期、11世紀終わりから1432年(永享4年)まで、400年弱の間、永弘の代の835年(承和2年)から16代永包の代の1444年(嘉吉4年)までの590年余りの間の日田地方を支配した。

豊後の大蔵氏は古代に九州の日田地方を支配していた日下部氏に代わって日田郡司になった。また擬任郡司ともされる。位は散位であって、検校を称する。

その後、日田での地位を確立していった大蔵氏は、中央の貴族に従属して、勢力を確固なものとしていった。鎌倉時代には、源氏方に加勢したことで所領が安堵され、鎌倉幕府政権下の御家人に取り立てられた。室町時代には室町幕府近侍の御家人である奉公衆であった。文化面においても大蔵氏は、大原八幡宮や永興寺(ようこうじ)、岳林寺(がくりんじ)を造営し華やかな文化を形成していったが1444年(文安元年)、身内の家督争いによって16代で滅亡し大友氏より養子を迎えて大友氏系で日田氏を再興したが、その大友日田氏も6代で系譜が途絶える。                    ウィキペディア 20240315 09:05


繰り返しになりますが、数年前、阿智王の一族を知り細やかながらもこの後漢の霊帝の後裔氏族の問題に取り組んできました。この一族はやはり九州、それも肥後の菊池川流域から熊本に掛けて入っているようで、遠くは長野県の阿智村(中央高速の昼神温泉郷で著名)など、この一族は広がりを見せています。

 九州では具体的には田尻、原田、秋月、大蔵、財津が知られており、個人的には笠、龍という姓を持つ人々も同族と考えています。

「男はつらいよ」のフーテンの寅さんを叱責する帝釈天の笠智衆も「笠」姓で、私に劉邦の101代と書かれた系譜を見せて頂いた田尻さんもこの熊本県小天町(玉名市)にある笠智衆の出身の寺の檀家だったのです。これについても、別にパワー・ポイントを作成しています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記