2024年07月09日

1014 蟻通神社をご存じでない方のために ❹

1014 蟻通神社をご存じでない方のために ❹

20240212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 九州の方で蟻王神社をご存じの方は皆無と思います。

 私の承知する範囲では九州には無いはずで、紀州から大阪の泉佐野に数社があるようです。

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ここでは泉佐野の蟻通神社から「蟻通の神」の概略を確認しましょう



蟻通神社にゆかりのお話

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無題.png中島裕司 筆 「紀 貫之」「貫之集」新潮日本古典集成より
紀の国に下りて、帰り上りし道にて、にはかに馬の死ぬべくわづらふところに、道行く人々立ちどまりていふ、 「これはここにいますがる神のしたまふならん。年ごろ社もなくしるしも見えねど、うたてある神なり。さきざきかかるには祈りをなん申す」といふに、御幣もなければ、なにわざもせで、手洗ひて、「神おはしげもなしや。そもそも何の神とか聞こえん」ととへば、「蟻通しの神」といふを聞きて、よみて奉りける、馬のここちやみにけり

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平安時代の歌人紀貫之は、紀州からの帰途、馬上のまま蟻通神社の前を通り過ぎようとします。するとたちまち辺りは曇り雨が降り、乗っていた馬が、病に倒れます。そこへ通りかかった里人(宮守)の進言に従い、傍らの渕で手を清め、その神名を尋ねたところ「ありとほしの神」と言ったのを聞いて歌を詠んで献上します。その歌の功徳で神霊を慰め、霊験があらわれたため、馬の病が回復し、再び京へと旅立ちます。実は里人(宮守)は、蟻通明神の神霊だったという伝承です。このお話は、枕草子「社は」の段に記載されています。

貫之が奉能した和歌。「貫之集」より

意味:かきくもり闇の様な大空に 星があるなどと思うはずがあろうか。
「ありとほしをば」には、「有と星」と「蟻(有)通」を掛けています。一面に曇って見分けもつかない大空に星のあるのも分からないように、ここに蟻通明神のお社があると思い付くでしょうか。こんな無体な仕打ちを蟻通の神がなさろうとは思えない、の意を表します。 神仏を感応させて効験のあった歌として『袋草子』等にも記載されています。

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枕草子 225段 「社は」 角川書店枕冊子全注釈より

社は、布留の社。龍田の社。はなふちの社。みくりの社。杉の御社、しるしあらむとをかし。ことのよしの明神、いとたのもし。「さのみ聞きけむ」ともいはれたまへと思ふぞ、いとをかしき。

蟻通の明神、やませたまへとて歌詠みて奉りけむに、やめたまひけむ、いとをかし。この「蟻通」と名づけたる心は、まことにやあらむ、むかしおはしましける帝の、ただ若き人をのみおぼしめして、四十になりぬるをば、うしなはせたまひければ、人の国の遠きに行き隠れなどして、さらに都のうちにさる者なかりけるに、中将なりける人の、いみじき時の人にて、心などもかしこかりけるが、七十近き親二人を持ちたりけるが、四十をだに制あるに、ましていとおそろしと怖ぢさわぐを、いみじう孝ある人にて、「遠きところにはさらに住ませじ、一日に一度見ではえあるまじ」とて、みそかに夜夜地を掘りて屋をつくりて、それに籠め据ゑて、行きつつ見る。おほやけにも人にも、失せ隠れたるよしを知らせて。などてか家に入りゐたらむ人をば知らでもおはせかし。うたてありける世にこそ。親は上達部などにやありけむ、中将など子にて持たりけむは。いと心かしこく、よろづのこと知りたりければ、この中将若けれど、才あり、いたりかしこくて、時の人におぼすなりけり。

唐土(もろこし)の帝、この国の帝をいかではかりてこの国打ち取らむとて、つねにこころみ、あらがひをして送りたまひけるに、つやつやとまろにうつくしく削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかたぞ」と問ひたてまつりたるに、すべて知るべきやうなければ、帝おぼしめしわづらひたるに、いとほしくて、親のもとに行きて、「かうかうのことなむある」といへば、「ただ早からむ川に立ちながら投げ入れて見むに、かへりて流れむかたを末としるしてつかはせ」と教ふ。まゐりて、わが知り顔にして、「こころみはべらむ」とて、人人具して投げ入れたるに、先にして行くにしるしをつけてつかはしたれば、まことにさなりけり。

五尺ばかりなる蛇の、ただおなじやうなるを、「いづれか男女」とてたてまつりたり。また、さらにえ知らず。例の、中将行きて問へば、「二つ並べて、尾のかたに細きすばえをさし寄せむに、尾はたらかさむを女と知れ」といひければ、やがて、それは、内裏のうちにてさしければ、まことに一つは動かず、一つは動かしけるに、またしるしつけてつかはしけり。

ほどひさしうて、七曲にたたなはりたる、中はとほりて左右に口あきたるがちひさきをたてまつりて、「これに綱とほしてたまはらむ。この国にみなしはべることなり」とてたてまつりたるに、いみじからむものの上手不用ならむ。そこらの上達部よりはじめて、ありとある人いふに、また行きて「かくなむ」といへば、「大きなる蟻を二つ捕へて、腰にほそき糸をつけて、またそれがいますこし太きをつけて、あなたの口に蜜を塗りて見よ」といひければ、さ申して蟻を入れたりけるに、蜜の香を嗅ぎて、まことにいととう穴のあなたの口に出でにけり。 さて、その糸のつらぬかれたるをつかはしける後になむ、「日本はかしこかりけり」とて、後後さることもせざりけり。

この中将をいみじき人におぼしめして、「なにごとをして、いかなる位をかたまはるべき」と仰せられければ、 「さらに官・位もたまはらじ。ただ老いたる父母のかく失せてはべるをたづねて、都に住ますることをゆるさせたまへ」と申しければ、「いみじうやすきこと」とてゆるされにければ、よろづの親生きてよろこぶこといみじかりけり。中将は、大臣になさせたまひてなむありける。
さて、その人の神になりたるにやあらむ、この明神のもとへ詣でたりける人に、夜あらはれてのたまひける。

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とのたまひけると、人の語りし。

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紀貫之の故事伝承のお話の後、神社に「蟻通(ありとおし)」と名をつけた由来のお話が続きます。 昔、唐土(もろこし)の国が日本を属国とするため提示した三つの難題に対して主人公の中将が老いた父の助言に従い帝に進言し、問題が解決されます。この三つ目の難題の答となった蟻に糸を結んで七曲りの玉に緒を通したという説話が「蟻通神社」の縁起、社名伝説となりました。智恵のある中将の父によって日本は難を逃れることができました。帝は、褒美を下賜しようとしますが、中将は、老いた両親を助けて欲しいと答えます。  当時、老人は都払いにするという決まりがあったからで、これを聞いた帝は感心して、この習わしを改め、世の人々に親孝行を奨励したといわれています。 後に、この孝養の深い中将と智恵のある両親は、蟻通明神として祀られました。
歌の意味は、「七曲がりに曲がりくねっている玉の緒を貫いて蟻を通した蟻通明神とも人は知らないでいるのだろうか」

無題.png中島裕司 筆 「蟻通明神の縁起」 日本に出された三つの難題と答

一、削った木の元(根)と末(先端)の見分け方?
答・・・川に投げ、方向変えて先に流れる方が木の末(先端)である。

二、蛇の雌雄の見分け方?
答・・・尾の方に細い棒を指し寄せ、しっぽを動かす方が雌である。

三、うねうねと中が折曲がっている玉に糸を通す方法
答・・・蟻の腰に細い糸を結んで、玉の出口になる方に蜜を塗ると蟻は、蜜の香を嗅ぎつけて、出口に出てくる。

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無題.png神社舞殿にて、独鼓「蟻通」奉納

   作者 世阿弥

   場所 和泉国 蟻通神社

   能柄 四番目物

   人物 ワキ  紀貫之

   典拠 貫之集

   人物 ワキツレ 従者

   時 平安時代(四月)

   人物 シテ  宮守

能『蟻通』小学館日本古典文学全集より抜粋
和歌の心を道として、和歌の心を道として、玉津島に参らん。 これは紀貫之にて候。われ和歌の道に交はるといへども、いまだ玉津島に参らず候ふほどに、 ただいま思ひ立ち紀の路の旅にと心ざし候。 夢に寝て、現に出づる旅枕、夜の関度の明暮に、都の空の月影を、さこそと思ひやる方も、雲居は跡に隔り、暮れわたる空に聞ゆるは、里近げなる鐘の声、・・・・・・以下省略

<能『蟻通』のストーリー>
紀貫之とその従者は、玉津島明神参詣の旅に出ます。その途中、急に日が暮れ大雨が降り、馬が病に倒れ伏します。貫之が途方にくれていると傘をさし松明を持った宮守が現れます。 ここは、蟻通明神で、下馬せずに通ろうとしたために神の怒りに触れ、咎められたに違いないと語り、和歌を詠んで神の心を慰めるようにと勧めます。貫之が歌を詠むと馬が元気になって立ち上がります。宮守は、貫之に促されて神楽を舞ううち、明神が宮守に憑いて貫之が和歌に寄せる志に感じて姿を見せた後、鳥居の笠木に隠れ、姿を消しました。 夜が明けると貫之は、再び紀の国へと旅立って行きました。

・この能の中で、貫之が詠んだ和歌。貫之集記載の歌と、上句が違っています。
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意味:雨雲の一面にたちこめている夜中のことなので、まさか空に星が出ていようとは思いません。この暗闇で、まさかここに蟻通明神のお社があろうとは気がつきませんでした。


 以下は百嶋由一郎の手書きメモの一つで、下は拡大コピーです。

 九州に存在しない神社だけにご存じの方は少ないと思いますが、まさか日田市に蟻通神社の可能性と言うよりも、そのルーツかも知れない神社が在るとは思いませんでした。

 関心がおありなら、これまでの数本のブログをお読み頂きたいのです。日田市は間違いなく八咫烏支配下の九州王朝の副都に近いものだったはずです。

 応神を持ち込んだ近畿大和朝廷の更に古層に存在する神こそ蟻通の神なのです=豊玉彦、豊国主=賀茂健角身命=神足霊鳥 八咫烏

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昔,ある帝(みかど)が若い世代だけを大切にし,人が40歳になると殺したの で,人々は都の外に逃げた。某中将(ぼうちゅうじょう)には70歳近い両親がい た。家の中に穴を掘って隠し部屋を作り,ひそかに世話を続けた。 まもなく中国の帝王がこの国をうばおうと,難題をしかけてきた。2尺くらい の木の両端を同じように削って「どちらが元か末か,印(しるし)をつけて送れ」 というのだ。みんながどうしたものかと,いくら考えてもよい考えが浮かばない のを見て,中将は隠し部屋の親にたずねた。親は知恵をさずけた。「流れの速い 川に直角に投げこむと,末の方を先にして流れる」と。中将は帝の前で試みたう えで,中国の帝王に送った。 すると,こんどはくねくねと曲がった孔(あな)がある七曲がりの小玉を送って きて,「中の孔(あな)に糸を通せ」という。出口の孔は二つに分かれている。こ んども隠し部屋の親にたずねると,「二匹の蟻の腰に糸を結(むす)び,出口の二 つの孔に蜂蜜(はちみつ)を塗ればいい」と,難題を解いてみせた。 それ以後,中国は難題をしかけてこなくなった。帝は年寄りたちを大事にあつ かうようになり,中将はたいそう偉(えら)い大臣まで昇進した。のちに中将の両 親は蟻通明神となった。 これは清少納言の『枕草子』の「社(やしろ)は蟻通の明神」の段にある物語だ が,この話のルーツは『アラビアンナイト』にもあるし,さらにさかのぼれば, アラム語で書いた前五世紀のパピルス文書や『旧約聖書・トビト記』にまでたどれ るという。 どんなに時代が変わろうとも,老人の豊富な知識と知恵は一国をも救う力があ るのだから,尊(とうと)びその知恵に耳を傾(かたむ)けなさいということを教え ているのだろう。 昨日17日は,『敬老の日』。

ただこの文章は木の元と末を誤っておられるような気がします。木の上側、梢のほうを「末」、下側、根本のほうが「元」

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無題.png和歌山のこの神社も古い伝承を保持されているようですが、結果は天武天皇の話とされその時代の事として継承されているようです。

 それならば乱暴な要求をしたのは唐の高宗でも良いのですが、実際は中将の資格を与えられた八咫烏の話であって、更に5600年近く前の時代の事なのです。

 この中将とは列島から朝貢に訪れた大使級の外交官に与えられていた中国の古代官位らしく、故)百嶋由一郎は八咫烏を意味していると言う趣旨で話しておりました。

 社伝は政治情勢の変化によって変わりますので、九州から移動した天武天皇(佃収説)の話に変えられたのではないかと考えています。

 もう一つの注意点は、八咫烏は一時期阿波から熊野に移動し後に再び博多に戻っていると百嶋は申しておりました。それを出戻り新山と言い、玄洋社=八幡製鉄=頭山 満もその流れと言っておりました。

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2024年07月12日

1015 豊後の夜明ダム正面に行徳家本家がある ❺“有王社の基層に蟻通神社があったと考えたならば“

1015 豊後の夜明ダム正面に行徳家本家がある “有王社の基層に蟻通神社があったと考えたならば“

20240217

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


豊後の夜明ダム正面に行徳家の本家がある。

と言っても、百嶋神社考古学の延長上に先生も話していなかった発展形の探索上に獲得したものもある上に、さらに新しい探求への切っ掛けやヒントを得る事もあるのです。

従って、この話はこれまで書いてきたブログをある程度読んでおられる方であっても意味が分からないマニアックな話になりますので、パスされても一向に構いません。

ただ、将来の探求者に記録を残しておこうと書き留めるもので、“何だこれは、もう読まないぞ”と思われる方が出てくることも覚悟の上で、更なる思考の冒険に入ろうと思うものです。

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行徳家は久留米藩の御典医(奥御医師=オコウイシ)を経て、現在まで代々続く医者の旧家ですが、現在はお住まいをうきは市辺りに移しておられるそうです。

地図右側の写真は有王社参道の一の鳥居ですが、行徳家が願主とされており寄進されたものと思います。

この間、有王社について、この基層には蟻通神社(重複しますのでこれについては先行ブログを見て下さい)が存在したのではなかったかという仮説を提出してきました。

今も確信が深まっていますが、中国の皇帝から難題を出された中将=推定八咫烏がそれを解き国難を回避した蟻通しの神の現場にぴったりの場所のため行徳家とは豊玉彦=豊国主=豊日別=鴨建角身=天太玉=八意思兼…の末裔(後裔)の一族ではないかと考えているのです。

「姓名分布&ランキング」(24年中に閉鎖予定)で大まかな分布を確認すると以下になります。

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行徳家の一族は室町末期から江戸期以降に成立したと考えられそうです。

神社から寺院を軸とする社会制度に変えたのは徳川家のそのブレーンの一人だった天海僧正でしたが、行徳と言う仏教系の姓から考えて江戸期を考えさせますが、勿論、それ以前の室町末期から戦国期まで遡るのかも知れません。

ともあれ、その行徳家の中心地は北部九州であり、少ないですが大分県日田市にも一件あるのです。

私の推測では製塩業を基礎に後には医業に転出し久留米(有馬)藩に勤められたと思いますが、その他の多くの科目の医業に従事しておられたと思います。

 かく言う私も中学時代に佐賀県武雄市の蒲池耳鼻科で蓄膿症の手術を受けています(入院は二ヶ月)。

この行徳家については保存館に多くの資料が残されています。ただ、それ以前の記録は残されてはいないようです。

 さて、この仏教系の言葉を姓とした行徳一族とは何者なのでしょうか?

 行徳製塩地と最も深い関係を持っていたのは亀甲萬醤油の一族だったはずです。

 と、言うよりも製塩業者の方がより支配的な人々であって、その製塩地を支配した人々にある程度の見当が着くのです。

それは、明治の初期に於いても塩の最大生産地は肥前(当時、天草は肥後ではなかった)が最も多く、二番目が遠江(浜名湖)、その次が播州(赤穂)なのです。

 これについては、たばこ専売公社の記録がネット上に公開されています。

明治の89年までは記録が残っており、肥前が最大でその半分が徳川家の本拠地の遠江、さらにそのまた半分が播州(つまり、4:2:1)となっているのです。

私の推定は江戸川河口の行徳製塩地に象徴される製塩業であり、後に国策で翼賛化され戦後の塩専売公社になるまでは民業として続いてきたと考えています。詳しくは以下をご覧下さい。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

310

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E

 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説

309

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D

 水俣市塩浜運動公園の塩釜神社

308

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C

 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡

307

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! B

 天草市志柿の中之塩屋大明神

306

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! A

 上天草市阿村の塩釜神社

305

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! @

 宮崎の野島神社から


308 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡 20160919


本渡瀬戸ループ橋を渡って北に向かうと30分を要せず五和町御領に入ります。

 古くは繁盛したと思われる街並みを通り抜け探し回りますが、一向にそれらしき神社に出くわしませんでしたが、再度、カーナビに御領5587を入力し直しようやくたどり着いた小丘に塩谷神社ならぬ塩屋大明神が鎮座していました。

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塩谷神社(塩屋大明神)カーナビ検索 天草市旧五和町御領5587 祭神 猿田彦


今回の調査探訪では、有名な神社でも豪華な社殿の大社でもないただの無格社級の神社ばかりを探査してきました。しかし、猿田彦を正面に立てた神社群の中に、その父親である大幡主(実は第3代安寧天皇)が封印されており、その正体が塩土老翁であり製塩の支配者、交易者=大船団の支配者だった姿が見えてきたのでした。その仮説の検証のための探訪でしたが、これほどはっきりとした半ば証拠のようなものに遭遇できるとは考えていませんでした。

 この手の無格社クラスの小社、祠に関してはほとんどまともな取り扱いがされておらず、社名さえも判読できないものが殆どと考えていたからです。

 この神社の正面には以下の由来がはっきりと書かれていたのです。

 恐らく、何らかの伝承が残されていたものでしょう。この塩田地帯が古代まで遡るものであっただろうことは疑い得ないように思います。

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ここでも、御神体は二体でした。

 もはや、猿田彦大神一神とされている「熊本県神社誌」に疑いを向けるのは致し方ないように思います。

 ただ、祭神が猿田彦一神とされた理由は分かりません。相当古い時代から猿田彦だけが許されたものの、大幡主は許されなかった、しかし、地元では祀られていた。

 つまり、海幸彦との関係が濃厚な阿蘇氏による大幡主隠しと山幸彦の猿田彦との貶めが考えられるのですが、あくまでも仮説でしかありません。

 藤原氏、そして阿蘇氏もともに阿蘇高森の草部吉見神社の主神=ヒコヤイミミの流れを持っているのです。この辺りの事情については既に伝承を探る時期を越えていると言う気がしますが、再度訪問し聴き取りを行ってみたいと考えています。


 その後何度かメンバーを現地に案内しましたがあるトレッキング時、事務局長の中島氏が、右側の御祭神は塩釜(神社)ですねと言いだしたのでした。確かに右の屋根の上には包丁風の石が彫り上げられていたのです。

 塩釜神社が大幡主=カミムスビ神=塩土老翁であることは我々の内部では常識ですが、猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦を配下に塩と言う古代の最重要交易品を持って山の上まで運んでいたのでした。


 次の写真はこの塩屋大明神正面に広がる水田を写したものです。

 江戸時代の塩田はもっと海に近い所にあるのですが、古代の水田はこちらだったと思います。

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塩屋大明神正面の風景


それは、大明神の小字がこの水田に潮を入れ、吐き出す水門の管理できる場所に置かれている様に見えるからです。ただ、現地のフィールド・ワーク、ヒヤリングが完全ではないため、ここまでで留めておきたいと思います。

 次の目的地である津奈木、水俣に大返しする事になりましたが、帰る途中に、別路を通ると、近くに江戸期からの塩田地跡との教育委員会の看板を見つけました。

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教育委員会ではなく御領まちづくり振興会によるものです


その後の神社トレッキングにおいて、熊本県氷川町に鹿島神社1社、香取神社2社を発見し、併せて上天草市に香取神社3社を発見すると、利根川周辺の鹿島、香取、伊岐須の関東の東北三社も九州から移動したのではないかと考えるようになったのでした。

そして「その後亀甲萬醤油を造る事になる人々も有明海沿岸から移動したのではないか」というブログ、パワー・ポイントを作成するに至ったのでした。


 ひぼろぎ逍遥

370

キッコーマン醤油と博多の櫛田神社の大幡主

思えば、370号以来温めてきた構想でしたが、漸く日の目を見た思いがしています。


新ひぼろぎ逍遥

1002

後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は

太古有明海から東に向かったのではないか 

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は

太古有明海から東に向かったのではないか 

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は

太古有明海から東に向かったのではないか 

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は

太古有明海から東に向かったのではないか 

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は

太古有明海から東に向かったのではないか 

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は

太古有明海から東に向かったのではないか 

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は

太古有明海から東に向かったのではないか 

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パワー・ポイントを必要とされる方は 090 6298 3254 までご連絡ください。


 そのような広域の視点によって俯瞰すると、この有明海沿岸の製塩業者こそ神産巣日神(カミムスビ)神(博多の櫛田神社の大幡主)とその配下として動いた山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦による$箱の製塩事業が大幡主の子の八咫烏に継承され、江戸期には成立していた行徳製塩の延長上に亀甲萬醤油が成立したのでしょう。


行徳塩田行徳塩田(ぎょうとくえんでん)は、江戸から近代を通じて下総国(千葉県)行徳(現在の市川市行徳地区及び浦安市)とその周辺地域に作られた塩田。関東地方で最も盛んに製塩が行なわれ、行徳塩田で作られた塩は行徳の塩と呼ばれた。


概要 行徳での製塩の創始は戦国時代に、後北条氏に年貢として納められていたといわれるが、もとは上総国五井で行なわれた塩焼きを本行徳村、欠真間村、湊村の3力村の者が習得し、塩焼きをはじめたと伝えられており、歴史的には、五井の製塩の方が古い。


1590年(天正18年)、行徳の旧領主高城胤則(千葉氏重臣)が北条方に組した廉で所領が没収されると、江戸城に新しく入った徳川家康の所領に組み込まれた。当時は戦国の遺風が残り、家康も江戸城における籠城の際に塩を確保するために自領内での塩の安定供給に尽力しており、行徳を御手浜としてこの地の塩業を保護した。明和年間に行徳側が作成した『塩浜由緒書』によれば、鷹狩で東金御殿に出かける途中、行徳の塩浜をみて「軍用第一、領地一番の重宝」と述べたと伝えられている。行徳は東金に向かう街道のルート(行徳街道)として定められ、後には江戸から成田山新勝寺への参詣ルートとなり、沿道はその宿場町として栄えた。更に徳川家光の1632年には関東代官によって現在の日本橋小網町までの水路(小名木川の原型)設置が許可されて江戸と常総・利根川方面との水運の中心地となった。家康から家光までの3代の将軍は積極的に塩田開発のため資金貸付け(拝借金)を行ない、同地域の年貢は「37民」に抑制された替わりに塩による納税を奨励した。そのことは行徳の塩浜の面積が元禄検地の際には1917反余・15か村、1810年代(文化末期)には1364反余・16か村と、近世前期の方が面積は多かったことからもうかがえる。1702年(元禄15年)に実施された検地は後世「行徳検地」と呼ばれたもので、これまで江戸幕府の支配下にありながら、長年の社会通念に従って塩田=無主地として扱われてきた行徳塩田はこれによって公式に幕府領の一部としてみなされるようになり、堤防の普請などの保護を受けやすくなった反面、1筆ごとの面積が固定化され、瀬戸内海沿岸のような生産規模の拡大が困難になった。行徳では田畑の村高(石高表示)とは別に塩田の反別高(永高表示)が把握され、これに基づいて塩浜役永(塩年貢)が賦課されること[1]になり、1/4を塩納で、3/4は金納で納めることが定められたのもこの検地による。なお、延宝・元禄期には台風などの災害による塩田の復旧については、塩問屋などの江戸の有力商人からの借金によって賄ってきたが、1709年(宝永6年)以後幕末に至るまで、幕府による塩田や堤防の普請が行われるようになる。…       ウィキペディア 20240219 10:25による

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三井不動産 このまちアーカイブス より


 今回は、限られた情報から有王社というここにあるべき必要性の無い神社を取り払い、ここにこそあるべき中将=蟻通の神=八咫烏を祀っていたはずの蟻通神社を蘇らせる乱暴な作業を行ってみました。

 この様な作業は本来行うべきではありませんが、一方的に隠された神の痕跡は参拝殿正面の龍王の彫刻だけでした。

 無題.png申し訳程度に天御中主は祀られているようですが、八咫烏の叔母さんになります。

 姓名の分布からは「行徳」家は久留米を中心とした一族で、非常に限られた姓なのです。

 この限られた痕跡だけを手掛かりに今後も探索を続けます。


情報をお持ちの方がおられればご連絡いただきたいと思います。


09062983254

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2024年07月15日

1016 佐賀県神埼市の高志神社とは何か?

1016 佐賀県神埼市の高志神社とは何か?

20240302

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


243月の神社トレッキングは、本来、2024年年頭の三社詣りとして計画したものでしたが、佃収講演が1月にずれ込んだ事から、極寒期を避けて3月に行う事として延期したものでした。

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日 時: 3171000集合 1030出発 参加費 500円 連絡090-52892994(中島)

集 合: 佐賀県神埼市神埼町鶴3542番地1神埼市役所 櫛田宮は国道34号線を挟んだ正面

神社トレッキング 「事代主のブログ」杉山宏治氏が案内する“佐賀県神埼市の櫛田宮を探る”

参加費: 500連絡 太宰府地名研究会 090-5289-2994(事務局中島)090-6298-3254(古川)


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3月のスケジュール

  神埼市の櫛田神社は周辺の二社と併せ一つの神社と言われています…ガイド:杉山宏治



無題.png神埼市役所(集合)佐賀県神埼市神埼町鶴3542番地1

順路: 神埼市役所(集合) 八天神社 倉岡神社 高志神社

土師山八天神社 神埼市神埼町城原3672 以下順路変更あり

倉岡神社(櫛田三所大明神)神埼市脊振町広滝3435

櫛田宮          神埼市神埼町神埼4191

昼食:紀の国屋うどん(案)神埼市神埼町城原16171or

昼食:丼べえ(案)    神埼市神埼町尾崎4169−29or

高志神社(櫛田三所大明神)神埼市千代田町下板1229


310日(日)1400〜 太宰府地名研究会の古川編集員が久留米の大津勉強会でもお話します 参加費:\1000

場 所 : 久留米シティプラザ

福岡県久留米市六ツ門町81 4F小ホール

講演者 : 古川 清久(太宰府地名研究会編集員)ひぼろぎ逍遥(跡宮)管理者、「有明海異変」著者

テーマ : 「松田聖子は本物の神武天皇の本物のお后の末裔ではないのか」

421日(日)佃 収 北九州市(小倉北区)丁己歴史塾+太宰府地名研究会提携特別講演

場 所:北九州市小倉北区大門1丁目6-43 北九州市立生涯学習総合センター 093-571-2735

講演テーマ:「崇神天皇」の渡来と神功皇后の「貴国」

  7月(日程調整中)佃 収 北九州市(小倉北区)丁己歴史塾+太宰府地名研究会提携特別講演

   場 所:北九州市小倉北区大手町114

北九州市立男女共同参画センター・ムーブ 0935833939

講演テーマ:「古代日本の女性U」天武王権を巡る推古天皇、皇極天皇、額田の姫王


無題.png今回のガイドは「事代主のブログ」で知られる杉山氏です。

10年ほど前には、一度、神埼市の櫛田神社外を探訪した事もありましたが、杉山氏の視点ではどのような発見があるかは、今から期待しているところです。

今の所、最後に巡るのが高志神社で実のところ私も初見の神社で、今回のブログも下調べの要素があるので我ながら狡猾な事をやっているのは申し訳ありません。

神埼市と言うと佐賀県佐賀市の東隣の市でそのまた東には吉野ヶ里遺跡があります。

この神埼の荘はかつて平家が貿易拠点としたところで、平安〜室町期にかけて肥前国に存在した荘園が起源とされています。

かつては平家の公達やら日宋貿易の中国の商人やら大陸の倭人=福建海賊(20世紀まで中国と言う国は無いので)やら大陸の宋人やらが跋扈してはずなのです。

 九州最大の河川=筑後川がきめの細かい火山灰を押し流し続け、絶えず堆積を続け、水さえ得られれば年年歳歳肥沃な耕土を潤し、石高を増し続けるような国だったのです。

 前置きはここまでとして、高志(タカシ)神社をご覧いただきましょう。

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高志神社(櫛田三所大明神) カーナビ検索 佐賀県神埼市千代田町下板1229


 無題.png高志神社は、元々神埼町にあった訳ではなく、隣接する千代田町を合併した結果とは言え、櫛田三所大明神として加わっている事から、新たに生まれた入植地に神埼の櫛田宮の一族が優勢であったため大明神としたのは恐らく江戸期と考えますが櫛田三所大明神としているようです。

祭神は、素戔鳴尊です。後に、稲田姫命と日本武尊を配祀したとされています。

この祭神は稲田姫を中心に見た時、スサノウは言うまでも無く自分をヤマタノオロチから救ってくれ夫となった男神(イザナギとイザナミ=アシナヅチ=金山彦の妹の子)であり、日本武尊はスサノウとクシナダヒメの息子は消されますが、残ったナガスネヒコの妹の息ツヨソ足姫の孫が日本武尊(白角折オシトリ)神社なのです。

 高志神社ではオシドリ神社とされています。

 してみると、漢学(漢学は濁音を使わない…)が普及する以前は、スサノウ+櫛稲田姫をオシドリとして讃えていたのかも知れません。


クシナダヒメ

『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫(くしいなだひめ)、稲田媛(いなだひめ)、眞髪觸奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)、『出雲国風土記』では久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)と表記する。


ウィキペディア:20240302 1242による

隣接する櫛田神社、白角折(おしどり)神社、高志神社が、三所一体とされています。

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「篭」「籠」(コモリ)と書かれた地名が多数ありますが、一般的に、「籠」干拓は戦国期以前のもととされており、江戸期になると、搦(カラミ)干拓と呼ばれるようになり、この一帯が戦国以前に遡る堆積の豊かな沃土であった事が分かります。

 その時代には、高良籠と言う地名から想像される久留米の高良大社の一族が(進出なのか敗残なのか)移り住んでいる事が見えるのです。

 以下は櫛田宮の祭神です。


御祭神

櫛田三柱大神

・櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)正面御座、 櫛田大明神

・須佐之男命(スサノオノミコト)  東御座、  高志大明神

・日本武命 (ヤマトタケルノミコト)西御座、  白角折大明神


以下、百嶋由一郎最終神代系譜(部分)でご確認ください

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記