2024年07月01日

1011 熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か?

1011 熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か?

20240226

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 23年中にメンバーになっていただいたT氏と共に熊本県玉名市の再、再、再度の神社調査をおこなっていましたが、久しぶりに懸案でもあった大浜町の外嶋宮に訪れました。

 地元に精通されたT氏のこと外嶋宮正面に置かれた長文の社伝の石碑に関する資料がないものかと相談すると数日で資料を送ってこられました。

 本来は、故)百嶋由一郎氏が語られていた“二人の住吉様”に関する記録を留めておこうと作業にかかったのですが、その頂いた資料に、この地区に集中的に居住されている蜑父(タンプ)姓実際には蜑の上に草冠と言う表記の一族が現在も多数居られると言う記事がありました。

 これが面白いものだったので、暫らく碑文を棚上げにしてこの蜑父(タンプ)姓について書きたくなりました。

 何とも驚く名前ですが、纏まって住んでおられるという事はそれなりの事情があったはずで、それだけでも非常にロマンチックな話なのです。

 いつも利用している姓名分布&ランキングには出てきませんでした。しかし以下には正確に出ていました。岱明町は「景行紀」の帰路上陸した「腹赤」でもありますので益々興味が湧きました。

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𦿸父(たんぷ)さんの由来と分布

タンプ 【𦿸父】レベル1 ごく少数  日本姓氏語源辞典

推定では約60人。熊本県。職業。𦿸は「海士」を意味する。熊本県玉名市岱明町野口に江戸時代にあった。同地、熊本県玉名市大浜町では漁業に従事していたと伝える。      2019 8 31日 更新


 以下はその情報に出くわした記事です。

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実に回答されている方も𦿸父です


 私がこの姓に関心を持った理由は、この場所が大陸からの有力な玄関口の一つ(博多、伊万里、佐世保、玉名、八代、薩摩川内…)で、特に玉名=菊池川河口は多くの民族、氏族が入って来た事を思わせる伝承もあり、第一に百嶋由一郎は、トルコ系匈奴(熊襲)、土舎(ツウチャ)族が入っていると語っていたからでした。タンプ姓と聴いて、非常にレアな姓であることは一目ですが、私が思ったのは周王朝の古公亶父(ココウタンポ)でした。古代史に関心をお持ちの方は、「倭人は呉の太白の末…」といったフレーズを一度は聴かれ、いや、何度となく聴かれた事がある方もおられるでしょう。

 特に、大分県を除く九州西岸部は沖縄の三母音の影響を受けたからか(逆かもしれませんが)、O音をU音で代行する傾向が顕著なため、一例ですが(「大事」オオゴト→「大事」ウウゴツ)となるため、「タンポ」は「タンプ」となる傾向があるのです。これが的を得てると思うかはご判断にお任せします。

 ただ、この地から10キロも遡上すれば、有名な江田船山古墳があり更に遡れば、金山彦の本拠地と考えている山鹿市の大宮神社、更に、南北朝騒乱期に南朝方として戦い続けた菊池氏(彼らは紋章から阿蘇氏の一派のように理解されていますが、とんでもない誤りで、彼らこそトルコ系匈奴=東西分裂後の南匈奴:王 昭君の一族で元は日足紋を使う大山祗系の一族=熊襲なのです。だからこそ南朝方として戦うために熊襲である事を隠し阿蘇氏の様に偽装したのです)の本拠地である菊池市があるのです。

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古公亶父君主

古公亶父は、周初代武王の曾祖父。周の先王の一人。公叔祖類の子。姓は姫。先祖の后稷・公劉の業を納め、国人から慕われた。古公とも呼ばれる。『詩経』では太王。『史記』によれば、武王が殷を討つ前に太王と追尊した。それ以前は太公と呼ばれ、孫の文王が呂尚の事を「太公が望んだ人だ」として「太公望」と呼んだ逸話は有名である。両親: 公叔祖類 子女: 季歴、 太伯・虞仲 Zhongyong of Wu

孫: 虢叔、 虢仲 祖父: 亜圉

                 ウィキペディア 20240228 11:25


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無題.png菊池川河口は左岸の大干拓地(横島干拓)の築造のため河道が振られ西に動いていますが、元々は菊池川が運ぶ堆積物による低い島状地であったと思われ、漁労民、運送業者、商人が住み着いていたはずです


干拓地であったため太刀洗陸軍航空隊の教育隊の分駐隊も置かれたていたようで、外嶋宮だけに目を向けていた事に改めて反省することしきりでした



の部分が二線堤防であるため、藩政時代の港はこのライン辺りに在ったはずです

 これより南は明治以降の国造干拓のはずで、タンプさんが居住されているのはこの一帯だと思います


 明治期の姓の創出期にタンプ姓を纏めて採用したとも思えないため、突飛と思うのは私も同様ですが、もしも想定が正しいとすると、呉の(三国志の呉ではなく呉越同舟の呉)滅亡=夫差14年(紀元前482年)には呉国から船で列島に避退しているとすると、2,500年前にその乗員としての王族を安全に送り届け周王朝の血脈を継承させた功績で周王朝(周の滅亡によって後には呉に継承される)の始祖である古公亶父の「亶父」(タンプ)を賜ったのではないかと考えたのでした。

そもそも呉国は周の太伯と虞仲と言う王位継承権を持つ長男次男が、妾腹の三男の子が優秀で聡明だったため兄を差し置いて、王位を譲ろうとしたことから南の越の領域に逃れ、血統が高貴の為に越の民の一部に担がれ呉国の王族となった…と言われる話があり、これが倭人の素性とされたのでした。

この辺りについては、非常に正確、詳細な検討をされておられる民間研究者のコメントをご紹介し、勝手ながら引用させて頂きたいと思っています。以下。



鴨着く島

南九州の風土と歴史、伝承を中心に書きつづっていこうと思います。 季節ごとの風景や祭りを画像でお届けしますのでどうぞお楽しみに。

「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(1) | トップページ | 「大浜電信局」跡(南大隅町大浜) ≫

「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(2)

 前回の(1)では「倭人が呉の末裔であると解釈できる中国史料は何か?」という質問に対して、それは『魏略』である―と出典を明らかにした。

 そこには確かに<…その旧語を聞くに、自ら太白の後という。>とあり、これは<彼ら中国に使者としてやって来る倭人から、その昔話を聞くと、自分たちはあの太白の後裔である、と言っている>という意味である。一見すると倭人は呉を建国した太白の末裔と言っているのだから、「倭人は間違いなく呉の太白の後裔だ。つまり日本人の先祖である倭人の出自は呉である。」という結論を導き出せそうに思える。

 しかし使者として出かけた倭人は決して「呉の太白の後」とは言っていない。つまり「呉の」という修辞はないことに気付かなくてはならない。もし「倭人は呉の後裔である」と言いたいのであれば、「われわれは呉を建国し、かつ、代々後継者を出していた太白の弟の虞仲の後である」と言わなくてはならないのである。

 これならば話の筋が通り、文句なく「倭人は呉の後裔」と言う意味が確定する。ところが「太白の後」という表現だけでは直ちに倭人が呉の後裔であるとは言えない。

 では、太白と倭人との関係はどのようなものか?

 太白については『史記』「周本紀」「呉太白世家」に登場する。どちらも内容は同じで、父の古公が三人兄弟の末子である「季歴」とその子の「昌」こそが周王朝を継いでいくのにふさわしい、と考えたため、自分ら兄たちは周を離れ、南方の長江流域に出奔し、そこで新たな王家(呉)を樹立した―ということになっている。

 そして同じく「呉太白世家」によれば、長子の太白には子がなく、子の生まれた弟の虞仲が呉王家を世襲して行くのであるから、「太白の後」と言ったからといって「呉の末裔」とは言えないのである。

 太白には子がいなかったのであるから「太白の後」はあり得ない話である。では、「太白の後」と言ったその真意は何であろうか?これには三つのことが想定できる。

 (1).最も分かり易いのが、太白はたしかに呉王家の後継となる嫡子は生まなかったが、別腹の庶子がいてその子が太白家を繋いで行き、後世になってその太白家の中から倭人と混血した家系が分岐したというような場合。

 (2).一番目と前半は全く同じだが、倭人の使者の中には「呉の太白の後」を標榜する呉からの渡来民を出自に持ち、そのような人物が選ばれて使者に立った者がいたかもしれず、その使者が「実は私の祖先は呉から倭国へ渡ったのです」などと話したというような場合。

 (3).(1)(2)はどちらも太白には子孫がいてそれが倭人とつながっている、という考え方だが太白に本当に子孫がいない場合、「太白の後」はあり得ないが、「呉と倭は起源が同じである」ということを表現した可能性。

 (1)と(2)の可能性もあるが、その場合でも「太白の子孫が倭人となった」もしくは「太白の子孫が倭(国)を開いた」とまでは言えない。そのことを示す古史書が存在する。それは前漢の史家・王充(オウジュウ=AD27年〜97年)が著した『論衡』(ロンコウ)という史書の次の箇所である。

 第 八  儒僧篇 周の時、天下泰平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は暢草(チョウソウ)を貢ず。

 第十三  超奇篇 暢草は倭人より献じられる。

 第十八  異虚篇 周の時、天下太平にして、倭人来りて暢を貢ず。

 第五十八 恢国篇 成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。

 第八、十三、十八、五十八とも倭人に関して「暢(暢草)」つまり霊草(神に捧げる酒に入れたという草)を貢ぎに来る人々である、という認識は同じである。さらに、それがいつの時代だったのかを特定しているのが第五十八の恢国篇の記述で、その時期を成王の時代としている。

 成王とは周王朝の2代目で、中国政府の「夏殷周年表プロジェクト」によって確定された在位は紀元前1042年から1021年の22年間である。したがって紀元前1040年頃、すでに倭人という存在が知られており、時代的には太白が周王朝の創始を弟の季歴に譲って次兄の虞仲とともに南方に奔り、呉を建国した頃でもある。

もし倭人が「太白の後」(太白の末裔)であるならば、成王に暢草を貢献した際、「祖父の代に南方に逃れて呉を建国した太白の後裔である倭人」というような書き方がされてしかるべきところである。倭人は倭人として独立して描かれている以上、太白と倭人との間に血統的なつながりを見出すことはできない。

『論衡』の上の記事では、「太白の後裔の倭人」という書き方はないうえ、第八と第五十八では呉よりさらに南方の越と並んで倭人だけが登場しており、呉人は出てこない。すなわち成王の時代には越人と倭人はいても、呉人はいなかった節がある。つまり時系列的には「倭人のほうが呉人よりも古い」とさえ言える可能性が出てくるのである。

その点について、太白・虞仲・季歴兄弟の父親を俎上に載せてみると興味深いことが分かる。父はその名を「古公亶父」(ココウタンプ)というが、古公は「いにしえの」という意味であり、「亶父」は「亶州出身の・亶州を宰領する」男王と解釈される。亶州を私は日本列島(中でも九州島)と比定するので、「古公亶父」とは日本列島の中でも九州島出身の王を指しているのではないかと考えられるのである。

 以上により、「(呉を建国した)太白の後」とある『翰苑』巻30の記事から「倭人の起源は呉にある」と導き出すのは不可能であると断定できる。

 むしろ最後のほうで触れたように、周王朝発足当時(紀元前1040年頃)の呉の領域には実は倭人が居住していた可能性が見えてきた。2代目の成王の時に暢草を貢献した倭人がどこにいた倭人かはその暢草の種類が特定できれば原産地も特定でき、倭人の居住地も特定できよう。

 今のところその特定はできていないが、少なくとも紀元前1000年代には呉とは別に「倭人」と呼ばれる種族が居り、周王朝の祭祀の一部を支えていたことだけは確かである。

 ※ 以上の史料については、以下のホームページで参照できる。

    鴨着く島おおすみ:http://kamodoku.dee.cc/index.html

               この中の「中国史料に見る倭人」の項

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2024年07月03日

1012 続 大分県日田市の「有王社」を疑う ❷ 蟻通神社を消したのかor有王社で八咫烏を守ったのか

1012 続 大分県日田市の「有王社」を疑う 蟻通神社を消したのかor有王社で八咫烏を守ったのか

20240205

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


先行ブログ新ひぼろぎ逍遥 1005として 日田市の「有王社」を疑う を書いています。

有王社とはほとんど耳にしないもので全国的にも聴いたことが無いものであることから、8世紀初頭まで九州王朝系の副都(これは私の仮説でしかありませんが)だったはずの日田の象徴である八咫烏=博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神の嗣子を祀る蟻通神社を消し、近畿大和朝廷の代官役(植民地総督)である大蔵一族=後漢霊帝の別れ阿智王の末裔が消し去ったのであろうと考えたのでした。

 ここまで書くと、地元の方々には立腹される方もおありかも知れませんが、どうも大蔵の一族によって本来の祭神が入れ替えられているのではないかと思った次第です。

 つまり、元の王権の象徴である八咫烏を消し去りたいと思っていたのは応神を崇める大原八幡宮の一族である大蔵一族こそが蟻通神社を消し去り有王社にすり替えたのではないかと考えたのでした。

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瑠璃の星写真・イラスト・旅日記 『邪馬台国ラプソディ』 聖地巡礼 26 夜明けの有王社 様より


有王社を知った時、これは偽装❶(大蔵一族が嫌うはずの前政権の排除として八咫烏系の神の据替)、偽装❷(八咫烏隠し=本来の神=八咫烏を守るため)の二つを考えましたが、大蔵に対する憎しみの思いが強く、❶を採用したのが先行ブログ1012ブログでした。

しかし、再度確認のためご由緒を検証しようと思います。

後白河院が院政を敷いた源平期に大蔵永秀が築城の櫛崎城に置かれた神を遷座し有王宮としたとあります。

瀬織津日女が誰であるかをご存じない方が多いと思いますが、櫛稲田姫なのです。

その点、築上町の櫛崎の「櫛」とはクシナダヒメと対応しているのです。

そもそも瀬織津日女とは、藤原が創り出した祓戸神(ハライドノカミ)の一神であり、金山彦、瀬織津日女=櫛稲田姫、速佐須良姫=鴨玉依姫、速開都比盗_=豊秋津姫(ハヤアキツヒメ)を意味(忌)しているのです。


以下ウィキペディア(20240205 14:22


祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神である。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味である。


もう一つ祓戸大神 (Haraedo no Okami)様もお読みください。


これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、大祓詞にはそれぞれの神の役割が記されている。

瀬織津比売(せおりつひめ)

-- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す

速開都比売(はやあきつひめ)

-- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む

気吹戸主(いぶきどぬし)

-- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国に息吹を放つ

速佐須良比売(はやさすらひめ)

-- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

速開都比売を除いてこれらの神の名は記紀には見られず、記紀のどの神に対応するかについては諸説ある.

上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。

本居宣長は、瀬織津比売を禍津日神(やそまがつひ)に、速開都比売を伊豆能売(いづのめ)に、気吹戸主を直毘神(かむなおび)に当て、速佐須良比売は神名の類似や根の国にいるということからスセリビメ(すせりびめ)に当てている。

 

では、その意味とは、この地は急流渦巻く危険な地であるからそれを治めるべく祓戸神を置いたと考えるか、元々、この地には蟻通神が祀られていたところだから浄化(仏教系の表現ではありますが)するという意味合いで祓戸神を祀った…と言う意味合いがあり、どちらかによって当方が考えた蟻通神社改変説が成立するかどうかが影響を受けるのです。


以前、宮崎県西都市の速川神社(西都市大字南方183-2)にもこの祓戸神を見たことがありますが、ここも急流の地なのです。

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勿論、こういったものは確定した通説などと言ったものではないのですが、浅ましいまでも既に地域で確立しネット上でも右から左まで同じ論調、結論に異議を唱えるのは袋叩きになりそうです。

 ただ、私の目からはあまりにも違和感が伴うため、大人げないとは思われそうですが、そういう事を押し通すのが神社の本質を探る者の使命なのです。

 上の地図を見れば分かる通り、同社がこの大蛇行地それもかなりの落差のある急流である事は想像が着くでしょう。

 これは夜明ダムが稼働する昭和28年以降かなり急激に流速が落ちている事を考えれば、筏流しを行ってきた船頭さんとは言わない中乗りさんとしておきますが、最も緊張する危険な場所であった事はご理解いただけるのではないでしょうか。

 そして、先行するブログをお読み頂いた方には、既に、この九州山地を駈け降る最も緊張する容易に息の抜けない命懸けの場所だったはずなのです。

 私が最も違和感を抱いた理由は、その様な場所、それも筑紫、豊という緊張する国境に、何故、瀬織津姫(藤原が祓戸神別名として金山彦と博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫の間に生まれた櫛稲田姫)を祀る神社を置く必要性も必然性もない訳で、これも大原八幡宮が龍王ことヤタガラスを消そうとばかりに祀ったのではないかと考えたのでした。

 まず、有王という呼称は中国風の香りがするもので、類型として白王(白川伯王)、阿智王など僅かしか浮かんできません。

それは、この有王社を祀ったのは応神を呼び込んだ近畿大和朝廷の総督とも言うべき大原らしいからなのです。

 前置きが長くなりましたが、この一般的には聴いたこともない有王神社をなんとか乏しい知識で考えて見たいと思います。

 無題.pngそれではご覧いただきましょう。私も一度入っていますが、画像が無いため、しばらくはネットから拾えるもので代行し、後で入れ替えたいと思います。

 ただ、パワースポットとか大騒ぎし商売に繋げようとするさもしい方々のものとか、神社や行政の宣伝合戦の浅ましい派生サイトはできるだけ避けて穏やかで落ち着いた健全さを感じさせるものから使わせていただきます。以下、田舎暮らしdeほっ!様から…

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瑠璃の星写真・イラスト・旅日記 『邪馬台国ラプソディ』 聖地巡礼 26 夜明けの有王社 様より

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これで大体の概要はお分かり頂いたと思います。

 まず、私が違和感を抱いたのは神殿の千木が男神を示している事でした。その一事だけで、これが瀬織津姫ではないのではないかと思ったのでした。

 さらに言えば、参拝殿の上に置かれた龍の彫刻の板盤はどう見ても日田、津江、彦山から流れてくる筑後川を龍に見立てたものであり、日田の中心部に玉川町があるように、遠い古代に豊玉彦(海幸、山幸の神話に登場する龍王)=ヤタガラス(博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの子)を祀ったものであろうという気がしたのでした。


由緒 人皇八十代高倉天皇の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永2年(1705)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す。       御祭神 瀬織津日女命


 そして、なんらかの動機で瀬織津日女命に替えられたのではないかとの思いが湧いてきたのでした。

 既に、大原八幡宮に応神を持ち込んだのが大蔵一族であり、彼らが大和朝廷の先兵=占領軍として多くの無題.png神々を塗り替え、摩り替え、歴史を変えて来た事は想像に難くなく、その延長上に日田の隅々まで占領政策が静かに広がってきたはずなのです。では、元々この地には誰が祀られていたのでしょうか?

 直ぐに頭に過り浮かび上がってきたものは蟻通神社でした。多分これに間違いはないでしょう。

 この祭神は中将(「平家物語」「源氏物語」にも中将は出てきますが、中国と外交官系を結んだものはこの称号が与えられるのです)とされ、八咫烏はその最初の一人なのです(中将姫とは別の概念)。

 和歌山県や大阪府にかなりの数の蟻通神社」「蟻通明神」があります。


「私のたなべ」田辺市観光協会 様より


蟻通しの由来

むかしのことです。ここ紀州田辺に外国の使者がやってきました。

その使者は『今から出す問題を解いてみよ もし解けなければ日本国を属国にしてしまう』といいました。そして、持ってきた法螺貝を出して、その貝に一本の糸を通すことを命じました。

日本の神がみは、この難問にたいへん頭を痛めました。その時、ひとりの若い神様が前に進み出て『私が法螺貝にその糸をその糸を通してみせましょう」といって貝の口からどんどん蜜を流し込みました。

蜜は、貝の中の複雑な穴を通り抜けて貝尻の穴へと流れ出しました。そして、この若い神様は蟻を一匹捕らえて糸で結び貝の穴から追い込みました。蟻は甘い蜜を追って、複雑な貝の穴を苦もなく通り抜けました。蟻の体には糸が結ばれていますから法螺貝には完全に糸が通ったのです。

これを見た外国の使者は『日の本の国はやはり神国である』と恐れその知恵に感服して逃げ帰りました。

日本の神がみは、たいそう喜んで『我国にこれほどの賢い神があるのを知らなかった』といって、その若い神様の知恵をほめました。そして、蟻によって貝に糸を通したことにより蟻通しの神と申し上げるようになりました。今では知恵の神とあがめられています。


ここで私の方からもコメントを加えさせて頂きます。蟻通神社の話は民衆に受けたらしくある時期流行し伝承も祭神も多くの変化を見せています。ただ、中将とは中国に派遣された外交官級の優秀な人が送られる称号で、本来は博多の櫛田神社の大幡主(カミムスビ)の子の豊玉彦(八咫烏)の事であったと百嶋神社考古学では理解しています。まず、阿波から熊野は忌部の国であり、この忌部こそ宗像三女神の一族=白族であり、阿波から泉佐野と言う同社の分布もそれと対応しています。

そして、玉の曲がった穴に蟻を使って糸を通すという故事から蟻通神社の名が生まれ、加えて、紀州でも大蛇行の狭い急流の流れで木材の前後が選別されると言う事から、正しくこの加々鶴から夜明の渓谷で川流しの安全と筑紫から豊の国境の平安を願って置かれたのがそもそもこの中国風の有王神社の基層に存在した蟻王神社だったのではないでしょうか?

それが何故有王社に変わったのかは最後にお話ししましょう。


すさまじきもの 〜歌枕探訪〜神社(大阪府泉佐野市) 


蟻通神社(大阪府泉佐野市)

無題.png蟻通神社はもともと熊野古道沿いにあったものを、第二次大戦中に飛行場建設のために現在の地に移転された。このため、以前熊野古道を歩いた時、足を延ばして訪問してみようかどうか迷ったが、遠回りになるので結局断念したことがある。このたび車で泉南方面の故地巡りに出かけ、念願の訪問を果たした。この蟻通神社、こんな泉南の片田舎にありながら、なにかと由緒満載で、紀貫之、清少納言らのエピソードもあり、そして能の舞台にもなっている。

知る人ぞ知る、古典ゆかりの地である。まずは、紀貫之関連

蟻通神社の前を通る時は馬から降りなければならなかったが、紀貫之は馬から降りずに通ってしまったため、蟻通明神の怒りを買って、俄かに一天かき曇り、馬が動かなくなった。これに対し紀貫之が和歌を詠じて蟻通明神をなだめた、という話。…中略…


 無題.png蟻通神社 カーナビ検索 大阪府泉佐野市長滝814 

創建は、社伝によると なんと紀元93年!! 第9代開化(かいか)天皇の時代にできたのだそう!

わたしが大好きな、日本一の古墳の仁徳(にんとく)さんが第16代天皇その7代前の時代というと

弥生時代中期 弥生時代・・・!この頃に稲作りが始まったので五穀豊穣と国土開発を祈る目的で

国造りの神である大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀ったのが始まりとされています しかし「蟻通」の名前が広まったのは平安時代のことこんな故事があります

***

歌人である紀貫之(きのつらゆき)が旅の途中、馬に乗ってこの神社を通りがかったとき日が暮れ、大雨が降りだし、馬が倒れましたそこへ老人が現れて「蟻通明神の境内を下馬しないで通った罰じゃ!」と。

そんなん知らんやん!!などとは言わず、貫之さんは歌を詠みました 「かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思ふべしやは」この歌に老人は「ホッホー!」と感心し「実はワシが蟻通明神でしたー★」と明かして消えていきそして馬は元気になって貫之さんは旅を続けることができましたとさ


蟻通神社、アリ通し、天武天皇 様から


さて、その頃中国の皇帝は、わが国を攻略しようという野望に燃えていた。しかし、実際に軍隊を派遣するには、なにか口実がなければならない。そこで皇帝は、帝を陥れる巧みな方策を考えついた。
 まず、使者をわが国に派遣すると、一本の材木を帝に献上させた。材木は表面を美しく削ってあり、長さは二尺(約六〇a)ほどである。「帝におうかがい申しあげます。このたび献上いたしましたこの材木の、いずれが本で、いずれが末でありましょうか」難題を吹きかけて、これに答えなければ、厳しく難詰する魂胆である。しかし帝は使者の質問に対してうまい解答が思い浮かばない。そこですっかり途方に暮れてしまった。朝廷に出仕して、このありさまを一部始終見守っていた中将は、帰宅ののち、両親にこのことを話した。「お父さん、お母さん、今日、朝廷ではこのようなことがありました。中国の皇帝の問いには、はたしてうまい答えが見つかるのでしょうか」「それはおまえ、簡単なことじや。早瀬に材木を投げ入れてみればよい。最初は材木も、水の中でくるくる舞うているであろうが、そのうちどちらかの端が先になって流れてゆくじやろう。そちらのほうが木の末にあたるのじゃ」翌日、朝廷に出仕した中将は、なにげない顔をして、帝に申しあげた。
 「私に名案がございます。ひとつ試してみましょう」そして人々を引き連れて流れの早い川の瀬に行き、材木を投げ入れると、先になったほうに印をつけて、使者に手渡した。するとやはり、そちらのほうが木の末であった。
 続いて中国側は、全長が二尺ほどもある二匹の蛇を献上してきた。姿形は二匹ともそっくり同じである。「謹んでおうかがい申しあげます。この二匹の蛇の、いずれがオスで、いずれがメスでありましょうか」今度の問いも難問である。内裏の中で即座に答えられる者は、ただの一人もいない。そこで中将は帰宅ののち、ふたたび両親にこのことを話した。「他愛もない。二匹の蛇を並べて、尾っぽのほうに細い枝を近づけてみるのじゃ。尾っぽを動かしたほうがメスの蛇じゃよ」中将の両親はこともなげに答えた。
 翌日、中将が帝の前で両親の教えたとおりにやってみると、はたして一匹だけが尾っぽを動かした。そこでそのように使者に告げ知らせると、これも正解であった。
それからしばらくすると、中国の皇帝は三度日の使者を派遣してきた。今回の献上品は、一個の玉である。一見しただけではなんの変哲もないただの玉のようであったが、細かく観察してみると、玉のちょうど反対側の表面に、二個の小さな穴がそれぞれ口を開けている。そしてそれが七曲がりに曲がりくねった小さな空洞によって、玉の内部でつながっているのであった。使者は仰々しく口上を述へ立てた。「この玉の穴に糸を通していただきとうございます。もっともわが国では、だれもが簡単にやってのける小細工ではございますが」今度という今度は帝も困り果ててしまった。「どんな手先の器用な人物でも、こればかりはできかねまする」朝廷に出仕する貴族・公卿たちから、はては下々の者に至るまで、みんな口をそろえてそのように答えた。そこで中将は、もしやと思い、今回も両親にたずねてみることにした。「造作もない。一匹の蟻に細い糸を結びつけ、一方の穴から中にもぐり込ませればよい。その時、もう片方の穴のまわりに蜜をまぶすことを忘れなければ、蟻は蜜の香りに誘われて、空洞を通って向こう側に行くはずじゃ」中将は参内すると、両親の教えてくれたことを、そのまま帝に進言した。さっそく朝廷ではそのとおりにやってみたが、はたして蟻は一方の穴から他方の穴へとくぐり抜け、糸は玉を貫通した。そこで帝は、糸の通った玉を使者に返還した。
「日本の国にも賢者はいるものだ」中国の皇帝は感嘆し、それからは難題を吹きかけてくることもなくなった。一方、帝の喜びようはたいへんなものであった。彼は中将を呼び寄せると、親しく声をかけた。「このたびのそちの働きはみごとであった。望みのものを申すがよい。官職も、恩賞も、思いのままに取らせよう」「恐れながら、私は官職も恩賞もほしくはございません。ただ年老いた両親とともに都に住むことを、お許しいただきとうございます」「それはたやすいこと。そちの好きにするがよい」帝は快く、中将の願いを聞き入れた。この知らせを開いて、国中の人はたいへん喜んだ。
その後、この中将は神として祀られるに至つた。これが今に残る蟻通明神のはじまりであるとされている。


 ここまで読まれた方はご苦労様でした。改めて謝意をお伝えします。

蟻通神社に有王社が覆いかぶさったと言う古川仮説に幾らかでも賛同して頂ければ幸いです。

そもそも瀬織津姫とは祓戸神として藤原が創り出したものであり、実は九州王朝の初期を支えた金山彦の娘である櫛稲田姫の事なのです。

当然にも、近畿大和朝廷として権力を握った藤原(旧阿蘇氏=多氏、宇治氏…)にとってはあまり有り難くない忌むべき神なのです。

その本拠地の一つである豊の国の支配者が豊玉彦=八咫烏=豊国主であり、中心部に玉川町がある事からも分かるのです。

当然にも、現在日田を支配している大原の一族=大蔵氏…は近畿大和朝廷の植民地総督として入府している訳で、この八咫烏の都であった日田からその出口である夜明に八咫烏を祀る蟻通神社が存在することを疎ましく思い続けたはずなのです。

そして、「鬼と仏の国東半島めぐり」瀬織津姫神 有王社:瀬織津日女祭祀 によれば、平安末期にお鬼洲浜紋章を使う大蔵一族(恐らく後漢の靈帝の一族の別れで阿智王の一族の可能性を考えています)が持ち込んだことが分かります。


無題.png有王社の由緒は案内板にあるように

「人皇八十代高倉天皇(平安時代末期11681183在位)の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永二年(280年前)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す」とのことです。以前、宮司様に他の伝承がないか確かめましたら、「他に伝えられているものはない」とのことでした。

異称で祭られる場合が多い、瀬織津姫神ですが、この案内板をみるとなぜかほっとします。神を示しており、賽銭箱の上に龍王が置かれている事、筑後川を海人族が龍と見なしていた事、櫛稲田姫が王と呼ばれたことなど全くない事から乱暴な結論を出しました。ご批判は甘受致します。

ご祭神の瀬織津日女神は罪・穢れを大海原の持ち出で給う神との記載があり、大祓いの神としての認識で一柱で祭られています。境内神社に菅原神社と水天宮があります。


ここまで見て来て、縦切り千木が男神を示しており、賽銭箱の上に龍王が置かれている事、筑後川を海人族が龍と見なしていた事、櫛稲田姫が王と呼ばれたことなど全くない事から乱暴な結論を出しました。ご批判は甘受致します。

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後漢の中平4年(188年)10月に12代霊帝は「皇帝直属の常備軍」の創設を構想したと言われています。八咫烏=豊国主=八咫烏は百嶋最終神代系譜ではAD132の生まれですので時代は符合します。

そして、大蔵氏は霊帝の一族の阿智王の後裔の可能性があるのです。

私には、八咫烏に凹まされたのが気に入らなかったのではないかと思うのですが、結果、蟻通明神は有王宮に変わったのではないかと考えます。これを詳しく説明すると、更に別のブログが必要です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2024年07月06日

1013 続々大分県日田市の「有王社」を疑う ❸“「平家物語」の有王童子がここに祀られる必然性は無い

1013 続々大分県日田市の「有王社」を疑う “「平家物語」の有王童子がここに祀られる必然性は無い

20240212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


一般的に「有王」として知られるのは「平家物語」の俊寛を訪ねた有王童子以外にはないでしょう。

 最近もブログを書き続ける中で、BGMとして頻繁に「平家物語」の朗読を聴き流しています。

以前、俊寛僧都の島流しの部分も聴いてはいたのですが、とっさには有王童子の事までは頭が回りませんでした。聴いていたのは尾崎士郎のシリーズですが直接には(3)の有王 に当たります。以下。

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今回、ほぼ、この日田にだけ存在すると思われる有王社に対面し(以前にも訪問してはいますが)、今回日田の神社を再考する必要性に迫られ有王神社は蟻通神社だったのではないかと思い始めました。

 それは、和歌山県〜大阪泉佐野に掛けてかなりの蟻通神社の事が浮かんできたからでしたが、どう考えても蟻通神社としてはこれほどぴったりするものは無く、もしかしたらこちらこそが蟻通しの起源ではと考えたのでした。

それは、上流の日田市は古代(1800年以前)の高良大社、太宰府を本拠地とする八咫烏の副都に相当する重要な拠点であった事に気付いたからでした。

 ただ、ここにあるのは有王社と言う、平 清盛に対する腰の入っていない失敗したクーデターに絡んで薩摩の喜界島に流刑された3人の内、俊寛一人だけが帰国を許されなかった(陰謀計画は俊寛の屋敷で行われていたのですから)ためこの哀れな僧頭に縁のある有王なる童子が娘の親書を携え、硫黄島に亘ると言う有名な話に登場する童子を祀る神社とされている事に非常な違和感を抱いたのでした。


「俊寛流刑の地,鬼界ヶ島伝説」が残る三島村硫黄島(鹿児島県HP)より

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〜悲運の僧俊寛〜


時は,冶承元(1177)年,世は平家の時代となっていました。

そんな権勢極まる平家の時代に,俊寛の別荘である京都東山鹿ヶ谷荘(ししがたにそう)では,後白河法皇(ごしらかわほうおう)等による平家打倒の陰謀が企てられました。

しかし,源行綱(みなもとのゆきつな)が,この陰謀を平清盛(たいらのきよもり)に密告。清盛は激怒し,陰謀を企てたとして俊寛僧都(しゅんかんそうず)・藤原成経(ふじわらのなりつね)・平康頼(たいらのやすより)を,薩摩国(さつまのくに)の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流刑(るけい)しました。

その流刑となった薩摩国の鬼界ヶ島が現在の三島村硫黄島であったと言われています。


 鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島、鹿児島県大島郡喜界町の喜界島、長崎県長崎市の伊王島 ...

と(これ以外にもあるのですが)、流刑地は現在も特定されておらず、ここでは一応、屋久島、種子島の西の硫黄島としておきましょう。

 ただ、その著名な清盛の時代の童子がこの地に祀られているはずは無いのであって(出船地は薩摩潟とされており(旧加世田と)、普通は三島の硫黄島辺りになるのは不自然ではなさそうです。ともあれ、私はそれを疑っており、さらに千年遡る基層に、八咫烏を祀る蟻通神社と考え何か手掛かりがないかと考えあぐねていたのですが、悩めば道が開かれたのです。それが以下のブログでした。


無題.png有王社(龍王社) 祭神:瀬織津姫(天照大御神荒魂)日田から筑紫平野に入る場所にある神社です。高良大社を拝むように配置されています。

日田で唯一祭神とされている瀬織津姫


有王社(龍王社) 祭神:瀬織津姫(天照大御神荒魂)https://spiritual-place.main.jp/ariousya.htmlより引用

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筑紫平野を睨む、位置にあります。


現在、この古代祭祀線の専門家で当会のメンバーである伊藤まさ子女史(ブログ「」)にさらに詳しく検証してもらっています。時代と共に建物は改築などで移動しているためであり、この知識を持たないと祭祀線の解読はできないのです。

無題.png

折れ曲がった川の異様さは凄い 瀬(川)織(折)媛・・・・


このレイ・ラインを見出された方の慧眼には驚きました。

無題.pngその時点ではこれ以上の突破口が見えなかったところに光明が差した思いでした。

これで有王社の基層を探る更なる探求と併せ、日田が八咫烏の存在した九州王朝の副都だった事がより鮮明になったと思ったのでした。

後は、伊藤まさ子女史の探求の結果を待つため暫し作業を止めます。

と言っていたら、数日を待たずして回答を得られました。

何故となれば、俊寛僧頭の時代であれば、平 清盛(11181181)全盛期であって、その時代に敢えて住吉大社〜太宰府〜有王社、武雄神社〜高良大社〜有王社と言った祭祀線を引く必然性など無いからです。

つまり、もしこの祭祀線が本物であれば、初期の九州王朝の重要な祭祀を繋いでいる可能性があるからでした。

このことは、良く言えば、有王社の基底部には本来別の祭祀が存在していた濃厚な可能性を示唆しており、悪く言えば、この九州王朝としか言いようが無い祭祀線とその祭祀対象としての有王社以前の祭祀を隠したかったはずなのです。


不知火書房(福岡市)0927816962太宰府宝満沖ノ島古代祭祀線と式内社配置の謎」¥1,980...


つまり、贈)応神天皇侵入以前、大原八幡宮成立以前の政治的基盤を近畿大和朝廷の息のかかった地方政権の癇に障る祭祀を消し去った可能性が浮かび上って来たのでした。

彼女は既に「太宰府・宝満・沖ノ島―古代祭祀線と式内社配置の謎」伊藤 まさこ を出版しています。

 しかも、少しでも逸れればそれを考え、社殿の建て替え、燃失後の再建(基礎は残りますが)、規模拡大などの多くの変化が起こります。

 その点からは、450メートルのズレがありそのままでは認められないと考えるのが彼女の考え方であり、その旨回答してこられました。

 勿論、それは有り難く受け入れましたが、私が想定する蟻通神社とは清盛の時代から約千年は遡るものであって、実は武雄神社も現在の地から南側にあったと聴いており、本当は崇神を祀る博多の住吉神社にあっても、元々宮まで遡る前に、元宮が南にあり、高良大社にしても九州王朝崩壊後に大和朝廷がそれを抑え込むために彼らが造ったのでしかないのです。さらに言えば、太宰府天満宮も神仏混交期のものなのであって、多少の誤差は甘受すべきではないかと考えるのでした。

 その意味では、先行祭祀線研究を提案された慧眼を全否定などできないと思うのでした。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記