2024年05月24日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1009 豊後の日田市は八咫烏(=豊玉彦=豊国主)の都だった

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1009 豊後の日田市は八咫烏(=豊玉彦=豊国主)の都だった

20231118

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 太宰府地名研究会は北部九州を中心に、福岡、佐賀、熊本、大分、一部宮崎にメンバーがおり、既に出版をされ著書をお持ちの方、ブログを複数書かれている方、日々フィールド・ワークを行い神社を探り続けておられる方、ネット・サーフィンで神社を調べ続けておられる方…などがおられる一方、万葉集やら海外史書やら考古学の発掘調査報告書を熱心に読む方…と多くの熱心な民間研究者がおられます。

昔は、邪馬台国本やら九州王朝論に関する研究書を熱心に読まれる方と専門家裸足の方も多かったのですが、古代史ブームが消え、当会のメンバーも様変わりし始めています。

それでも古田武彦の本は全部読んだ…と言う方も複数おられるのです。

つい最近も、50歳になったばかりの方で、「古事記」「日本書紀」は皆読んだと言った方が加わるなど頼もしい限りです。

勿論、中京から関東からもかなり多くのメンバーが加わり、百嶋神社考古学が消失してしまう事だけは無くなったとほっとしています。

加えて、九州王朝説に於いて最先端で研究を続ける佃収講演を年3回は北九州で行うという体制が一応は整い、丁己歴史塾との提携も確立してきました。

そうした中、太宰府地名研究会の研修所としてスタートした天瀬の温泉付き中古別荘にも多くの人が立ち寄られるようになってきました。

そういった中、2024年のスタートに併せ、そろそろこの日田市の古代史上の位置づけをしなければならないと思う様になってきました。

切っ掛けは日田市に編入された旧大山町でした。ここを頻繁に通過するようになると、大山町とは大山祗系の人々が住み着いた土地ではなかったのか。

さらに加えれば、熊本県小国町と菊池市から掛け降る阿蘇氏を食い止める防衛拠点だったはずなのです。とまで思考の暴走が始まると、市の中心部に玉川町を持つ日田市が豊玉彦=豊国主=八咫烏の国であったという結論までは僅かな距離でしかなかったのです。

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この大山水天宮(大分県日田市大山町東大山)から少し下ると大山町農協のシャレた?気取った農産物加工品の販売所+レストラン「木花ガルテン」までがあるのです。

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オオヤマズミノカミには、コノハナサクヤヒメという美しい娘がいました。アマテラスオオミカミの孫にあたるニニギノミコトはその美しさに心打たれてコノハナノサクヤヒメに求婚します。オオヤマズミノカミもこの縁組を喜び、姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせます。ところが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを厭うて追い返してしまい、オオヤマズミノカミは怒ってニニギノミコトに告げます。「私は、イワナガヒメを妻にすれば命は岩のように永遠のものとなり、コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てて娘二人をあなたに嫁がせた。コノハナサクヤヒメだけを娶るならば、命は木の花のように儚くなるだろう。」と。このために、ニニギノミコトとその子孫は神としての永遠の命を失いました。

無題.pngコノハナノサクヤの故事がコンパクトにまとめられていましたので借用しました

一般的にこの話の現場は大山祇命の南九州の日向とか薩摩半島だと通説はしますが確定してはいません


勿論、話の現場がここであると言っているのではないのですが、私には後に敵対勢力となった阿蘇氏(藤原)が、熊本県小国町(杖立温泉経由)、菊池市(兵戸峠〜下筌ダム〜松原ダム経由)から降り、日田に侵入するルートを遮断する役割を担っていたのが大山祗系で旧大山町だったように見えるのです。



その意味で、阿蘇氏対策として大山祗系氏族が駐屯していたのではないかと思っているのです。

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日田を考える時、北部九州で最も安全で最も守り易い場所は何処かと考えるとここ以外には考えようがありません。

これが熊本から中九州を考えるならば、人吉盆地になりますが、この場合は船で登るにはあまりにも傾斜が急であり、頻繁な出入りが容易ではないため、安全過ぎるも、むしろ盾籠もる場所になるのです。

古代には有明海が相当奥まで入っていた可能性があり、肥後、筑後国境辺りまでは楽に潮が上る場所だったはずなのです。仮にそうであったとしてもJR夜明駅付近から10キロも上れば日田市の市街地には到達できる上に、西の久留米、太宰府方面から侵入してくる勢力が急流の筑後川ルートで入るとしても、直ちに連絡は送られ、防衛には絶好の夜明の大峡谷があるのです。

仮に夜明渓谷の崖の上から射かけるならば侵入者の矢は全く届かず、守る側は全く被害が出ないという所謂アウトレンジ戦法が奏効する要害なのです。つまり、攻めるに難く守るに易い最高の立地となっているのです。その意味で、唐新羅連合軍と激突した白江戦の延長戦でも太宰府、久留米から50キロほどの安全な副都が日田だったように思えるのです。

東からは遠路山越え進出となり、日田市とは北部九州でも最も安全な都市だったと考えられるのです。

その意味でも、天然の要害の夜明の大峡谷を再度ご覧頂きたいと思うのです。

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 日田市には博多同様、日隈、月隈、星隈といった隈地名が有ります。…と言ったのは故)百嶋由一郎でした。

ここには玉川町が有り、豊玉彦、豊国主(豊ノ国の王と言う意味ですね)、鴨建津身=八咫烏の都といった意味を込めて話しておりました。

さて、ここに旧制日田中学校に関する「陽柳讃歌」という戦前の本があります。

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表紙にも何やら烏らしき烏が歩いていますが、この本の93ページにはもっとびっくりする写真が掲載されていたのです。それは同校の古い校旗の写真ですが紛うことなき三本足の烏だったのです。

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これは同書の92Pの一部分ですが、中国伝説が由来の校章とは多分八咫烏のデフォルメであり、同窓会報「烏陽」も金烏を意識した故事を示しています。

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最も重要と思われる「中国伝説が由来…」とは、新ひぼろぎ逍遥の1005「有王社を疑う」をお読み下さい。で推定した「蟻通神社」蟻通しの神=中国への使者ともなった中将=八咫烏の事なのです。

この際、関連しますので、ひぼろぎ逍遥(跡宮)にもダブル掲載することにします。

故)百嶋由一郎は、“日田は豊玉彦=八咫烏の都である”と言いましたが、続けて“中心部に玉川町があります”さらに“東京の都庁のある場所も豊島区で昔は豊田区とも呼ばれた”と言っていましたが、これは隣の練馬区の北豊玉区、南豊玉区の事かも知れません。

八咫烏は後にコノハナノサクヤと鹿児島県旧溝辺町経由で関東に移動するのです。これは別の機会にでも。コノハナノサクヤは富士山浅間神社などに祀られていますね。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記