2024年05月03日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1002 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか?(中)木の葉の天子宮

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1002 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか?(中)木の葉の天子宮

20231115

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回、玉名市玉東町木の葉にルーツをお持ちの方が当会の活動に参加して頂く事になりましたので、この際中途半端に終わった同地の神社調査をやろうかと思うようになりました。

 そこで、1123日に二人で木の葉の神社を見て回ろうと思うに至りました。

 当時、リポートを書いていたのは木の葉の天子宮だけでしたので、この際、旧ひぼろぎ逍遥069 をお読み頂いても良いかなあと思い、ノスタルジックな思いだけでご紹介しておきます。

10年前はこの程度のただの探訪記でしかなかったのです。


069 玉名市玉東町木葉に新たな天子宮を発見した! 久留米地名研究会 古川 清久 20140506


天子宮、天子社、天子神社と呼ばれる謎の神社、奇妙な祠が、かなりの分布を示しています。

恐らくその分布は、九州ばかりか中京、関東地方、東北地方まで広がっているようです。

これまで、十年近くを費やし天子宮調査を行ってきましたが、現地確認への困難性から関西以西に調査を限定してきました。

将来、東日本の調査に踏み込むときが来るとは思いますが、今のところ、関西以東に関してはネット検索に留めています。

これについては、文字データだけでしたが、60本近くを古田史学の会の会報に掲載、従ってその一部を今でもネット上に見ることができるのですが、必要な画像も出ないことから今は掲載を中断しています。

いずれ、全編(全体で123本)を画像付きで配信したいと考えています。

このため、京都、岡山、但馬を含め調査を行ってきた123本で、一旦は作業を終了していました。

ところが、その後も新たな天子宮を発見したことから、昨年秋もリポートを加え、今回も追加リポートを書くことにしたものです。

と、言っても、ここでは、写真を紹介し、場所をお知らせするだけに留めます。

それは、天子宮に関しては神社関係の資料が乏しいと言うよりも、ほぼ、存在せず、現在のところ、分布の全体像を把握し、周辺の実調によって、逆に、真実に迫るしか無いのが実情だからです。

ただ、熊本県玉名地方も天子宮が集中している場所です。「肥後国誌」にも分布が集中していたことが記録されており、今回発見したものもその一部であることは疑いようがありません。

文献で確認できていたものが、現存していたことに気付いたものであり、それが、現状を紹介するに留める理由でもあるのです。

「肥後国誌」によれば、天子宮が数十社近く存在していたということについては、初期の天子宮リポート「伊倉」“天子宮は誰を祀るか?”で書いていますが、現存する天子宮、元は天子宮と呼ばれていたものは、今も、伊倉周辺(JR鹿児島本線肥後伊倉駅周辺)に数社確認できます。

今回の神社は、東町の木葉小学校付近に新たに発見したもので、付近の集落で今も管理され、年に一度お祭りが行われているようです。

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社殿こそ簡素ですが、住宅地にも近く、付近は半ば公園化されており、非常に清潔な雰囲気です。

この一帯は、加藤清正による、菊池川の流路の変更や横島干拓が行われる以前は、かなり近くまで海が入り込んでいたと思われる一帯で最も奥に位置する、当時の一等地のような場所だったようです。

それを示すかのように、今も付近には採石場の跡地が確認でき、当時は、船で石材が運ばれていたことから、船着き場も在ったことが想像できる場所であり、古代の汀線に沿って、北西に進めば、旧菊水町を経由して山鹿に入る交通の要衝でもあったような場所でもあるのです。

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参拝殿には真新しい榊が備えてあり、管理が絶えておらず、ここに古くから住み着いている人々が、菅原系の人々であることが分かるようです。

少し西の小田地区の手前には安楽寺という地名が残っており、安楽寺が太宰府天満宮の神宮寺であったことから、この地に、安楽寺系統の荘園、後の安楽寺領が存在していたことが推定でき、そのことからも地域の性格が多少とも理解できます。実は、この安楽寺領こそ、天子宮が最も集中した所であることは、「伊倉」のNO.3辺りをお読み頂ければ分かると思います。

また、直ぐ西側の集落には、熊野坐熊野神社があるなど、通常言われるところの出雲系集落があり、阿蘇氏や菊池氏や疋氏が跋扈していた場所ではない事だけは直ぐに推察できました。 

当初、天子宮は九州古代史の会におられた荒金卓也氏の説(倭王武/多利思北孤=日出る国の天子)に沿いその検証を行うために調査を行っていましたが、現在はそうではなく九州王朝の傘下に入ったヘブライ系先住者集団の奉斎する神ではないかと考えるように変わりました。

関心を持たれる方は「伊倉」“天子宮は誰を祀るか?”をネット上で検索してください。

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まだ紙面がありますのでここで木の葉=玉東町の神社を概観します。

熊本県神社誌に搭載されていない神社が在る事もご確認ください。

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上の地図を別に切り出したのには一つの理由があります。

 それは、稲佐熊野神社の「稲佐」という地名と霊雨神社には関係があるのではないかと言う事に気付いたからでした。

505 火の君の本体が見えた 熊本県八代市の霊符神社と小川町の霊符神社 20171207

以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)465 熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見 に於いて火の君の中心地がこの地であり、「泉」地名も確認できるとしました。以下、一部を引用。

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これもその一つですが、「霊符神社」という奇妙な名の神社があるのです。結論から言えば八代の妙見神社の北上を考えれば符合するのですが、ここには百済の正統王族の避退を思わせる話があり、妙見と百済がそのまま繋がるとも思えない事から、尚、すっきりしないのです。まず、故)百嶋由一郎先生からは“八代の上に九州王朝の泉地区があります”という話を聴いていました。“八代の上“という表現から八代の妙見宮の上流の地区を探していたのですが、そうではなく、”八代の北“の意味で、当然、氷川流域の旧小川町、旧宮原町といった一帯で、元々、「火の君」の本拠地だったとの話もある場所なのです。

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ここで面白いと思ったのは百済の聖明王の一族の亡命の話です。これについては、過去何度かご紹介していますが、有明海の対岸、佐賀県の現白石町(旧有明町)に稲佐神社(百済の王族が祀られている)があり、この地へ火の君の世話で亡命したという話が残されているのです。それと同様の話をここでも拾ったのですからその裏を取ったような話なのです。


                   稲佐(イナサ)神社


杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社です。        

稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3861)年824日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。

平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。
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八艘帆が崎(ハスポガサキ)佐賀県白石町稲佐神社の境内地の端に残る掲示板


 ここには県道錦江〜大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日 大嘗祭記念 稲佐文化財委員会)。
 これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。

百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。…以下省略。


八代のそれは妙見=北極星、北斗七星が信仰の対照でしたが、これも同種のものなのでしょう。一般的には旧八代郡の白木山神宮寺に鎮座した霊符神社が列島の最初のものとされていますので、これはその北への展開なのか、泉地名と火の君との関係からそれよりも遡るものなのかは今後の課題です。

私には「肥後国誌」以前が佐賀の久保泉に見えるのですが…。さてここから本稿を始めます。

太宰府地名研究会のメンバーには二人の宮原さんがおられます(また、熊本のメンバーにもお一人)。このお一人が橘一族の本流の後裔中の後裔であり、言わば橘一族の御本家の家系であることからその故地を探っていました。

それが熊本県の現氷川町(旧宮原町)であったことから「宮原誠一の神社見聞諜」の管理者である宮原誠一氏と二日間を掛けてこの一帯の神社20社余りを調査する事にしました。

氷川を挟む旧宮原町、旧小川町、旧竜北町のほぼ全ての神社を調査した事になりますが、泊地を八代市にした事から妙見神社と隣接する霊符神社にも足を延ばしました。かなり急な参道階段を上り詰めると霊符神社があります。済の聖明王の第三王子琳聖太子が伝えたのが霊符神である…とされていますが、間違いなく旧小川町の霊符神社と同様の祭祀であり、聖明王の一族を受入れたとされる火の君が如何なる人々であったのかまでも一気に垣間見えた思いがします。

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それは、肥前国、肥後国と間に筑紫国が貫入し言わば分断された二つの肥の国の支配者が、妙見宮に象徴される天御中主命=白山姫、白川伯王−豊玉彦=ヤタガラス−…遠く雲南省昆明から列島へと移動して来た白族(ペイツー)の後裔たる橘一族であった事、要するに火の君の一族とは熊本の白川という川の名までもを付した人々であり、恐らく阿蘇の熊野座神社の一族でもあること。

彼等は南朝方(宮方)として戦った事。さらに言えば、河童渡来伝承(キッパ族?)のある八代を考え、九千坊の筑後川の流域への移動(北上)が久留米の水天宮(本物の水天宮=天御中主命については宮原誠一研究が存在しますので、単に筑後川沿いの水天宮と考えない様に…)も無関係では無い事、奈良麻呂の変以降(島田丸が春日大社造営に際して何故河童を呼び寄せたのか…)の橘一族の没落と明治維新による復権など多くの事への解明の糸口が見えてきたのでした。してみると、この氷川流域の神社調査は重要過ぎるほど重要で、氷川流域一帯こそが九州王朝を支えた橘一族の元々の本願地であり、今後も絞り込んだ調査を進めたいと思うものです。

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霊符神社については、幾つかの先行ブログがありますので余裕のある方はネットから拾って下さい。

 もし、これが霊符神社であるとすれば、霊雨山神社は霊符神社である可能性が高いのです。

 REIUREIFUF音が付加されているだけですね。以下、 ウィキペディア20231117 12:56 を…


ハ行転呼(はぎょうてんこ)とは、日本語史における大きな音韻変化の一つで、語中・語尾のハ行音がワ行音へと変化した現象をいう。平安時代に起こり一般化した。このようにして成立したワ行音をハ行転呼音という。


 通説派は平安期以降と言うのですが、それは畿内こそが列島文化の中心と思い込み、主張したいだけの話で、恐らく、母音の重複は発音しにくいため子音を付加し滑らかに発音したいとの発音習慣が列島の玄関で発生しているのです。特に「稲佐」熊野坐神社の稲佐地名と佐賀県の杵島山の稲佐神社直下の掲示板を読まれたと思いますが、八代、小川、杵島についで百済系王族の亡命地が有明海沿岸に痕跡を留めている事は非常に面白い現象と思うのです。 ここでは霊雨山神社の方が原型を保っており、その後、呉音から漢音への移行が進むと、F音の転化によって霊符神社と社名を変えたのではないかと考えるのです。

 紙面が足らなくなりましたので、ここまでとします。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記