2024年05月01日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1001 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか? (上)

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1001 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか? (上)

20231115

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 玉名市の東部域に旧玉東町があります。

何故かこの地域の中心部に在るJR鹿児島線の駅が「このは」と言うのです。

 木葉山が聳え、木葉川が有明海に注ぐのですから、きっと相当古い背景を持っているのでしょう。

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JR木葉駅


熊本駅から西voice5番目の駅ですから20分ほどで熊本市街地に入られる言わば大都市近郊の地になるでしょう。このため、熊本市役所、熊本城周辺の交通渋滞を知る人が列車と路面電車(トラン)で目的地に向かう需要はあるのではないかと思うのです。

ただ、木葉(このは)という地名が古いものならばちょっと変わった印象を持つのです。

玉名は古代から国際貿易の拠点であったことが容易に推定できるだけに、もしそうだとすると少し想像の暴走が起きてしまうのでした。

旧玉東町は玉名市の東と言うだけのものでしょうからやはり「木の葉」地名の方が気になるのです。


玉名が「タマキナ」or「タマイナ」と呼ばれたと言う話は良く取り上げられるのですが、そのような誰でもが取り上げるような通説擬きの話は、どこぞの地名研究会か史談会に任せておけば良いのであって、我々、佃収九州王朝説や百嶋由一郎神社考古学、平野雅(日+廣)古代史研究にシンパシーを寄せる当会にはタマキナだったなどと言う話は興味の対象外になってしまいます。


『日本書紀』景行天皇18年の記事では、玉名は「玉杵名邑」(タマキナムラ)とよばれていました。平安時代の『和名抄』には「多萬伊名」(タマイナ)。太宰府天満宮の『天満宮託宣記』には「玉井名」の文字があります。このことから「タマキナ」から「タマイナ」に音が変化して、最終的に今の「タマナ」になったと思われます。                                 玉名市HP


しかし、“熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった!”などと言えば、愕かれる方はかなり増えるのではないかと思います。では、次をお読みください。

以下、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 265 熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった!

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これは「熊本県玉名郡誌」の一部で、「土車の里」(土車の荘)以降には、新幹線玉名駅正面の玉名大神宮、玉依姫(この玉依姫は鴨玉依姫か?)に関わる話が書かれています。

 では、「土車」とは一体何のことなのでしょうか?これも百嶋先生はご存じだったようでメモが残されていました。支那城の記事についても重要ですので次のブログで書く予定です。

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百嶋先生はどちらも黎族とされていますが、湖南省のこの地のトゥチャ(土家)族が多氏に随行して阿蘇グループ治下の玉名に入植した様です。…尚、玉名の古名はトゥチャ(土車の里)でした。と書かれています。…では、土車族(土舎、土家、土家族とも)をご紹介しましょう。勿論、阿蘇氏も黎族(猫族)。

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 実質800万人以上とも言うトゥチャを少数民族と言うかは疑問ですが、伝統的な衣装を着たトゥチャ族とミャオ族とペー族の女性(恐らく白い服を着たのが白=ペーツー=ペー族)。


トゥチャ族(中国語:土家族 ビジ語:ビジカ)は中華人民共和国が公認した55少数民族のひとつで、主に湖南省湖北省重慶直轄市(旧四川省)の交界地帯に住む。

人口約600万人、中国の民族の中で8番目多い。言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属する。長く漢族と交わって暮らしてきたため、現在ではトゥチャ語(ビジ語とモンズ語)を母語とする者は10万人未満程度とされ、ほとんどが中国語を母語としている。このように、民族の総人口と比較して母語人口が極端に少ない民族として、他に満州族(1000万人超えの民族であり、満州語を話せるのは5人以下)シェ族(総人口約80万人、シェ語を話せるのは1000人程度)が挙げられる。湖南省湘西土家族苗族自治州、湖北省恩施土家族苗族自治州が設置されている。なお、例えば、彝族の事を彝家などと呼ぶ事もある事から分かるように、「家」には「族」の意味も含まれている。そのため本来、土家でトゥチャ族の意味をなしており、これに族を加えるのは重複した表現である。しかし、西北に住むモンゴル系民族である土族と区別するためにも、重複した表現ではあるが土族ではなく、土家族を正式な民族名としている。

ウィキペディア(Wikipedia20160519 20:30による


 以下、ひぼろぎ逍遥(跡宮)265 熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった!


… 百嶋先生は「湖南省のこの地のトゥチャ族(土家族)が、多氏(阿蘇氏の事)に随行して、阿蘇グループ治下の玉名に入植したようです。尚、玉名の古名は、トゥチャ(土車の里)でした。」と書かれています。

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トゥチャ族は長い歴史をもつ民族で、その祖先は早くも2000年前から今の湖南省西部、湖北省西部一帯で生活し、その他の少数民族のように「武陵蛮」、「五渓蛮」と軽蔑されていた。宋代以後「土丁」、「土民」、「土兵」などと呼ばれた。漢民族の人たち多数移住してきてからは、「トゥチャ」が民族の称呼として現れた。トゥチャ族の人たちは自分たちのことを「ビツカ」と称し、「地元の人」という意味である。


 百嶋先生は玉名市の大地主家の御曹司でした。実際には戦後の農地解放で辛酸を甞める事になられたのですが、漢籍を諳んじ中国語を独学で学び、その中国だけでも400回飛行機に乗り8000万円は遣ったと言われているほどフィールド・ワークを重ねられた方だったからこそこの事実にも気付かれたのだと思います。漢族に最後まで抵抗を続けた誇り高き阿蘇氏や白族に加え土家もが海南島を経由し、列島に移動(亡命)して来たのです。では、最後に百嶋最終神代系譜の一部をご覧ください。

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右端の多氏が阿蘇氏ですが、赤○は阿蘇の草部吉見神=春日大神=海幸彦を、青○がヤタガラス、大幡主、天御中主を輩出した白族を意味しています。彼らが列島人の骨格を形成したのです。では土家は?

なお、研究のために百嶋神代系譜(全体で20種程度=現在は増えて90種)を希望する方は09062983254までご連絡下さい。…以上)

何故、ここで土舎族を取り上げたかと言うと、玉名が有明海でも水量が豊富な菊池川河口に位置する干潮時にも入られる天然の良港だったからと考えられるからです。


 もう一つの話に「多婆那国」とは玉名ではないかとして、韓国の学者までも調査に来ていたという話もあり、「三國史記」卷第一 新羅本紀 脱解尼師の「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」…と言われているのです。

ただ、「タマナ」と「タバナ」は呉音と漢音の対抗現象が反映されており、目を「つむる」というか「つぶる」と言うか、帽子を「かむる」というか「かぶる」と言うか…など同義異音の例(M音、B音の対抗現象)が列島語の中に大量に存在しているのです。

この延長上につまり倭国人が新羅の王族だったという話で、それが新羅王族となるのです。

これもスサノウが新羅の王子様だったという話にまでなりかねない話で、まさしく玉名が国際貿易都市だった証左とも言えるのです。

 こういった話は結局決定的証拠に乏しく、そこから派生した多くの事実を帰納演繹的補強で証明するしかないのです。勿論、誰もやっていないのですが。ここでは玉名がそういった国際的な都市だった事を理解して頂ければ、何故、玉名の奥に江田船山古墳が存在するかも推定できてくるはずなのです。

 その延長上に玉名の伊倉にポルトガル宣教師どもの寄港地も存在したのです。彼らルイス・アルメイダ、ルイス・フロイスといった、奴隷貿易をやらかすイエズス会の侵略者どもが九重を越え大分の府内に陸路で移動していた事もあったのです。

 まあ、だいぶ前振りの話が長くなりましたのでそろそろ「このは」に入らなければなりません。

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古代の玉名、伊倉、木葉を考えながら、菊池川左岸を見る時大量の耕作地が存在することに気付きます。

 これらは菊池川が運んだ土砂が運搬堆積によることは一目で、伊倉がポルトガル船の船食、飲料水を伊倉の崖下の井戸から得ていた事は伝え聴くところですが、さらに遡る事一千年、想像できますが、紀元前後の海岸線を想像する時、安楽寺から木葉山の麓辺りまでは満潮時の静かな内湾、船溜りだったはずで、木の葉こそ当時のウォーター・フロントだったと思えるのです。船島など船溜りの名残かも知れません。

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木の葉のイメージが湧いてくると、漸くして次のイメージが湧いてきたのです。これは後でお話します。

 この地も多くの横穴墓が拾え、古くは大陸でも揚子江流域の人々が入っている様にも見えるのでした。

 さて、これから「熊本県神社誌」から木の葉がどのような土地であるかを考えて見ましょう。

 見難いと思いますのでページは改めますが、「熊本県神社誌」は記述の絶対量が少なく、祭神も主神+2随神といった程度の簡素な内容となっています。

このため、摂社、分社、末社…についても現場で確認する必要があり、そのままでは使い物にならないと言わざるを得ないのです。

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従って、現場を踏んで、全24社を見た上で尚間違いないと考えられる部分だけが正しいのではないかと思っています。

 木の葉の神社調査に入ったのは天子宮調査の関連でざっと見て回った15年ほど前の事でしたが、その当時はまだまだ駆け出しで、“奇妙な地域だなあ…”と言った感想を持っただけでした。

 それは今も同様です。実際、熊本県と言えば阿蘇神社だけが存在すると思い込んでおられる方が多いのです。ところが、実際は全く違うのです。

 神社誌の2829pの集計を見れば、県3237社中、阿蘇系と言えるのは僅か294社で、菅原神社(天満)が1012社となっているのです。

 この菅原神社を道真公と考えられるのはご自由ですが、そもそも9世紀の菅公を神様と考える方はおられないでしょう。

勿論、藤原が4人もの親族を失ったとして祟りを鎮めるために道真を祀れと新たに作られた神社もあるのですが、それとは別に、菅公のご先祖(父方のヤタガラス系と母方の金山彦の孫であるナガスネヒコ系)が隠されているはずなのです。それが熊本の大量の菅原神社の中に埋没し命脈を保っているはずなのです。

この金山彦系は秦の始皇帝(イスラエル系)との姻戚関係を結んだ元々イスラエル系の人々なのです。

 実際、木の葉でもこの傾向は顕著で、阿蘇系は24社中でも2社しかないのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2024年05月03日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1002 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか?(中)木の葉の天子宮

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1002 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか?(中)木の葉の天子宮

20231115

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回、玉名市玉東町木の葉にルーツをお持ちの方が当会の活動に参加して頂く事になりましたので、この際中途半端に終わった同地の神社調査をやろうかと思うようになりました。

 そこで、1123日に二人で木の葉の神社を見て回ろうと思うに至りました。

 当時、リポートを書いていたのは木の葉の天子宮だけでしたので、この際、旧ひぼろぎ逍遥069 をお読み頂いても良いかなあと思い、ノスタルジックな思いだけでご紹介しておきます。

10年前はこの程度のただの探訪記でしかなかったのです。


069 玉名市玉東町木葉に新たな天子宮を発見した! 久留米地名研究会 古川 清久 20140506


天子宮、天子社、天子神社と呼ばれる謎の神社、奇妙な祠が、かなりの分布を示しています。

恐らくその分布は、九州ばかりか中京、関東地方、東北地方まで広がっているようです。

これまで、十年近くを費やし天子宮調査を行ってきましたが、現地確認への困難性から関西以西に調査を限定してきました。

将来、東日本の調査に踏み込むときが来るとは思いますが、今のところ、関西以東に関してはネット検索に留めています。

これについては、文字データだけでしたが、60本近くを古田史学の会の会報に掲載、従ってその一部を今でもネット上に見ることができるのですが、必要な画像も出ないことから今は掲載を中断しています。

いずれ、全編(全体で123本)を画像付きで配信したいと考えています。

このため、京都、岡山、但馬を含め調査を行ってきた123本で、一旦は作業を終了していました。

ところが、その後も新たな天子宮を発見したことから、昨年秋もリポートを加え、今回も追加リポートを書くことにしたものです。

と、言っても、ここでは、写真を紹介し、場所をお知らせするだけに留めます。

それは、天子宮に関しては神社関係の資料が乏しいと言うよりも、ほぼ、存在せず、現在のところ、分布の全体像を把握し、周辺の実調によって、逆に、真実に迫るしか無いのが実情だからです。

ただ、熊本県玉名地方も天子宮が集中している場所です。「肥後国誌」にも分布が集中していたことが記録されており、今回発見したものもその一部であることは疑いようがありません。

文献で確認できていたものが、現存していたことに気付いたものであり、それが、現状を紹介するに留める理由でもあるのです。

「肥後国誌」によれば、天子宮が数十社近く存在していたということについては、初期の天子宮リポート「伊倉」“天子宮は誰を祀るか?”で書いていますが、現存する天子宮、元は天子宮と呼ばれていたものは、今も、伊倉周辺(JR鹿児島本線肥後伊倉駅周辺)に数社確認できます。

今回の神社は、東町の木葉小学校付近に新たに発見したもので、付近の集落で今も管理され、年に一度お祭りが行われているようです。

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社殿こそ簡素ですが、住宅地にも近く、付近は半ば公園化されており、非常に清潔な雰囲気です。

この一帯は、加藤清正による、菊池川の流路の変更や横島干拓が行われる以前は、かなり近くまで海が入り込んでいたと思われる一帯で最も奥に位置する、当時の一等地のような場所だったようです。

それを示すかのように、今も付近には採石場の跡地が確認でき、当時は、船で石材が運ばれていたことから、船着き場も在ったことが想像できる場所であり、古代の汀線に沿って、北西に進めば、旧菊水町を経由して山鹿に入る交通の要衝でもあったような場所でもあるのです。

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参拝殿には真新しい榊が備えてあり、管理が絶えておらず、ここに古くから住み着いている人々が、菅原系の人々であることが分かるようです。

少し西の小田地区の手前には安楽寺という地名が残っており、安楽寺が太宰府天満宮の神宮寺であったことから、この地に、安楽寺系統の荘園、後の安楽寺領が存在していたことが推定でき、そのことからも地域の性格が多少とも理解できます。実は、この安楽寺領こそ、天子宮が最も集中した所であることは、「伊倉」のNO.3辺りをお読み頂ければ分かると思います。

また、直ぐ西側の集落には、熊野坐熊野神社があるなど、通常言われるところの出雲系集落があり、阿蘇氏や菊池氏や疋氏が跋扈していた場所ではない事だけは直ぐに推察できました。 

当初、天子宮は九州古代史の会におられた荒金卓也氏の説(倭王武/多利思北孤=日出る国の天子)に沿いその検証を行うために調査を行っていましたが、現在はそうではなく九州王朝の傘下に入ったヘブライ系先住者集団の奉斎する神ではないかと考えるように変わりました。

関心を持たれる方は「伊倉」“天子宮は誰を祀るか?”をネット上で検索してください。

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まだ紙面がありますのでここで木の葉=玉東町の神社を概観します。

熊本県神社誌に搭載されていない神社が在る事もご確認ください。

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上の地図を別に切り出したのには一つの理由があります。

 それは、稲佐熊野神社の「稲佐」という地名と霊雨神社には関係があるのではないかと言う事に気付いたからでした。

505 火の君の本体が見えた 熊本県八代市の霊符神社と小川町の霊符神社 20171207

以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)465 熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見 に於いて火の君の中心地がこの地であり、「泉」地名も確認できるとしました。以下、一部を引用。

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これもその一つですが、「霊符神社」という奇妙な名の神社があるのです。結論から言えば八代の妙見神社の北上を考えれば符合するのですが、ここには百済の正統王族の避退を思わせる話があり、妙見と百済がそのまま繋がるとも思えない事から、尚、すっきりしないのです。まず、故)百嶋由一郎先生からは“八代の上に九州王朝の泉地区があります”という話を聴いていました。“八代の上“という表現から八代の妙見宮の上流の地区を探していたのですが、そうではなく、”八代の北“の意味で、当然、氷川流域の旧小川町、旧宮原町といった一帯で、元々、「火の君」の本拠地だったとの話もある場所なのです。

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ここで面白いと思ったのは百済の聖明王の一族の亡命の話です。これについては、過去何度かご紹介していますが、有明海の対岸、佐賀県の現白石町(旧有明町)に稲佐神社(百済の王族が祀られている)があり、この地へ火の君の世話で亡命したという話が残されているのです。それと同様の話をここでも拾ったのですからその裏を取ったような話なのです。


                   稲佐(イナサ)神社


杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社です。        

稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3861)年824日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。

平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。
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八艘帆が崎(ハスポガサキ)佐賀県白石町稲佐神社の境内地の端に残る掲示板


 ここには県道錦江〜大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日 大嘗祭記念 稲佐文化財委員会)。
 これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。

百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。…以下省略。


八代のそれは妙見=北極星、北斗七星が信仰の対照でしたが、これも同種のものなのでしょう。一般的には旧八代郡の白木山神宮寺に鎮座した霊符神社が列島の最初のものとされていますので、これはその北への展開なのか、泉地名と火の君との関係からそれよりも遡るものなのかは今後の課題です。

私には「肥後国誌」以前が佐賀の久保泉に見えるのですが…。さてここから本稿を始めます。

太宰府地名研究会のメンバーには二人の宮原さんがおられます(また、熊本のメンバーにもお一人)。このお一人が橘一族の本流の後裔中の後裔であり、言わば橘一族の御本家の家系であることからその故地を探っていました。

それが熊本県の現氷川町(旧宮原町)であったことから「宮原誠一の神社見聞諜」の管理者である宮原誠一氏と二日間を掛けてこの一帯の神社20社余りを調査する事にしました。

氷川を挟む旧宮原町、旧小川町、旧竜北町のほぼ全ての神社を調査した事になりますが、泊地を八代市にした事から妙見神社と隣接する霊符神社にも足を延ばしました。かなり急な参道階段を上り詰めると霊符神社があります。済の聖明王の第三王子琳聖太子が伝えたのが霊符神である…とされていますが、間違いなく旧小川町の霊符神社と同様の祭祀であり、聖明王の一族を受入れたとされる火の君が如何なる人々であったのかまでも一気に垣間見えた思いがします。

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それは、肥前国、肥後国と間に筑紫国が貫入し言わば分断された二つの肥の国の支配者が、妙見宮に象徴される天御中主命=白山姫、白川伯王−豊玉彦=ヤタガラス−…遠く雲南省昆明から列島へと移動して来た白族(ペイツー)の後裔たる橘一族であった事、要するに火の君の一族とは熊本の白川という川の名までもを付した人々であり、恐らく阿蘇の熊野座神社の一族でもあること。

彼等は南朝方(宮方)として戦った事。さらに言えば、河童渡来伝承(キッパ族?)のある八代を考え、九千坊の筑後川の流域への移動(北上)が久留米の水天宮(本物の水天宮=天御中主命については宮原誠一研究が存在しますので、単に筑後川沿いの水天宮と考えない様に…)も無関係では無い事、奈良麻呂の変以降(島田丸が春日大社造営に際して何故河童を呼び寄せたのか…)の橘一族の没落と明治維新による復権など多くの事への解明の糸口が見えてきたのでした。してみると、この氷川流域の神社調査は重要過ぎるほど重要で、氷川流域一帯こそが九州王朝を支えた橘一族の元々の本願地であり、今後も絞り込んだ調査を進めたいと思うものです。

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霊符神社については、幾つかの先行ブログがありますので余裕のある方はネットから拾って下さい。

 もし、これが霊符神社であるとすれば、霊雨山神社は霊符神社である可能性が高いのです。

 REIUREIFUF音が付加されているだけですね。以下、 ウィキペディア20231117 12:56 を…


ハ行転呼(はぎょうてんこ)とは、日本語史における大きな音韻変化の一つで、語中・語尾のハ行音がワ行音へと変化した現象をいう。平安時代に起こり一般化した。このようにして成立したワ行音をハ行転呼音という。


 通説派は平安期以降と言うのですが、それは畿内こそが列島文化の中心と思い込み、主張したいだけの話で、恐らく、母音の重複は発音しにくいため子音を付加し滑らかに発音したいとの発音習慣が列島の玄関で発生しているのです。特に「稲佐」熊野坐神社の稲佐地名と佐賀県の杵島山の稲佐神社直下の掲示板を読まれたと思いますが、八代、小川、杵島についで百済系王族の亡命地が有明海沿岸に痕跡を留めている事は非常に面白い現象と思うのです。 ここでは霊雨山神社の方が原型を保っており、その後、呉音から漢音への移行が進むと、F音の転化によって霊符神社と社名を変えたのではないかと考えるのです。

 紙面が足らなくなりましたので、ここまでとします。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2024年05月06日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1003 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか?(下)木の葉の基層を考える

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1003 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか?(下)木の葉の基層を考える

20231117

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


グーグル・マップの図表で熊本県玉東町(木の葉)の神社を再掲しています(町外の神社も表示されていますのでご注意を)。

これを「熊本県神社誌」搭載の神社と突き合わせると、霊雨山神社(霊雨、霊符はハ行転呼音?)、天子宮…が搭載されていない事は明らかです。その理由は分かりません。新興宗教では全くなく、神社誌以降の祭祀ではない事は明らかですので内部に温存されていたものかも知れません。

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木の葉の町境を好い加減に入れていますが、木の葉の西側、古代の菊池川と有明海との邂逅部(河口)の船溜まりと思われる場所がヤタガラスの領域でその範囲は木の葉ではなく、博多の櫛田宮の一族が、展開した港湾だったはずなのです。

梅林天満宮、出雲神社、熊野坐神社…が展開しています。

梅林天満宮も道真公の父方の流れを汲む天満宮のはずです。

 一方、木の葉の東側が現熊本市の旧植木町の池王宮などになるのです。池王とは余り聞かないものですが(愛媛の佐田岬に関連するものがあります)、多分菅公の父方のご先祖(ヤタガラス)を祀る神社ではないかと考えています。

 次に神社誌から木の葉を考えて見ましょう。

 既に、神社誌の2829pの集計を見れば、県3237社中、阿蘇系と言えるのは僅か294社で、菅原神社(天満)が1012社となっていることはおつたえしました。

 そこで、その事だけからでも、古代の熊本がとんでもない国だった事が見えてくるのです。

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まず、菅公が多い事は直ぐに分かります。肥後に多い阿蘇系はと言うと、応神を持ち込んだのは草部吉見(中央に進出した阿蘇氏=多氏=宇治氏…後の藤原一族)ですので、山北八幡宮は、実質、阿蘇系と言えるでしょう。宇都宮神社も同様です。ただ、彼らは畿内で権力を握って以降、伊倉や木の葉、玉名の重要度を認識し、後の支配者となったと思われます。

 もう一つ、年神社も大歳神=草部吉見=ヒコヤイミミですので、東に進出した阿蘇氏で良いでしょう。

 すると、この4社を除けば、木の葉の古代が浮かび上ってくるのです。

 冒頭の白山比唐ヘ八代の妙見宮の天御中主命の事ですので、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神の叔叔母となります。

 熊野坐神社が2社ありますが、忌部の神々=熊野本宮、熊野那智、熊野速玉となりますが、天御中主命〜カミムスビの造化三神の二神でこの一連の神々でしかないのです。

最後尾の天水分神も普通は天御中主命かも知れません(大山祗系のミヅハノメも水分神ですが同地には大山祗系がないため違うと思います)。

 最後に、神社誌も不詳としている畑神社ですが、大根が神様ではないはずで、秦氏を祀るもので良いでしょう。秦の始皇帝の一族が滅亡を機に列島に移動したのが秦氏ですのでその一派がこの地にも展開しているのです。

 稲荷神社は宇気母智神で伊勢の外宮様と同体である事をはっきりと描いています。

 菅原道真公はナガスネヒコの後裔の本家である「伴の女」とヤタガラス=カミムスビの跡継ぎの本家同志の婚姻によって成立しているため、阿蘇系の数社を除けば、全てカミムスビ系とナガスネヒコ系(菅公を表に出しナガスネヒコ系を引っ込めている)の神しかいない地域である事が分かるのです。

 そしてそのシンボルが天子宮、霊雨神社、畑神社とすれば木の葉の特異な性格と言えるでしょう。

 秦の始皇帝がイスラエル系であるとの説は常識に近いところですが、始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の娘=櫛稲田姫がスサノウの間に生まれたのがナガスネヒコですね。すると、菅原神社はその系統に道真の覆いが掛けられている訳で、それに加えてスサノウ系も新羅の王子様で、白木地区があるとすれば木の葉とはそういったイスラエル系の居留地だった様に見えるのです。それが木の葉の印象なのです。

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木の葉の隣の下小田に育った百嶋由一郎が残した最後の神代系譜を半切りで最大に拡大したものです


90枚の神代系譜DVD、講演録音声CD30時間、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで


 そもそも私が神社調査に踏み込んだ理由は九州王朝説を現場で裏どりする作業の一環から「天子宮」調査に踏み込み、125本ほどの短いブログを書き、一部は本ブログなどにも書いていますが、まだ神社研究の駆け出しも駆け出しだったため半分近くを公開し、後半は未公開に留めています。

 ただ、誰もやっていない領域だけにそのうち公開しようとは思っていますが、現在の活動を優先させているため時間が廻せないでいます。

 木の葉の南の小天町、玉名市伊倉があります。この地域も天子神社、天子宮が密集した地区で、この一帯を含めた全域がヘブライ系の人々が住み着いていると言えるのです。

 古田武彦の影響を受けた九州古代史の会の指導部の一人だった荒金氏が天子宮をアメノタリシホコとして著書に書かれていましたし、それに基づいて、実際にはそれを西日本全域に広げて調査したのが私の125本天子宮調査でしたが、タリシヒコ説は誤りで、途中で百嶋由一郎が言っていたモーゼ説が正しいと気づき、天子宮調査に意味を失ったと言うところが正直なところです。

 従って、この三地域を加え、球磨川流域そして人吉盆地全域、山鹿市までがこの勢力下に在った事が見えてきたのでした。稚拙な天子宮調査でしたが、百嶋由一郎氏の神社調査の素晴らしさに今更ながら感銘しています。

 今回、当会の活動に加わっていただいた方の出身地が木の葉だったため久しぶりに調査に乗り出したのですが、漸く全貌が見えてきましたが、一般には受け入れては頂けないと考えています。

 このため、現段階では二つほどの仮説を提出しておきたいと考えています。

 どう見ても、木の葉と言うのは地名としては一般的ではなく、他地域にも存在しない孤立した地名です。

 ただ、ここに来て一つの考えが浮かんできました。木の葉の木とは胡人の「胡」ではないか、つまり胡人の住み着いた居留地だったのではないかと言う仮説です。

 そして悪質なイエズス会のポルトガル宣教師もその事に気付いていたはずで、伊倉に上陸した宣教師達も阿蘇越えで、竹田市を経由し大分市の七瀬を経由し大伴宗麟の府内に移動していたのです。

そして、その地にも中国の超の領域の邯鄲(カンタン)=シルクロードの終着点から移動してきた人々が住み着いた土地にも似て、九州の東と西に胡人の住み着いた土地ができていたのです。

菅公を祀る神社が集中する玉名の東部域とはそのような胡人の地であり、当の菅原道真公も太宰府への都落ちと藤原氏による暗殺…を避け別府と大分の境の邯鄲辺りに潜行していたのです。

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邯鄲市は、中華人民共和国河北省南部に位置する地級市。京広線の沿線にあり、石炭業のほかセメント製造、鉄鋼業、紡績業、電子産業などが盛んであり、その交通の便から工業全体が伸びている。 戦国時代の趙の首府であり、日本ではとりわけ「邯鄲の夢」「邯鄲の歩み」の故事によって有名である。


ウィキペディア 20231118 10:34 による


大分市の邯鄲

274 大分市の「邯鄲」(カンタン)地名とは何か?

20160710

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回は地名の話をします。大分市に「かんたん」という奇妙な地名があります。

 大分から別府市に移動する時、一番込み合う所をようやく抜けた辺りですが、臨海道路と国道10号線が合流し別大国道に入って直ぐの所にあるのが問題の「かんたん」地区です。

漢字表記では「邯鄲」と書かれますが、一般的には“別府湾の昔の呼び名「邯鄲湾」から呼び習わされている”といったある種曖昧で中途半端な説明で済まされているようです。

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この事についても百嶋先生は菅原道真逃避行の件で話しておられましたが、要は中国の邯鄲からの移住者が住み着いていた地といった事でした。

 邯鄲それ自体は鈴虫だかこおろぎだかの蟲の名らしいのですが、中国のど真ん中の湖北省に邯鄲市があるのです。


邯鄲市(かんたんし)は、中華人民共和国河北省南部に位置する地級市。京広線の沿線にあり、石炭業のほかセメント製造、鉄鋼業、紡績業、電子産業などが盛んであり、その交通の便から工業全体が伸びている。

戦国時代の趙の首府であり、日本ではとりわけ「邯鄲の夢」「邯鄲の歩み」の故事によって有名である。

ウィキペディア(20160710 19:00による


 邯鄲市は、中国沿岸部に位置する河北省南部の都市です。 
 中国・戦国時代には趙の首府が置かれたことから、中国の古都として広く知られているほか、秦の始皇帝の出身地でもあり、歴史・文化遺産の豊富なまちでもあります。こうした歴史に根ざした邯鄲市には、この地にちなんだ故事成語が今にも多く伝えられ、とりわけ「邯鄲の夢」は日本人にも馴染みの深い故事として有名です。 
 近年は、石炭・鉄鉱石などの豊富な地下資源を生かし、石炭業やセメント製造、鉄鋼業などを中心とした工業都市として発展をしています。

人口・面積約1012万人 12,000平方キロメートル                大垣市のHPより

そういえば遊郭のある港町といった話は聴いたことがありました。


邯鄲(かんたん)遊郭

かつてこの地は風光明媚で知られ,明治十七年(1884)にここに港が開かれてからはいっそうにぎわいを見せたという。

今わずかに残る建物によって,当時の邯鄲遊郭のにぎわいを偲ぶことができる。

大分市の遊郭は大分港の西岸にあった。『全国遊郭案内』(昭和5年)によれば下記の通り。

大分港遊郭は大分県大分市大分港町に在って、日豊本線西大分で下車すれば西北約5丁、電車は「かんたん」に下車すれば宜しい。大分市は九州東海岸唯一の市で県庁の所在地、元大友氏の城下町で、城址は今県庁、水産試験場、女学校等に成っている。檜物細工は此処の特産物に成って居る。港町からは笠結島が見えて景色は殊によい。遊郭には貸座敷が22軒あって、娼妓は190人居る。

この地は現在、生石港町という地名で、おそらく港整備のために埋め立てた土地なのであろう。整然とした町割で、海に向かう目抜き通りに面して大店が軒を連ねている。建物外観は全て伝統様式であるが、戦後赤として営業したため1階玄関周りはモザイクタイルの張られた洋風に設えている。今や空き地になった敷地も目立ってきているが、これだけ残っていれば町並みとしての評価は高い。

参考文献 「赤線跡を歩く2」木村聡 自由国民社

blog「閑居六尺」より

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「邯鄲」についてのイメージをお持ちでない方も多いと思いますので、2006年の日中韓合作映画「墨攻」(酒見賢氏の歴史小説、それを原作とした森秀樹氏による歴史漫画がベース)にも邯鄲が出て来ましたのでもしかしたら覚えておられる方もおられるかも知れません。また、森秀樹氏による漫画では、虫を使った秦軍によって落とされた邯鄲城から、司路によって助けられた革離たちが理想郷を求め東へと出発する話があり、むしろこちらを読まれた方が邯鄲をよりご存じではないでしょうか?

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2000年前の戦乱の中国を描いた同名の人気コミックを映画化した歴史スペクタクル。10万の敵に囲まれた落城寸前の小国の城が、平和のために戦うという目的で助っ人にやって来た1人の“墨家”に救われる伝説の戦を壮大なスケールで描く。…中略…

ストーリー:紀元前370年頃、巷淹中(アン・ソンギ)率いる趙の10万の大軍が住民わずか4千人の梁城に攻め入ろうとしていた。梁王(ワン・チーウェン)は墨家に援軍を頼んでいたが時間切れで、降伏しようとした時に墨家の革離(アンディ・ラウ)という男がたった1人で城に到着する。彼は1本の矢で趙軍の先遣隊を退けてしまい……。

より


いずれにせよ、中国の春秋戦国時代、燕、趙、魏、秦、韓、斉、楚の七国の狭間で翻弄された邯鄲から、また、その後も続く政治変動の度に多くの民が列島を目指し辿り着いたことを思わずにはいられないのです。

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図面は『大陸西遊記』ホーム 無題.png より 下も邯鄲市

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いずれにせよ、大分市に「邯鄲」と書き「カンタン」と呼ばれる地名が存在している事は事実です。

 ただし、「地名」には戸籍がないことからいつ成立した地名なのか、その背景がどうであったのかも分かりません。かつては、別府湾も邯鄲(カンタン)湾と呼ばれた時代があったのです。

 ただ、河北省邯鄲は西域から胡人(ソグド人、後にペルシャ)の文化が入ったと言われています。

この点、百嶋先生が話されていた事ですが、菅原道真逃避行を受入れたのがこの邯鄲の人々であり、

彼らの先祖は遠く中国の邯鄲から逃れてきた人だったと言うのです。

 道真が大幡主の子であるヤタガラスの本家筋とスサノウの子ナガスネヒコの一族の本家筋の流れを汲む人であった事を知ると、奇妙な付合を感じてしまうのです。 先生の頭の中では、新羅の王子様のであるスサノウも遠くペルシャのスーサから東に移動した一族だったからです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記