2024年04月01日

1001 2024年を前にして太宰府地名研究会を振り返る ❶

1001 2024年を前にして太宰府地名研究会を振り返る 

20231110

太宰府地名研究会 古川 清久


 思えば太宰府地名研究会の前身となる研究会が久留米で産声を上げたのは2007年の秋から暮れにかけての頃でした。今から16年も前の事になります。

当時は、高良大社直下の名刹=古刹の名も高い御井寺で20人足らずで活動を開始したのでした。

 切っ掛けは谷川健一の久留米大学講演でした。

 当日は会場の大講義室に170人を超える参加がありました。それに気を良くした訳ではないでしょうが(当然予定だったのでしょう)、講演終了後に谷川健一が“久留米地名研究会を作りましょう”と呼び掛けたのです。

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結果、終了後に20人程度の人が残り地名研究会設立の会合が行われたのです。10人は谷川の本拠地の熊本からの子飼いの外人部隊でしたので、正味は10人或る無しで、そのまた半数は後に久留米地名研究会の中枢を占める人々だったのです。

 そこで、古田史学の会、九州〇代史の会…といった九州王朝説のメンバーに誘いを掛け、谷川健一系の地名研究会(全国的にもこの名称を使うのは谷川健一系の組織のはずです…とは言っても、当時でも新規の若い世代の参加が無い上に、今や当の谷川健一も鬼籍に移っているのですから、そのエピゴーネンも今や高齢化によって参加者も激減し、組織的にも消失に進みつつあるはずなのです)、そうした中、いち早く地名研究会を設立し、それなりのメンバーが維持できれば、多少とも九州王朝説を浸透できるはずとの思惑から急いで会合を重ね自前での地名研究会と言う名称の独自組織を始動したのでした。

活動開始間もない当会は、数年後の古田武彦久留米大学講演(160人参加)終了後の、古田武彦連続講演(夜9時過ぎまで)を地名研究会として行ったのですが、夜10時まで560人の講演会を行ったのでした。

 こうして、谷川健一講演から一年後の二度目の講演で発会式を行おうと考えていた久留米大学の民俗学系の数名の教授連は既に活動を開始していた私達の組織が邪魔になったのか、熊本地名研究会から会の活動をやめろとか、会を解散せよと言った妨害が行われたのでした。

 こちらとしてはいち早く活動を開始して排他的な研究会を目指すつもりもなかったのですが、既に、九州王朝説に対しては、通説派からも一定の距離を取っていた独立系の谷川系に対しては、決定的で深刻な対立へと向かっていたのでした。

 この事は、後に裁判闘争にさえ進んだ「東日流外三郡誌」問題に於いて、安本○○が後に学問上の対立を裁判にまで移して反古田武彦キャンペーンを行い、その筆頭に谷川健一が担がれた事は今から思えば象徴的でさえあったのです。

 この安本を中心とする反古田の思いを込めた組織が全国邪馬台国シンポジウムであり、邪馬台国候補地は全国には百ケ所近くありますのでシンポジウムは今後も続くそうです。

 これも何処からか金を引き出しそれに肖ろうとする官製文化運動でありその延長上に古代史の探求などできるはずも無いのです。

 現在では、その大型の町興し村興し果ては世界遺産登録などと言った日本の歴史も文化も知らない連中に決定権を渡す腐敗し売国的な管制文化運動が継続されているのです。

 こんなものが古代の真実を発掘してくれるはずも無く、通説派による文化面での腐敗した公共事業が派手に浸透しつつあるのです。

 話が逸れましたので戻しますが、当会はその後順調にメンバーを増やし、熊本と太宰府にサテライト研究会を生み出し、そのうち、佃収氏を支える現和水町の菊水史談会との提携を進めるなど通説派からは遥かに外れた特異な研究会と変化を成して行き現在の特異な存在を持つ研究会となっています。

 その間にも色々な事がありました。

 最も大きかったのは宮地嶽神社と当会が組んで行った2014年の古田武彦講演+筑紫舞(宮地嶽神社)奉納で、全国の古田史学の会系の組織に働きかけ800人が集まりました。

 これについては古田先生の年齢を考えると九州講演は最後になるだろうと全国から九州王朝説に心を寄せる人々が集まったもので、宮地嶽神社が継承する幻の九州王朝宮廷舞とそれを歴史の表舞台に引き上げた古田武彦氏のカップリングであり、良くも集まったものだなあと今更ながら思うものです。

 事実、その後古田先生は九州を踏まれることなく一年ほどで鬼籍へと移られました(20151014日)。

 現在、私達の中枢部は、佃収九州王朝論(現在、年三回の予定で講演会を実施)、百嶋神社考古学、米田良三…を軸に研鑽を加えていますが、九州王朝説の影響を強く受けており、古田武彦氏の一生を掛けた通説に媚びない姿勢と業績は今後とも大切にしたいと考えています。

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古田先生が亡くなられてからも後二年足らずで十年になるのですが、古田武彦九州王朝論だけが九州王朝研究の全てであると考えそれを支える具体的な団体を考えると、これは今や風前の灯火となっているように見えるのです。

 事実、古田武彦の死去から数年でその最大の支持基盤であった古田史学の会にかなり深刻な亀裂が走りました。具体的には四国の組織の離脱であり、さらにかなり前から独立した傾向を示していた愛知〜東海のグループがかなり独立した動きを見せていると聴き及んでいます(ただ、それ自体が許されないと言うつもりも毛頭ありません)。

 関東圏については東京古田会と言う古田武彦の直系のグループと、古田武彦ファン・クラブと言った多元の会という少し緩やかな団体がありますが、昨今の古代史研究の全ての団体に見られる傾向ですが、新規の後継者がどんどん入会すると言う状況には無く高齢化による縮小は如何ともし難い状況にあるようです。

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九州王朝研究の本拠地と言うべき九州ではどうかと言えば、古田武彦氏との路線対立とまで言えるかどうかは別として、独自の組織として活動を続けていた九州〇代史の会と言う団体があります。

 私も数年間籍を置いており、10数名の購読者=会員を送り込んだこともあったのですが、私自身がこの団体に幻滅し離脱して以降聴こえてくる話以外興味も無くなっているのですが、兼川、荒金…と言う数名の優秀な研究者が高齢化や家庭的な自事情もあり研究体制を失い、一時期は古田史学の会さえも進んだ九州王朝論を打ち立てる!とまで息巻いた時期もあったのですが、今や、九州王朝論の敵でしかない通説派の学芸員とか教育委員会研究者を呼んでご説を拝聴し賛辞を贈ると言う体たらくを示しているのです。

 それこそ九州王朝説の全否定であって我々から言わせれば古田武彦の爪の垢でも煎じて飲めと言いたくなるほどの無様な状況に陥っているのです。

 正しく九州王朝論者とはその程度の者でしかないと通説派の連中に嘲笑されるのが落ちで恥を知れと悲しい愚痴を言いたくもなるのです。しかし、最早救済は完全に不可能でしょう。

 そもそも「九州王朝」という概念それ自体は古田武彦が50年も前に「失われた九州王朝」という三部作の二番目で提案したもので、その意味では提案者が消えれば自ずと縮小から消失へと向かうのはある意味で権利とまでは言えるかも知れません。

その点、官費で賄われる通説とは異なり、民間研究団体によってのみ支えられていた九州王朝説がそのまま活況を呈し続ける訳も無く、長期的にはいずれ衰退する事は仕方がないとは言えるでしょう。

私達はその高みを最大減持ち越し、多少とも新たな発見と新研究を加え、その記録を後世に伝えたいと願い活動を継続したいと思うものです。

 一方、当会の歴史の中でも「地名研究会」と言う名称で活動していた事の弊害が現れた事がありました。

 これは熊本県でも玉名、山鹿、菊池という領域を対象にサテライト研究会を作ったのですが、九州王朝論が殆ど浸透していない領域で活動を開始したこともあり、最初から最後まで九州王朝論を知っていた、若しくはその関連図書を読んでいた方はほんの僅かしかおられず、やはり、肥後で九州王朝論を普及させることは殆ど不可能と考えていた事がありました。

 この会に発会段階から潜り込んでいた一人にK県K市K八幡宮の宮司が居られました。

 当時から気にしていたのですが、宮司と言う家業を背負っているから致し方無くある種可哀そうではあるのですが、6年ほど前に、久留米の組織を含めて分離し、学芸員、教育委員会関係者と言った通説派の内容を持ち込み切り取ろうとする動きが出てきました。

 つまり、宮司と言う家業は地方権力と近隣文化に縛られている事から、本性を現し、地方権力に尾を振り、民間研究団体を率いていますと主張したかったのだと思うのです。

 こいつは、出版はおろかブログも書かず、講演するとしてもコピペの資料は出すも自らの文章も書けず、要は研究会を仕切り、教育委員会に自分を売り込みたいだけの安本○○のような輩だったのです。

 この形振り構わぬさもしさ、浅ましさにも驚いたのですが、こう言った輩は使命感も探求心も無いため、何れは消え去るだろうと考えていました。結果は正しくその通りでした。中国発の武漢肺炎ウイルス萬延期の4年間の活動期に太宰府地名研究会は小規模でも月例の集会や神社トレッキングは継続しその間活動を休止し停止していた連中は今や牽引する力を失い休会状態に陥っている様です。

 既に、太宰府地名研究会を得ていましたので、この傾向から九州王朝研究を残すために、この傾向と一部の人々と分離する必要が生じました。

 その意味では、一時的に太宰府地名研究会に避退し、新たな組織の再建に向かわざるを得なかったのです。

 分離から数年、武漢肺炎ウイルス期の数年を経る中でも活動を継続した私達は、新たな組織と提携を重ね、事実上、分裂後の失地を回復し、新たな展開を見せるところまで辿り着きました。

 今、顧みて見渡せば、当会のメンバーの多くは、職務上止むを得ず強いられた方以外はワクチン接種も拒否し、あんなものは危険極まりないものと避けてきた訳で、まず、その時点で初動から活動に抵抗も無く活動が継続できたのでした。

 こうして、北九州を中心とする独立系の九州王朝研究団体の丁己歴史塾との提携を進め、私達は本拠地を二日市温泉がある筑紫野市の紫に本拠地を移し、現在、熊本(西原村)、佐賀にメンバーを加え、前を上回る活動拠点と新たなメンバーを得ているのです。

 こうして名目100人、実働560人の研究体制、著書を持つ人、ブログ、ユーチューブ・チャンネル…という発信力を持つ人々の緩やかな連合体として活動を続けているのです。

 一方、分離派の末路は情けないもので、この団体は活動停止から事実上消失したか消失へと向かっているようです。

 このような離合集散はあるもので、史談会、郷土史会と言った地域性に縛られた団体では通常ありえないのですが、私達は最低でも北部九州を越え九州全域を対象に活動を続けており、神社研究に於いては、愛知県から北関東に掛けて、百嶋神社考古学の立場からネット上に多くのブロガーが生まれているのです。

 その数は、九州と併せ30を下らないところまで増え、今後、大分県日田市にも新たなグループを軌道に乗せようとしているところです。

実は、2024年になった途端に百嶋由一郎の神代系譜を送って欲しいと言った話が増えており、新たな活動領域と新規メンバーをお迎えできることだけが酷い新年の幕開けの中で少しだけ嬉しい、希望になっています。

闇の中に僅かな光を求めて、この酷いばかりの穢土を踏みしめ新年を迎える事になるのでしょう。

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2024年04月02日

1001 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から東に向かったのではないか ➐

1001 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から東に向かったのではないか ➐

   “そもそも香取神社の主神は布津主と呼ばれていますね、これも大幡主の「主」なのです”

20231110

太宰府地名研究会 古川 清久

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故)百嶋由一郎氏が話していた事に山幸彦は多くの地で活動されておられましたが、直接的な本拠地を言えば“島原市に猛島神社がありますがここだと考えられる”と語っていました。

今思えば、大幡主(塩土老翁)=カミムスビ神の指揮下で製塩を行い、それを有明海沿岸どころか九州全域で交易を行っていた事をご存じだったのではないかと思います。事実、古代日向=宮崎+鹿児島一帯でも塩筒翁と猿田彦を併せ持つ祭祀が確認でき、塩筒が製塩土器である事が分かれば、それ自体も交易品だったと考えられるのです。焚火に向かい海水を入れた土器を突き刺せば、塩が析出するため、その塩で魚介類を食べていたのです。キッコーマンの醬油差しと同様で、海浜、海辺で重宝な再利用品だったのです。

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 では、布津主=猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ=五十猛=彦穂々出見命…は具体的には何をしていたのでしょう。

 そこで、肥後に於ける猿田彦を主神として祀る神社を調べる事からその正体を掴みたいと思います。

 これには土地勘と神社に対する最低限の知識と真実への探求と言う執念のようなものが必要になります。

 テーマを持って調査に踏み出せば、百嶋先生の時代とは異なり、ネット上には大量の情報が転がっています。問題はそれらを整理し、現地を踏み、百嶋先生が残されたデータを丹念に調べて行けば、ある程度の推定が可能になるのです。実際、先生もそう言われていました。今は感謝しかありません。

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このデータは猿田彦に関心を寄せる方が「熊本県神社誌」を洗い(熊本県外の神社もあります)、データ・ベースを作成されたものです。

 勿論、作成時期はかなり前のため、住所表記と現地が合わず、私も多少苦労しましたが、間違いはないと思います。

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そして、中国には袁浦と言う製塩地もあったのです… これについても後にご紹介いたします。

 いずれにせよ、「新ひぼろぎ逍遥」はこの時点で、通算1000本を達成しました。いずれ、年内にも

「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」も1000本をクリアします。スポット、ビアヘロ版と併せ2500本ですね。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2024年04月03日

1002 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から東に向かったのではないか ❽

1002 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から東に向かったのではないか ❽

   “そもそも香取神社の主神は布津主と呼ばれていますね、これも大幡主の「主」なのです”

20231110

太宰府地名研究会 古川 清久

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筑豊から移動する時、糸魚川からは白馬村から松本に入りますが、もう一つ先の直江津(現上越市)から善光寺平〜軽井沢そして碓氷峠を越えると群馬県、栃木県に入るのです。

 そう考えた理由は亀甲萬の創業者一族のかなりの方に茂木氏がおられ、茂手木、茂木姓が集中するのが群馬、栃木、埼玉だったからで、さらに言えば、もし、碓氷峠を越えて入っているとすると、この碓井、碓氷と言う地名は九州では非常に限られており、福岡県嘉麻市の碓井以外にはないのです。それに隣接して飯田もあるのです。

 それが飯田市郎兵衛なのですが後で繋がります。

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 もう一つのルートは、柏崎刈羽原発の柏崎で、ここから入ると南魚沼経由で入ることができるのです。

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ご覧の通り野田の醤油の最初の創業者は飯田市郎兵衛と言う人でした。

私が直江津〜碓氷峠に拘った理由はこの市郎兵衛氏が武田氏に川中島御用溜醤油に納めたという事からこれは関係なしとしないと思ったのでした。それはこの地に碓井と飯田と言う地名が隣接して存在している事を以前から気にしていたからでした。以下、ご確認ください。しかも表記も同じなのです。

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私には碓井という地名と飯田と言う地名が隣接しており、この碓井辺りに住んでいた人物が、武田氏に謁見するや飯田姓を名乗ったのではないかとさえ思えるのです。

 まあ、夢物語で出来過ぎの感がありますが、このような符号はめったにないことで、しかも嘉麻は濃厚な物部地帯なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記