2024年02月01日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)991 米田良三の東福寺移設説について(「東アジアの悲劇」)への添え書き

ひぼろぎ逍遥(跡宮)991 米田良三の東福寺移設説について(「東アジアの悲劇」)への添え書き


“京都の東福寺は佐賀県武雄市の杵島山裾野から移設された”

20230816

太宰府地名研究会 古川 清久


現在、故)米田良三氏の「東アジアの悲劇」を読み直しているとこですが、私もこの現場に由縁のあるものとして書き残しておく必要があると考え、記憶を辿りながら記録を残そうとしているところです。

米田先生とは一〜二回電話でお話をしたことがありますが、主な図書はともかく、メンバーと共に佐賀県の旧三瀬村の「長谷寺」の探査のために山中に分け入り礎石を探して回りましたが、果たせず、B29の爆撃用の写真に残る礎石らしきものを探った事もありました。

後に知恩院の大梵鐘となった元寺の鐘楼のあった場所などを見て回った事がありましたが、当時から米田の尋常でない慧眼には感服することしきりでした。

無題.png

全国の九州王朝論者の中に衝撃を与えた名著「法隆寺は移築された」で知られた故)米田良三氏ですが、この米田氏の未公開原稿を世に出して頂いたのがS.渡辺氏でした。

「民営文化センター」というサイトを開くと、米田良三氏の未公開原稿 2020-07-19 20:00:16として同氏のコメントが出てきます。

私も15年近く前でしたが米田氏と一度ですがお話をしたことがあります。一度講演を相談したのですが、「忙しくてとてもそんな余裕はない」と一蹴されました。今思えば確かにそうだったのでしょう。

当然にも、S.渡辺氏の以下のコメントには全面的に同意します。


天才に遭遇するチャンスは滅多にあるものではないのですが、10年以上、米田良三氏の原稿と格闘してきた挙句“彼こそがそうだ”と確信しました。

私の手許には彼の研究ノートがあります。ノートのサイズはバラバラ、情報のエッセンスが無秩序に書き込まれているだけで、文章作成の下書き的なものは全く見当たりません。思いつくままにPCに文章を綴っていったのでしょう。

打ち合わせの時、どんな些細なことでも、自分の書いた部分に関しての反応は瞬時かつ正確でした。

米田氏の未公開原稿を以下に公開します。門外漢の心を打つことは無いと思いますが、建築に携わる人々は彼の天才を意識するかもしれません。


私達も、稀代の神社考古学者百嶋由一郎の業績の一端でも残せればと格闘し、佃研究の収録を常設化することにようようの事で辿り着き、何とか潰え去る状態になる事だけは避けられるところまで漕ぎつけられました。

今度は我々が考える天才というより超秀才…とも言うべき佃収先生の説を組織的に拡張させる作業に取り組んでおり、先生のご存命中に何とか目鼻を着けたいと考えています。

ところが、米田先生の海、宇宙の如き広がりを見せる研究内容の凄さを知るにつけ、人生が足りないと思うことしきりで、ここでは少しでも米田良三氏を知っていただこうと書き出したのがこの小稿康です。

その後、佃収先生のサポートに明け暮れていましたが、何とか目途が立ち、漸く棚上げ状態にしたまま懸案だった米田の後期の著作を読むにつれ、これまた我々が取り組むしかないのではないかと思うようになりました。

既に我が本物の九州王朝説を追う米田と言う天才を失い、僅かに佃収先生の素晴らしい業績を鑑みる中、九州王朝説の最深部、基底部を探った米田の業績には感銘するばかりです。

そこで、ネット上の米田信奉者の中の米粒の一つにでもなろうと取り上げたのが佐賀県武雄市の東福寺移転説に関わる話でした。


『東アジアの悲劇』の中に「京都の東福寺は佐賀県武雄市の近郊から移築されたと考えられる」と書かれた部分を読むにつれ、20年前に地元の杵島山、潮見神社、おつぼ山神籠石、道祖王、長崎街道、そして橘一族、和泉式部そして東福寺の問題が浮かびあがってきたのでした。

まず、その部分に関して、ネット上に分かり易い記事がありましたので勝手ながらご紹介いたします。


「東福寺 特別展」に行く前に2023-04-17 20:00:46 テーマ:米田建築史学

無題.png

「特別展 東福寺」が東京国立博物館で開催中とのことですが、会場での解説とは別の説があることを紹介します。京都 東福寺三門 柱の穴の秘密

言わずと知れた米田良三氏の「移築説」絡みです。

氏の『東アジアの悲劇』の中に「京都の東福寺は佐賀県武雄市の近郊から移築されたと考えられる。というのは質問と同様の言い伝えがあるからで、朝鮮で引き上げられた東福寺船も移築の船の一隻であった可能性がある。

興福寺は儀式中断の記録から北部九州から移築したことは疑えないが、その元の場所は不明である。

しかし恐らく地元に同様の言い伝えが残っていると思われる・・・ 」

とあります。

法隆寺に限らず関西の名だたる寺院の殆どが九州からの移築であるという説は現在の学校教育下で学ばせることはありえません。移 築 説 のまとめ by米田良三

入試科目に日本史があるため異説は全く浮上するチャンスは無く、乗っ取り大和朝廷は安泰なのです。入試科目から「日本史」を外せ

テレビでは戦国武将とか城郭の構造を含めた合戦の分析がにぎやかで、歴史好きで知的好奇心旺盛の日本人は素晴らしい・・・と思わされていますが陰謀学的に言えば夢中になっているうちに、国民が母国の真実の姿を知る機会は失われています。古代史論争は永遠に平行線

長い間、この国の始まりは曖昧で、それに続く明らかな部分までも伏せられて来ましたので、国民は国全体から身の回りに至る出来事の解釈、判断を誤ってしまう状態が今も続いています。自国の真の歴史を知らぬ国は亡びる

博物館に赴き、展示物を見て解説を読み、内容を頭に入れ、“これで私も教養人”と胸を張ることはあっても、内容に疑問を持つ人は殆どいないでしょう。

「特別展 東福寺」を機会に、別の考え方を持つことの大切さを知っていただきたいと思います。

『芸術新潮』4月号の表紙に東福寺の三門の天井絵が載っていて、それが大和長谷寺の観音様の裏側の板壁の絵とタッチがそっくりなのです。

無題.png

三門の創建は定説通りと認めてよいのですが、移築を新築と偽るのは朝飯前であり興福寺の五重塔と同様です。

大和長谷寺大悲閣に描かれた絵

大和長谷寺本堂には創建時(520年)の柱が使われている(改訂版)

倭国長谷寺跡現地調査のあらまし

大和長谷寺は国宝の中の国宝「長谷寺本堂調査報告書」を読むとおとぎ話的歴史の理由が解かる

その他の話題

宇治平等院も 移築された誰か ドローンで 宇佐小倉山東大寺跡 を証明しないか

倭国室生寺跡を探そう(2)世にも奇妙な法隆寺薬師寺東塔が倭国時代のものであっては困るのです。


米田の“法隆寺に限らず関西の名だたる寺院の殆どが九州からの移築である”という話はそれ自体が過激である上に驚愕すべきものですが、一般の人間には証明、論証が難しいため多くの九州王朝論者でも纏まった著作としては展開しておらず、唯一、東工大出身の建築の専門家である米田にして唯一可能な提案だったと言えそうです。

無論、その部分については米田無くしては誰一人提案できなかった事であり、この時代に彼ただ一人を天から下したもうたものだったのです。

その天啓とも言うべき業績も、ネット上の自費出版という形でしか提供で来ていないのが我が国の恥ずべき文化と思うばかりです。ただ、悲しい事ですが世の中=世間とは所詮そのようなものなのでしょう。


摂政九條道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日山東福寺です。嘉禎2年(1236年)より建長7年(1255年)まで実に19年を費やして完成しました。

東福寺公式HPより

従って、表を飛び交う話としては上記のようなものになるのは必定であり、坊主といえども(坊主故にこそ)嘘を吐くものになるのです。何が「興福寺になぞらえようとの念願で「東」と「福」の字を取り京都最大の大伽藍を造営した…」だ!


当会は3年半続けた北九州市での講演会を終え西の筑前のエリアの筑紫野市に戻し、2024120日の第三日曜日に新春三社詣りとして福岡県筑紫野市の牛頸の奥の平等寺一帯での神社トレッキングを企画しています(これもスケジュールが変わりました)。

それも、米田が京都は宇治の平等院も、この筑紫野の平等寺から持ち出されたと言っており、この際、その周辺を見直そうとの企画からのものです。これらが、新たな発見を齎すかは正直言って難しいのですが、メンバーにそのような視点を持たせるべきと考えているからなのです。


無題.png

紅葉で有名な京都の臨済禅の名刹東福寺も佐賀県の武雄市の杵島山西麓から移された


さて、お話したいことは宇治の平等院ではなく京都の名刹の東福寺の出自に関するものです。

無題.png

当然、通説派の学者、学芸員、宗教学者などに一蹴される事は承知していますが、我々にはそのような学問とか歴史というような本来神聖であるべきものに対して商売を持ち込むような連中に気を遣う必要は一切ありません。

それはどうでも良いのですが、ここでは13世紀鎌倉期に成立したとされる東福寺の出自にメスを入れる話です。

13世紀ですので、本来、我々の対象にはないのですが、米田が取り上げた事からついつい余計な事を書く羽目に陥ったのです。

無題.pngさて、グーグルでも何でも 「橘町のホームページ」とか「武雄市橘町の歴史」と入力すると以下の導入部が現れます。


そこで、続いて出ている「橘町の歴史(旧サイト)をご覧頂くと、私が教えを請うた橘小学校の校長をされていた吉野千代治先生の話を読むことができ、聴くこともできます。

無題.png

無題.pngこれは最近の複製でしょうが、博多でも有名な聖一国師の時期(13世紀)に京都に東福寺が出現するのです。

無題.png

既に故人となられていますが、吉野先生はまだDVDが一般化していない時代に講演会を続けられていました。それが収録され武雄市でも有線放送などで公開されていました。

優秀かつ先進的なサポーターが居られたようで、今思えば、私も武雄市の自宅でその放送を見て触発され、本当の古代史を探求する事になってしまったのでした。

 今回のブログは米田良三が提出していた宇治の平等院の元寺が福岡県筑紫野市の平等寺にあったのではないかとか京都の東福寺も佐賀県武雄市の杵島山西麓から移された…といった驚愕する話を散漫に取り上げていますが、このシリーズは今後も余裕がある時に少しずつ続けたいと思っています。

 私は佐賀県の武雄市で生まれ育ったのです。

また、ひぼろぎ逍遙に「古川という家系について」として56本のブログを書いています。

これを書くうちに、古川家のルーツが鮮明に浮かび上がってきました。下っ端の橘一族だったのです。

4代前まで、JR佐世保線に高橋駅(武雄温泉の東)がありますが、この一帯を拠点に有明海の大きな干満を利用し物資を搬送するか河川交易の廻船業を行っており、鍋島藩から名字帯刀を許された一族であったと聴いています。その家紋からも松浦党の一派と思われる三星を使っていました。唐草三星とでも言うべきもので類型に出くわしたことはありません。

まあ、下級士族とは言えますが、明治のあの時代に祖父が早稲田を出て台湾に行っていましたので、恐らく大隈重信(彼も白族ですね)とのコネクションがあったのではないかと思っています。

いずれにせよ、この武雄市の正面にある杵島山の西麓には頼朝政権に従い東北地方まで行った橘氏の一派が論功によって伊予に入り後にこの地に移り住んでいるのです。

今考えれば、これも橘氏の故地である事を理解した上で入っているようで、橘 公業、公勢の時代に、渋江、牛島、中村の三家に分かれたようで、その小字が残っていたのです(圃場整備で表面的には消えていますが)。

その三字が集中する橘氏の本拠地の裏に旧塩見川(現六角川)の付け替え前の河川が古川で、当家は

そこからこの姓を取っているようで、私はその36代で男子が居ないため断絶になるのです。

暑さのため論旨が纏まらずご迷惑をお掛けしていますが、今回お伝えしたいのは京都の東福寺がこちらから持ち出された物だったのではないかと言う話を残しておきたいと思いからのものなのです。

実は吉野先生からお聴きした話の中に、東福寺の問題があります。まさか米田先生がそんなことまでご存じだったとは終ぞ思いもしませんでした。

無題.png

私もこの東福寺問題については先生から直接話を聴いておりました。

30年前の話で正確には覚えていませんが、確か橘の東福寺の跡地も案内して頂いたと思います。

そして、びっくりする話ですが、ある時京都の東福寺に地元から10人ほどの方々が京都まで出向き、東福寺の禰宜にお尋ねになった事があったそうです。

何故、こちらの東福寺が失われているのかを教えを頂きたいと訊ねられたそうですが、普通なら遠路よくおいでになりました…とでも言われるか…どころか、寺を争うとでもするのかと追い払われたと言う事だったのです。

やはり、東福寺院主職の相続争いについての話は今も伝えられておられるようで…勿論、勘違いなのでしょうが、当時も認識はされていたのでしょう。

うちのメンバーにも伝えておきます。

無題.png

 法隆寺は移築されたというのはさらに遡る話で、その他多くの古代廃寺が畿内に持ち出され移築されたという時代とは異なると思うのですが、もしかしたら、この杵島山の裾野の一角に臨済禅とは異なる古代の東福寺が存在していた可能性があるのではないかと思うのです。


無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2024年02月03日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)992 高千穂の祖母山はイスラエル系の人々が住み着いた山上楽園だった

ひぼろぎ逍遥(跡宮)992 高千穂の祖母山はイスラエル系の人々が住み着いた山上楽園だった

20230904

太宰府地名研究会 古川 清久


去る923日、これまで手を付けていなかった宮崎県高千穂町の神社トレッキングを行いました。

あまりにも酷い暑さを避け9月も高地での実施として浮かんだのが高千穂でした。

元々、百嶋神社考古学に関心を寄せるメンバーが多い事から、高千穂=三田井は高皇産霊神=高木大神の本拠地と知る者からはあまり人気がないニニギの親父の地など避けてきたのも当会の偽らざる内部事情でした。

しかし、何時までも放置して置くわけにも行かず、漸く20人規模の神社トレッキングを企画したのでした(以下はチラシの一部)。


無題.png南の高千穂町から見る祖母山


近い熊本を中心に、福岡は元より、北九州+大分、佐賀や唐津、殆どメンバーが居ない宮崎の延岡からも加え、ドタキャンも含めると最終的に遠路(北九州からは片道でも200キロになるのです)集まったのは、結果15人ほどでした。

翌朝8時からのトレッキングのみの参加もあるのですが、宿泊は二ケ所に分かれたため、ひのみこ社に近い四恩の里というひのみこ社Gメンバーが経営中の民泊施設に10人ほどが集まりパーティーを始めたのでした。

丁巳歴史塾+太宰府地名研合同研究会(9月)高千穂合宿+トレッキング


 基本的に8月は休会としていますが、西原村で伊藤まさ子女史万葉集講座を(大伴家持第3回)8291330〜行います。参加費500円。

9月には23日(土、日)台風も考慮し1617日のいずれかで、格安の高千穂合宿を実施します(実際には23日に実施)。小規模な神社とトレッキングを涼しい高地で行います。希望される方は古川まで。09062983254 来年も行います!

 これまで百嶋神社考古学では宮崎インチキ神話として無視してきましたが、そろそろ高千穂町の88社から数社を選び巡ります。できるだけ経費を掛けずに行う予定でしたが、女性が多いため、一泊1000で新築の研修所=平野虎丸邸(高森町尾下1261090-208218から変更しひのみこ社メンバーが運営する民泊施設に変更しました(団体割引で一泊素泊まり5000円を4000円で先着最大20名は可能です)。

予定地(無論、誰でもが行く高千穂の神社には行きません)仮案ですが

❶ 祖母嶽神社 ❷ 上野神社 ➌ 下野神社 ❹ 岩戸神社 ❺ 落立神社(天岩戸五社) ❻ 石神神社  ❼ 瀬織津姫神社 最後に、メインの ❽ ひのみこ社 に参拝します。


汗を流すには、可能なら天岩戸の湯にも入ります。天岩戸温泉は岩戸58  0982748288 500

食事は各自アズーロ(三田井3921)など高千穂のスーパー(高千穂町三田井3921)で買えます。


トレッキングのテーマ(トレッキングは宿泊地を含め)


@  今回のトレッキングのテーマは冒頭に述べた古代の高千穂とはイスラエル系の 神産巣日神(タカミムスビ)系氏族の初期の拠点であった事。

A  その具体的な証左としての四恩山の存在、上野地区の上野神社とその祭神を確認する事。

B  同じく下野地区の下野八幡が元は正八幡宮であった事。このため下野とは本物の八幡神である神産巣日神(カミムスビ)神の拠点であった事。

➃ そもそも高千穂の北の高峰祖母山が「祖母」と呼ばれた理由とは阿蘇系の一派(実は河上猛の末裔)が豊後大野一帯に入り、自らを豊玉姫の使いの大蛇の子の一族としてキャンペーンを張った(「平家物語」にも大蛇の子孫として大神惟基〜大神惟栄)事から山頂に豊玉姫を祀ったのであり、祖母山と呼ばれたのはその時期からであり、それ以前はそもそも「祖母」などとは呼ばれていなかったはずであり、豊玉姫を祖母と自認する阿蘇系の宣伝に過ぎないのです。

➄ では、それ以前の山頂には誰が祀られていたのか…などと考察するのがトレッキングのテーマだったのです。特に ➃ について関心をお持ちの方はひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読みください。


936

ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?下 ❿

933

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?上 ❾

932

早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

927

大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ ❹ 

925

福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい ❸ 

924

福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が住み着いた現地を確認した ❷

923

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され

今もその一族は福岡市早良区に住んでいる ❶


トレッキング資料 としては、以下の三本ですので読みたい方はアクセスしてみて下さい。

ひぼろぎ逍遥

980 標高800ⅿの高森町尾下で2023年の夏も終わる9月に高原地帯で高千穂合宿を行います 20230531

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

980 祖母山を南から見ると ❷ “やはり本来山頂に祀られていたのは神武皇兄五瀬命だった”0230117

979 祖母山を南から見ると ❶ “祖母山は元は神武皇兄五瀬命を祀っていたのか?”   20230111


 百嶋神社考古学との接触以来、これ等の時代も異なるバラバラの要素が漸く整理して見えるところまで辿り着く手前辺りまで届き始めたようですが、一番厄介だったのが、竹田市の穴森神社と豊後大野市宇田姫神社に絡む「阿蘇大蛇伝説」でした。それが見えてくると、祖母山の南北に居住する民族、氏族の配置が分かり始め、古代史の謎のもつれた糸が少しずつほぐれて来た思いがしています。

 そもそもタカミムスビの本拠地三田井(高千穂)の北に聳える高峰を祖母山と呼んだ人々とは、祖母山頂上に祀られている豊玉姫を祖母と考える氏族であり、それを理解するには通説派の宮崎インチキ神話系図では理解できず、百嶋神社考古学に依存するしかないのです。

 豊玉姫と山幸彦=ニギハヤヒとは海幸山幸神話の通り龍王の宮城に向かい豊玉姫と出会いウガヤフキアエズが生まれます。このウガヤフキアエズは、阿蘇家初代の惟人の(姉妹は不明)奈留多姫と一緒になるのです。そうして生まれたのが河上猛と淀姫(本当は豊姫=ユタ姫と呼ぶ)です。一方、ウガヤフキアエズは豊玉姫の子育て放棄により代わりに送り込まれた姥=姥=鴨玉依姫に種を着け生まれたのが安曇磯羅(アズミノイソラ)です。ただ問題とされ引き離され下照姫と一緒になるのですが、阿蘇系の奈留多姫も妃として生まれたのが河上 猛(神話ではヤマトオグナに誅殺されたとしますが)です。

しかし故)百嶋由一郎は秘密にされておりました(我々にも告げずに亡くなりました)。

ただ、正しい歴史を伝えるためにも書き残そうと脊振村広滝で許され福岡市早良区に現在も89家族が大神姓を持って纏まってお住まいになっておられます。

恐らくこの一族が豊後大野の大神一族になっていると考えられるのです。

付記すれば、豊後のウガヤフキアエズ王朝説はこの氏族が創った説話なのです。

従って、祖母山と呼ばれたのは恐らく大神惟基以来の事であり、それ以前には別の神が祀られていたはずなのです。それが神武皇兄五瀬命=武雄霜凝彦であり、土呂久など祖母山南麓には痕跡があるのです。

それについては980 祖母山を南から見ると  やはり本来山頂に祀られていたのは神武皇兄五瀬命だった”979 祖母山を南から見ると  祖母山は元は神武皇兄五瀬命を祀っていたのか?をお読み下さい。

現在、祖母山山頂には姥嶽神社鴨玉依姫)、豊玉姫健男霜凝日子神社上宮などが祀られています。

当然にも、健男霜凝日子=神武皇兄五瀬命こそが豊玉姫以前に祀られていた祭祀のはずなのです。

無題.png

無題.png


トレッキングのテーマ@〜Cを逐一取り上げても良いのですが、既にそれについては先行ブログで書いているため、重複して異なる事を書いても混乱を招くため、ここでは高千穂では最も重要なテーマとなる高皇産霊神の性格について掘り下げてみたいと思います。


冒頭で「高千穂=三田井は高皇産霊神=高木大神の本拠地と知る者からはあまり人気がないニニギの親父の地など避けてきたのも当会の偽らざる内部事情でした」と書きました。

勿論、故)百嶋由一郎からは三田井が高木大神系氏族の初期の拠点であり、彼らはイスラエル系の人々だったと聴いておりました。

ただ、このような話をすると通説派からは馬鹿扱いされ、それに追従する古代史家からも顰蹙を買うため通常は申し上げないのですが、故)百嶋は、中国語、朝鮮語にも精通しており、日本で言えば「新撰姓氏録」(しんせんしょうじろく)に相当するものを熱心に中国で読んでおり(漢籍にも精通していました)、造化三神のタカミムスビ、カミムスビ、アメノミナカヌシは元より、他の渡来系民族についても良く理解しておられました。

そこで、まず、この三田井の高木大神について考えて見たいと思います。



無題.png

著書を取り寄せています。

無題.png

日本・イスラエル比較文化研究(2)―日本列島は誰が創った?―大 塚 清 恵*

2009 10 27 日受理)A Comparative Study of Japanese and Israeli CulturesPart II)― Who Built the Japanese Isles? ―OTSUKA Kiyoe

要約

本稿は、鹿児島大学教育学部研究紀要(人文・社会科学編)第 58 号に掲載された「日本・イ

スラエル比較文化研究日猶同祖論考」の続編である。一般的に「秦氏」と呼ばれる 3 世紀

末から 5 世紀にかけて朝鮮半島から渡って来たシルクロード渡来人は、時代を超越した高度な知

識と技術を持っていた。彼らは、古代日本に技術革命をもたらし、政治・宗教・生産活動・文化

を大きく発展させた殖産豪族集団である。この論文は、古墳文化、飛鳥文化を築いた渡来人がイ

スラエル系であったことを詳述した後、なぜ突然彼らが大挙して極東の島国にやって来たのか?

なぜ 4 世紀から 5 世紀にかけて一見無意味な巨大古墳を現在の大阪の地に築いたのか?なぜ北九

州と畿内が秦氏の拠点なのか?なぜ全国各地に奇妙な三本鳥居の神社を建てたのか?という日本

史の謎に対して大胆な一つの仮説を立てた。

キーワード:秦氏、仁徳天皇陵、飛鳥文化、景教、宇宙工学

第一章 秦氏は何処から来たのか?

秦氏の家系図には秦の始皇帝が秦の祖ということになっているが、日本書紀によると弓月君(融

通王)が秦氏の祖である。弓月君が帰化した 372 年ごろ「弓月」という国がステップシルクロー

ドが通過する中央アジア、現在のキルギスのすぐ北方に存在した。弓月国はアラム語を使用し、

養蚕や絹織物技術に優れていた。興味深いことにヤマトゥという地やテングリ山という高い山が

あったという。ヤマトゥは「神の民」を意味する言葉で、この地名がヤマト(大和)になったの

* 鹿児島大学教育学部 准教授

鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編 第 61 巻 (2010

ではないかと言われている。テンシャン山脈に属するテングリは天神を意味し、秦氏の拠点であっ

た京都の愛宕山は天狗伝説で有名である。

弓月国は、もともと紀元前 8 世紀に北イスラエル王国からアッシリア人に連れ去られた十部族の中からガド族、ルベン族、マナセ族などが建てた国であると言われている。彼らは弓月国を建国する前は、黒海北岸のクリミヤ半島にしばらく住んでいたことがある。黒海北岸の平原には紀元前 7 世紀からペルシャ系遊牧民スキタイ族が住んでいた。スキタイ族は金属武器と馬具で武装した強力な騎馬軍団を組織し、紀元前 6 世紀には、南ロシア、コーカサスを領域とする広大な騎馬民族国家を形成した。イスラエル人は交易などを通してスキタイ人と連合するようになり、スキタイ・サカ族としてシルクロード沿いの各地で植民、建国を行った。スキタイ文化の影響は、中央アジア、モンゴル、華北にまで及び、その結果、タタール、突厥、匈奴などの遊牧民族国家が生まれた。4 5 世紀に日本に渡来した集団の中に、このスキタイ・サカ族が含まれていたので、渡来人は卓越した産鉄、鉄剣製造技術を有していた。

また、弓月国は、650 年頃に滅亡するまで景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)の拠点であった。ネストリウス派キリスト教はネストリウス(380 年〜 451 年)を創唱者とする古代キリスト教の一派で、特徴としてはイエス・キリストの位格は一つでなく人格と神格に分離され、マリアは「人としてのキリストの母」であって「神の母」ではないと考える点である。ネストリウス派キリスト教は、イエスは生まれながらの神ではなく天使がマリアを選び、聖霊の力によって身ごもったと告げた瞬間、聖霊の力によって聖なる人になったと考える。つまりイエスは単に神通力を得た人間というわけである。当時のキリスト教諸派の中で主流であったアタナシウス派(原初ローマ・カトリック)は、イエスを神の子と認めずマリア崇拝を否定したネストリウス派を 431年の「エフェソ公会議」で問題視し、451 年の「カルケドン会議」で異端宣告をしてキリスト教圏から追放した。イエス・キリストをメシアと認めないのだからネストリウス派は、キリスト教というよりユダヤ教に近い。

ユダヤ教徒とキリスト教徒は、ともにローマ帝国から苛酷な弾圧を受けていたが、4 世紀にはいるとコンスタンティヌス帝は 313 年ミラノで勅令を発し、キリスト教を公認する旨を公布した。

これは、キリスト教が爆発的に広がり、4 世紀までに住民の 1 割ぐらいがキリスト教徒になっていたからである。が、コンスタンティヌス帝はユダヤ教に対しては不寛容で、2 年後の 315 年にはユダヤ教に邪教の烙印を押す勅令を公布し、反ユダヤ教政策を強めた。ローマ帝国内における宗教闘争は完全にユダヤ教側が敗北したのである。

ネストリウス派キリスト教は、発生した時代、教義、布教地域から考えて、ユダヤ教徒が迫害を逃れるために便宜上キリスト教の形を取ったものではないかと筆者は考える。

無題.png

無題.pngペルシャ帝国がバビロン捕囚からユダヤ人解放(BC538 年)を行った後、一部のユダヤ人はそのままペルシャに定住してペルシャ化し、その後、中国を植民地化することに参画したものが多くいた。秦(BC221 年〜 BC206 年)は、実はペルシャの植民地だったのである。(注 3)始皇帝が徹底的な思想弾圧のため「焚書坑儒」を行い、書物を焼き、数百人の批判的な学者を生き埋め

(注 1)(注 2100 鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編 第 61 巻 (2010

にするという残酷な行為を平然と行えたのは、始皇帝自身が中国人でなかったからだ。始皇帝は赤毛で青い目をしたイラン系月氏の血を引く西洋人で非アジア的な顔をヴェールで隠していたという。(注 42006 6 28 日の新華社電によると始皇帝陵の墓から出土した人骨がペルシャ系のDNA と同じ特徴を持つ男性の骨と分かった。(注 5)武力による異民族支配は長くは続かないものである。始皇帝の死後、秦はすぐに漢民族に滅ぼされた。

「秦人」は、中国よりさらに東の地に新天地を求めざるを得なくなった。

弓月国からステップ・シルクロードを東進しても、ペルシャから中国国内を横断するオアシス・シルクロードを進んでも、行き着く果ては朝鮮半島である。


以下も十数ページ続きますが、お読みになりたい方はご自分でPDFファイルを検索して下さい。


秦氏の家系図には秦の始皇帝が秦の祖ということになっているが、日本書紀によると弓月君(融通王)が秦氏の祖である。弓月君が帰化した 372 年ごろ「弓月」という国がステップシルクロードが通過する中央アジア、現在のキルギスのすぐ北方に存在した。弓月国はアラム語を使用し、養蚕や絹織物技術に優れていた。興味深いことにヤマトゥという地やテングリ山という高い山があったという。ヤマトゥは「神の民」を意味する言葉で、この地名がヤマト(大和)になったのではないかと言われている。テンシャン山脈に属するテングリは天神を意味し、秦氏の拠点であった京都の愛宕山は天狗伝説で有名である。


 敬愛する大塚清恵先生は、ここでは、“秦氏の家系図には秦の始皇帝が秦の祖ということになっているが、日本書紀によると弓月君(融通王)が秦氏の祖である。 弓月国はアラム語を使用し…”とある様に、レバノン イラン イラク イスラエル シリア トルコ ヨルダン では多くの言語が通用しその中にもアラム語がありイエスもそれを使っていたと言われています。

 ただ、イエスがこのセム語を使用したとしても、イスラエル系という事は短絡できない上に、イエスに遡るモーゼに直接繋がるとも言えないのです。

 しかし、秦氏はそして秦の始皇帝もイスラエル系と言われており、秦の滅亡によって東に逃げた(半島に)人々の中には、万里の長城を造らされるのを恐れて逃げた人々もあれば(万里の長城からは現在でも大量の人骨が出るそうですが)、秦の王族、官僚、武漢、文官もあったはずなのです。

 問題は、それ以前に列島に入ってきているイスラエル系の人々が居たと故)百嶋は話していたのです。

 それが秦氏以前に入っていた氏と呼ぶ集団で、秦の始皇帝の贏政(エイセイ=インチョン)の贏にサンズイを付して、区別したのでした。それが厳島姫=市杵島姫も本来はこの文字を使っていたのです。

 この人々が金山彦の一族で、百嶋由一郎最終神代系譜で金山彦から始まるイスラエル系の人々なのです。

無題.png

この話については過去何度も書いているので重複を避け割愛しますが、この集団が高千穂にもいた形跡があるのです。その話は次回に回しましょう。

百嶋由一郎が残した神代系譜90枚近いスキャニングCD、講演録音声DVD30時間)を必要な方は090-62983254までご連絡ください。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2024年02月06日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)993 氷川神社とは何なのか? ❶

ひぼろぎ逍遥(跡宮)993 氷川神社とは何なのか? ❶

20231016

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


もうそろそろ年末を迎えるようですが、今年は120人を集めた佃収小倉ムーブ講演の実現と阿智村〜始まった群馬県の神社調査(実際には静岡、山梨、長野も含まれますが)に終始したと言えそうです。

 その延長上に、当会の月例会の常設の拠点を北九州市から筑紫野市に戻し、九州王朝説の中心的エリアの筑前、筑後、肥後のラインに戻し、加えて提携団体の丁己歴史塾による佃収講演の常設化を図り、北部九州全域をカバーすると言う作業に追われていました。

 加えて、当初、筑前復帰のトップの講演者としていた当会のエースblog「宮原誠一の神社見聞諜」宮原誠一氏(10月)〜blog「地図で知る古代の楽しみ」の伊藤まさ子女史(11月)、佃収講演会(12月=1月に変更)、blog「事代主のブログ」の杉山宏治氏による佐賀県神埼市の櫛田神社周辺の三社詣りトレッキングとして予定していたものを、宮原誠一氏の講演のしばらく延期、会場確保の問題から佃収講演の1月への延期と変更を余儀なくされたため11月に私が講演する羽目になってしまいました。

このため、「後にキッコーマン醤油を作る人々は有明海沿岸から移動したのではないか…」と言う講演用の無題.pngパワー・ポイントを作成し、更に、サブ研究会とも言える久留米でのサテライト講演を翌年3月に行う事になってしまい、この講演用のパワー・ポイント「松田聖子は神武天皇の本物のお后の末裔ではないか」を作る羽目に陥ってしまいました。

結果、ブログを書く余裕がなくなり、慌てて書き始めたのが実情です。

 それはともかく、34月に行った一ケ月間の群馬遠征の結果、次の問題として武蔵大国魂神社と氷川神社の全貌を探る必要性への思いが募ってきたのでした。

 集積地は埼玉県のように思うのですが、東京都下もかなり多くまだ全容を把握している段階です。                       

 このテーマを選んだのは埼玉在住の当会のメンバーのT氏からの照会に端を発したものでしたが、以前から気になっていた「氷川清話」の問題、更には熊本県の宇土市と八代市との中間に存在する氷川と氷川町との関連もできれば探りたいと思うのです。

無題.png

とりあえず、1012月のチラシを見て頂きますが、漸く当会も新しいステージに上がり、各地のサブ的小規模勉強会が広がりと統一性を見せ始め、北部九州全域にメンバーが広がりつつあるのです。

ともあれ、来年以降の北関東、東関東への神社調査のターゲットは氷川神社になりそうです。


丁巳歴史塾+太宰府地名研合同研究会(2310月)は二日市温泉で再開します


いよいよ北九州から筑前、筑後、肥後の九州王朝ラインの本拠地を戻し活動を再開します。

 ただ、これまでの月例会の形は取らず、年に3回ほど丁己歴史塾と提携し佃 収先生の講演会を行います。このため同講演を丁己歴史塾で共催し、残る8回程度を筑紫野市で開催します。

 当初、西への移行のトップ・バッターとして「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原誠一さんにお願いしていましたが、やはりご都合が悪いようで、再度見合わせ、blog「地図を楽しむ・古代史の謎」の伊藤まさ子女史にお願いし繰り上げ講演をお願いしています。


日 時  1029日(日) 13001630 

講演者  伊藤 まさ子(「太宰府・宝満・沖ノ島」著者)

会 場  福岡県筑紫野市二日市南1丁目93の生涯学習センター   


テーマ  「群集墓から見る磐井の乱」


会場は尚変更の可能性があります。2024121日(日)佃収黒崎講演にお集まりください

佃収講演については、引続き丁己歴史塾と提携し実施します(年3回)。皆様のご協力をお願いしたいと考えています。佃収講演を行う月は筑紫野市での月例会は行いません。次は来年4月を予定しています。

121 1300〜八幡西区役所(3F301北九州市八幡西区黒崎3丁目153コムシティです。

無題.png

太宰府地名研究会1126日(日)1300 当初1119日を予定していましたが、会場を確保できず週遅れになりました。このため佃収講演に連続することになりご迷惑をお掛けします。


日 時  1126日(日) 13001630 

講演者  古川 清久(「有明海異変」著者)ひぼろぎ逍遥(跡宮)外5ブログ+ユーチューブ

会 場  福岡県筑紫野市二日市南1丁目93の生涯学習センター   

テーマ  「後に『亀甲萬醤油』を造る人々は有明海沿岸から東に進出したのではないか」


来年1月のトレッキングは三社詣りとして「事代主のブログ」の杉山氏のガイドにより佐賀県神埼市の櫛田神社周辺の数社を詣ります。佃講演と重複しない様に14日か28日に行います(317日日曜日 10:00 佐賀県神埼市役所集合に変更しました)。

参加費  7001000円 会の活動エリアの拡大に伴い、今後、遠来の講演者をお呼びすることが増えてきます。このため、参加費として頂戴している資料代、講師謝金を多少値上げさせて頂きます。物価上昇もありますが、当面、トレッキングについては従来同様500円としますが、講演会に関しては維持が困難になりつつあります。当会は元々、会員会費制を取っていません。会への入会費、年会費もこれまで同様必要ありません。中学校の生徒会のような表面だけの会計監査などやる暇があったら調査研究に集中しましょう。

                          当日連絡 090-5289-2994 or 090-6298-3254

無題.png
無題.png
無題.png
無題.png
無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記