ひぼろぎ逍遥(跡宮)991 米田良三の東福寺移設説について(「東アジアの悲劇」)への添え書き
“京都の東福寺は佐賀県武雄市の杵島山裾野から移設された”
20230816
太宰府地名研究会 古川 清久
現在、故)米田良三氏の「東アジアの悲劇」を読み直しているとこですが、私もこの現場に由縁のあるものとして書き残しておく必要があると考え、記憶を辿りながら記録を残そうとしているところです。
米田先生とは一〜二回電話でお話をしたことがありますが、主な図書はともかく、メンバーと共に佐賀県の旧三瀬村の「長谷寺」の探査のために山中に分け入り礎石を探して回りましたが、果たせず、B29の爆撃用の写真に残る礎石らしきものを探った事もありました。
後に知恩院の大梵鐘となった元寺の鐘楼のあった場所などを見て回った事がありましたが、当時から米田の尋常でない慧眼には感服することしきりでした。

全国の九州王朝論者の中に衝撃を与えた名著「法隆寺は移築された」で知られた故)米田良三氏ですが、この米田氏の未公開原稿を世に出して頂いたのがS.渡辺氏でした。
「民営文化センター」というサイトを開くと、米田良三氏の未公開原稿 2020-07-19 20:00:16として同氏のコメントが出てきます。
私も15年近く前でしたが米田氏と一度ですがお話をしたことがあります。一度講演を相談したのですが、「忙しくてとてもそんな余裕はない」と一蹴されました。今思えば確かにそうだったのでしょう。
当然にも、S.渡辺氏の以下のコメントには全面的に同意します。
天才に遭遇するチャンスは滅多にあるものではないのですが、10年以上、米田良三氏の原稿と格闘してきた挙句“彼こそがそうだ”と確信しました。
私の手許には彼の研究ノートがあります。ノートのサイズはバラバラ、情報のエッセンスが無秩序に書き込まれているだけで、文章作成の下書き的なものは全く見当たりません。思いつくままにPCに文章を綴っていったのでしょう。
打ち合わせの時、どんな些細なことでも、自分の書いた部分に関しての反応は瞬時かつ正確でした。
米田氏の未公開原稿を以下に公開します。門外漢の心を打つことは無いと思いますが、建築に携わる人々は彼の天才を意識するかもしれません。
私達も、稀代の神社考古学者百嶋由一郎の業績の一端でも残せればと格闘し、佃研究の収録を常設化することにようようの事で辿り着き、何とか潰え去る状態になる事だけは避けられるところまで漕ぎつけられました。
今度は我々が考える天才というより超秀才…とも言うべき佃収先生の説を組織的に拡張させる作業に取り組んでおり、先生のご存命中に何とか目鼻を着けたいと考えています。
ところが、米田先生の海、宇宙の如き広がりを見せる研究内容の凄さを知るにつけ、人生が足りないと思うことしきりで、ここでは少しでも米田良三氏を知っていただこうと書き出したのがこの小稿康です。
その後、佃収先生のサポートに明け暮れていましたが、何とか目途が立ち、漸く棚上げ状態にしたまま懸案だった米田の後期の著作を読むにつれ、これまた我々が取り組むしかないのではないかと思うようになりました。
既に我が本物の九州王朝説を追う米田と言う天才を失い、僅かに佃収先生の素晴らしい業績を鑑みる中、九州王朝説の最深部、基底部を探った米田の業績には感銘するばかりです。
そこで、ネット上の米田信奉者の中の米粒の一つにでもなろうと取り上げたのが佐賀県武雄市の東福寺移転説に関わる話でした。
『東アジアの悲劇』の中に「京都の東福寺は佐賀県武雄市の近郊から移築されたと考えられる」と書かれた部分を読むにつれ、20年前に地元の杵島山、潮見神社、おつぼ山神籠石、道祖王、長崎街道、そして橘一族、和泉式部そして東福寺の問題が浮かびあがってきたのでした。
まず、その部分に関して、ネット上に分かり易い記事がありましたので勝手ながらご紹介いたします。
「東福寺 特別展」に行く前に2023-04-17 20:00:46 テーマ:米田建築史学

「特別展 東福寺」が東京国立博物館で開催中とのことですが、会場での解説とは別の説があることを紹介します。京都 東福寺三門 柱の穴の秘密
言わずと知れた米田良三氏の「移築説」絡みです。
氏の『東アジアの悲劇』の中に「京都の東福寺は佐賀県武雄市の近郊から移築されたと考えられる。というのは質問と同様の言い伝えがあるからで、朝鮮で引き上げられた東福寺船も移築の船の一隻であった可能性がある。
興福寺は儀式中断の記録から北部九州から移築したことは疑えないが、その元の場所は不明である。
しかし恐らく地元に同様の言い伝えが残っていると思われる・・・ 」
とあります。
法隆寺に限らず関西の名だたる寺院の殆どが九州からの移築であるという説は現在の学校教育下で学ばせることはありえません。移 築 説 のまとめ by米田良三
入試科目に日本史があるため異説は全く浮上するチャンスは無く、乗っ取り大和朝廷は安泰なのです。入試科目から「日本史」を外せ
テレビでは戦国武将とか城郭の構造を含めた合戦の分析がにぎやかで、歴史好きで知的好奇心旺盛の日本人は素晴らしい・・・と思わされていますが陰謀学的に言えば夢中になっているうちに、国民が母国の真実の姿を知る機会は失われています。古代史論争は永遠に平行線
長い間、この国の始まりは曖昧で、それに続く明らかな部分までも伏せられて来ましたので、国民は国全体から身の回りに至る出来事の解釈、判断を誤ってしまう状態が今も続いています。自国の真の歴史を知らぬ国は亡びる
博物館に赴き、展示物を見て解説を読み、内容を頭に入れ、“これで私も教養人”と胸を張ることはあっても、内容に疑問を持つ人は殆どいないでしょう。
「特別展 東福寺」を機会に、別の考え方を持つことの大切さを知っていただきたいと思います。
『芸術新潮』4月号の表紙に東福寺の三門の天井絵が載っていて、それが大和長谷寺の観音様の裏側の板壁の絵とタッチがそっくりなのです。

三門の創建は定説通りと認めてよいのですが、移築を新築と偽るのは朝飯前であり興福寺の五重塔と同様です。
大和長谷寺 “大悲閣” に描かれた絵
大和長谷寺本堂には創建時(520年)の柱が使われている(改訂版)
倭国長谷寺跡現地調査のあらまし
大和長谷寺は国宝の中の国宝「長谷寺本堂調査報告書」を読むと “おとぎ話的歴史” の理由が解かる
その他の話題
宇治平等院も 移築された誰か ドローンで 宇佐小倉山東大寺跡 を証明しないか
倭国室生寺跡を探そう(2)世にも奇妙な法隆寺薬師寺東塔が倭国時代のものであっては困るのです。
米田の“法隆寺に限らず関西の名だたる寺院の殆どが九州からの移築である”という話はそれ自体が過激である上に驚愕すべきものですが、一般の人間には証明、論証が難しいため多くの九州王朝論者でも纏まった著作としては展開しておらず、唯一、東工大出身の建築の専門家である米田にして唯一可能な提案だったと言えそうです。
無論、その部分については米田無くしては誰一人提案できなかった事であり、この時代に彼ただ一人を天から下したもうたものだったのです。
その天啓とも言うべき業績も、ネット上の自費出版という形でしか提供で来ていないのが我が国の恥ずべき文化と思うばかりです。ただ、悲しい事ですが世の中=世間とは所詮そのようなものなのでしょう。
摂政九條道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日山東福寺です。嘉禎2年(1236年)より建長7年(1255年)まで実に19年を費やして完成しました。
東福寺公式HPより
従って、表を飛び交う話としては上記のようなものになるのは必定であり、坊主といえども(坊主故にこそ)嘘を吐くものになるのです。何が「興福寺になぞらえようとの念願で「東」と「福」の字を取り京都最大の大伽藍を造営した…」だ!
当会は3年半続けた北九州市での講演会を終え西の筑前のエリアの筑紫野市に戻し、2024年1月20日の第三日曜日に新春三社詣りとして福岡県筑紫野市の牛頸の奥の平等寺一帯での神社トレッキングを企画しています(これもスケジュールが変わりました)。
それも、米田が京都は宇治の平等院も、この筑紫野の平等寺から持ち出されたと言っており、この際、その周辺を見直そうとの企画からのものです。これらが、新たな発見を齎すかは正直言って難しいのですが、メンバーにそのような視点を持たせるべきと考えているからなのです。

紅葉で有名な京都の臨済禅の名刹東福寺も佐賀県の武雄市の杵島山西麓から移された
さて、お話したいことは宇治の平等院ではなく京都の名刹の東福寺の出自に関するものです。

当然、通説派の学者、学芸員、宗教学者などに一蹴される事は承知していますが、我々にはそのような学問とか歴史というような本来神聖であるべきものに対して商売を持ち込むような連中に気を遣う必要は一切ありません。
それはどうでも良いのですが、ここでは13世紀鎌倉期に成立したとされる東福寺の出自にメスを入れる話です。
13世紀ですので、本来、我々の対象にはないのですが、米田が取り上げた事からついつい余計な事を書く羽目に陥ったのです。
さて、グーグルでも何でも 「橘町のホームページ」とか「武雄市橘町の歴史」と入力すると以下の導入部が現れます。
そこで、続いて出ている「橘町の歴史(旧サイト)」をご覧頂くと、私が教えを請うた橘小学校の校長をされていた吉野千代治先生の話を読むことができ、聴くこともできます。

これは最近の複製でしょうが、博多でも有名な聖一国師の時期(13世紀)に京都に東福寺が出現するのです。

既に故人となられていますが、吉野先生はまだDVDが一般化していない時代に講演会を続けられていました。それが収録され武雄市でも有線放送などで公開されていました。
優秀かつ先進的なサポーターが居られたようで、今思えば、私も武雄市の自宅でその放送を見て触発され、本当の古代史を探求する事になってしまったのでした。
今回のブログは米田良三が提出していた宇治の平等院の元寺が福岡県筑紫野市の平等寺にあったのではないかとか京都の東福寺も佐賀県武雄市の杵島山西麓から移された…といった驚愕する話を散漫に取り上げていますが、このシリーズは今後も余裕がある時に少しずつ続けたいと思っています。
私は佐賀県の武雄市で生まれ育ったのです。
また、ひぼろぎ逍遙に「古川という家系について」として5〜6本のブログを書いています。
これを書くうちに、古川家のルーツが鮮明に浮かび上がってきました。下っ端の橘一族だったのです。
4代前まで、JR佐世保線に高橋駅(武雄温泉の東)がありますが、この一帯を拠点に有明海の大きな干満を利用し物資を搬送するか河川交易の廻船業を行っており、鍋島藩から名字帯刀を許された一族であったと聴いています。その家紋からも松浦党の一派と思われる三星を使っていました。唐草三星とでも言うべきもので類型に出くわしたことはありません。
まあ、下級士族とは言えますが、明治のあの時代に祖父が早稲田を出て台湾に行っていましたので、恐らく大隈重信(彼も白族ですね)とのコネクションがあったのではないかと思っています。
いずれにせよ、この武雄市の正面にある杵島山の西麓には頼朝政権に従い東北地方まで行った橘氏の一派が論功によって伊予に入り後にこの地に移り住んでいるのです。
今考えれば、これも橘氏の故地である事を理解した上で入っているようで、橘 公業、公勢の時代に、渋江、牛島、中村の三家に分かれたようで、その小字が残っていたのです(圃場整備で表面的には消えていますが)。
その三字が集中する橘氏の本拠地の裏に旧塩見川(現六角川)の付け替え前の河川が古川で、当家は
そこからこの姓を取っているようで、私はその36代で男子が居ないため断絶になるのです。
暑さのため論旨が纏まらずご迷惑をお掛けしていますが、今回お伝えしたいのは京都の東福寺がこちらから持ち出された物だったのではないかと言う話を残しておきたいと思いからのものなのです。
実は吉野先生からお聴きした話の中に、東福寺の問題があります。まさか米田先生がそんなことまでご存じだったとは終ぞ思いもしませんでした。

私もこの東福寺問題については先生から直接話を聴いておりました。
30年前の話で正確には覚えていませんが、確か橘の東福寺の跡地も案内して頂いたと思います。
そして、びっくりする話ですが、ある時京都の東福寺に地元から10人ほどの方々が京都まで出向き、東福寺の禰宜にお尋ねになった事があったそうです。
何故、こちらの東福寺が失われているのかを教えを頂きたいと訊ねられたそうですが、普通なら遠路よくおいでになりました…とでも言われるか…どころか、寺を争うとでもするのかと追い払われたと言う事だったのです。
やはり、東福寺院主職の相続争いについての話は今も伝えられておられるようで…勿論、勘違いなのでしょうが、当時も認識はされていたのでしょう。
うちのメンバーにも伝えておきます。

法隆寺は移築されたというのはさらに遡る話で、その他多くの古代廃寺が畿内に持ち出され移築されたという時代とは異なると思うのですが、もしかしたら、この杵島山の裾野の一角に臨済禅とは異なる古代の東福寺が存在していた可能性があるのではないかと思うのです。
