2024年01月01日

981 23年秋から私達の研究会が変わります!

981 23年秋から私達の研究会が変わります!

20230630

太宰府地名研究会 古川 清久


 後葉の7月のチラシなどをご覧になれば大体の経緯は分かりますが、ひょんなことから接触を持った丁己(ヒノトミ)歴史塾で話をして欲しいとの依頼を受け、北九州市で3年半ほどの間、古代史やら神社研究やらの話を行ってきました。

勿論、当方には講演できる20人近い、ブロガー、ユーチューバー、研究者、フィールド・ウォーカー

がおられますので、年に10回、11回程度の講演やトレッキングは全く問題なく行えるのです。

 それは、外部の学者とか学芸員を呼んできて通説派の話を聴く会ではなく、会の内部に、古代史、古墳、万葉集、神社…を研究されておられる方がおられ、著書を持つ方、ブログ、ユーチューブに進出されておられる方もおられる事から可能になるのです。

月例会での講演会や現地トレッキングを2回程度、年に1011回程度、累計、3年半で3035回と考えれば、かなりの間、本拠地の久留米、太宰府方面での活動を東に移していた事になります。

いずれにせよ研究者や講演者を送る組織と、講演者を求めておられる組織とのカップリングが成立し、太宰府地名研究会と丁己歴史塾とが提携する形で講演会とトレッキングを行ってきたのでした。

ただ、北九州市を中心とする丁己歴史塾と久留米〜太宰府市を中心とする太宰府地名研究会とは、活動領域が異なり、かなりの距離(100q弱)がある事から各々のメンバーの1/3程度しか相互に送り込むことが出来ないでいました。

北九州地区は福岡市と比肩する人口集積地であり、そこでの講演会は新たに多くの知見と多くのメンバーを獲得できるのではないかと考えた事から三年半に亘り豊前での活動を続けて来たのでした。

ところが、新規の参加者は筑前、筑後、肥後、肥前の領域を中心に増えており、北九州(豊前)ではそれほどでもなかったのでした。

そうした中、高齢化の結果丁己歴史塾側では高齢化が進んでいるため、いずれは小規模な研究会に換えたいとの意向も示されていたのでした。

そうなってくると、本来の本拠地である、福岡〜太宰府〜久留米の南北ラインに戻し、北九州からは定期的な参加を受ける方が良いのではないかと思うようになったのでした。

特に、肥前でも佐賀県や熊本からの若い世代の参加者が望める事から、西に本拠地を移した方が良いはずなのです。

そういう事情があり、10月から筑紫野市の二日市温泉での開催に動き始めました。

現在、不定期ながらも、サテライト研究会、勉強会を佐賀県、熊本県でも行っており、これらに参加されている方々も含めて新たな場所で研究会を開催する事ができるようになったのでした。

このため、本拠地を西に移したことにはなりますが、佃 収 講演会 については来年以降も丁己歴史塾のメンバーが中心になり取り組む事にされており、もしかしたら2030年ぐらいまでは継続できるかもしれません。最近は宮崎にもメンバーが生じており長崎を除く北部九州の全域で活動しています。

一つ惜しいのは、大分県の別府市、大分市などに講演して頂いた方が56人はおられる事です。

円熟期を迎えたブロガー、古代史関係の本を出しておられる方などが活動の中心から遠のきますが、適当な泊地を準備し、講演者としてご登場して頂く事にしたいと考えています。

さて、今年最大のイベントである佃収講演を722日(土)に実施します。

既に、打てる手は打っていますが、北九州市小倉北区の会場が150人のホールであった事から、昨年の実績である60人を越え、倍以上の参加を募る事にしたのでした。

それは仕方がないと言うかたまたま空いていた会場を進められたことら受け入れざるを得なかったからでしたが、実際には目標がかなり上がった事から実際には実に大変であって、各員がそれなりの努力を必要とする事になるのです。

しかも、当会は元々メンバーが分散している事から(研究者中心の会にしたからでしたが…)、全員が一様一同に集まれるはずもないのです。

ともあれ、熊本から10名ほど佐賀からも5人程度、久留米、太宰府方面からも20名程度は小倉に向かうはずで、もしかしたら40名ぐらいまでは増えるかも知れません。

昨年の戸畑での講演会に60名を上回り、150は無理としても100人は超えそうな気がしています。

こうして得た新たな参加者を月例会に呼び入れ、将来の研究者を育てて行くのが私達の念願であり、任務であるのです。

ともあれ、熊本からも参加いただけるとすると、佐賀、熊本、北九州から二日市温泉へと集まっていただけるとすると、10月からの太宰府地名研究会の月例研究会にも波及効果が期待でき、将来への布石になるのではないかと考えています。

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豊後の「晋国残影」の安部裕治、阿部研究の阿部貞隆、ひとつあがりのカフェテラスの神田さん…、国東半島の某有名神社の宮司…外3名ほどの出筆者、ブロガーが遠くなる事です



無題.png9月高千穂(宮崎県高千穂町) 神社トレッキング+合宿のご案内


宿泊代(各自タオルケットなど持参)一泊1000円を平野研修所にカンパ

します トレッキング参加費は従来通り資料代として500円用意して下さい

大型広域農道隣接

 8月はお盆もあり、炎天下を避け休会としますが、秋口には活動を再開します。

 どの道、遠距離を押しての参加になりますので、標高の高い涼しい場所でのトレッキングで、しかも、宮崎インチキ神話としてこれまで取り上げてこなかった高千穂を取り上げます。


日程:23923日夕方45時には集合し、天岩戸温泉(高千穂町岩戸58500で汗を流します。(集合場所はアズーロが良いかと思っています)

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中心部のスーパー・アズーロ(高千穂町三田井3921で食料を調達し(翌朝の分まで…)、合宿場所の新築の平野虎丸邸(平屋ながら広い)に集まっていただきます。

阿蘇外輪山の一角で標高800ⅿのため扇風機のみで快適です。勿論、同研修所にはお風呂も準備されています。

当日夜は、各自、雑談、親睦に努め、翌早朝から5社程度を廻り最後にひのみこ社に向かい解散とします。

翌日の神社トレッキング・コース


❶ 上野神社 高千穂町上野3389

❷ ひのみこ社(全国でも珍しい個人の力で再建された神社です)お賽銭を500円程度お願いします。

➌ 下野八幡宮 高千穂町下野

❹ 瀬織津姫神社 高千穂町岩戸 一部に瀬織津姫の正体が分からずに追い求められる向きがありますが櫛稲田姫です。百嶋最終神代系譜を…

❺ 八大宮

❻ 天岩戸神社 東本宮御神水


実際には宿泊地、トレッキング・ポイントも変更しましたが、メンバーが一同に会して現地を踏むことは限りなく良い事なのです。

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2024年01月03日

982 FM局で23年佃 収北九州市講演についてお話してきました

982 FM局で23年佃 収北九州市講演についてお話してきました

20230708

太宰府地名研究会 古川 清久


七夕と言っても結構な雨が降っていた北九州市西域の若松、戸畑、八幡方面でしたが、丁己歴史塾事務局のМ女史の働き掛けもあり、知り合いのFM局で40分ほどの時間を頂き、お話をする若しくはインタビュウーを受けると言う事になりました。


太宰府地名研究会+丁巳歴史塾20237以降のスケジュール

7月期2023722(土)佃 収 講演会資料代他 1000円 ※土曜日ですのでご注意ください


無題.png講演テーマ:未定“貴国から倭の五王へそして物部の物部麁鹿火王権へ”

会場:北九州市立男女共同参画センター・ムーブ小倉北区大手町114

昨年の65日雨の中、現在最先端で活動する九州王朝研究の第一人者佃 収 先生を埼玉からお招きし、熊本県和水町の菊水史談会(5/29)講演会に連携し黒崎に於いて連続講演を行いましたが、本年も条件が整えば、単独ながらも再無題.png度、昨年の60人を上回る150人規模の講演会を実施したいと考えています。二ケ月前まではまだ、会場も内容も日時も確定していませんでしたが昨年を上回る規模で先生をお迎えできればと考えています。


無題.png

と言っても丸々40分ディレクターでもありアナウンサーでもある方が話もされるわけですから、丸々40分フルで話ができるという訳でもなく、質問にお答えしながら話をするとなると、できるだけ佃先生のプロフィールや講演内容に絞り込んだ話をせざるを得ないため事実上は上がったとこ勝負といった話になり、逆にマイナスになったのではないかとさえ思った次第でした。

 実際、これまでにもFM局での話と言うものを行ったのは何度かあり、緊張でガタガタ震えると言ったことはないのですが、極力一般の方にも分かるように話をすると時間が足らなくなる訳です。

従って、当社考えていた佃収先生の研究内容の主要で極めて重要な部分に踏み入ってご紹介するという事にはならなかったのでした。

今思えば、もうちょっと余裕を持って事前のリハ(リハーサル)が行われていたらと思うのですが、来年も取材の可能性がある訳でしょうから、徐々に改善していけば良いのではないかと思っている所です。

今回は、時間の関係から自己紹介も名前だけにして、むしろ佃 収 先生にスポットを当てる事が優先ですから、太宰府地名研究会や自分のブログなどの宣伝をするなど考えられない事で、もっぱら先生のプロフィールを描き出し浮かび上がらせることが最も重要でした。来年も話せればもっと良くしたいですね。

 佃収先生を的確に紹介すると言うのは至難の業です。

特に古代史に関心を持たれていない一般の方々にもある程度理解して頂ける様に短時間でご紹介するとなると大変なことになります。

 古代史に関して話すとしても8世紀以前の列島の国家について大まかな知識とはいわないものの、ある程度のイメージを描いてもいない人が大半であって、その中でも異端中の異端に等しい九州王朝論とか九州王朝説と言ったもの扱っているのが、当会や北九州市を中心とする丁己歴史塾だからです。

 この九州王朝に関するイメージが普及し始めたのが、1960年代後半から展開され始めた古田武彦氏による『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』…といった所謂三部作であり、その影響を受けた世代によって在野の考古学ファンが魅了され、かつ新たな民間研究団体も全国的な広がりを見せたのでした。


佃收氏の九州王権説−既存の古代史批判か古田批判かの二分法を超えて−

私たちは、次の2つの条件を満たす日本古代史を探していました。1つは古田武彦氏の提起した問題意識をしっかり受け留めていること、2つ目は三国志、後漢書、隋書、旧唐書などは言うに及ばず、契丹古伝、三国史記や桓檀古記などの中国や朝鮮の文献も調べるなどして、東アジア全体の歴史の流れの中で総合的に日本古代史を構成しているという条件です。

この条件を満たしているものに、ついに私たちは出会いました。佃收氏は、「古代史の提言」シリーズとして『新「日本の古代史」()』、『新「日本の古代史」()』、『新「日本の古代史」()』の3冊と「古代史の復元」シリーズ@Gの8冊を出版されています。作成委員会は、すべてに目を通して、大きな感激を得ました。佃收氏の著作は、日本の古文書はもちろん中国や朝鮮の古文献をも調べ、文献が指し示すことと古墳などの遺跡から出土する物的証拠などとを比較検討して、論を組み立てています。著者の想像力だけによる論考ではなく、常に判断する証拠を示し、歴史的事象の時と場所を特定しながら古代史の解明に取り組んでいます。

既存の日本古代史は記紀の内容と異なるものはほとんど認めないという立場に立ちます。これに対して、既存の日本古代史の矛盾点を鋭く指摘する古田武彦氏の論考からも、多くを学ぶことができました。例えば「九州年号」について、約半世紀前、古田氏は「九州年号」の重要性を指摘しました。これに対して、既存の古代史は「九州年号」を後世の偽作だという立場をとりました。既存の古代史の側と古田氏を支持する側の激しい論争が繰り広げられました。しかし、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘の「法興」や続日本紀の神亀元年冬十月条の記事での「白鳳」と「朱雀」、その他各地での古文書などからも、偽作ではなく、その時代に明らかに流布されていたものであることが確認できます。更に、偽作か本物かの論議を超えて、佃氏は『新「日本の古代史」()』、『新「日本の古代史」()』の中の「九州の王権」と年号(その一)〜(その六)と題する文書によって、「九州年号」を導きの糸として、阿毎王権(俀国)、上宮王権、豊王権、天智王権、天武王権の姿を描き出し、6世紀、7世紀の日本の歴史の輪郭を見事に叙述しています。

隋書俀国(たいこく) [既存の日本古代史では隋書倭国伝と呼ばれている] に出てくる俀王多利思北孤は既存の古代史では聖徳太子であるとします。これに対して、古田氏は、俀王多利思北孤は九州王朝の上宮法皇であるとしています。私達は両方の主張に疑問を持ちます。この他にも、古田氏が主張する歴史的事象の中には首を傾げざるを得ないようなことも多々あります。

既存の日本古代史が正しいか、古田氏の説が正しいかを論じることを超えて、新たな日本の古代史を構築していく時期に来ているのではないでしょうか。記紀だけを正しいと認めるのではなく、今まで偽書として排斥されてきた文献や、中国や朝鮮の文献、更には多くの蓄積されてきた物的資料なども参考にして新しい日本の古代史を作りださなければなりません。そう決意して、佃氏は「歴史の提言」シリーズの題名を『新「日本の古代史」』にしたと思われます。

有名な古田氏の九州王朝説とはまた別の九州王権説を展開される佃氏の著作は、このように日本古代史の解明に大きく寄与できる内容であると思われますが、一般にはほとんど知られていません。佃氏は佃收著作集ホームページ作成委員会の要請に応じて、出版したすべての本をホームページ上にアップロードすることに同意してくれました。作成委員会は、著作を紹介すると共に、多くの皆様に佃氏の詳細で緻密な論考に接していただくために、「古代史の提言」シリーズ『新「日本の古代史」()』、『新「日本の古代史」()』、『新「日本の古代史」()』の3冊と「古代史の復元」シリーズ@Gの8冊、計11冊の全文をpdfファイルでアップロードしました。

佃氏の著作に触れられた皆様が、新たな日本古代史の構築に向けて少しでも参考になることがありましたら、作成委員会としては大変幸甚に存じます。

(作成委員会代表 本多)


 対して、佃収先生はこうした流れの中で生み出された古田九州王朝論とは別系統の東アジア史、東洋史研究の流れから生み出されたむしろ独自の研究者であって、少数派の九州王朝論の中でも極めて限られたものだからです。

 勝手な推定ですが、恐らく自ら意識した九州王朝論者が100人いるとすれば、そのうち佃収氏の名を知り、そのうち5人はいないはずで、もしかしたら、1人もいないかも知らない可能性さえあるのです。

かく言う私にしても、それほどまでに知られていない佃研究と遭遇したのも高々十数年前からなのであって、まだ殻の着いたヒヨコ程度の話しで、今、思っても悔やむばかりです。

ところが、その内容を知るにつけ、佃研究とは空恐ろしいものである事が分かってきたのでした。

ここでは邪馬台国九州説(酷い話ですが、全国には候補地が50だか100だかあるとして行われている邪馬台国〇ンポジウム)などと言った他愛もないものは問題外として、古田九州王朝論にあっても、基本的には卑弥呼の邪馬(壱)台国が8世紀初頭まで連綿として存続していた…といった理解が普遍的で広く広がっていたのでした。

ここでは、佃研究の際立った独自性というものを申し上げておこうと思います。

特に印象深かったのはこれまでの九州王朝論者の中でもかなり違ったものだったのでした。

その一つは、何系統かの異なるものが複数どころか5系統では収まらない九州年号の系統にも反映されており、それらが異なる王権として複数の国家が対立若しくは併存している時期もあり、実際にはそれらが磐井の乱にも反映されているとの考察も存在しているのです。

事実、後には一本化されていますが、列島の南北朝騒乱期にも北朝、南朝で各々別の年号が並立されており、こういった状況が九州王朝内にもあった事が推定できるのです。


以下、百科事典マイペディア 「南北朝時代」の意味・わかりやすい解説から


1333年鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の全国統一まで約60年間の時代。以前は政治史的時代区分として南朝と北朝とに分裂した1336年から1392年の両朝合一までをいった。建武新政は武士階級を失望させ,1335年足利尊氏は京都を占拠,持明院統の豊仁(ゆたひと)親王(光明(こうみょう)天皇)を擁立。後醍醐天皇は吉野に移った。1336年から京都の北朝は建武の年号を襲用,吉野の南朝は延元と改元,以後両朝は別々の年号を設けた。


なお、九州年号については「二中暦」外、幾つかのものがありますが、ここでは触れません。

ネット検索をして頂ければ、多くの論者によるかなりのデータが出てきます。

佃田先生は熊本県玉名市ご出身の1939年生まれの85歳に近づくお歳で、古田先生に13年遅れの研究者です。古田先生は5年ほど前に亡くなられましたが、それを考えれば佃先生からはまだまだ教えを乞う事は可能ではないかと考えています。

佃先生は前述した九州王朝多元史観とも言うべきもので独自性を示していますが、もう一つの驚くべき主張が天孫降臨してきた種族をほぼ正確に特定されている事です。

まあ、おとぎ話並みに天から天降りしてきたとされている事から、一般的には、通説派は元より九州王朝論者にあっても本気で考えている人はいなかったのですが、それをかなり正確に描き出しておられるのです。

詳しく知りたい方は、当会でも取り扱っている縮刷版(1200円)の前の方で描いておられるのです。

そして、縮刷版ではなく本著をお読みになればもっと驚かれる事になるのですが、まずは縮刷版から始められる方が宜しいかと思っています。

これも“一般的には”と言った表現になるのですが、天孫降臨を真面目に考えておられる方でさえ、直接的には中国の遼寧省、遼東半島の付け根に当たる渤海沿岸遼水上流の白狼県付近の倭城以東に拠点を維持していた二系統の倭人がいたなどとはこれまでの古代史研究者の口から発せられた事は終ぞなかったのでした。

BC5世紀に陸路で北に逃げた呉越同舟の呉の一族は、当初、中原の東表(現山東省付近=昔の洛陽の東)辺りに居た後、さらに戦乱を避け遼寧省に逃げ込み勢力を維持し、数百年を経て半島南端を経由し列島(北部九州)に雪崩れ込んでいると解析されているのです。

特に、漢や燕の圧迫もあり、安冕辰氵+云(ウン)氏と卑弥辰氵+云(ウン)氏の二系統の呉の後裔氏族が倭城や更に東の大凌河から医巫閭山(イフロサン)の一帯に避退していたというのです。

詳しくは縮刷版ではなく初期の「倭人のルーツと渤海沿岸」などをお読み頂きたいと思います。

これだけでも、元々国家に奉仕し嘘の歴史を垂れ流しているだけの通説派とその尻尾はどうでも良いとして、列島の古代史を真面目に探索している九州王朝論者の内部にもこういった研究が反映されておらず、最先端を走る佃研究の大きな視野と研究の深さに驚かされるのです。

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佃 収 新「日本の古代史」()より以下もおなじ

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今般、佃先生はこの事実を発見されましたが、「契丹古伝」の解析なくしては無し得なかった事と思います。この契丹古伝を研究した浜名寛祐(はまなかんゆう)について触れておきます。

以下、デジタル版 日本人名大辞典+Plus関東都督府の各経理部長


 18641938 明治-大正時代の軍人。

元治(げんじ)元年55日生まれ。日露戦争に従軍。明治39年第十二師団,大正2年陸軍主計監。3年関東都督府の各経理部長となる。昭和13223日死去。75歳。静岡県出身。陸軍経理学校卒。


 偽書だなんだと難癖付ける前に言う前に、濱名は関東軍の高級将校であり、国史学者などが余程怪しいと言うべきであり、私に言わせれば、「古事記」「日本書紀」の方が余程怪しいと言うべきと思っています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2024年01月06日

983 佃 収北九州市小倉講演に多くの参加を頂きました 特に遠方からの参加者に感謝します

983 佃 収北九州市小倉講演に多くの参加を頂きました 特に遠方からの参加者に感謝します

20230724

太宰府地名研究会 古川 清久


 さる2023722日(土)1300〜 丁己歴史塾+菊水史談会+太宰府地名研究会の提携により

北九州市小倉北区大手町114号ムーブ 5F大セミナールーム(定員 165人)に於いて九州王朝論者の佃 収(非古田系)氏の講演会を行いました。

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於:TEL093‐583‐3939 FAX093‐583‐5107 会場 北九州市立男女共同参画センター・ムーブ


下は、昨年の65日の戸畑講演を呼び掛けたものですが、この時は大雨の中60人規模でお集まり頂きました。今回は、それを継続し行われたものでしたが、前回を上回る規模となりました。深謝します。

熊本県菊水史談会との提携による熊本〜北九州連続講演

佃収熊本講演は5/29 10:00(菊水IC1キロ)和水町中央公民館(連絡:090-3787-4460前垣)  6月期  要:参加費資料代(注意:内容変更有)

202265日(日)13:001700 特別講演

於:北九州市ウェルとばた 北九州市戸畑区汐井町16 093-871-7200

講演者 『古代文化を考える』(同人誌)主宰 佃 収

無題.png講演テーマ 熊本は「貴国から高市天皇」ですが、戸畑では「日本人の起源」〜「倭の五王」まで

「古代史の復元」シリーズ 1 倭人のルーツと渤海沿岸など10著を越える公刊後も挑み続ける現存する九州王朝論者の最先端、最高峰、最重要の九州王朝論の視点による研究内容(非古田系)です。ネットで佃収と検索すれば「日本古代史の復元」が出てきます。


 昨年は529日から65日に掛ける連続講演をお願いしましたが、今回は単独開催となり、佃収先生を埼玉県からお呼びして行うものになりました。このため、実際にはどれほどの参加を得られるかは蓋を開けるまでは正直予測がつきませんでした。

 ところが、開催時刻が近づくと165人収容の会場は、ほぼ満席状態に見えるほどの参加者でいっぱいになりました。これには少しトリックがあったようで、三人掛けのテーブルが基本二人掛けにされており、実際には120人で満席になる状態だったようです。

 まだ、正確な集計を行ってはいませんので詳細は不明ですが、これほどの参加が得られれば上出来だったのではないでしょうか。

 さらに、もしも日曜日の開催であったならば、動員できた数は3割増しにはなっていたはずで、日曜日の会場が確保できなかったため仕方がなかったのでした。現在、非正規雇用の増大、年金支給額の縮小によって死ぬまで働かされる状態になっており、既に支給年齢の70歳化を政府は決めているわけで、週休二日制など吹き飛び、土曜日にも働く方が激増しているのです。このため、本来、参加いただける方が減るのは致し方ないのです。まあ、120人近くならば感謝すべきと言えるのです。

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佃先生もお喜びでしたし、今後とも講演をしたいと言われていましたので、もしかしたら佃収講演は継続できるのではないかと考えているところです。

 ただ、3年半ほど丁己歴史塾からの要請を受け講演者を派遣してきましたが、太宰府、久留米方面での自前の講演会が手薄となっており、10月からは筑前〜筑後〜肥後のラインに戻し、太宰府、久留米の中間で、佐賀、熊本からも集まり易い筑紫野市での講演会に戻し、北九州市での佃講演が行われる場合はそちらを優先し共同開催したいと考えています。                (20230725)古川清久

何かお気づきの点、ご質問等があれば0906298-3254当方までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記