2023年11月01日

971 15世紀の神殿がそのままの形で残されていた(補足) ”伊万里市波多津町畑津 田島神社“

971 15世紀の神殿がそのままの形で残されていた(補足) 伊万里市波多津町畑津 田島神社“

20230511

太宰府地名研究会 古川 清久


以下は以前公開した新ひぼろぎ逍遥950の本文です。

この間、佐賀県在住メンバーの増加に合わせ、少しずつですが佐賀でのトレッキングを行っています。

既に、トレッキングを行った所でもある事から、後から加わられた方については分離した形で小規模な現地探訪を行うことになります。これもそうした中の一つですが、伊万里湾に面して唐津市との境界に近い伊万里市波多津町に田島神社があります。 今回、最後尾で500年前の神殿建設痕跡をお見せします。

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田島神社 カーナビ検索 佐賀県伊万里市波多津町畑津1260


波多津町にはこの他に筒井地区、板木地区の二つの田島神社があり、その密度を考えるとこの波多津町とは田島神社の影響下にある土地である事が分かります。併せて、細い水路が神社と神宮寺と考えられる曹洞宗宝泉寺の正面まで船が入ったはずで、奥まった安全な土地に同社が置かれていたことが分かります。 

畑津 田島神社

    祭 神 多岐津姫   菅原道真   天忍穂耳命

        市杵島姫   伊弉諾命   伊弉冊命

        田心姫    大國主命

田心姫=豊玉姫は山幸彦の妃の後に大国主の妃になりますのでおかしくはありません。


  筒井 田島神社

    祭 神 湍津姫命   大山祗命

        田心姫命   猿田彦命     この枠内の3神は明治五年の無格社の追加とある

        市杵島姫   大山咋命

田心姫=豊玉姫は山幸彦の妃ですので、猿田彦=ニギハヤヒという表現もおかしくはないのです。

 市杵島姫は阿蘇高森の草部吉見の妃になり大山咋を生みますので母と子の関係です。


  板木 田島神社

    祭 神 田心姫命   三島大神   神皇産霊尊   高皇産霊尊

        湍津姫命   天満大神   大山祗命 この枠内の7神も明治五年の追加とある

        市杵島姫   品陀和氣命  倉稲魂命          以上「佐賀県神社誌要」

三島大神は愛媛の大三島の大山祗神社でしょうから三島大神と大山祗命とは重複に見えます。


祭神に系統的な統一性がないなあと感じていましたが、明治5年神仏分離令期の反映のようです。

奉斎神を見るとかなり異なった民族(刺激が強すぎますかね)が混住していたことが推察されます。

非常に近接した集落でこのような祭神が奉斎されているのは歴史の古さから来るものか、この三集落には異なった氏族であり、父方、母方で異なる家系が反映されているのかも知れません。


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「佐賀県神社誌要」は要点だけを纏めたもので無いより有難い程度のもので仕方がありません。
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唐津市呼子町の田島神社含めれば10社近い集積が確認できる訳で、宗像大社の辺津宮の大字田島も西から東へ展開したのではないかとの推定が可能かも知れません。

 1936年の「佐賀縣史蹟名勝天然き紀念物調査報告」の呼子町の田島神社の部分を読むとそう書いてもあるのです。


無題.png以下伊万里市のHP

(2009108日更新)国指定重要文化財 建造物 田嶋神社本殿

波多津町畑津1260番地 昭和62年(1987)6月3日指定       

無題.pngこの神殿がこれまで見てきたこともないとんでもなく素晴らしいものだったのです。

 再度、撮影をし直し皆様にお見せしたいと思います。

 ただ、SDカードを抜いていたため撮影できなかったのです。

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画像は「おまいり」より


佐賀県在住者の方はほぼご存じと思うのですが、太閤殿下の大陸進出の前線基地となった唐津市の呼子、旧呼子町の沖に浮かぶ壁島に田島神社(国幣中社)があり、宗像大社と同様の三女神が祀られているという事実です。

佐賀県唐津市呼子町加部島3965-1

主祭神: 田心姫尊 市杵島姫尊 湍津姫尊 まさしく宗像三女神です。

 では、安芸の宮島のルーツと考えている福岡県飯塚市鹿毛の厳島神社をご覧下さい。

 この神社は歴代白王家が守ってきましたが、明治の神祇官からの強要で「白王」姓は天皇に対して不敬として変名を命じられ渋々王の横一棒を抜き白土姓に変えておられます。宮司家男子だけは白+、を使用することにされています。

宗像三女神の筆頭に掲げられる事の多い市杵島姫(正確には瀛津嶋比賣命)命の名は由来する以上に、市杵島姫の幼名の佐與姫の佐與という大字が鹿毛に隣接して存在することから、市杵島姫はこの地に住んでいたから佐與姫とも呼ばれていた可能性が考えられるのです。

ちなみにこのは秦の始皇帝の(嬴政=エイセイ=インチョン)でもあるのです。

飯塚市鹿毛馬(かけのうま)の厳島神社は宗像三女神を祀るのは、宗像大社、安芸の厳島神社以上の神格を持った神社だったはずなのです。

そして、その構造は更に東に飛び、兵庫県但馬(田島)に隣接する佐用町の佐用都姫神社の市杵島祭祀にまで繋がっているのです。


無題.png 厳島神社 カーナビ検索飯塚市鹿毛馬1088


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このように宗像系氏族(基本的には天御中主命と金官伽耶にいたトルコ系匈奴ウナシアシカビヒコヂ=大山祗命の父神、大国主命の祖父神)は西から東に展開しているのです。これが畑津、筒井、板木の三社にも大山祗命、大国主命祭祀が残っているのではないかと考えています。

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 佐世保の沖、西海市には呼子ノ瀬戸、七ツ釜…玄海灘と対応する地名があるのです

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呼子の田島神社を考える時、佐世保から北上している可能性も見ておくべきなのですが、やはり重要なのは、秦氏の神社としての田島神社の東への移動を意識しておくべきで、分かり易い例は、唐津市湊(湊厄神社あり)の「湊」地名と、宗像大社の辺津宮正面の神湊の「湊」地名であり、この湊地名は日本海側に展開しているのです。

 山口県長門市仙崎、島根県太田市湊、温泉津町福光湊、鳥取県境港の湊町、鳥取県岩美郡岩美町湊神社、岡山県岡山市中区湊、兵庫県南あわじ市湊…まだまだありますが、これぐらいで、残りは皆さんで。

 では、宗像三女神を奉斎する氏族とは一体何なのかを考えておきましょう。

学者の世界でも始皇帝はイスラエル系であり、周王朝も同様だと言う話は比較的流通していますが、百嶋由一郎氏も同様の話をされていました。ここでは百嶋先生が残された最終神代系譜から改めて考察したいと思います。

ただ、三女神は姉妹であるなどと言った話は誤りですので、始めからそのような事は頭の片隅から消し去っておいていただきたいと思います。

 勿論、親族ではありますがかなり離れているものもあり、まあ、大きな葬儀などでは一堂に会することもあるだろうと言う程度の関係ではないかと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分) これまでにも何度となく触れていますので説明はしませんが、鴨玉依姫が京都の下賀茂の主神になっており、豊玉姫は田心姫、市杵島姫はスセリ姫…に対応します。



無題.png国指定重要文化財 建造物田嶋神社本殿

波多津町畑津1260番地(伊万里駅より車で35分)

昭和62年(198763日指定


以下、前回、撮影に失敗していた肝心の部分500年前の神殿建設の痕跡を再度撮影しましたので、以下画像のみお見せ致します。

今回は、これだけがブログの目的となります。


 どうしてもこの神殿をご覧になりたい方は当方までご連絡ください090-62983254(古川)…


前回撮影の失敗から掲載できなかった中世神殿建設の精華を再掲載しご覧に入れます

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ご覧のように覆いが掛けられており一般の方が神殿を見る事はできません

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建造が難しいと思われる部分、精巧な技術が投入される部分にも手斧(チョウナ)の痕跡があります

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2023年11月03日

972 気ままな上州への神社調査 ⓯ “群馬県甘楽郡甘楽町金光山白倉神社”

972 気ままな上州への神社調査 ⓯ “群馬県甘楽郡甘楽町金光山白倉神社”

20230511

太宰府地名研究会 古川 清久


 既に、戸隠神社を最後に今回の甲信+上州(一部、伊豆+駿河)への一ヶ月の神社参詣のレポートを一旦は閉じました。

 絶対書くべき事を書いてしまい気が楽になった以上、今後は気を抜いて少し自由に書いてみたいと思います。

 もうそろそろ、戻って来て一月になり、今や、チェーンを持って調査に行ったことが不思議に思えるほど暑さを齎す好天に恵まれ、毎年この時期に行ってきた温泉付き別荘と言うか研修所のウッド・デッキの塗装に取り組んでいるところです(まあ、少しずつやりますので、一週間は掛かるでしょう)。

 さて、関東在住メンバーのTと別れた後、一人で神社を廻っていると、金山彦系、天御中主系と思える神社をカーナビで見つけたためかなり走った後でしたが引っ返して参拝させて頂く事にしました。

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前橋、高崎、安中、富岡、藤岡、仁井田…と群馬県の中心部に近い一角に甘楽(カンラ)町があり白倉神社があります。

妙義山、榛名山、赤城山と名だたる物部系とも言える特殊な神々が祀られ、それらを奉斎する人々が山岳修験として支え、一旦必要がある時は直ぐに山々に立て籠もりパルチザンのような抵抗勢力を形成することが出来たはずなのです。

その延長上に赤城山の国貞忠治もあったはずで、一夜にして、一帯から300人もの命も捨てる子分が集まり、侍共も容易には手を出せなかったと伝えられているのです。

まあ、そんな話は忠治親分に失礼かも知れないのでヤメておきますが、それも山岳修験だらけの上州故なのかも知れないのです。まあ、江戸時代も悪代官とか越後屋みたいな連中は居たでしょうから…。

間違いなく義賊ですね!上州はヤクザ者、逃亡者と言えばお叱りを受けるでしょうが、私にとっては素晴らしく立派な人々が闊歩していたと言うイメージを持っています。

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さて、話がとんでもない方向に流れてしまいましたが、これほどの物部氏といわれる多くの職能集団が住み着いていた地帯ではあるとしても、平野部にもそのような祭祀があるのではないかと探していると、たまたまカーナビに白倉神社が浮かび、天狗の神社とも言われていることが分かれば間違いないと思い参拝に至ったのが同社でした。

 天狗はともかくとして初めに目についたのは立派な舞殿があることでした。

 由緒には「太々神楽」が継続されていると

書かれていました。同じ富岡、甘楽の神社のと合同か連携され継続されているのでしょう。

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和銅年間に小幡氏による鉱山開発に伴い金山彦を祀ったものである事が書き留められていました。

そして、天狗を奉斎していると言うこと自体、鼻の高い天狗に象徴される渡来系の集団と配下の人々が命かけで地下に潜り込み鉱脈を探り坑道を掘っていく危険を緩和するために祀ったものが、この神社の本質だったのです。

その意味では、群馬県一帯という古代には相当に山深い地域にはそれなりに有力な交易品としての金属精錬、冶金、探鉱などといった山師による産業が存在し、価値ある土地柄だった事が見えてくるのです。

百嶋由一郎が残した神代系譜にはその一端が書き残されています。最低でも榛名山の金山彦、赤城山のウマシアシカビヒコヂが見えてくるでしょう。以下ご覧ください。

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078超細密金神系譜 (2)


百嶋由一郎が残した神代系譜DVD、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要とされる方は090-62983254までご連絡ください

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JA甘楽のサイトに白倉神社本宮に関するものがありましたのでご紹介しておきます。

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2023年11月06日

973 気ままな上州への神社調査 ⓰ “上州〜信州 国界碓氷峠の碓氷神社”

973 気ままな上州への神社調査 ⓰ “上州〜信州 国界碓氷峠の碓氷神社”

20230513

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回は二度(延べ56日)群馬に入りました。

できるだけ多くの知見を得るためにと各々往路も帰路も変えたのですが、最後は碓氷峠を越え軽井沢を経由して戻ろうと考えていました。

恥ずかしながら、これまで“峠の釜めし”で知られる碓氷峠を越えた事がありませんでした。


峠の釜めしは、群馬県安中市にある「荻野屋」が製造・販売する駅弁である。 益子焼の土釜に入れられているという点が特徴の駅弁で、「日本随一の人気駅弁」と評されたこともある。     Wikipedia


碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は956メートル (m)。                         Wikipedia

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碓氷峠の連続めがね橋鐡道橋は良く知られていますが、と言っても、もはや知る人が消え始めています。少なくとも日本海側と関東=帝都を繋ぐ大動脈と考えていたことは間違いがないのです。

 そうでなければ、この難関の僻地にアプト式だかアブト式だかのドイツの技術を持ち込んでまでの工事はやらなかったはずなのです。

 ただ、25年ほど前に廃線になったとは言えこの鉄道橋が原型を留めている事には明治以来の旧国鉄の気迫と気概と技術への執着が今も日本人の気質に継承されている事に感動さえ覚えます。

 間違っても半島某国のSK○○〇○○〇などのとんでもない好い加減な仕事でないのだけは確かで、色々と問題はありますが、良い国に生まれ育ち終末を終える事が出来そうだと言う静かな喜びを噛みしめている所です。

 いずれにせよ、道路も鉄路も何時しか路線も変わり、新幹線や高速路に代わっていくのです。

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まあ、釜めしや百数十年現存している鉄道橋の話は終わりにして、碓氷峠の手前の安中市松井田に碓井神社が在ります。

これも事前調査で見ようと思っていた一社ですが、群馬県側でもかなり離れた手前に碓井神社が在るという事は、この碓井という地名は群馬側から付された地名である可能性が高いでしょう。

そういう意味では、この地名を付した人々の本拠地は群馬県側であり、そこに祀られている神々が分かれば、この地の成立が如何なる経緯で始まったかがおぼろげながらも見えてくるのではないかと思うのです。

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これは横川駅手前の信越線?です。正面奥は碓氷峠ではなく、この線路の延びた右手が碓氷峠になります。そして、碓氷神社は線路に向かう背中側にあるのです。

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簡単に言えば、神社への参道を線路が叩ききった様に見えるのです。

信越本線ですから、当時は本数も多かった事でしょう。最低でも跨道橋ぐらいは造られるべきだったのですが、踏切はあったのかも知れませんが、参道の正面ではないのです。

重要線路でもこのようなものは何度か見た事があります。

 旧郷社クラスでも配慮されない事はあるでしょう。ましてや村社クラスでは…となるのです。

 正面にも大きな谷が見えますが、案の定、ダムが造られています(中木ダム)。

 びっくりするのは御所平という字があるようで交差点名として残っているようなのです。

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導入部が長過ぎました。それほどの大社でありませんがご覧下さい。

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グーグル検索を行うと、始めから安心できる情報を頂けました。最近は「村興し」「町興し」「世界遺産登録」と言った行政がらみの旅行代理店だかグルメ宣伝高だか通販サイトなどと変わらぬものまで増えており、行政は行政らしい本来の民衆のための活動をすべきであってどうにかならないかと嘆くばかりです。早速引用させて頂きますが、私の考えが甘く早とちりであった事が分かりました。

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碓氷神社:群馬県安中市松井田町五料2131 


碓氷峠の熊野神社の分霊を勧請


取敢えずお読み下さい。簡潔ですが明瞭です。

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場所(旧碓氷郡五料村字御所平)JR西松井田駅より中山道(国道18号)沿いに西に徒歩約1時間。
標識がいたるところにあり旧道をたどるのは結構面倒。五料で信越線の向こうに鳥居が見える。
鳥居の側には「庚申塔」「二十三夜塔」の石碑が立つ。…

社殿は鳥居から急な石段を上り詰めた所に山を背にして鎮座。境内には社務所?、神輿倉庫?、石灯籠の他数基の石造物がある。本殿は覆屋に囲まれ見ることができない。拝殿を覗くと、「三社大明神」たる神額が掲げられていた。

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御祭神

速玉之男命、伊邪那美命、事解之男命 (御祭神は「上野国神社明細帳」より参照


御由緒

不詳 碓氷神社の創建は不詳であるが碓氷峠に鎮座する熊野神社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。


建久年間(119099)、源頼朝浅間山巻狩の際当神社に祈願せられ、尚又当所境内に御所を置かれたにより地名を御所平と称す。南北朝時代に入ると碓氷郷一ノ宮となり広く信仰を広め、慶安年間(164852)に碓氷峠の熊野神社の里宮となり社殿を改築し碓氷神社と改称する。明治四十二年村内の各社を合祀する。(「松井田町誌」参照)


 必要な事は全て書かれています。ネットには県神社庁のサイトがあります。あるのかどうかも調べていませんが、さすがに「群馬県神社誌」まで買おうとは思いませんので非常に助かりました。まず、鳥居の側には「庚申塔」「二十三夜塔」の石碑が立つ。に関してですが、私が住む九州では、既に三夜待ち と呼ばれ、今では宴会そのものをそのように呼び習わしています。ただ、現在でも月待ち神事として伝統を守っている所もあります。これからも九州との関係を強く意識したのですが、関西圏では薄く、むしろ山梨など関東圏にこの風習が強く残っていると思っています。十三夜もあるのですが、二十三夜の遅い月の出から明け方まで火を焚き続け、酒盛りを行う風習がある事を複数知っています。これが関東に多い事に気付いたのは十年前でしたが、浅間神社を巡ると多くのこの講の石塔がが目につきます。


以下、「日本大百科全書(ニッポニカ)」より


旧暦23日の月待(つきまち)行事の一つで、全国に広く行われている。毎月行っている所もあるが、いちばん多いのは159月の3回に行っている例である。1123日は大師(だいし)講の日なので、この日も広く行われている。土地によっては二十三夜は男だけで、女は二十二夜にしている所もある。二十三夜の月は出が遅いので、当番の家に集まって簡単な酒肴(しゅこう)を前によもやま話をして待つ。二十三夜講をつくっている所では二十三夜塔という記念碑を立てている例もある。二十三夜の月のさまを見てその年の作物の豊凶を占っている土地もある。


祭神の 速玉之男命、伊邪那美命、事解之男命についてですが、皆さんこの神様に関する具体的なイメージが浮かびますか?

伊邪那美命は最も分かり易いはずで、国生み神話のイザナギ、イザナミの女神様の方ですね、では、何故、イザナギは祀られてないのでしょう。

これについては以前にも何度も書いていますので、改めては書きませんが、神社に詳しい方はある程度お気づきになっていると思いますが、有名な琵琶湖の多賀神社などではイザナミ+イザナギという夫婦神として祀られていますが、熊野系神社ではイザナギとイザナギが夫婦神で祀られているケースは少なく、大半はイザナミ単独で祀られている方が圧倒的に多いはずです。

それは分かれているからです。


第五段一書(十)

一書曰、伊弉諾尊、追至伊弉冉尊所在處、便語之曰「悲汝故來。」答曰「族也、勿看吾矣。」伊裝諾尊、不從猶看之、故伊弉冉尊恥恨之曰「汝已見我情。我復見汝情。」時、伊弉諾尊亦慙焉、因將出返、于時、不直默歸而盟之曰「族離。」又曰「不負於族。」乃所唾之神、號曰速玉之男次掃之神、號泉津事解之男。凡二神矣。及其與妹相鬪於泉平坂也、伊弉諾尊曰「始爲族悲、及思哀者、是吾之怯矣。」時、泉守道者白云〜

〜「有言矣、曰、『吾、與汝已生国矣、奈何更求生乎。吾則當留此国、不可共去。』」是時、菊理媛神亦有白事、伊弉諾尊聞而善之。

乃散去矣、但親見泉国、此既不祥。故、欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門、然此二門、潮既太急。故、還向於橘之小門而拂濯也。于時、入水吹生磐土命、出水吹生大直日神、又入吹生底土命、出吹生大綾津日神、又入吹生赤土命、出吹生大地海原之諸神矣。不負於族、此云宇我邏磨茸。

現代文訳 第五段一書(十)

ある書によると……

イザナギはイザナミを追いかけて辿りついて、言いました。「わたしは、お前を失って悲しいから来たのだ」するとイザナミは答えました。「つながる者よ(=夫)。わたしを見ないでおくれ」イザナギは従わずに、イザナミを見てしまいました。イザナミはそれを恨み、恥じて「あなたはわたしの心を見た。わたしもあなたの心を見てしまった」と言いました。それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず「別れましょう」と言いました。イザナギは「負けない!」と言いました。その時吐いた唾が神となったのが速玉之男(ハヤタマノオ)といいます。次に穢れを払うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)といいます。二つの神が生まれました。

日本神話・神社まとめ による


 確かに分かれている様なのです。これについても、故)百嶋由一郎は“どうも大幡主(博多の櫛田神社の主神で実はカミムスビ神)と一緒になっているんじゃないか…”と気付いた(福岡県旧夜須町で…。と話しておられました。

 速玉之男(ハヤタマノオ)と言えば、熊野神社にお詳しい方は熊野速玉大社が頭に浮かばれるのではないでしょうか。その通りなのです。速玉が造化三神のカミムスビ神なのです。

 ついでに言えば、熊野那智大社の祭神が別れたイザナミであり、名を変えクマノフスミの命としているのです。

 この様に百嶋神社考古学は単純ではなくなかなか一筋縄では行かないのです。

 このため、事解之男命が誰なのかが非常に難しく、過去のブログでももしかしたら誤まって書いているかもしれませんが、大体、イザナギが死んで二人の神が生まれ変わるか生まれるという話が奇妙で、泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)が理解できないでいるのです。私も、過去、カミムスビかその子のヤタガラスだろうとか、金山彦だろうと書いていますが、混乱の結果です。

そもそも、この日本書紀の記述も非常におかしな書き方をしているのです。

どうせ、国文学者辺りに問うても解からないとしか言わないでしょう。マッカーサー以後の80年の米軍占領と、神社研究の禁止によって研究が途絶えているのです。勿論、今もです。

してみると、この神社も、かなり、原形を保った祭神である事が分かります。

一応、イザナミは良いとして、カミムスビと金山彦(カグツチ)としておきます。


不詳 碓氷神社の創建は不詳であるが碓氷峠に鎮座する熊野神社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。


南北朝時代に入ると碓氷郷一ノ宮となり広く信仰を広め、慶安年間(164852)に碓氷峠の熊野神社の里宮となり社殿を改築し碓氷神社と改称する。明治四十二年村内の各社を合祀する。(「松井田町誌」参照)


 この様に、碓氷峠の熊野神社に行かなければと思いながらもパスしてしまい、安中市松井田に碓井神社を発見し、これで省略したのが間違いでした。

 また、九州からこの神社の為だけに出てくるのもたいへんで、まだ、チャンスはあると思いますが、少し確認作業は遅くなりそうです。これだけに関わっている訳には行きませんので。お許しください。

 どうやら、もう一度、軽井沢に行かなければならないようです。

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ご覧の通りイザナギは排除されていますね!これこそが熊野系神社の神髄なのです。


神社の縁起によれば、景行天皇40年(西暦110年)大和朝廷の命を受けた日本武尊は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て碓氷坂に差し掛かった。折りしも濃霧により道に迷われてしまったが、その時紀国熊野山の神使霊鳥である一羽の大きな「八咫烏」が現れ、梛(なぎ)の葉を咥え来て尊の御前に落としながら道案内をした。そして尊は無事頂上に達することができた。尊はこれはまさに熊野の神のご加護とここに熊野の神を勧請したのが始まり。

 碓氷峠に立って自分が登って来た方角を振り返って見れば、そこには棚引く雲海が見られ、武尊はそれより海を連想され、東征の途中に相模灘で入水された弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲ばれ、辰巳の方角(=東南の方角のことで関東平野が一望できる)に向かって「吾嬬者耶(あづまはや)」(=「愛しき我が妻よ」の意味)と3度嘆かれたという。

 以後ここより東の国を吾妻(あづま)と呼ぶこととなった。(日本書紀の記述による)これらの御由緒より、それに因んだ地名が残っている。例えば、神社の裏山の頂上を留夫山(とめぶやま)(=武尊の足を留めさせた場所の由緒から付いた名前)。あるいは、長野原(ながのはら)や長倉(ながくら)は、嘆きある原が語源と伝わっている。

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