2023年10月01日

951(前) 続2023年 丁己歴史塾(太宰府地名研究会提携)講演会年間スケジュールについて 

951(前) 続2023年 丁己歴史塾(太宰府地名研究会提携)講演会年間スケジュールについて 

20230226

太宰府地名研究会 古川 清久


以下はひぼろぎ逍遥(跡宮)版949として当会と提携団体(丁己歴史塾)の年間公演スケジュールを書いたものです。

2023年度の講演予定者をリスト・アップし、いつでも対応でき、他の団体にも講演者の派遣を行える体制を企図したものでした。

事実、多くの史談会、郷土史会、地名研究会も休会から解散に追い込まれています。

理由は、自前の研究者、世話人は元より講演者を失い、通説派の教育委員会関係者、学芸員などのありきたりの話にうんざりさせ続けた事が原因だったのです。

こうした中、我々の会は研究者による組織、連合体に変える必要性を感じておりここ6年で当会はそういった体質に徐々に変わってきたのでした。


NO.

講演予定者名

経歴等

講演テーマ

居住地

備考

1

井上 悦文

書道家

草書体で解く邪馬台国の謎」他著

「邪馬台国は朝倉にあった」卑弥呼の墓は山田大塚古墳

日田市

 

2

阿部 貞隆

建築士

陸奥安部氏累代の古文書が語る逆説前九年合戦史」近著他

北九州の阿部一族について

大分市

 

3

伊藤 まさ子

ブロガー

「宗像・宝満・沖ノ島」著

北九州に残された古代史の謎

“古代祭祀線から見る神武東遷”

福岡市

 

4

大石 耕史

歯科技工士

blog「くじら通信」管理者

古遠賀湾の物部25部族について考える

久留米市

 

5

小島 宗光

曹洞宗僧侶

調整中

五つのテーマのどれでも話し致します

テーマの絞り込み中

伊万里市

 

6

田中 興人

醸造家

日本美術刀剣保存協会佐賀県支部長

古代の剣と刀について

伊万里市

 

杉山 宏治

建築士

Blog「事代主のブログ」管理者

香春神社と高良大社

筑紫野市

 

8

古川 茂

醸造家

blog「幡随院長兵衛」管理者

古代の酒と醸造業

“無法松と幡随院長兵衛”

佐賀市

 

9

阿部 裕治

古代史研究者

「晋国残影」著

磐井の乱とは何だったのか?継体紀、欣明紀から読み解く磐井

別府市

 

10

神田 浩

獣医師

blog「ひとつあがりのカフェテラス」管理者

速吸姫神社と関門海峡

大分市

 

11

江原 不可止

宮司

大帯八幡社宮司

関門海峡と周防と姫島

姫島村

 

12

古川 清久

元自治体職員

「有明海異変」著

blogひぼろぎ逍遥(跡宮)外管理者

古代豊の国は関門海峡を挟んで長門まで及んでいた防府の玉祖神社とは何か?“

日田市

 

13

予備

宮原 誠一

Blog「宮原 誠一の神社見聞諜」管理者

神武と天照は福岡市南区柏原と桧原に住んでいた

久留米市

 

14

予備

Dr.大津 忠彦

出光財団イラク発掘調査団研究員

「イラクの洪水伝説とノアの箱舟」

イラク発掘調査の別バージョン

小郡市

 

0

別枠 佃 収

古代史研究家

新「日本の古代史」(佃説)外数

「倭の五王」の倭国(佃説)から再度

埼玉県越谷市在住

 

 外にも講演可能な方はおられますが、年に10回程度の講演では椅子取りゲームになってしまいます。

当然にも、久留米市、熊本県西原村、小郡市、佐賀市などでのサテライト開催も含め自前でこれだけの論者を保持できれば教育員会関係者、学芸員などから通説まがいの情報を鵜呑みにする必要もないはずで独自の研究体制を維持できるはずです。

講演依頼も含めご提案があればご連絡ください。太宰府地名研究会(編集員)古川 090-62983254

太宰府地名研究会+丁巳歴史塾20234以降のスケジュール


以下はあくまでも仮案です! 7月期 20237月□□日(□)計画中:資料代他未定     

昨年の65日雨の中、現在最先端で活動する九州王朝研究の第一人者佃 収 先生を埼玉からお招きし、熊本県和水町の菊水史談会(5/29)講演会に連携し黒崎に於いて連続講演を行いましたが、本年も条件が整えば、単独ながらも再度、昨年の60人を上回る100人規模の講演会を実施したいと考えています。まだ、会場も内容も日時も確定していませんが、昨年を上回る規模で先生をお迎えできればと考えています。久留米での開催も視野に入れています。


さる129日、福岡市南区の油山の麓の柏原、桧原という古代史の舞台と考える両地区の羽黒神社、五社神社、埴安神社への新春三社詣りトレッキングを行いました。寒い中ではありましたが普段を上回る25人の方々に参加して頂きました。この企画は宮原誠一氏のブログに端を発したものでしたが当日はblog「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原氏の案内もあり参加者一同が感激されていた様でした。一方、春から百嶋神社考古学の勉強会が始まります…としましたが、講師の宮原さんの意向もあり数か月間見合わせます。同氏は筑前、筑後の神社研究の第一人者ですが、諸般の事情で遠方での講演が出来ません。そこで集まり易い西鉄甘木線沿線の市の施設で貴重な神社の話を聴きたいと思っています。なお、春からできるだけ早い時期に開始する方向で検討中です。興味をお持ちの方は「宮原誠一の神社見聞諜」207“福岡市桧原の天照大神祭祀氏族”をお読みください。

柏原は、奈良の橿原考古学研究所の橿原になお変え付近には神武天皇陵があります。一方、奈良県桜井市の檜原には天照大御神を祀る三つ鳥居の桧原神社があるのです。つまり福岡の柏原、桧原が奈良の樫原、檜原に化けているのです。このことが分かれば、三社詣の意味も分かります。百嶋由一郎氏からは、“柏原には神武天皇が、桧原には天照大御神の御弟姉が居られていました。”と言われていたことを思い出さずにはいられません。

無題.png

神武天皇は巡行を行い、開化天皇期に臣下としての崇神が四道将軍を指揮したのです。その神武僭称贈る崇神が東征を行ったとして後世の藤原などが捏造を行っているのです。しかし、九州王朝も仁徳期には東遷を行っています。これらがその際のものか後世の近畿大和朝廷による捏造のテーマ・パークかはいまだ不明です。

無題.png
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951(後) 続2023年 丁己歴史塾(太宰府地名研究会提携)講演会年間スケジュールについて 

951(後) 続2023年 丁己歴史塾(太宰府地名研究会提携)講演会年間スケジュールについて 

20230226

太宰府地名研究会 古川 清久

「甲子年五□□」の読みですが、最後の2文字は「月中」…とされています。象嵌は熊本の伝統工芸肥後象眼にも通じていそうですが、西暦605年で良いかどうかも含め考えるべきでしょう。

小倉を中心とする提携組織丁巳歴史塾の新年度の講演リストの試案の作成依頼が入りました。

一年分と言っても、お盆、歳末には講演を中止する可能性もありますので、12人分のリストを作っても翌年度に繰り越すことにもなるかも知れません。

また、不慮のトラブルによって代理講演も必要になりますので、最低でも12人をノミネートして、予備に23人を準備しておく必要もありそうです。内容も含めあくまでたたき台のたたき台と考えて下さい。あくまでも試案ですので、あまり考えずに作成しようと考えています。講演日程も含め以下順不同。

以下は仮案です。重複の為省略。

 外にも講演可能な方はおられますが、年に10回程度の講演では椅子取りゲームになってしまいます。

当然にも、久留米市、熊本県西原村、小郡市、佐賀市などでのサテライト開催も含め自前でこれだけの論者を保持できれば教育員会関係者、学芸員などから通説まがいの情報を鵜呑みにする必要もないはずで独自の研究体制を維持できるはずです。

講演依頼も含めご提案があればご連絡ください。太宰府地名研究会(編集員)古川 090-62983254

2023年新年度1/445月講演リスト

講演者

 

講演内容

居住地

 

4/16

田中 興人

元醸造家

(二部構成)




日本美術刀剣保存協会佐賀県支部長

❶「熊本城出土の甲子年号象嵌刀剣とは何か?」

伊藤 まさ子

「太宰府・宝満・沖の島」著者

blog(「地図で知る古代史の謎」)管理者

❷「日本の刀とは?また刀と剣の違いとは?」

田中 興人

日本美術刀剣保存協会佐賀県支部長

福岡市東区箱崎





佐賀県

伊万里市

 

5/21



小島 宗光

曹洞宗僧侶

現 七宝神社宮司

「史観と古代史」

“明治の廃仏毀釈で消された七宝神社復活の系譜”

佐賀県

伊万里市

 

6/18

阿部 裕治

古代史研究者

「晋国残影」著者

「磐井の乱とは何だったのか?継体紀、欣明紀から読み解く磐井」

大分県

別府市

 

さて、ご覧になられた通り、23年の219日(日)には姫島の大帯八幡社の江原宮司のお話をお聴きしました。テーマから自社についての話をされませんので、どの様な神社であるかについては当方で代行してご説明させて頂きたいと思います。実は、同社は最も難解な神社の一つで大きなハードルを越えようやく一つの解を得たと言うのが真相です。それでも、尚、考えて見たいと思われる方は、以下の30本近いブログをお読み下さい。これだけ書かなければ金属精錬に関わる同社の解読はできなかったのです。


拙稿 大帯八幡社 ひぼろぎ逍遥(跡宮)より 全て同社の解明に関係します

863

二つの鳥之子の分布状況を敬愛する玄松子様のデータから

862

鳥之子(天日鷲)も祀る天目一箇神とは鳥之子の祖神=ヤタガラス “熊本県山鹿市薄野神社”

860

日置姫とはもう一つの鳥之子「武夷鳥」の母神の“瀛ツヨソ足姫”なのか?

859

もう一つの鳥之子 武夷鳥 を祀る神社を探る “周防の防府天満宮”

858

新潟に鳥之子三宮神社があった

857

鳥子三宮神社の基底部を探る A

856

鳥子三宮神社の基底部を探る @

855

古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社の主神)は天皇扱いされた 香春神社

854

古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社の主神)は天皇扱いとされた 疋野神社

836

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か M “大帯姫か大足姫か?”

835

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か L “ツヌガノアラシトは何を…?”

834

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か K “スサノウは姫島に来たのか”

833

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か J “国東の姫島から周防の柳井へ”(下)

832

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か I “国東の姫島から周防の柳井へ”(上)

831

「古事記」中つ巻  孝霊編 H “卑弥呼宗女伊予=細姫を妃とした開化天皇の祖父神”

830

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か H “肥後から姫島、国東へ”

829

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か G “櫛稲田姫は山鹿の稲田村で生れた”

828

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か F “大宮神社の境内摂社”

827

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か E “大宮神社の本来の祭神は金山彦”

826

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か D “玉名、山鹿から国東、姫島へ”

825

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か C “では大帯八幡社とは何なのか”

824

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か B “何故仲哀を祀るのか”

823

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か A  "仲哀を祀る八幡宮群”

822

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か @ “消えた祭神を求めて”

821

「古事記」中つ巻  孝安編 G  “孝安は熊本県玉名市にいた景行の父神”

820

「古事記」中つ巻  孝昭編 F  “孝昭は阿蘇高森の草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミ”

819

「古事記」中つ巻  懿徳編 E “懿徳は安寧の子でなく神武ので僅かに倭人伝にも登場する”

818

「古事記」中つ巻  安寧編  D “謎だった安寧天皇とは博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ

だった”

817

「古事記」中つ巻  綏靖編 C “阿蘇氏の祖には神武の血統が継承されているとは言えないの

だが…”

816

「古事記」中つ巻  神武編 B “槁根津日古とは神武僭称贈る崇神の弟だった”

815

「古事記」中つ巻  神武編 A “神武巡幸と神武僭称贈る崇神の神武東征とを分離しよう”

814

「古事記」中つ巻  神武編 @ “笑ってしまいますが…宇沙都比古が神武を迎えたと言うのです”


 外にも講演可能な方はおられますが、年に10回程度の講演では椅子取りゲームになってしまいます。

当然にも、久留米市、熊本県西原村、小郡市、佐賀市などでのサテライト開催も含め自前でこれだけの論者を保持できれば教育員会関係者、学芸員などから通説まがいの情報を鵜呑みにする必要もないはずで独自の研究体制を維持できるはずです。

講演依頼も含めご提案があればご連絡ください。太宰府地名研究会(編集員)古川 090-62983254
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2023年10月03日

952 上州の神社調査への下調べ “榛名山神社に初参拝”

952 上州の神社調査への下調べ “榛名山神社に初参拝”

20230216

太宰府地名研究会 古川 清久


 榛名と言えば頭に浮かぶのは南太平洋での激闘の末、敗戦間際に呉港内で海上砲台として戦うも航空攻撃を受け湾内に着底した戦艦榛名でしかありません。

無題.png

無題.png確か最初にこさえたプラモデルの戦艦が榛名だったのですが、その事もあってか餓島を巡る両海軍の激突に関わる戦史、戦記も幾つかは読み、仕事で知り合った現役の海軍兵でソロモン海海戦に加わった老人からも厳しくも悲しい生の話をお聴きするなどそれなりの思いを持った戦艦だったのです。

特に第三次ソロモン海海戦では戦略的敗北を喫したのは否定の使用も無く、南太平洋での敗勢が鮮やかになった海戦ではあったのです。関心をお持ちの方はネット上にも幾つもの詳細な情報もコンテンツもありますのでお読み頂きたいと思います。

この1913年進水の艦は何度かの大規模改装を受けており、その意味では旧式の艦艇で巡洋戦艦(事実上の巡洋艦)とされていたのです。

まあ細かい事はどうでも良いのですが、今回の群馬県の神社調査で外しようもないのが榛名神社です。


軍艦榛名 2007/08/09 

来る8月15日は戦没者追悼並びに平和祈念の日であり、昭和20年8月15日は太平洋戦争の終戦の日でもあります。榛名神社には一つの灰皿が大切に保管されています。

これは榛名神社に縁のある旧海軍「軍艦榛名」の大砲から作られたものです(非公開)。

軍艦榛名は終戦時広島県江田島にて着底艦命を終え ています。

激しい戦闘で戦死された乗員の方々には心よりご冥福をお祈りいたします。

戦後軍艦榛名を引揚げ解体された企業の方から奉納された灰皿です。

榛名神社と軍艦榛名の繋がりは神社案内境内あれこれ3、軍艦榛名と榛名神社をご覧下さい。


「榛名神社」より

榛名神社の起源 延喜式

延長5年(927年)に完成したこの記録には、全国の主要な神社名を書きあげた『神名帳』があり、その中に上野国十二社の群馬郡小社とし て榛名神社は位置づけられています。

この記録に登載された神社は「式内社」と呼ばれ、格式の高い神社と考えられています。

これが榛名神社が歴史書の中で取り上げられた最初だといわれています。

したがって、この時すでに「式内社」といわれるほどの神社に榛名神社は成長していたことがわかります。

その他十世紀から十二世紀にかけて著された『三宝絵詞』『上野国交替実録帳』『僧妙達蘇生注記』などからも当時の榛名神社の様子がうかがえます。

無題.png

榛名神社 カーナビ検索 群馬県高崎市榛名山町849


赤城山・妙義山と共に上毛三山の一つとされる榛名山の神を祀る神社で、現在の主祭神は火の神・火産霊神と土の神・埴山姫神である。水分神・高靇神・闇靇神・大山祇神・大物主神・木花開耶姫神を合わせ祀る。                         ウィキペディア20230227 1547 による


 そもそも、群馬県には榛名山、妙義山、赤城山と称せられる三山があり、かなりの大神が祀られています。

 当然ながら、その三つの神社を巡る事も、この上州と言う国を理解する上では重要な事と考えられ、まずは参拝と考えたのでした。


 赤城山:大洞赤城神社を中心に三千社の赤城神社が分布しているとは地元のサイトから…。

さて、「金槐和歌集」の歌 百嶋由一郎から聴かされた源 実朝の歌ですが…


上野の 勢多の赤城の からやしろ やまとにいかで あとをたれけむ - 源実朝(『金槐和歌集』)


 から社の意味は朝鮮半島でも伽耶の金海金氏のウマシアシカビヒコヂ(天御中主命の夫神)であり大山祗の父神、大国主命の祖父神でもある。から(伽耶)社という訳です。

三代将軍・源実朝は歌人としても知られた魅力的な人物ですが、天御中主命を妃とした金官伽耶国の人(今で言うならば三韓時代ならば実質的には新羅国の一國)が何故日本に祀られているのかと驚いたのが書き留められているのです。少なくとも実朝期までは間違いなくこの地にも祀られていたはずなのです。

勿論、主神としてでしょう。

当然、それもあってかウマシアイカビヒコヂは大ぴらには祀られていないケースが多いのですが、多くの神社を巡っていると、今でも遭遇することがあります。

代表的なところでは、北口本宮冨士浅間神社(山梨県富士吉田市上吉田5558番地)の神殿背後の境内摂社に、また、冨士御室浅間神社(山梨県南都留郡富士河口湖町勝山 富士河口湖町勝山3951)にもあったと思いますが、以下は冨士御室浅間神社の背後地に隠された様に祀られている大国主命の祖父神であるウマシアイカビヒコヂ様です。

最も有名な北口本宮冨士浅間神社にもあったと思いますが、ブログも消され、画像も消えています。

復活は可能ですのでそのうちやりますが、何とも思わないというところでしょうか?

勿論、大国主命の祖父神ですから、出雲大社の客人間(マロウドの間)には間違いなく祀られています。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が遺された神代系譜90シートのスキャニングDVD、講演録音声CD 手書きデータスキャニングDVDなどを必要とされる方は09062983254までご連絡ください。


 恐らく、大洞赤城神社を筆頭とするこの赤城山の赤城神社群も、本来はウマシアシカビヒコヂ+天御中主命を主神として祀っていたはずなのです。


赤城神社

群馬県内には「赤城神社」という名前の神社が118社、日本全国では334社あったとされる。関東一円に広がり、山岳信仰により自然的に祀られたものと、江戸時代に分祀されたものがある。その中でも著名なものが、東京都新宿区赤城元町の赤城神社である。


また赤城南麓の赤城神社の祭神は、かつては赤城山の中心を境として東西で異なる分布を見せていた。明治初年の群馬県の神社明細帳をみると、東から南にかけて大己貴神が、南西側には豊城入彦命が祀られている。これは東西2宮であった三夜沢赤城神社に起因するとされ、東宮は大己貴神を、西宮は豊城入彦命を祀っていたという。東西で自社の影響下にある分社を把握していたと見られている。


ウィキペディア20230227 2246 による


 妙義山:既に参拝してしまったため下調べは省略します。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記