2023年09月24日

979 祖母山を南から見ると ❶“祖母山は元は神武皇兄五瀬命を祀っていたのか?”

979 祖母山を南から見ると “祖母山は元は神武皇兄五瀬命を祀っていたのか?”

20230111

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


2022年は年頭から大和 猛の熊襲退治として知られる 川上 猛 をハイ・ピッチで追っていました。

百嶋神社考古学では阿蘇神社の健磐龍の孫娘に当たる奈留田姫(阿蘇初代宮司家の惟人姉or妹)を母とし、同時期久留米の高良大社に居たと考えている(「高良玉垂宮神秘書」)ウガヤフキアエズを父として生まれており、妹として佐賀県佐賀市の川上峡の淀姫神社の(女神)とする人物であるところまでは分かっていたのですが、百嶋先生は猛はその場で誅殺されたのではなく旧背振村で許され脊振山を北に越え、その一族は現在も福岡県早良区の某所に纏まって住んでおられます。その名も分かっているが可哀そうで公表できない…と言われたまま鬼籍に移動されていたのでした(勿論いずれは伝える予定だったはずですが)。先生の話を聴いた者も抜け駆けして自分だけ聴くこともできぬまま時は流れ、メンバーの面受の者も誰一人として聴いておらず、大きな課題でもあり仕方がなく取り組んだのが以下でした。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

941

死を免れた栄えある川上 猛の後裔氏族は今も早良に住み、

その一族は大神一族となっている 

936

ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも

行います ⓫

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような

土地だったのか?下 ❿

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ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような

土地だったのか?上 ❾

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早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上 猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

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大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向け

に用意したレジュメ ❹ 

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福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々の

ご出身地を知りたい ❸ 

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福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が

住み着いた現地を確認した ❷

923

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され

今もその一族は福岡市早良区に住んでいる ❶


 それに先行した 川上 猛本拠地佐賀市川上峡説については以下をお読みください。

ひぼろぎ逍遥

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淀 姫 C ” みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について”

553

淀 姫 B

552

淀 姫 A

551

淀 姫 @


佐賀市の川上峡(古代の汀線辺り)にまで北上していた俗称 熊襲 猛はヤマトオグナによるテロによって制圧されるも殺されるまでは至らず、旧脊振村広滝で許され背振山を越えその子孫は福岡市早良区原の某所に現在も纏まって住んでいるのです。

ところが、その一族なのか、それに連動する阿蘇在住の一派なのかが不明ですが、大分県の豊後大野一帯に勢力を張り、平安期から源平期に至る頃には宇佐神宮焼き討ち、岡城(実は大神城)建設とか祖母山の大蛇伝説を吹聴し(「平家物語」にも…)、中央にも知られ国政さえも左右する一族にまで拡大しているのです。

この一連の動きをテーマとしたのがひぼろぎ逍遥(跡宮)のブログであり二つのパワー・ポイントでした。

 ために大神一族のルーツと展開を描いたのが後半の二つのパワー・ポイントだったのですが、祖母山の神

無題.png

々を描き出すには本来の祖母山の神々を正当に評価する必要があり、かなり厄介な作業に踏み入らざるを得なくなるのです。

 今回、読者と言うか悪意のクレーマーではないでしょうが、祖母山の捉え方について“古祖母山とか土呂久は分かっているのだろうか…”との心温まる冷たいアドバイスがあったことから、何度かは入ったエリアである事から気合で書き始めたのが本稿です。

 そこまでして一稿として取り組むのはかなりの苦労ではあるのですが、特に、最近、宮崎、延岡にもメンバーが加わった事もあり、高千穂以南、以東の神々を探るためにも必要な試練…として受け入れなければならないと思い直し敢えて取り組む事にしたものです。

無題.png 詳しくは申し上げませんが、今般、関西圏の女性から「浄土むら土呂久」文明といのちの史記川原一之(筑摩書房)の一部(30p弱)が丁寧なカラー・コピーで送られてきました(改めて深謝致します)。この資料自体に逐一コメントを加えても良いのですが(本当はそうしたいのです)…。!?

 従って祖母傾山山系の南麓、高千穂、五ヶ瀬川側から祖母山をどのように考えるかという結構手の要るテーマに少し取り組んでみたいと思うのです。…まず、五ヶ瀬川が南側を東流しています。

その源流が宮崎県、高千穂町、五ヶ瀬町、中でも鞍岡から阿蘇に掛けての一帯こそ蘇民将来伝承の舞台であり震源地であったという話まで拡散するのですが、そこは別の話として既にかなり多くのブログを書いているため避けておきます。

 もう一つは、祖母山北麓の豊後竹田にかなりの数分布する健男霜凝彦神社(同祭祀)の問題は取り上げざるを得ないでしょう。

この神が誰であるかが解からなければ重層的な祖母の神々の発掘など凡そできはしないのです。恐らく川原一之氏も文章から察するところお分かりではないようです。

 前置きが長くなりましたが、ここまで話さなければ祖母山の南北(つまり豊後と日向…)の問題を取り上げられないのです。

 祖母山を豊後側の視点から大きく取り上げたのが穴森神社に纏わる阿蘇大蛇伝説とそれを吹聴した大神一族(大神惟基〜惟栄)だったわけで、基本的にはそのキャンペーンに乗って古代を描いたのでした。

 ところが、本来はそうではないのではありませんか?=暗に分かっておられないのですか…との疑問の提起、又はきつい戒めが送られてきた訳です。

当然あるべき話なのですが、往々にして山の北と南では呼称が異なり、住んでいる民族さえもが異なるという例に遭遇します。

 卑近な例ですが、阿蘇山にしても五岳の最も東に位置する根子岳は北の阿蘇谷からの呼称であって、南の南郷谷(南阿蘇)側からはほとんど知られてはいない(忘れられている)のですが、「ピレメウシ」と呼ばれていたのです(北は陸軍測量部、南は財務省による国土調査)。神社の分布からも南郷谷は阿蘇系神社が極端に少ないのです。この事は神代に遡る異なる民族の棲み分けを思わせます。

 このため、今回は南側=日向側=三田井側からの祖母山の評価を含めて改めて考えることになります。

 勿論、同じ豊後と言っても祖母山辺りになると、普通に走っても100キロは容易に越えることになり、しかも山頂近く山裾となると曲がりくねった山道を迷いながら漸く到達するのであって、そんなことも知らないのかとのお叱りを被っても致し方ないとしか言いようの事になるのです。その意味では地元に精通した方の本だけを読んで叱責されるのもそれほど気持ちの良い話ではない事は理解して頂けるでしょう。

 ただ、何度か土呂久を抜け、また、尾平越や杉ケ越え(これは日之影)を行い、文字道理のアフター・ザ・シルバー・ラッシュとも言える木浦鉱山付近を下り、捨てられた鉱山町跡地を驚きを持って何度か通過した時の記憶を辿り思い起こしながら本稿に挑むのは、本来、乱暴な試みと思うものです。

 まず、県外の方には何の話だかお判り頂けないのは致し方ない上に、本州島の方となればほとんど異国の話であって、最低でも簡略化した地図が必要になるでしょう。

 これまで多くの神社を見てきた者の経験だけで言わせて頂ければ、祖母山の北の阿蘇(肥後)、竹田(豊後)、豊後大野(豊後)は、おおざっぱに言えば、西から阿蘇系、中央部竹田一帯の大山祗系、金山彦系、東の大神一族(阿蘇氏の分流)の本拠地と言った分布が見て取れます。

 対して祖母山の南側でも五ヶ瀬、高千穂、日之影、延岡となると、中央部の高千穂は高木大神=タカミムスビという朝鮮半島の大邱から移動した古族の本拠地とも言うべき一帯であり、五ヶ瀬は五瀬命と闇龗の蘇民将来伝承の地つまり金山彦系、大山祗系の地である事が自ずと見えてくるのです。

 そして、日之影、延岡と下流に進むと、熊野修験を考えざるを得なくなり、四国を経由し、吉野に通じる金山彦、大幡主、伊勢の外宮の感じが強まってくるのでした。

無題.png

いずれにせよ、肥後、豊後、日向が境を接し鬩ぎ合っていたのが祖母、古祖母、傾山、大崩山である事がお分かりいただける事でしょう。

ただ、それら全てが勢いを失い、忘れられた寒村に近づきつつあるのです。

 さて、この絶壁にも等しい九州の脊梁山脈の頂に祀られる神々がその裾野に息づく多くの勢力、氏族、異なる民族の世界観が反映されている事は自然でしょう。

豊後側からは大神一族(恐らく川上 猛の後裔)が、肥後側からは阿蘇氏の分流(と言うより東に進出する事になる後の藤原氏)であるヒコヤイミミ系、日向側からは後の熊野神社系の金山彦系と大幡主(カミムスビ)系、それに高木大神(タカミムスビ)系が鬩ぎ合っているのです。

従って祖母の頂に如何なる神が祀られているかは、最も有力で最後の支配的勢力を確保したものが何れであったかが反映されているのです。

このため“古祖母山の麓に逃げ込んだ平家の落人の土呂久に伝えられる伝承が最も古いものとして飛び付きそんなことも知らないのか?”…と言った思い上がりと言えども、落ち着いて考えれば辺境の誤りで、その平家の残党が信奉する神々こそが最も古いもので本質だなどとは直ぐには言えないのです。

政乱がある度にこうした現象は起こるため、特に影響の大きい源平争乱期、鎌倉武家政権成立以降の半内戦期、南北朝騒乱期の熊野信仰、戦国期から徳川政権下の伊勢、熊野、日吉への梃入れと、明治以降の修験禁止と多くの神社を取り巻く環境の変化を織り込まざるを得なくなるのです。

従って、「浄土むら土呂久」に記述の古祖母の伝承だけを持って、こちらが老舗の元祖と訴えようとも、隠棲する落人の信仰とか願いが仮に豊玉姫に収斂されようが(平氏は普通は市杵島姫ですが)、正体も忘れてしまったであろう健男霜凝彦(日子)を持って、これこそが本来の祖母山の神であると叫ぼうが、表に出てくる事も出来ないのであり無常感が一層高するのです。

右はネット上に公開されている2020215日に祖母山に登拝され撮影された(健男霜凝日子神社上宮、祖母嶽神社上宮)です。


無題.png健男霜凝日子神社(姥嶽大明神本社)所在地 後国直入郡嫗嶽村神原、祖母山頂上。

社格 無格社

祭神 健男霜凝日子神。豊玉姫命。彦五瀬命

□内は同一神と認識されていませんね…。まさか山幸彦とは勘違いされていなければいいのですが。

高千穂郷八十八社 http://www.takachiho88.net/による

無題.png●祖母嶽頂上本社
高千穂神社伝閣簿(矢津田家蔵)に依ると、八十九社の内、祖母嶽大明神、五ヶ所村、但日向、肥後、豊後、八方に下宮有之、国之境也、四月卯の日何れも参詣仕候。高千穂略図説には「五ヶ所村祖母嶽宮」の項に
一、本社 山社に御座候、日向豊後の堺、石社に而本地弥陀釈迦観音御彰銘御座候
一、下宮山麓八ヶ所に御座候。



健男霜凝日子神は私も本来は五ヶ瀬にいたからこそ五瀬命とも呼ばれており、闇龗(クラオカミ)も五ヶ瀬町の鞍岡にいたからこそクラオカミ(蘇民将来伝承の原因となった女神で金神系譜では書かれていない)と呼ばれ、祇園神社の背後には巨大な祇園山の大山塊があると考えています。

その前に健男霜凝彦が誰であるかがお分かりならないと先に進めませんので以下をご覧下さい。

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百嶋由一郎神代系譜(部分)068細密系譜原本“金神系譜”


健男霜凝彦とは神武皇兄五瀬命(金山彦を父に大山祗命の姉大市姫を母とする)の事なのです。

 神武皇兄の意味は本物の神武天皇の本物の御后はアイラツ姫であり金山彦の娘だからなのです。

実につまらない事ですが豊後史蹟考では話が仕立てられています。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 この神代系譜をじっくりご覧になれば、「祖母山は豊玉姫命を配祀し、神武天皇の皇祖母に当たらせ給ふの故を以ってなりといふ」という話が大嘘である事がお分かりいただけると思います。

 阿蘇大蛇伝説の豊玉姫の使いとしての大蛇の子が大神惟基であるとの噂を流したのは祖母山の北の豊後大野一帯の大神一族であったろう事は疑いようがありません。

 この豊後大神氏が誅殺を免れ福岡市早良区原に逃れた人々の関係者であり(現在も8家族ほどがまとまってお住まいになっています)、このことから大蛇伝説の大神一族か川上 猛の末裔か、最低でも奈留多姫(阿蘇家初代惟人の姉か妹)の一族である事は確実と考えています。

従って、ここでは話を変え神武僭称贈る崇神(ハツクニシラススメラミコト)の立場から考えると、贈る崇神の母神は賀茂玉依姫であり、彼女は大恋愛事件により大山咋と一緒になりますが、その先の夫(乳母が種付けられたことから引き裂かれていますが)がウガヤフキアエズであることから崇神の父をウガヤに見立て、その母神である豊玉姫を祖母としたのが後の藤原であり、そもそもは豊後大野に盤踞した大神惟基以降の大神氏(宇佐神宮焼き討ちまで行った大神惟栄)や藤原の祖となる草部吉見だったのです。

ここから前述の「祖母山は豊玉姫命を配祀し、神武天皇の皇祖母に当たらせ給ふの故を以ってなりといふ」というとんでもない宮崎インチキ神話がこさえられ、通説化されてまでいるのです。

 当然、祖母山に豊玉姫を担ぎ上げたのも大神氏であり、大蛇伝説をこさえ豊玉姫の血を引いた高貴な一族との宣伝を行い「平家物語」にまで書き留められたのも大神氏の工作だったと考えられるのです。

 とすると、祖母山はそもそも祖母山ではなく、豊玉姫が祀られてもいなかったとすると、山上に祀られていたのはそれ以前の彦五瀬命=神武皇兄五瀬命と考えざるを得ないのです。ただ、金山彦系はナガスネヒコVS神武の民族を掛けた争いによってその政治的指導権を失います。それが高良大社に於いてもスサノウ系、金山彦系が退き、大国主、大山祗系が跳梁跋扈する時代の幕が開けた理由なのです。


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 おおざっぱに言えば祖母山の大障壁を挟んで西の肥後から豊後と日向が棲住み分けています。

 ただ、金山彦系は日之影の見立や豊後大野の木浦も含め、敗残の結果九州から東へ移動したようです。

 上記のモデルは高千穂88社の祭神など多くの神社の分布、その祭神から概括してどの勢力が領導しているかを自分流に概括したものでしかありません。

 それでも、凡その事は推定できますし、どちらが先行する宗教祭祀であったのかは判断できますので、日向A、豊後Aが敗残し、豊後Bが跳梁するという姿が描けるのです。

 従って、本来、祖母山は「祖母山」とさえ呼ばれていなかった可能性があり、その事を意識したのは、竹田市のエリアの神社をある程度は見て回った結果、方々の八幡宮に於いてさえ健男霜凝彦=神武皇兄五瀬命は粗末にされておらず、この神を主神とする神社がかなり分布している事からでした。また、表向き応神如きを祀るものの実態は彦五瀬であるものも散見されることから、武家政権登場800年から更に150年を経て本来の祭神への揺り戻しと併せ神社の基層が推定できるのです。

 従って、古祖母でも元祖母でも本祖母でも良いのですが、豊後でも豊後大野の隣の竹田にもかなりの彦五瀬祭祀を確認した時に、祖母山の名の覆いの下に神武皇兄霜凝彦を認識できたのでした。

 この事は宮崎県五ヶ瀬町の金山彦系彦五瀬のエリアと大分県竹田市の祖母山直下の健男霜凝日子神社のみならず、竹田市全域にもその祭祀があることに気付いたとき、祖母山の本来の祭神は五ヶ瀬に端を発する金山彦その後裔たるスサノウ(金山彦の娘櫛稲田姫を妃としてナガスネヒコを生む)の呉の太伯+イザナミ+金山彦+大山祗連携がナガスネヒコの当然の叛乱によって崩壊しアイラツ姫が阿蘇系に移った政治的失策(百嶋由一郎は本物の神武=カムヤマトイワレの失政と言われていましたが…)彦五瀬から豊玉姫祖母説による捏造がトリガーとなり神武僭称贈る崇神=ハツクニシラススメラ(偽神武)の系統を山の頂に抱く偽装された皇統を抱く山となってしまったのでした。

 その意味で祖母山は、本来、彦五瀬岳でも良かったのです。

 考えれば、夏になれば家族を連れ高千穂の東の日之影町の日之影川の見立渓谷で毎年泳いでいました。

 この見立にも江戸期以来の錫鉱山がありましたが、土呂久鉱山、尾平鉱山、木浦鉱山…祖母山周辺は鉱物資源が非常に豊富だった訳です。

 祖母は九州本土の高峰ですが実は古い時代に活動を止めた死火山で金属採取の山であり、鉱山の記録はないものの、熊野系の山岳修験も含め、金山彦系集団が本拠地としていた事は想像に難くないのです。


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それは、6年ほど前に遡ります。九重山が目の前に広がる祖母山ではなく正に九重山の裾野に健男霜凝彦を祀る神社を見出した時でした。その驚きを込めてひぼろぎ逍遥(跡宮)に書いたのが以下でした。


367 健男霜凝彦を祀る神社が久住町にもあった 大分県竹田市久住町久住神社


久住山と言えば祖母山と並び称せられる北部九州の登山のメッカです(でした)が、この久住山(登山者にこの表現で良いかは不明ですが)の東南に竹田市久住町があり久住山に向かって久住神社が鎮座しています。初見の神社でしたが、誰が祀られているかは参拝する瞬間まで知りませんでした。

 この点、地名を冠した神社とは○○八幡宮とか○○天満宮といったもののように参拝する直前まで祭神を含めて分からないのです。

 勿論、「神社誌」といった物を見れば分かるのですが、大分県の場合はこれが無い事から、明治に作成された「神名帳」に頼る事になります。

 これは後で見て頂くことにしますが、始めは大分の事だからどうせ八幡宮絡みのどこにでもある神社だろうと思いながらも、少しずつ潰していくしかないため、一応、見ておこう、仮に、神名帳に書いてあったとしても、実際に見れば面白い摂社、分社が発見できるかもしれないから…といった感覚だったのです。ところが、由緒書を見て驚きました。

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なんと、健男霜凝彦を祀る神社だったのです。

この驚きが直ぐにはお分かり頂けないと思いますが、この祭神こそ百嶋神社考古学でも最先端の最も難解な問題で、同じ竹田市の大分県竹田市神原(1822)に鎮座する「健男霜凝日子神社」の祭神だからなのです。しかも、参拝殿最上部には久留米の高良大社の奥に隠された本物の門光の神文紋が打たれていたのです(この門光こそ高良大社の奥深く隠されている呉太伯後裔の正当皇統のシンボル)。

 通常、久留米の高良大社の神紋は左三つ巴紋と木瓜紋(裏紋)としますが、本当の神紋である門光(開化天皇)は神殿内に隠されています。しかし、ここではその紋章が表に出ていたのです。

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さて、同社由緒筆頭に書かれた祭神 彦五瀬命、健男霜凝彦神、姫神が誰なのかです。

 彦五瀬命は「神武皇兄五瀬命」と知られる本物の神武天皇である神武(カムヤマトイワレヒコ)の本物のお妃である吾平津姫(アイラツヒメ)の兄であることから神武皇兄五瀬命と呼ばれるその人ですが、健男霜凝彦神が問題なのです。

今のところ、この神名で鎮座している神社で承知しているのは前述の祖母山直下の大分県竹田市神原の健男霜凝彦神社外数社なのです。


用はここで止めます。なお健男霜凝彦神社外数社は、その後実際に意識して調べるとはその程度ではありません)。これもそのうち取り上げましょう。

 もう神武僭称贈る崇神(後の藤原による偽神武)を持ち上げる傾向は好い加減にしてもらいたいですね。極楽の津田を増長させるだけですから。紙数がなくなりましたのでここで終了します。

 予定では、熊野修験のルートが日向経由で肥後に入っている理由に踏み込むなど書きたいこともあったのですが、元々、土呂久の神古祖母の神さえ知られていないのですから、現地を踏んだこともない方からの慇懃なるアドバイスを受けて書いただけなのであり、更に重要な話をここで書く必要もないのです。

ここで止めておきましょう。

 今となってこの久住神社の極めて高い重要性が漸く分かってきました。ただ、同社の御由緒では彦五瀬命と健男霜凝彦を混同されています。百嶋先生も伴信友は間違いが多いと言われていました。

文中でも取り上げた神代系譜などを必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記