2023年09月09日

974 再掲載)ビアヘロ147 “高千穂町神野の上野神社由緒書の花房姫を再び考える”❷ 全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を買い取り再建する作業が始まった(中)

974 再掲載)ビアヘロ147 “高千穂町神野の上野神社由緒書の花房姫を再び考える”❷

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を買い取り再建する作業が始まった(中)

20221227

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宮崎県高千穂町上野の上野(カミノ)神社の御由緒に登場する謎の女神 花房姫 の再考、再探索に踏み入ったのですが、その理由は最近になって以前の理解は誤りだったのではないかと気付いたからでした。

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御祭神

伊弉冉命(イザナミ)           金山彦の妹

事解男命(コトサカオ)          金山彦

速玉男命(ハヤタマオ)          カミムスビ=博多の櫛田神社の大幡主

木花開耶比売命(コノハナノサクヤヒメ)  大山祗と大幡主の妹(埴安姫)を両親とするニニギの妃

日子火火出見命(ヒコホホデミ)      山幸彦 推定)大幡主の子

豊玉比売命(トヨタマヒメ)        ヤタガラスと豊秋津姫(高木大神の長女)の間の娘

鸕鷀草葺不合命(ウガヤフキアエズ)    山幸彦と豊玉姫の子

玉依比売命(タマヨリヒメ)        豊玉彦=ヤタガラスと櫛稲田姫の子(父=金山彦)

神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ)  列島大率(呉の太伯の後裔姫氏)と神玉依姫の子

吾平津比売命(アヒラツヒメ)       本物の神武天皇のお妃(金山彦の娘)

花房比売命(ハナブサヒメ)        謎の女神

神功皇后命(ジングウコウゴウ)      第9代開化天皇の妃(仲哀死後)

品陀和気命(ホンダワケ)         仲哀の連れ子

武内大臣命(タケウチノスクネ)      開化天皇の腹違い兄弟で大彦とも兄弟で孝元と影姫の子

菅原道真公(スガワラミチザネ)      ヤタガラス系本家とナガスネヒコ系本家の後裔

当初、この花房姫を栲幡千千姫命に比定していたのですが、その理由は彦山の南麓とは言え、彦山直下の地であり、彦山座主のお妃とすれば普通は正勝吾勝勝速日天忍穂耳命こと阿蘇高森の草部吉見神(事実上の高木大神=高御産巣日神への入り婿)の妃と早とちりしてしまったようだったのです。

 まず、花房姫はアイラツ姫、神功皇后の間に割って入るだけの神格を持った女神のはずなのです。

次に、高千穂の上野神社の他の14柱を見ると、豊玉姫以外、高木大神に繋がる神は、ほぼ、ありません。

ここまで見てくると、元々、花房姫を高木大神の長女=豊秋津姫や、次女=栲幡千千姫命と見るのは短絡過ぎの的外れな想定だったのです。

つまり、この高木大神系の女神とすると、金山彦系、大幡主(カミムスビ)系、大山祗系の三系統の鼎立で固められた強固なスクラムに入り込めるはずはなく、恐らく金山彦系の女神のはずなのです。

 この花房姫は耶馬渓と言うか山国川流域では比較的知られた女神のようで、彦山座主のお妃乍ら不仲から自ら郷に降り、彦山を恨みながら死んだ悲劇の女性であり、言わば北部九州の山上に君臨した彦山の威光に隠された逸話が存在していたのです。できれば、ご自分でも“花房姫”“竜樹山開基因縁記”“花房姫の墓”“英山社”などを検索して頂きたいと思います。

 では、花房姫とはどなたなのでしょう。まず、天台座主のお妃と言うのはある種の表現であって、そのことは高千穂の上野神社の由緒にある祭神としても記載されていることから、相当古い時代の、しかも、そんじょそこらの女神様でないことは明らかです。

間違っても鎌倉期以降の彦山座主のお妃なる表現は江戸期の推定によるものであろうと思います。

 この花房姫の名が上野神社に残っている事にも感動をすら覚えますが、そもそもこの高千穂の三田井自体が彦山の事実上の支配者であった(高木大神=タカミムスビの神)の初期の本拠地(列島に於ける故地)であり、その後、久留米の高良山に移り(高良大社の直下の参道筋には現在も高樹神社がありそこからの追放の経緯が書かれています)、その後高良山から追い出され北に移動した場所が彦山であり、その南北の裾野を支配地に抑えていたのが、事実上の行政機関 48大行事社=高木神社でもあったのです。

 そこに迎え入れられたのが、阿蘇高森は草部の草部吉見神社の主神ヒコヤイミミであり、この、後に鹿島大神とか武甕槌などと呼ばれ東に進出した多氏(九州の表現では阿蘇氏)こそが後の藤原氏に発展したのでした。


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この近畿大和朝廷を差配するほどの大族となった切っ掛けが、彦山の支配者であった高木大神への入婿となった事でした。この高木大神は朝鮮半島の新羅の領域にあたる大伽耶(現在の表現では大邱)を本来の本拠地にしていたのであり、不人気のニニギの父でもあったのです。

いずれにせよ高千穂の三田井の正面に居た草部吉見は彦山の高木大神の次女である栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)の夫として迎えられ、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命などという仰々しいが名をもらい同じく専横を振るい始めたのでした。このため、人気のないニニギ代わってか(この神を祀る神社は非常にすくないのでも分かります)、彦山の戦闘部隊の指揮官として古代の九州に君臨した時期があったと考えられるのです。

 このヒコヤイミミこと草部吉見が草部と冠されている理由も高木大神の本拠地大邱の高(古)霊伽耶の伽耶を茅葺そして草部と表現たからであり、草部吉見という通称とは、伽耶の吉見という意味であり、ある時期までは(列島が国風化するまでは)、伽耶の支配者である高木大神の後継者なのだと誇らしげにかつ威圧的に主張しているのです。

 このヒコヤイミミの一族も実は雲南省麗江から入ってきた黎族の一派であり、麗江古城には今もかなり大きな多大将軍の全身立像が残されています。この話は逸れますので止めておきますが、この凡そ紀元前2世紀ほどに列島でも熊本の天草(苓北町)辺りに入っていると言われたのは故)百嶋由一郎でした。

 氏は色々な事を語ってくれましたが、彼は戦闘集団を持っていたようで、多くの有力者の娘との姻戚関係を結んでいました。

 とすると、もしかしたらその中に今回の花房姫がおられるのかも知れないのです。草部吉見のお妃でも年嵩の方からご紹介しますが、先ず、宗像三女神の市杵島姫で、大山咋(日枝山王、日吉神社、松尾大神)、奥ツ姫の母と言えばお分かり頂けるでしょうか。次に神武天皇に弓を引いたナガスネヒコの妹にあたるオキツヨソタラシ姫、この間には天足彦が生まれます。

次に伊勢神宮の外宮様=豊受大神=伏見稲荷様=辛国息長大姫大目命、との間には御歳神(藤原によって第6代とされた孝安天皇=熊本県玉名市の疋野神社の神と言うよりそこに居た…)が生まれています。

この後が分かり難いのですが、草部吉見と外宮様との間は短期間で、後に海幸彦から山幸彦に夫が代わります。この関係は亡くなられるまで続き、物部の後継者であるウマシマジや細(クワシ)姫=卑弥呼宗女豫が生まれています。

側室クラスになると他にも多くの方がいたと思いますが、花房姫の名で登場する女神様は、オキツヨソタラシ姫か伊勢神宮の外宮様=豊受大神=伏見稲荷様=辛国息長大姫大目命のどちらかではないかと思うのです。ここではオキツヨソタラシ姫を最有力候補としておきたいと思います。 

では、百嶋由一郎の最終神代系譜外で上野神社の15祭神をプロットして見ましょう。

この事によって高千穂の西に成立した上野の集落の民族構造も同時に見えてくることでしょう。

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以下再掲載)            百嶋由一郎最終神代系譜


御祭神

伊弉冉命(イザナミ)           金山彦の妹

事解男命(コトサカオ)          金山彦

速玉男命(ハヤタマオ)          カミムスビ=博多の櫛田神社の大幡主

木花開耶比売命(コノハナノサクヤヒメ)  大山祗と大幡主の妹(埴安姫)を両親とするニニギの妃

日子火火出見命(ヒコホホデミ)      山幸彦 推定)大幡主の子

豊玉比売命(トヨタマヒメ)        ヤタガラスと豊秋津姫(高木大神の長女)の間の娘

鸕鷀草葺不合命(ウガヤフキアエズ)    山幸彦と豊玉姫の子

玉依比売命(タマヨリヒメ)        豊玉彦=ヤタガラスと櫛稲田姫の子(父=金山彦)

神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ)  列島大率(呉の太伯の後裔姫氏)と神玉依姫の子

吾平津比売命(アヒラツヒメ)       本物の神武天皇のお妃(金山彦の娘)

花房比売命(ハナブサヒメ)        謎の女神

神功皇后命(ジングウコウゴウ)      第9代開化天皇の妃(仲哀死後)

品陀和気命(ホンダワケ)         仲哀の連れ子

武内大臣命(タケウチノスクネ)      開化天皇の腹違い兄弟で大彦とも兄弟で孝元と影姫の子

菅原道真公(スガワラミチザネ)      ヤタガラス系本家とナガスネヒコ系本家の後裔

カムヤマトイワレヒコまでは最終神代系譜で分かりますが、吾平津比売命(アヒラツヒメ)本物の神武天皇のお妃(金山彦の娘)はこの系譜では分かりませんので他の神代系譜をご覧いただきます。

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百嶋神社考古学の神髄とも言える金神系譜まで見れば花房姫以外の神々は見当が付きます。申し訳ありませんが応神は大神比義が持ち込んだどこの馬の骨か素性のわからぬ輩以下の人物で考慮する必要性はないでしょう。ましては仁徳(若宮)が応神の子などありえない話でここでは無視させていただきます。


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材料は提供致しますので、ここから花房姫がどのような系統の人物かは推定出来るかも知れません。

 数は少ないものの“花房姫”で検索すると全国には花房稲荷神社までが出てきます。

現在でも探査中ですが、花房姫の話は1760年の「龍樹山開基因縁記」に出てくるものです。

近いので山国町に出向いて、原本など遠い話で先ずは図書館で探ってみますが、今のところ、天台座主と言う話というよりももっと前の話で、古代の話が置き換えられたものであろうと考えています。

 無題.png前述した花房稲荷神社は東京都千代田区秋葉原にありますが、我々の目から見れば、秋葉原も秋葉権現こと金山彦を祀るもので、秋葉原とはその名を付したものである事は明らかでしょう。

 その意味では花房姫が金山彦〜櫛稲田姫〜ナガスネヒコ系の人物であることをここでも示唆しています。

 ネットに出てくるものとしては、以下の 大分県中津市山国町 郷土の昔物語り 益永嘉之梅津三男 編纂 が纏まっておりお勧めします。

 私が注目したのは、天台座主へのお妃とはされていますが、第3代安寧天皇(神武〜綏靖〜)ですので天台座主の時代とは言い難く、古代から神代の話であり、高千穂の上野神社から始まった探索は意味があるのです。以下、郷土の昔物語り 益永嘉之梅津三男 編纂 から


《補説》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*はなふさひめ【花房姫】1760年「龍樹山開基因縁記」に記されている悲運の姫様。彦山座主の妻であったが、夫婦の折り合いが悪く離別し、龍樹山(上守実竜地区にある山で三所神社が祀られている)に登り龍樹権現を開いた。英彦山をもりたてようとしたが、無念のうちに自害した。

◆『花房姫の墓と伝説』(山国町教育委員会案内板より)◆ 

宝暦10年(1760年)に書かれた「龍樹山開基因縁記」竜樹山と三所神社の門前(鳥居の右後に五輪塔がある)によると、第三代安寧天皇が病となり西国よりの光があるときに病が重くたくなる。占い師よりその光のもとが英彦山であると言うので、その地に宮居(きゅうきょ)を造り堂守(どうもり)をつかわし座主(ざす)とし、妻として英姫(はなふさひめ)を降(くだ)した。

しかし、座主夫婦は仲が悪く離別。英姫は伴を連れて守実に下り、伴の六房の者たちと竜樹山に登り竜樹権現社を開いた。時に英彦山をもりたてようとしたが力足らず、この地より英彦山をうらめしげに見やり太刀をふくんで自害した。と記されている。今日まで悲運の花房姫伝説として語り継がれたこの地を「花房」という。中央の板碑が英姫の墓と言われている。お伴の六房の者は皆、竜樹山で果てた。門前の五輪塔等がそれであると伝えられている。

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3代安寧天皇が誰かは当会の内部でもかなりの論争があったのですが、私は、カミムスビ神こと大幡主(博多の櫛田神社の主神)で間違いないと考えています。

 山幸彦が釣り針を失った時に対馬のワダツミ神社(多分海神神社)=龍宮(龍王は大幡主の子ヤタガラス)に行く事を進めた塩土老翁とされる人物です。

 故)百嶋由一郎氏は山幸は安寧の子だろうと推定されていたようですが、直接聴いた話ではなく、会の内部でも意見が分かれたのでした。では、最終神代系譜でも確認しておきましょう。

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昔々、筑紫平野でも非常に尊いお方とされていた父の命(ちちのみこと)が、或る朝早く起きて見ますと、彦山権現の方から、いとも尊い御光が射して来ました。何かいわれがあるにちがいないと父の命は直々に家来を仕わして彦山権現の御告げを聞くことにしました。

権現様は「私のところにしかるべき座主をつかわして、おごそかに祭るように」            と云いました。命には男の子がなかったので、建立宮守(こんりゅうみやもり)の花房尊(はなふさのみこと)を座主としてつかわし、可愛いい命の姫を花嫁として、出発することにしました。

 花房の尊と花房姫とは、それぞれ馬に乗って、はるばる筑紫の平野から、父の命、母君それから大勢の家来に見送られて、はるかに遠い彦山まで来ることになりました。

その時の姫は、父の命、母君と別れて初めて旅をするのですからどんなに、さびしかったことでしょう。やさしい尊にはげまされて、野をこえ山をこえて、一千尺もある高い高い彦山の山の中へやって来たのです。里の人々は遠い筑紫の都から,霊現あらたかな彦山権現の天台座主として尊と姫をあがめたて

まつりました。尊は、権現様に仕えて、御説教をしたり、御祭をしたりしました。姫はなにくれとなく尊の世話をしました。楽しい毎日が続きました。ところが、五、六年たつうちに、尊は御祭の酒を飲みすぎて、酔って帰って来たり、どうかすると二日も三日も、どこかえとまって、帰って来ないこともあるし、たまたま帰って来ても姫をいじめるようになりました。

 姫は辛抱しましたが、とうとう我慢が出来なくなり、或る晩、尊にお酒を飲みすぎないように、身体に気をつけるようにと手紙を書いて、こっそりと彦山の山をおりて行きました。そして豊前の国、守実の里のある郷土の家をたずねて行ったということで在ります。そこの主人は大の権現崇拝者でしたから、姫の来たことを大変よろこび、どうかして、権現様の別院建てたいと思い、幸い彦山によく似た山がありましたので、その山に御殿を建てることになりました。姫は気が進みませんでしたが、仕方なく、そこの権現座主になることになりました。里の人々はどんなに悦んだ事でしょう。姫は女ながらも、一生懸命に教え導きましたので、山を超え、谷を下って、ぞくぞくと御参りがありましたが、尊の事を思うと時折悲しくなりました。一方尊も、姫の手紙を読んで、心を入れ替え、修行に励みました。風の便りに耶馬渓にいることを知り、帰ってくるように、家来をつかわしましたが、姫はとうとう帰りませんでした。

 姫は、尊が立派な生活をしている事を聞いて、帰りたいと思いましたが、自分を頼ってくれる村人の心の素朴なに打たれて、どうしても守実の里を離れる事が出来ませんでした。そうするうちに、ふとした風邪がもとで、病気が段々に重くなりました。そして、とうとうたくさんな村人に見送られ乍ら死んで行きました。最後に今までの御礼を云い、そして私のかばねを彦山権現の見える場所に埋めて下さい。墓のそばに松を植えて、この着物を掛けて下さい。と云ったということであります。(その墓は、現在守実の西端の小高い丘の上にある烏帽子形の自然石だといわれている)(完)


先に補説をお読みいただきましたが、本文も至って簡素なもので、花房姫の素性だけが謎と言った伝承でしたが、高千穂から彦山南麓の耶馬渓と言うか山国川流域にこれほどの伝承が残っていた事に感動をすら抱きます。これを機会に高千穂の神社にも関心を持っていただければ、上野神社〜ひのみこ社までご参拝頂ければと願ってやみません。


新ひぼろぎ逍遥

871

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何か?上“川口敦子論文から”

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840

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

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全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(上)


全くの小社ではありますが、多分彦山直下の事から48代行事社の一つだったのでしょう。花房姫の話にも関わる三所神社にも足を延ばし、観光客が消えた清廉な冬の耶馬渓探索の作業に入ろうと思います。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記