2023年09月24日

979 祖母山を南から見ると ❶“祖母山は元は神武皇兄五瀬命を祀っていたのか?”

979 祖母山を南から見ると “祖母山は元は神武皇兄五瀬命を祀っていたのか?”

20230111

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


2022年は年頭から大和 猛の熊襲退治として知られる 川上 猛 をハイ・ピッチで追っていました。

百嶋神社考古学では阿蘇神社の健磐龍の孫娘に当たる奈留田姫(阿蘇初代宮司家の惟人姉or妹)を母とし、同時期久留米の高良大社に居たと考えている(「高良玉垂宮神秘書」)ウガヤフキアエズを父として生まれており、妹として佐賀県佐賀市の川上峡の淀姫神社の(女神)とする人物であるところまでは分かっていたのですが、百嶋先生は猛はその場で誅殺されたのではなく旧背振村で許され脊振山を北に越え、その一族は現在も福岡県早良区の某所に纏まって住んでおられます。その名も分かっているが可哀そうで公表できない…と言われたまま鬼籍に移動されていたのでした(勿論いずれは伝える予定だったはずですが)。先生の話を聴いた者も抜け駆けして自分だけ聴くこともできぬまま時は流れ、メンバーの面受の者も誰一人として聴いておらず、大きな課題でもあり仕方がなく取り組んだのが以下でした。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

941

死を免れた栄えある川上 猛の後裔氏族は今も早良に住み、

その一族は大神一族となっている 

936

ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも

行います ⓫

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような

土地だったのか?下 ❿

933

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような

土地だったのか?上 ❾

932

早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上 猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

927

大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向け

に用意したレジュメ ❹ 

925

福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々の

ご出身地を知りたい ❸ 

924

福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が

住み着いた現地を確認した ❷

923

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され

今もその一族は福岡市早良区に住んでいる ❶


 それに先行した 川上 猛本拠地佐賀市川上峡説については以下をお読みください。

ひぼろぎ逍遥

554

淀 姫 C ” みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について”

553

淀 姫 B

552

淀 姫 A

551

淀 姫 @


佐賀市の川上峡(古代の汀線辺り)にまで北上していた俗称 熊襲 猛はヤマトオグナによるテロによって制圧されるも殺されるまでは至らず、旧脊振村広滝で許され背振山を越えその子孫は福岡市早良区原の某所に現在も纏まって住んでいるのです。

ところが、その一族なのか、それに連動する阿蘇在住の一派なのかが不明ですが、大分県の豊後大野一帯に勢力を張り、平安期から源平期に至る頃には宇佐神宮焼き討ち、岡城(実は大神城)建設とか祖母山の大蛇伝説を吹聴し(「平家物語」にも…)、中央にも知られ国政さえも左右する一族にまで拡大しているのです。

この一連の動きをテーマとしたのがひぼろぎ逍遥(跡宮)のブログであり二つのパワー・ポイントでした。

 ために大神一族のルーツと展開を描いたのが後半の二つのパワー・ポイントだったのですが、祖母山の神

無題.png

々を描き出すには本来の祖母山の神々を正当に評価する必要があり、かなり厄介な作業に踏み入らざるを得なくなるのです。

 今回、読者と言うか悪意のクレーマーではないでしょうが、祖母山の捉え方について“古祖母山とか土呂久は分かっているのだろうか…”との心温まる冷たいアドバイスがあったことから、何度かは入ったエリアである事から気合で書き始めたのが本稿です。

 そこまでして一稿として取り組むのはかなりの苦労ではあるのですが、特に、最近、宮崎、延岡にもメンバーが加わった事もあり、高千穂以南、以東の神々を探るためにも必要な試練…として受け入れなければならないと思い直し敢えて取り組む事にしたものです。

無題.png 詳しくは申し上げませんが、今般、関西圏の女性から「浄土むら土呂久」文明といのちの史記川原一之(筑摩書房)の一部(30p弱)が丁寧なカラー・コピーで送られてきました(改めて深謝致します)。この資料自体に逐一コメントを加えても良いのですが(本当はそうしたいのです)…。!?

 従って祖母傾山山系の南麓、高千穂、五ヶ瀬川側から祖母山をどのように考えるかという結構手の要るテーマに少し取り組んでみたいと思うのです。…まず、五ヶ瀬川が南側を東流しています。

その源流が宮崎県、高千穂町、五ヶ瀬町、中でも鞍岡から阿蘇に掛けての一帯こそ蘇民将来伝承の舞台であり震源地であったという話まで拡散するのですが、そこは別の話として既にかなり多くのブログを書いているため避けておきます。

 もう一つは、祖母山北麓の豊後竹田にかなりの数分布する健男霜凝彦神社(同祭祀)の問題は取り上げざるを得ないでしょう。

この神が誰であるかが解からなければ重層的な祖母の神々の発掘など凡そできはしないのです。恐らく川原一之氏も文章から察するところお分かりではないようです。

 前置きが長くなりましたが、ここまで話さなければ祖母山の南北(つまり豊後と日向…)の問題を取り上げられないのです。

 祖母山を豊後側の視点から大きく取り上げたのが穴森神社に纏わる阿蘇大蛇伝説とそれを吹聴した大神一族(大神惟基〜惟栄)だったわけで、基本的にはそのキャンペーンに乗って古代を描いたのでした。

 ところが、本来はそうではないのではありませんか?=暗に分かっておられないのですか…との疑問の提起、又はきつい戒めが送られてきた訳です。

当然あるべき話なのですが、往々にして山の北と南では呼称が異なり、住んでいる民族さえもが異なるという例に遭遇します。

 卑近な例ですが、阿蘇山にしても五岳の最も東に位置する根子岳は北の阿蘇谷からの呼称であって、南の南郷谷(南阿蘇)側からはほとんど知られてはいない(忘れられている)のですが、「ピレメウシ」と呼ばれていたのです(北は陸軍測量部、南は財務省による国土調査)。神社の分布からも南郷谷は阿蘇系神社が極端に少ないのです。この事は神代に遡る異なる民族の棲み分けを思わせます。

 このため、今回は南側=日向側=三田井側からの祖母山の評価を含めて改めて考えることになります。

 勿論、同じ豊後と言っても祖母山辺りになると、普通に走っても100キロは容易に越えることになり、しかも山頂近く山裾となると曲がりくねった山道を迷いながら漸く到達するのであって、そんなことも知らないのかとのお叱りを被っても致し方ないとしか言いようの事になるのです。その意味では地元に精通した方の本だけを読んで叱責されるのもそれほど気持ちの良い話ではない事は理解して頂けるでしょう。

 ただ、何度か土呂久を抜け、また、尾平越や杉ケ越え(これは日之影)を行い、文字道理のアフター・ザ・シルバー・ラッシュとも言える木浦鉱山付近を下り、捨てられた鉱山町跡地を驚きを持って何度か通過した時の記憶を辿り思い起こしながら本稿に挑むのは、本来、乱暴な試みと思うものです。

 まず、県外の方には何の話だかお判り頂けないのは致し方ない上に、本州島の方となればほとんど異国の話であって、最低でも簡略化した地図が必要になるでしょう。

 これまで多くの神社を見てきた者の経験だけで言わせて頂ければ、祖母山の北の阿蘇(肥後)、竹田(豊後)、豊後大野(豊後)は、おおざっぱに言えば、西から阿蘇系、中央部竹田一帯の大山祗系、金山彦系、東の大神一族(阿蘇氏の分流)の本拠地と言った分布が見て取れます。

 対して祖母山の南側でも五ヶ瀬、高千穂、日之影、延岡となると、中央部の高千穂は高木大神=タカミムスビという朝鮮半島の大邱から移動した古族の本拠地とも言うべき一帯であり、五ヶ瀬は五瀬命と闇龗の蘇民将来伝承の地つまり金山彦系、大山祗系の地である事が自ずと見えてくるのです。

 そして、日之影、延岡と下流に進むと、熊野修験を考えざるを得なくなり、四国を経由し、吉野に通じる金山彦、大幡主、伊勢の外宮の感じが強まってくるのでした。

無題.png

いずれにせよ、肥後、豊後、日向が境を接し鬩ぎ合っていたのが祖母、古祖母、傾山、大崩山である事がお分かりいただける事でしょう。

ただ、それら全てが勢いを失い、忘れられた寒村に近づきつつあるのです。

 さて、この絶壁にも等しい九州の脊梁山脈の頂に祀られる神々がその裾野に息づく多くの勢力、氏族、異なる民族の世界観が反映されている事は自然でしょう。

豊後側からは大神一族(恐らく川上 猛の後裔)が、肥後側からは阿蘇氏の分流(と言うより東に進出する事になる後の藤原氏)であるヒコヤイミミ系、日向側からは後の熊野神社系の金山彦系と大幡主(カミムスビ)系、それに高木大神(タカミムスビ)系が鬩ぎ合っているのです。

従って祖母の頂に如何なる神が祀られているかは、最も有力で最後の支配的勢力を確保したものが何れであったかが反映されているのです。

このため“古祖母山の麓に逃げ込んだ平家の落人の土呂久に伝えられる伝承が最も古いものとして飛び付きそんなことも知らないのか?”…と言った思い上がりと言えども、落ち着いて考えれば辺境の誤りで、その平家の残党が信奉する神々こそが最も古いもので本質だなどとは直ぐには言えないのです。

政乱がある度にこうした現象は起こるため、特に影響の大きい源平争乱期、鎌倉武家政権成立以降の半内戦期、南北朝騒乱期の熊野信仰、戦国期から徳川政権下の伊勢、熊野、日吉への梃入れと、明治以降の修験禁止と多くの神社を取り巻く環境の変化を織り込まざるを得なくなるのです。

従って、「浄土むら土呂久」に記述の古祖母の伝承だけを持って、こちらが老舗の元祖と訴えようとも、隠棲する落人の信仰とか願いが仮に豊玉姫に収斂されようが(平氏は普通は市杵島姫ですが)、正体も忘れてしまったであろう健男霜凝彦(日子)を持って、これこそが本来の祖母山の神であると叫ぼうが、表に出てくる事も出来ないのであり無常感が一層高するのです。

右はネット上に公開されている2020215日に祖母山に登拝され撮影された(健男霜凝日子神社上宮、祖母嶽神社上宮)です。


無題.png健男霜凝日子神社(姥嶽大明神本社)所在地 後国直入郡嫗嶽村神原、祖母山頂上。

社格 無格社

祭神 健男霜凝日子神。豊玉姫命。彦五瀬命

□内は同一神と認識されていませんね…。まさか山幸彦とは勘違いされていなければいいのですが。

高千穂郷八十八社 http://www.takachiho88.net/による

無題.png●祖母嶽頂上本社
高千穂神社伝閣簿(矢津田家蔵)に依ると、八十九社の内、祖母嶽大明神、五ヶ所村、但日向、肥後、豊後、八方に下宮有之、国之境也、四月卯の日何れも参詣仕候。高千穂略図説には「五ヶ所村祖母嶽宮」の項に
一、本社 山社に御座候、日向豊後の堺、石社に而本地弥陀釈迦観音御彰銘御座候
一、下宮山麓八ヶ所に御座候。



健男霜凝日子神は私も本来は五ヶ瀬にいたからこそ五瀬命とも呼ばれており、闇龗(クラオカミ)も五ヶ瀬町の鞍岡にいたからこそクラオカミ(蘇民将来伝承の原因となった女神で金神系譜では書かれていない)と呼ばれ、祇園神社の背後には巨大な祇園山の大山塊があると考えています。

その前に健男霜凝彦が誰であるかがお分かりならないと先に進めませんので以下をご覧下さい。

無題.png

百嶋由一郎神代系譜(部分)068細密系譜原本“金神系譜”


健男霜凝彦とは神武皇兄五瀬命(金山彦を父に大山祗命の姉大市姫を母とする)の事なのです。

 神武皇兄の意味は本物の神武天皇の本物の御后はアイラツ姫であり金山彦の娘だからなのです。

実につまらない事ですが豊後史蹟考では話が仕立てられています。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 この神代系譜をじっくりご覧になれば、「祖母山は豊玉姫命を配祀し、神武天皇の皇祖母に当たらせ給ふの故を以ってなりといふ」という話が大嘘である事がお分かりいただけると思います。

 阿蘇大蛇伝説の豊玉姫の使いとしての大蛇の子が大神惟基であるとの噂を流したのは祖母山の北の豊後大野一帯の大神一族であったろう事は疑いようがありません。

 この豊後大神氏が誅殺を免れ福岡市早良区原に逃れた人々の関係者であり(現在も8家族ほどがまとまってお住まいになっています)、このことから大蛇伝説の大神一族か川上 猛の末裔か、最低でも奈留多姫(阿蘇家初代惟人の姉か妹)の一族である事は確実と考えています。

従って、ここでは話を変え神武僭称贈る崇神(ハツクニシラススメラミコト)の立場から考えると、贈る崇神の母神は賀茂玉依姫であり、彼女は大恋愛事件により大山咋と一緒になりますが、その先の夫(乳母が種付けられたことから引き裂かれていますが)がウガヤフキアエズであることから崇神の父をウガヤに見立て、その母神である豊玉姫を祖母としたのが後の藤原であり、そもそもは豊後大野に盤踞した大神惟基以降の大神氏(宇佐神宮焼き討ちまで行った大神惟栄)や藤原の祖となる草部吉見だったのです。

ここから前述の「祖母山は豊玉姫命を配祀し、神武天皇の皇祖母に当たらせ給ふの故を以ってなりといふ」というとんでもない宮崎インチキ神話がこさえられ、通説化されてまでいるのです。

 当然、祖母山に豊玉姫を担ぎ上げたのも大神氏であり、大蛇伝説をこさえ豊玉姫の血を引いた高貴な一族との宣伝を行い「平家物語」にまで書き留められたのも大神氏の工作だったと考えられるのです。

 とすると、祖母山はそもそも祖母山ではなく、豊玉姫が祀られてもいなかったとすると、山上に祀られていたのはそれ以前の彦五瀬命=神武皇兄五瀬命と考えざるを得ないのです。ただ、金山彦系はナガスネヒコVS神武の民族を掛けた争いによってその政治的指導権を失います。それが高良大社に於いてもスサノウ系、金山彦系が退き、大国主、大山祗系が跳梁跋扈する時代の幕が開けた理由なのです。


無題.png

 おおざっぱに言えば祖母山の大障壁を挟んで西の肥後から豊後と日向が棲住み分けています。

 ただ、金山彦系は日之影の見立や豊後大野の木浦も含め、敗残の結果九州から東へ移動したようです。

 上記のモデルは高千穂88社の祭神など多くの神社の分布、その祭神から概括してどの勢力が領導しているかを自分流に概括したものでしかありません。

 それでも、凡その事は推定できますし、どちらが先行する宗教祭祀であったのかは判断できますので、日向A、豊後Aが敗残し、豊後Bが跳梁するという姿が描けるのです。

 従って、本来、祖母山は「祖母山」とさえ呼ばれていなかった可能性があり、その事を意識したのは、竹田市のエリアの神社をある程度は見て回った結果、方々の八幡宮に於いてさえ健男霜凝彦=神武皇兄五瀬命は粗末にされておらず、この神を主神とする神社がかなり分布している事からでした。また、表向き応神如きを祀るものの実態は彦五瀬であるものも散見されることから、武家政権登場800年から更に150年を経て本来の祭神への揺り戻しと併せ神社の基層が推定できるのです。

 従って、古祖母でも元祖母でも本祖母でも良いのですが、豊後でも豊後大野の隣の竹田にもかなりの彦五瀬祭祀を確認した時に、祖母山の名の覆いの下に神武皇兄霜凝彦を認識できたのでした。

 この事は宮崎県五ヶ瀬町の金山彦系彦五瀬のエリアと大分県竹田市の祖母山直下の健男霜凝日子神社のみならず、竹田市全域にもその祭祀があることに気付いたとき、祖母山の本来の祭神は五ヶ瀬に端を発する金山彦その後裔たるスサノウ(金山彦の娘櫛稲田姫を妃としてナガスネヒコを生む)の呉の太伯+イザナミ+金山彦+大山祗連携がナガスネヒコの当然の叛乱によって崩壊しアイラツ姫が阿蘇系に移った政治的失策(百嶋由一郎は本物の神武=カムヤマトイワレの失政と言われていましたが…)彦五瀬から豊玉姫祖母説による捏造がトリガーとなり神武僭称贈る崇神=ハツクニシラススメラ(偽神武)の系統を山の頂に抱く偽装された皇統を抱く山となってしまったのでした。

 その意味で祖母山は、本来、彦五瀬岳でも良かったのです。

 考えれば、夏になれば家族を連れ高千穂の東の日之影町の日之影川の見立渓谷で毎年泳いでいました。

 この見立にも江戸期以来の錫鉱山がありましたが、土呂久鉱山、尾平鉱山、木浦鉱山…祖母山周辺は鉱物資源が非常に豊富だった訳です。

 祖母は九州本土の高峰ですが実は古い時代に活動を止めた死火山で金属採取の山であり、鉱山の記録はないものの、熊野系の山岳修験も含め、金山彦系集団が本拠地としていた事は想像に難くないのです。


無題.png

それは、6年ほど前に遡ります。九重山が目の前に広がる祖母山ではなく正に九重山の裾野に健男霜凝彦を祀る神社を見出した時でした。その驚きを込めてひぼろぎ逍遥(跡宮)に書いたのが以下でした。


367 健男霜凝彦を祀る神社が久住町にもあった 大分県竹田市久住町久住神社


久住山と言えば祖母山と並び称せられる北部九州の登山のメッカです(でした)が、この久住山(登山者にこの表現で良いかは不明ですが)の東南に竹田市久住町があり久住山に向かって久住神社が鎮座しています。初見の神社でしたが、誰が祀られているかは参拝する瞬間まで知りませんでした。

 この点、地名を冠した神社とは○○八幡宮とか○○天満宮といったもののように参拝する直前まで祭神を含めて分からないのです。

 勿論、「神社誌」といった物を見れば分かるのですが、大分県の場合はこれが無い事から、明治に作成された「神名帳」に頼る事になります。

 これは後で見て頂くことにしますが、始めは大分の事だからどうせ八幡宮絡みのどこにでもある神社だろうと思いながらも、少しずつ潰していくしかないため、一応、見ておこう、仮に、神名帳に書いてあったとしても、実際に見れば面白い摂社、分社が発見できるかもしれないから…といった感覚だったのです。ところが、由緒書を見て驚きました。

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なんと、健男霜凝彦を祀る神社だったのです。

この驚きが直ぐにはお分かり頂けないと思いますが、この祭神こそ百嶋神社考古学でも最先端の最も難解な問題で、同じ竹田市の大分県竹田市神原(1822)に鎮座する「健男霜凝日子神社」の祭神だからなのです。しかも、参拝殿最上部には久留米の高良大社の奥に隠された本物の門光の神文紋が打たれていたのです(この門光こそ高良大社の奥深く隠されている呉太伯後裔の正当皇統のシンボル)。

 通常、久留米の高良大社の神紋は左三つ巴紋と木瓜紋(裏紋)としますが、本当の神紋である門光(開化天皇)は神殿内に隠されています。しかし、ここではその紋章が表に出ていたのです。

無題.png

さて、同社由緒筆頭に書かれた祭神 彦五瀬命、健男霜凝彦神、姫神が誰なのかです。

 彦五瀬命は「神武皇兄五瀬命」と知られる本物の神武天皇である神武(カムヤマトイワレヒコ)の本物のお妃である吾平津姫(アイラツヒメ)の兄であることから神武皇兄五瀬命と呼ばれるその人ですが、健男霜凝彦神が問題なのです。

今のところ、この神名で鎮座している神社で承知しているのは前述の祖母山直下の大分県竹田市神原の健男霜凝彦神社外数社なのです。


用はここで止めます。なお健男霜凝彦神社外数社は、その後実際に意識して調べるとはその程度ではありません)。これもそのうち取り上げましょう。

 もう神武僭称贈る崇神(後の藤原による偽神武)を持ち上げる傾向は好い加減にしてもらいたいですね。極楽の津田を増長させるだけですから。紙数がなくなりましたのでここで終了します。

 予定では、熊野修験のルートが日向経由で肥後に入っている理由に踏み込むなど書きたいこともあったのですが、元々、土呂久の神古祖母の神さえ知られていないのですから、現地を踏んだこともない方からの慇懃なるアドバイスを受けて書いただけなのであり、更に重要な話をここで書く必要もないのです。

ここで止めておきましょう。

 今となってこの久住神社の極めて高い重要性が漸く分かってきました。ただ、同社の御由緒では彦五瀬命と健男霜凝彦を混同されています。百嶋先生も伴信友は間違いが多いと言われていました。

文中でも取り上げた神代系譜などを必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2023年09月27日

980 祖母山を南から見ると ❷ “やはり本来山頂に祀られていたのは神武皇兄五瀬命だった”

980 祖母山を南から見ると ❷ “やはり本来山頂に祀られていたのは神武皇兄五瀬命だった”

20230117

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 979 祖母山を南から見ると  は、祖母山の祖母の意味に対してそれを打立てたのが阿蘇系分流の大神一族=大神惟基〜惟栄であり、それは熊襲 猛の後裔だったのではないか、さらに言えば豊後大野を中心に流布されるウガヤフキアエズ王朝説というファンタジーまでも数代を掛け勢力拡大に務めた大神一族に依るものであろう…という仮説をたてました。対して、古祖母山、土呂久集落の側から、祖母山を巡る慇懃なる有難い指摘を頂いた事への返答をも込めたものでした。

 ただ、指摘を受けっぱなしの回答だけでは寂しくもあり、さらに真実を復元するために話を進めて見たいと思います。

 祖母山周辺、神州 高千穂から荒城の月の竹田という九州脊梁山地の周りの神社も多少とも巡ってきた者として、祖母山と言う名は異名で、尚且つ山岳修験が付した仏教擦れしたものでもない品のある名ではある事から(そもそも山岳修験は岳、嶽を使いたがるのですが)妙に収まってもいたのでした。

 大族が大いなる居住可能な大地を発見すると、まず、その一族が奉斎する祖神をそこに恵みの水を贈る高峰の頂に祀り国土の開拓を行うものです。

同様の例は佐賀、福岡の境をなす天山(テンザン)、人吉盆地の市房山…も直ぐに頭に浮かぶもので、その名を付した人々は天山(テンシャン)山脈を知った人々だったはずであり、市房山も、「呉越同舟」の呉の夫差の後裔が球磨川の迸り注ぐ八代に辿り着き、直ちにその膨大な水が何処から流れ出しているかを調べ、そこで人吉盆地を発見したはずです。

列島でも稀な周囲を山で遮られた天上楽土の東の高峰に夫差の御霊を置いて未来永劫その恩恵を受けようと「市房山」と付したと考えていました。

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当然にも市房の意味は、斎奉る の意「市」(厳島=市杵島)宗像の市()杵島姫の瀛夫差であったはずです(呉の一族が八代の妙見神社周辺に亡命したという話は一般的であり割愛します)。

 話を戻しますが、市房山については相良という重要氏族が誇張すれば千年王国を保ったのです(鎌倉初頭〜)。それは周りから攻略し難い国であったからの恵みで、正に夫差の霊力であり恩寵だった訳です。

対して祖母山は、南に狡猾なタカミムスビ系の本拠地高千穂が有り、諸塚〜西都原という大山祗〜大国主系の絶対的配下に入る広大な古代日向の大地が広がり、最奥部の五ヶ瀬町一帯にも金山彦〜スサノウ系の金属精錬集団の本拠地があり、南北朝期まで下ればカミムスビ系の熊野修験が跋扈した土地でした。

当然にも北は、阿蘇氏の分流たる大神一族の天下であり、本来の彦五瀬に象徴される金山彦系は現在、僅かに命脈を保っていると言うべきでしょう。

 一方、時代は降りますが、吉野から四国脊梁山地の南麓を利用し九州と連携していた南朝方は、阿蘇氏がその一派でもあるにも拘わらず(菊池氏は阿蘇氏に偽装するも大山祗系の別流)、祖母山南麓を通路としていたのです。延岡〜日之影〜高千穂東の祖母山南麓に東からから可愛岳、木山内岳、五葉岳、烏帽子岳、真弓岳、矢筈岳、丹助岳、戸川岳、烏帽子岳、二ツ岳…と修験特有の地名がずらりと並んでおり、対して祖母山北麓には横岳、佐間ケ岳、鳥嶽、萩岳程度であって、そこは豊後大野の大神比義氏のエリアではない事から、旧勢力のエリアと考えられそうです(岳、嶽は修験の地名)。

熊野修験は当然にも祖母山南路を好んで利用し、現在人気沸騰の南阿蘇は高森町上色見の熊野座神社〜同じく色見の熊野座神社辺りに入っていたと考えています。

 その意味では、大神比義の一族と熊野修験の一族との関係も見て取れるのです。時代を無視すれば(と言っても修験は古代まで遡りますが)、非常に薄い我田引水の推定を行えばそう見えるのです。


祖母山と嫗嶽(姥岳)

無題.png

無題.pngさて、これまで祖母山周辺の多くの勢力の鬩ぎ合いのほんの一部に触れたのですが、祖母山山頂に姥岳若しくは嫗嶽と言う呼称が整理されないまま混在している事にお気づきになった方もおられるでしょう。

 この問題を整理することから始めなければなりません。まず、分かり易くするためにも簡略化されたものからご紹介しましょう。以下は現在の健男霜凝日子神社の理解です。


健男霜凝日子神社は、孝徳天皇白雉二年(650)に、現在の下宮(健男神社)に社殿を建立し、下宮と唱へ遥拝所としたと記録され(出:平成祭データ)、祖母山の頂上が上宮、健男神社を下宮、そして穴森神社の三社を総じて健男霜凝日子神社と言うと伝わる。

上宮とされる祖母山への信仰は、神話の時代にまで遡り、続日本後紀や平家物語にもその名前が記載され、社号は別名嫗岳大明神・鵜羽明神・祖母山大明神等の呼び方がある。

祖母山の名前の由来は、神武天皇の祖母にあたる豊玉姫命の事を指して、嫗(うば・祖母)嶽と言うと伝わります。


無題.png確かに嫗岳と祖母山とは同一のはずだとの認識が伺えます。

 では、祖母と姥(嫗)とは同じなのでしょうか?

 確かに一分祖母が乳母になる事はあるでしょうが、本来、乳を与え世話をするのが乳母のはずです。勿論、政略結婚が横行する古代の事祖母が姥(乳母)より若い場合はありえますが。


本来、乳母(うば・めのと)とは、母親に代わって子育てをする女性のこと。

ただ、姥とは老女の意味でも使われる。


乳母 かつて、現在のような良質の代用乳が得られない時代には母乳の出の悪さは乳児の成育に直接悪影響を及ぼし、最悪の場合はその命にも関わった。そのため、皇族・王族・貴族・武家、あるいは豊かな家の場合、母親に代わって乳を与える乳母を召し使った。

また、身分の高い女性は子育てのような雑事を自分ですべきではないという考えや、他のしっかりとした女性に任せたほうが教育上も良いとの考えから、乳離れした後、母親に代わって子育てを行う女性も乳母という。また、商家や農家などで、母親が仕事で子育てができない場合に、年若い女性や老女が雇われて子守をすることがあるが、この場合はねえややばあやなどと呼ばれることが多かった。

ウィキペディア 20230118 17:30


ここら辺からが重要な部分ですが、豊玉姫と山幸彦が出会い三年添って生まれた子つまり、天津日高日子波限建鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)は、豊玉姫の子育て放棄によって、妹とされる玉依姫(我々百嶋神社考古学の者には他の玉依姫、神玉依姫、活玉依姫)と区別するために鴨玉依姫とします)が、その意味では代わりの乳母として育てることになります。

その乳母が嫗嶽、姥岳と表現されている可能性もあり、事実、物部氏の力が強かった時代には、もしかしたら山頂には山幸彦=ヒコホホデミと豊玉姫が祀られ、また、鴨玉依姫さえも姥として祀られた時代があったのかも知れないと考えています。ここで誤りがないように先に引用した神武天皇の祖母にあたる豊玉姫命という酷い表現ですが、この意味は崇神を神武に見立てる偽装なのです。ただ、本物の神武の母神は神玉依姫であり千葉県の玉前神社に奉られています。勿論、上賀茂の玉依姫とも異なります。

何故かと言えば、高千穂は日向の最北端に位置しその日向とは大山祗の本拠地であったからなのです。

ご存じの通り、日向一之宮=都農神社(宮崎県都農町)の表向きの主神は大山祗の息子大国主命であり、二宮は大山祗と次女木花咲弥姫を祀る妻(都萬)神社です。

 この大山祗系の勢力こそが物部氏の主力であり、その中心人物こそが山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦であり、伊勢の外宮=伏見稲荷をお妃としているからです。その日子穂々出見命のお后とは大山祗の長女=神大市姫(ミズハノメ)の子である伊勢の外宮様=豊受大神=伏見稲荷様でもあるからで、如何にタカミムスビの本拠地の高千穂でもおいそれとは反駁できないのです。


あまり知られていませんが、豊後との国境添いの高千穂側にも祖母嶽神社があります

無題.png

祖母嶽神社 祖母宮大明神 カーナビ検索 宮崎県西臼杵郡高千穂町大字五ヶ所1662


祭神 日子穂穂出見命 豊玉姫命 天津湯彦命 菅原道真公 大日霊女貴命


ここも山頂に近い神社であることから気にしているのですが、ここまで来ると山頂の豊玉姫と直接関係のない健男霜凝日子というある種対抗する二柱の祭神に対して、釣り針の故事によって出会い三年添ったとされる山幸彦と豊玉姫の二柱の夫婦神が祀られているのです。

 ただ、天津湯彦命というあまり知られていない神が天照よりも上位に祀られているのです。

「先代旧事本記」に書かれている以上、物部氏でも言わば山幸彦=日子穂々出見命の臣下とも言うべき格下の従神が祀られていること自体不思議なのですが、どうもこの神社は高千穂の神社でありながら、熊野修験にも物部氏にも配慮した配神となっているのです。

その意味で天照=大日霊女貴命が下げられているのかも知れず、少し奇妙な感じを与える神社です。

そこまで考えて来た上で、山頂付近に祀られる神々が漸く出揃った感じがします。

豊玉姫より遥かに格上(年嵩)しかも系統も全く異なる製鉄神金山彦の長子健男霜凝日子=神武皇系五瀬命こそが本来祖母山の基層にあったであろうことは、祖母山の南北特に豊後の竹田市にも痕跡を留めており、祖母山周辺の金属精錬、冶金がどれだけ古代にまで遡れるかは別として、多くの金属精錬の徒に修験の民も加わり棲み分けとも、排斥とも言えぬ緊張関係が存在していたものと思案しています。

 では、百嶋由一郎が残した数枚の神代系譜から消された神代を少しでも復元して見たいと思います。

 何を突飛な推定をしているのかと言ったご批判は冷静に受け止めるつもりですが、実のところ、川原一之氏の熟考されたご著書の50p余りに於いてさえ、我々百嶋由一郎の洗礼を受けた一人としては、許しがたき錯覚、思い込み、飛躍がページごとにあり、冷静に読むことはかなり難しかったのですが、自己の未熟さを抑えつつも、全てに添削を加えたいとさえ思いました。今更ながら品格を云々されるのは明らかであると思い留め、不十分かつ分かり難い駄文を書いたものだと思うばかりです。唯一の価値は問題がかなりクリアになった事でした。最後に、そこに踏み込み、将来への準備稿としたいと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜 見づらいでしょうが全体が分からないと意味がないためこの形で表示します

できればこのページだけを印刷し、さらに141パーセントの拡大したA3タイプでご確認ください。

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 祖母山山頂に祀られる所謂祖母山神社、ここでは呼称を無視し=健男霜凝日子神社(姥嶽大明神本社)若しくは姥岳神社の混乱を整理するにも、まずは祭神を確定する必要があります。

普通は、祭神 健男霜凝日子神、豊玉姫命、彦五瀬命という三柱の祭神とされますが、それ自体、時代も世代も系統も全く異なり非常に違和感があります。

それは異なる集団の奉斎する神々が明治ではなく、かなり古い時代にも妥協によって合祀されたからと考えられます。ここで最終神代系譜の部分図を見ていただきます。

 まず、健男霜凝彦ですが、金山彦と日向にいた大山祗の妹神大市姫の間に生まれた彦五瀬命こそが健男霜凝彦=神武皇兄五瀬命(本物の神武天皇の本物のお后であるアイラツ姫の実兄)なのです。

 当然、金山彦系、大山祗系、カミムスビ系勢力が背後に控えていた。

 対して豊玉姫ですが、当然にも彦五瀬命からは三世代、四世代…半世紀以上(60年)も降る人物であり、系統だって考えれば、豊玉姫は豊後側から創作された阿蘇大蛇伝説を持って阿蘇系の熊襲 猛の父神ウガヤフキアエズ+女神奈留多姫(阿蘇神社初代宮司家)から見た母神を祖母と描きその化身若しくは使いの大蛇の子が大神惟基と描いたのでした。

 当然にも、格式つまり神格としては南麓の日向側から健男霜凝日子が遥かに高貴であったはずで、そこにかなり後代の平安期になって捩じ込まれたのが豊玉姫であり、この偽装と言うべきか変更をもたらしたのは大神一族、そして阿蘇氏→藤原氏+タカミムスビ系の者々だったはずなのです。逆はあり得ないはずです。

 彦五瀬が祖母山山頂だか元祖母だかに祀られたのは数百年遡ったはずで、そこに於いては議論の余地はないように見えるのです。

 少なくとも金山彦系が今尚強い痕跡を残しているのが豊後では竹田市から日向の高千穂は河内そして、眼前に四恩山を望む上野(カミノ)から竹田に抜ける回廊、土呂久鉱山から尾平越えの急峻な地溝、日之影の見立渓谷から杉ケ越えを抜け宇目(佐伯市)に降る辺りにあったのが木浦鉱山でしたか…、何れにせよ、山間地に於いては僅かであっても、金属の価値は凄まじく大きく、それが金山彦系の力の源泉だったのでした。これまで多くの時間を費やし神社を巡ってきた神社フリークの目から見れば、日向は西都市を中心に全域が大山祗系です。一方、名貫川渓谷を中心に高千穂、延岡一帯も金山彦系のエリアですが、豊後の木浦鉱山など豊後側の山岳地帯も五ヶ瀬〜高千穂の上野も金山彦系の地だったはずです。


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対して、大峡谷によって遮られているとは言え、肥後でも高千穂に隣接する草部吉見の本拠地が阿蘇外輪山の外に在り、川上 猛の分派か本流かは尚分からないとした大神一族が豊後の最奥部ともいうべき豊後大野市一帯に盤踞しているのです。そして彼らを川上 猛の後裔氏族と考えていることは何度となく申し上げてきました。自らの出自が阿蘇宮司家初代と思われる奈留多姫とウガヤフキアエズとから出ている事からウガヤフキアエズを経由し豊玉姫を祖母と認識しているのです。

 つまり新興勢力へと成長した大神一族と阿蘇系でも草部吉見系氏族が祖母山に豊玉姫を祀り、本来の神も残したのです。

 このように神々峰の南北の谷の地域的偏重、民族的差異、時間軸で見るべき重層性、それに加わる現状の過疎化、高齢化、神社への尊崇の念の消失という危機的な問題が重なり誰も何も知らずに神社庁と通説派が垂れ流す大嘘だけが生き残ると言う愚かな文化伝統継承の断絶が目前に迫っているのです。

 必要なところは書いたとは思いますが、祖母山の山上の神々に纏わる混乱の背後にあるものは、神代から古代に於ける支配的勢力の入れ替わりがあるようです。

 その背後には、新興勢力である阿蘇系でも当方に進出した草部吉見系+恐らく熊襲 猛の敗残に端を発した大神一族がその流れの延長にウガヤフキアエズを介在し、ウガヤを父神(親父)、豊玉姫を祖母に描く神話の捏造、変造を持って提携し、敗残した金山彦系、大山祗系に対抗する構造が生じたのだろうと考えています。

 無題.png蒸返しますがこのブログを書く切っ掛けとなったものは川原一之の「浄土むら土呂久」でした。

 加えてこの話を取り上げておられる「まーりんエッセンス振動数を上げる」という良質の鋭いブログも併せ、個人的にはかなり引っ掛かるところがありますので、いずれ余裕があれば、逐一、反論、異論、疑問を書きたいのですが、それをやりだすと切りの無い不毛な連鎖になりかねず、読者にもご迷惑をおかけすることになるでしょう。

そこは感情を抑え何れ余裕があれば自分の考えを表したいと思います。

 話は変わるも特に土呂久を描き歴史の中に位置づける事は重要で、水俣病の原田正純教授と医師として現地で丹念な報告書を作成された堀田宣之医師の特に「慢性砒素中毒研究」➋ 土呂久鉱毒病の臨床的研究、➌ 土呂久鉱毒病の予後−6年後の追跡調査報告− にも書かれている慶長の銀山から始まり昭和37の閉山までの鉱毒被害に遡る古代、神代の金属精錬(銀、銅、鉛、亜鉛錫、アンチモン、亜砒酸、ダンビュライト)も含め現地の神々を再度位置付け直し、何度目かの土呂久に入らざるを得ないでしょう。旧土呂久鉱山は慶長年間に銀山として開発されたが,鉱物の種類が豊富で,徳川時代には幕府直轄鉱山として殷盛を極めた.(19p


文中でも取り上げた神代系譜などを必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記