2023年09月01日

971 「宮原誠一の神社見聞諜」No.207 福岡市檜原の天照大神奉祭氏族 の転載 ❶

971 「宮原誠一の神社見聞諜」No.207 福岡市檜原の天照大神奉祭氏族 の転載 


“福岡市檜原の天照大神奉祭氏族”

202211124

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宮原誠一の神社見聞諜 の前書き

日本神道の弱点は、神社の祭神が不明瞭なことです。祭神がはっきりしているようで、実態がはっきりしません。また、古事記・日本書紀をどんなに解析しても、神様の縦横の関係は解かりません。

神社を訪問し、百嶋神社考古学と合わせ見ますと、新たな古代の神々と古代史像が浮かび上がってきます。各地の神社を見て、聞いて、調べて、考えたことをまとめ 「宮原誠一の神社見聞牒」 として公開してまいります。

なお、この報告は歴史、民俗等の学術論文ではありません。神社・祭神を再考するものです。


No.207  福岡市檜原の天照大神奉祭氏族


宮原誠一の神社見聞牒(207)

令和4年(2022)1121

No.123 大日孁貴(天照大神)伝承の地・福岡市南部の檜原」2019年9月29

No.129 崇神東征と卑弥呼・大幡主の神霊東遷と近畿王朝の確立」20191128

No.136 神武天皇を祀る福岡市南区柏原の神社」2020年2月28日  から要約

福岡市南区柏原(かしわら)の丘に「亀甲に大字」紋を社紋とされる羽黒神社があり、神武天皇(大伯太子)が居られたと云われ、その北隣が天照大神(卑弥呼) が居られたと云わる「檜原 ひばる」です。檜原という地名は「最も尊い丘」という意味です。

現在は大国主命を祀る羽黒神社でが、天正14(1586) 羽黒神社が勧請される以前は埴安神社だったのでしょう。

氏子さんの地区名は山田(上下)組、大城戸(上下)組となっています。「山田」は卑弥呼に因む地名、大城戸の大城は「王城」の変形で、「王の城」となります。この一帯が「王城・宮城」でしょう。大伯太子(神武天皇)の紋章に加えて、「王城」となれば、福岡市南区柏原に鎮座する羽黒神社の丘は、卑弥呼女王、神武天皇の姉弟が住まわれる王城となります。

「亀甲に大字」紋の社紋は大幡主(埴安命=国常立神)に庇護されていることを意味し、羽黒神社の装いは大山祗によって守られているかのような神武天皇(大伯太子)を祀る神社です。


羽黒神社 福岡市南区柏原372

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社頭前の川は樋井川


那珂川市の伏見宮を北に上がった西の標高60m程の小高い丘の中腹に天神社が鎮座です。檜原の近くにあり、大幡主と大日孁貴(天照大神)を共に祀ります。大日孁貴の伝承の地です。天神社の小高い丘は場所柄、福岡市の檜原と那珂川市の山田と接します。見上げても良く、見下ろしてもいい場所にあります。檜原という地名が「最も尊い丘」にぴったりです。

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福岡市の古代の波際線からかなり奥まった(福岡市南区)辺りの油山の裾野に柏原と桧原と樋井川という古代史ファンならば直ぐに気が付く地名が静かに残されています。

僅かに脳細胞を活動させれば、これが重要な地名だと思いつくと思います。

当然、奈良県の神武天皇を祀る「橿原の宮」の橿原、また、奈良県桜井の天照大御神を祀る「檜原神社」の檜原もこちらからの移動である事がお分かりになるでしょう。

百嶋先生からも本物の“武天皇は「柏原」に、(腹違いの姉の)天照は「桧原」に別れて住んでおられました。”とお聴きしています。              以下も地図を含め 古川による



檜原 五社神社 福岡県福岡市南区桧原2丁目24

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柏原(神武)と桧原(天照)が別々に住んでいた地名が隣接しており、樋井川により分かれていたのでしょうが、地名がある程度それを示してくれています。

古川による

百嶋由一郎氏が残された100枚近い神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254までご連絡下さい。


天神社 福岡県那珂川市(旧岩戸村)道善321

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檜原(ひばる)の北にヒミコと隣あわせに、神武天皇は福岡市南区柏原(奈良の橿原ではありません)に居られ、後に、ヒミコと共に糸島曽根に移られました。
伊勢神宮の前身の奈良県桜井市の檜原神社は福岡市南区の檜原(ひばる)の地名と同じです。 その後は糸島市の曽根(ソネ)の平原(ひらばる)です。「檜原」も「平原」も同義語で「高貴な丘」という意味です。
後に、卑弥呼(天照大神)と大幡主は、椎根津彦によって神霊東遷が行なわれます。
卑弥呼(天照大神)は奈良県桜井市の檜原神社に、大幡主は大和神社(おおやまと神社・奈良県天理市新泉町星山)に倭大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)として、一時鎮座されます。最終地は、卑弥呼(天照大神)は伊勢神宮内宮に、大幡主は伊勢神宮外宮に鎮座です。


以上が、前記事の概要です。本題はこれからです。

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972 「宮原誠一の神社見聞諜」No.207 福岡市檜原の天照大神奉祭氏族 の転載  

“福岡市檜原の天照大神奉祭氏族”  に続く

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ビアヘロ215 佃 収北九州市小倉講演に多くの参加を頂きました 特に遠方からの参加者に感謝します

ビアヘロ215 佃 収北九州市小倉講演に多くの参加を頂きました 特に遠方からの参加者に感謝します

(再掲載)                20230724

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 さる2023722日(土)1300〜 丁己歴史塾+菊水史談会+太宰府地名研究会の提携により

北九州市小倉北区大手町114号ムーブ 5F大セミナールーム(定員 165人)に於いて九州王朝論者の佃 収(非古田系)氏の講演会を行いました。

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於:TEL093‐583‐3939 FAX093‐583‐5107 会場 北九州市立男女共同参画センター・ムーブ


下は、昨年の65日の戸畑講演を呼び掛けたものですが、この時は大雨の中60人規模でお集まり頂きました。今回は、それを継続し行われたものでしたが、前回を上回る規模となりました。深謝します。



昨年の熊本県菊水史談会との提携による熊本〜北九州連続講演

佃収熊本講演は5/29 10:00(菊水IC1キロ)和水町中央公民館(連絡:090-3787-4460前垣)  6月期  要:参加費資料代(注意:内容変更有)

202265日(日)13:001700 特別講演

於:北九州市ウェルとばた 北九州市戸畑区汐井町16 093-871-7200

講演者 『古代文化を考える』(同人誌)主宰 佃 収

講演テーマ  無題.png熊本は「貴国から高市天皇」ですが、戸畑では「日本人の起源」〜「倭の五王」まで

「古代史の復元」シリーズ 1 倭人のルーツと渤海沿岸など10著を越える公刊後も挑み続ける現存する九州王朝論者の最先端、最高峰、最重要の九州王朝論の視点による研究内容(非古田系)です。ネットで佃収と検索すれば「日本古代史の復元」が出てきます。


 昨年は529日から65日に掛ける連続講演をお願いしましたが、今回は単独開催となり、佃収先生を埼玉県からお呼びして行うものになりました。このため、実際にはどれほどの参加を得られるかは蓋を開けるまでは正直予測がつきませんでした。

 ところが、開催時刻が近づくと165人収容の会場は、ほぼ満席状態に見えるほどの参加者でいっぱいになりました。これには少しトリックがあったようで、三人掛けのテーブルが基本二人掛けにされており、実際には120人で満席になる状態だったようです。

 まだ、正確な集計を行ってはいませんので詳細は不明ですが、これほどの参加が得られれば上出来だったのではないでしょうか。

 さらに、もしも日曜日の開催であったならば、動員できた数は3割増しにはなっていたはずで、日曜日の会場が確保できなかったため仕方がなかったのでした。現在、非正規雇用の増大、年金支給額の縮小によって死ぬまで働かされる状態になっており、既に支給年齢の70歳化を政府は決めているわけで、週休二日制など吹き飛び、土曜日にも働く方が激増しているのです。このため、本来、参加いただける方が減るのは致し方ないのです。まあ、120人近くならば感謝すべきと言えるのです。

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佃先生もお喜びでしたし、今後とも講演をしたいと言われていましたので、もしかしたら佃収講演は継続できるのではないかと考えているところです。

 ただ、3年半ほど丁己歴史塾からの要請を受け講演者を派遣してきましたが、太宰府、久留米方面での自前の講演会が手薄となっており、10月からは筑前〜筑後〜肥後のラインに戻し、太宰府、久留米の中間で、佐賀、熊本からも集まり易い筑紫野市での講演会に戻し、北九州市での佃講演が行われる場合はそちらを優先し共同開催したいと考えています。                (20230725)古川清久

何かお気づきの点、ご質問等があれば0906298-3254当方までご連絡下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ215 20237月 佃 収 北九州小倉講演を終えて

20230728


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 昨年の戸畑講演60人参加を引き継いで、小倉での講演会110120を終え、今後どうするのかを考える必要が出てきました。

 この3年半の間、北九州市を本拠地とした丁己歴史塾からの要請を受け、当会の研究者から講演者を派遣し、古代史、神社研究、万葉集、考古学…といったジャンルで多くの講師、講演者を送り月例会に対して講演やトレッキングなどを続けてきました。

当方も、遠方である事からメンバーを大量に送り込むことはできず、十名前後の参加者を送るのがやっとでしたが、昨年6月の佃収講演には、当会も20人越えのメンバーを送込み大雨の中、60人の集会が実現できたのでした。

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ただ、この実績があったため、多分やれるだろうと踏んだのが237月の小倉ムーブ講演でした。

230年前と異なり、週休二日制も実質崩壊し、土曜日は行けるけど日曜日は無理とか、平日なら何とかなるけど日祭日は仕事をしなければ食っていけない…と言った話が蔓延しており、この間の小泉竹中改革〜民主党政権、遡れば中曽根政権によって日本経済がガタガタにされてきた結果が今に齎らされている事を振り返る毎日ですが、売国政権が連続し、それを中断した安部政権が暗殺により岸田政権の浮遊という国難を思わざるを得ないのです。

結果、会の運営にも障害が出ており、なかなか総動員ができる日が少なくなっているのが偽らざる実情なのです。

それどころか、年金支給開始年齢を70まで引き上げようとするなど(竹中平蔵)、文字通り80まで働かされ、死ぬまで年金の恩恵にあずかれないという有様ではこういったイベントに参加者を呼び込むことは非常に難しい状況が出現している状況になっているのです。

今や、地元の郷土史会、史談会、地名研究会…と言ったものが解散し総崩れ状態となっており、代わりに行われているのが、行政主導の村興し町興し、世界遺産登録などと言った通説派の学者や教育委員会が幅を利かす大嘘イベントなのです。

典型的なのが、恐らく行政から金を引き出して行われている、全国〇馬台国シンポジウムと言ったもので、それが大嘘である事は、邪馬台国の候補地は全国至る所にあり候補地の数も100か所はありますので、イベントは終わりません…と言った好い加減な言説に信憑性がない事だけは確実でしょう。

酷いところでは、行政丸抱えの焼肉パーティーや、ホルモン焼き、お好み焼き…といったジャンク・フードの町興しイベントの余興で行われるものまで出てくる始末で、それに九州王朝論者と言った触れ込みの人物が燥いで好い加減な言説をまき散らすに至るや…九州王朝論者の風上にも置けない連中まで出てくる始末なのです。

こういった行政にあやかり九州王朝論などと嘯く連中が、学会、通説派の権力からお叱りを受けた際に抵抗できるとも思えず、道化とまでは言わないまでも、行政の芸人になりきり真実の追及=九州王朝の真実を探求する意思と組織を失えばor既に失っているならば、研究会とか古代史の真実の追及などと言った物とは凡そ言えるはずも無いのです。

実は当時の会場に於いて、参加者の古代史愛好家というか複数の九州王朝論者の方から当方にお話があり、福岡にはこの集まりの他にも講演会が行われており疑問を示されていました。

あの方々は、実質的には行政の芸人のようなもので…たまたま個人の郷土愛が行政の意向とマッチしただけで、自らの研究を継承させる組織も総じて九州王朝の研究を深める作業にも向かっていない…と思うと言えば、その通りですとの賛意を得たのでした。

まあ、どのような事をされようが自由であってそれはそれで良いのですが、佃収先生の資材を投げ打った研究姿勢に対して、これらの方々が人生を閉じる年齢になって、いったい何のために生きてきたのかを感じないのかと思うばかりです。

九州では老舗の九州王朝論の研究会である(あった)某(九州〇〇史の会)団体(元々は古田系の市民の古代研究会の団体だったのでしょうが、私も数年間入会し馬鹿々々しいと分かり離脱しましたが)も、最近、九州王朝説による自前の講演者失い、自ら闘ってきたはずの通説派の学芸員やら教育員会関係者の御高説に拍手喝さいを行う始末では九州王朝論者の団体の恥を晒し、通説派の講演者に馬鹿にされている有様なのです。

こうして、九州王朝論者の本拠地であるべき九州の地に於いて探求を続ける、まともな研究団体は消え失せると言いたい(今考えればそもそもそんなものも無かったのではないか)ところですが、実はそうでもなく、元々、まだ健全であった15年前ぐらいにおいても、真面目に現地に入り、調査を行う連中ではなかった事を知っているものとしては、こうなるのも必然だったと言えるでしょう。

その点、十数年に亘って、佐賀県の少し西の小さな駅の前にある安宿などに一か月間は逗留し調査された佃収先生の現場を重視する姿勢と精神的純潔さには今更ながら頭が下がる思いがするのです。

古田武彦が亡くなり、予想した通り、九州王朝論者の背骨であった九州古代史の会自体が分解過程に入っており、下手すれば、通説派によって「古田武彦はいなかった!」とされ大嘘で固めた邪馬台国畿内説論者などが跋扈する酷い状況にあると言えそうなのです。

今後とも佃収先生の講演会に取り組む事になりそうですが、埼玉県からお呼びするだけでも、旅費、宿泊に講師謝金を考えると、最低でも78万の経費を捻出する必要があり、80人程度の参加があれば、継続できるのではないか考えている所です。

この点を考えると、丁己歴史塾と太宰府地名研究会の提携は偶然としても、非常に良いカップリングであったと思っています。

事実、丁己歴史塾は、古田武彦氏と連携していた九州王朝論者の某氏の影響下にあった小グループが十数年前から活動を開始したもので、書く言う我々も20年ほど前に久留米を中心に活動を開始した地名研究会を母体にしていますが、これは偽装であって、谷川健一の久留米大学講演が行われたのを切っ掛けに地名研究会を設立したのが始まりだったのです。

それは谷川健一が地名研究会を作りましょうと呼び掛けた事を利用して始まったからであり、谷川健一の説ではなく、内部に古田九州王朝論を浸透させる事が目的で、表向き地名研究会を名乗ったのでした。

つまり、太宰府地名研究会と丁己歴史塾とは奇しくも九州王朝論者の傍流同士の連合体になっている訳で、少し正確が異なっているのは、当方は百嶋由一郎と言う稀代の神社考古学研究者の影響を良く受けた者が集まっており、百嶋神社考古学と古田武彦九州王朝論に限界を感じ、佃収研究に新たな展開を見た者に背骨を持っている組織である事なのです。

こうして、本来は消失直前にあった百嶋神社考古学と古田九州王朝論とは全く別の流れにあった江上波夫系の佃収先生の説に関心を持ったため、非常に稀な九州王朝論に立つ団体になっているのです。

佃収先生の事を知ったのは15年ほど前で、その当時は佃収先生は元より、米田良三氏などの説が飛び交っていた時代でした。

こうした背景を持って活動を継続した我々でしたが、百嶋神社考古学の驚愕の衝撃に直面した者達から多くの神社研究者やブロガーが生み出されると共に、ネット上に公開すると、百嶋由一郎が残した神代系譜の強力な力によって、全国規模で多くの神社考古学の影響を受けた人々が当方と提携し、ブログを書き始め、古田史学の会からも中京を中心とする最大下部組織の中にも相当の信奉者を生み出してくるなど、かなりのブロガーが全国規模で活動し始めたのでした。

こうして、佃収九州王朝説と百嶋神社考古学の影響を受けた特殊な枠を与えられ多くの研究者、神社調査者を持つ特異な団体が当方だったのです。

曲がりなりにも、貴重極まりない佃収先生の講演会を自前で行う事が出来ました。

今後どうするかは、はっきりしていませんが、年に23回は佃収講演会を北九州市で行い、当方は、本来の根拠地であった筑前、筑後、肥後のラインに戻し、筑紫野市の二日市温泉のエリアに戻し、月例会を続け、サテライトの佐賀、熊本、大分のメンバーを加えて研究会を続けたいと考えています。

特に、大分にはブロガーだけで5人、複数の著書を持たれる方も4人はおられるので、パーマネントな組織造りをすべきでしょう。ただ豊前、豊後は広過ぎます。新に佐賀の組織を造ろうとしていますが、私も含め九州王朝論など聴いたことも無い田吾作ばかりのお国柄であり前途多難で大変です。

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さて、皆さんも、邪馬台国畿内説などと言った既存の大嘘から離脱し、九州王朝説に立ち自らが信じられる研究を発見して頂きたいと思って止みません。

ただ、佃収研究は非常に体系的で、しかも時系列的に多くの政権が入れ替わった九州の政治状況を描いており、如何なる経緯で、世界でも稀有な列島の古代国家が形成されて来たかを理解できるのではないかと思うのです。

グーグルで「佃収」と入力すれば直ぐにトップページに上記の窓が登場し、その中には佃研究の主要な論説を読む事が可能になるのです。

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佃収氏は現在80を超え、尚も研究、講演を続けられています。

佃収九州王朝説は、その精緻な内容とその膨大な研究内容にも拘わらず、九州王朝論者の中でもそれほど知られてはいません。

書く言う私自身も佃研究を知ったのは10年前であり、徐々に読み深めていくうちに、その精緻さに驚き、一発屋の邪馬台国本を出して邪馬台国論争に参加したと満足している方々が多い中、35年近い研究を九州の現場に長期間入り丹念に続けてこられた事を知るにつけ、九州の現場に入る事も無く文献と思い込みだけで堂々と自説を展開する方々を見るにつけ、つくづく嫌悪感さえ覚えるほどです。

かく言う私は18歳から古田三部作を読み始め、50代から二十年近く古田史学の会にも参加してきましたが、「古田先生の言われたことが誤りだとでも言うのか…」と言った硬直化した姿勢に将来性が見えないと思いつつも尚会員であり続けたのは、それに輪を掛けた邪馬台国畿内説論者からさもしいばかりの職業的考古学協会系の商売人による通説派の大嘘つき共に対抗するにはそのような強固な組織があっても良いだろうと、期待はしないまでも容認し、敵対もしていなかったのですが、数年前に会を離れ、近年亡くなられた米田良三氏や佃収研究を拡散し、我々が新たに進出した百嶋神社考古学の全国的拡散を図ってきたところです。

今後とも、佃収研究の拡散はもとより、年に3回程度の講演会を続け、佃収先生の最後の研究活動を支えたいと思っている所です。

このため、小規模ながらも全国的ネットワークを持つ、百嶋神社考古学研究会の埼玉在住メンバーを、埼玉での講演会に入って頂き、IT技術を活用した展開をサポートしてもらう事も始めている所です。

昨年の佃収北九州市戸畑講演(60人)、今年の小倉講演(110人)を実現したのですが、既に、現地の九州市では提携団体の丁己歴史塾を中心に、今後とも年に3会程度の講演会を継続したいとの考えが出されていますが、当方は、この三年半余り、北九州での講演会に梃入れを行ってきたことから本拠地の筑前、筑後、肥後…の九州王朝の中心部での活動が手薄になっており、筑紫野市=二日市温泉での研究会再開へと秋から戻す方向で準備中です。

佃先生の年齢を考えると、ここ数年サポートを続ける必要がある事は自明ですが、当会の動員力を含め、支える事が可能かどうかはやって見なければ分かりません。


佃収講演については、北九州方面では090-54775110牧野、筑前筑後地区では090-6298-3254まで。

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2023年09月03日

972 「宮原誠一の神社見聞諜」No.207 福岡市檜原の天照大神奉祭氏族 の転載 ❷

972 「宮原誠一の神社見聞諜」No.207 福岡市檜原の天照大神奉祭氏族 の転載 


“福岡市檜原の天照大神奉祭氏族” 新ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

202211124

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


No.207  福岡市檜原の天照大神奉祭氏族


宮原誠一の神社見聞牒(207)

令和4年(2022)1121


卑弥呼(天照大神)が居られたと云わる福岡市檜原地区に、卑弥呼(天照大神)の痕跡が見当たらなかったのです。

羽黒神社の氏子さんの地区名に山田(上下)組があり、「山田」は卑弥呼に因む地名ですが、他に痕跡が見当たらなかったのです。不思議でした。神霊東遷によって痕跡はなくなった、と思っていました。ところが、ブログ読者様から情報が寄せられました。



メッセージ

檜原が元伊勢である根拠の一つに、大神姓が日本で一番集中する地域という事実が有ります。おそらくあの地区に27世帯以上の大神さんが住んでおります。

現在の檜原元伊勢は個人で祀られているのではないでしょうか。

檜原と平原が同義とは気が付きませんでした。

仕事で平原によく行くのですが、確かに丘になっております。     20221112 22:54


福岡市檜原地区に大神姓(おおがみ)で、卑弥呼(天照大神)奉祭の氏族が残っておられる、ということです。


「名字由来net」で、大神姓の日本分布を調べました。

確かに、檜原に大神姓(おおがみ)が日本で一番集中する地域となっています。

関係の方々が今もその周辺(一、二丁目付近)に居られるのがわかります。


名字由来net

ttps://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=大神

大神【読み】おおがみ,おおが,おおかみ,おんが,だいじん,おおじん,おおみわ

大神さんの多い地域

都道府県

福岡県 およそ3,000人 大阪府 およそ400人 大分県 およそ310

市区町村

福岡県福岡市西区  およそ400人 福岡県福岡市南区  およそ370

福岡県福岡市東区  およそ300人 福岡県福岡市早良区 およそ220

福岡県福岡市城南区 およそ160人 

福岡県福岡市西区ランキング

宇田川原 およそ70人 宮浦 およそ50人 桑原 およそ70人 

福岡県福岡市南区ランキング

三宅 およそ20人 桧原 およそ160(おおがみ) 野間 およそ30

福岡県福岡市東区ランキング 多々良 およそ90人 若宮 およそ90

福岡県福岡市早良区ランキング 原 およそ70人 室見 およそ30

福岡県福岡市城南区ランキング 東油山 およそ40人 田島 およそ20

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大神姓は「おおがみ」であり、大山咋神(日吉様)ゆかりの「おおが」ではありません。

桧原二丁目の東に「五社神社」がありますが、この神社は正八幡大幡主(埴安彦)を祀る神社です。その五社神社は桧原一丁目藤ヶ丘にあったが、現在地に遷宮されたということです。

この檜原地区はやはり、ヒミコと大幡主とその奉祭一族の領域のようです。


五社神社

福岡市南区桧原二丁目24-20  祭神 住吉神 春日神 志賀神 香椎神 宝満神

由緒

創建は定かではないが、古来、五社大明神社と呼ばれていたのを、明治5年11月3日太政官布告に従って村社に治定されてからは五社神社と呼ばれるようになった 大正15年5月大字檜原字天神 (檜原一丁目藤ヶ丘)より現在の地所に御遷宮された由 

氏子区域及戸数 旧檜原村 58戸 天神社(末社) 埴安神 右側神 垣安神 左側神


奈留多姫の奉祭氏族も大神姓「おおがみ」であった
長髄彦の反乱後、しばらくして長髄彦の姉・瀛津世襲足姫の子であり、本拠地を南九州におく南九州の熊襲の頭領である建南方(たけみなかた)が長髄彦の乱に呼応して、北熊本から南筑後にかけて、熊襲の乱(建南方の乱)を起こします。
しかし、建南方は父・春日大神(天忍穂耳命)に説得され降伏されます。
そして、周囲から奈留多姫(なるたひめ 母は雨宮姫)を妻に世話してもらい、奈留多姫は八坂刀売(やさかとめ)と改名して二人の新天地・信州諏訪へ赴かれますが、奈留多姫は一族・熊襲及び阿蘇家の人たちを福岡市早良に残して行かれるのです。
その一時的な住まいである「福岡市早良」が不明でしたが、ようやく、早良区原の諏訪神社であることが分かりました。
詳しくは、「ひぼろぎ逍遥 古川清久管理人」のNo.924-925 をご覧ください。
その諏訪神社の由緒略記の石碑から氏子さんの名が読み取れるのです。


http://hiborogi.sblo.jp/article/189915426.html


925
福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい

 202201011  太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

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福岡県福岡市早良区原六丁目2024
御祭神:八坂刀賣命(やさかとめのみこと)=奈留多姫

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氏子さん
大神、浜、加藤、小田、進藤、上田、真鍋、武田、山田、本村、
佐々倉、千田、草場、白水、重松、米倉、米田、深川、武内、槙、山崎
由緒
当神社は、長野県諏訪郡下諏訪町鎮座の諏訪大社下社御祭神八坂刀賣神(妃神)の御分社で鎮座は約480年前です。当社の特質は神話的軍系的血縁関係の神社とは異なり、原の地域住民が神恩を奉謝し、淳厚なる民風と作興するため、連帯的扶助共存意識の基に、情義 道徳 健康を養うとする産土神で、原区域内に居住し 本神社を崇敬する氏子と他地区の方々で本神社を崇高する人々を鎮り加えて、家内安全と守護されてる御神徳の厚き神社です。
追之御神紋は巴紋で蛇神格化を意味し、防火防水の社紋であります。(昭和6112)

由緒略記にも書かれているのですが、参道入り口に置かれた神社標柱も住吉の紋章であり、諏訪の神紋のはずの諏訪梶(梶紋)ではないのです。これも不思議なことです。(以上)


雨宮姫を母に持つ奈留多姫は阿蘇系と捉えられがちですが、氏子さんの名を見る限り、そうではないのです。
大神、上田、山田はヒミコ奉祭氏族、加藤、小田、真鍋、草場、白水、重松さん等は大幡主奉祭とみられます。
奈留多姫は鵜草葺不合命を夫に、その御子がクマソタケル(後の川上タケル)と豊姫(ゆたひめ)であり、氏子さんが大幡主奉祭であることが理解できるのです。
それでも、ヒミコ奉祭氏族には繋がっていかないのです。
ヒントは奈留多姫の母系先祖にありました。奈留多姫の母系を遡っていくと、ヒミコ様にたどり着くのです。
 
 奈留多姫雨宮姫阿蘇津姫拷幡千々姫ヒミコ様

それで、大神(おおがみ)さん等の奉祭が理解できるのです。

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