961(前) 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補)
20221005
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
本稿は ひぼろぎ逍遥(跡宮)960 の補足のためのものです。お読みでない方はそちらを優先して下さい。一般的にはトンデモ話としか言えない武田家九州起源説を再度展開し、よって武田の一族が如何なるものであったのかを多少とも浮かび上がらせたいと思います。
その意味では晩年の信玄公が建てた武田八幡宮を考えるのは価値ある事になります。

もし読者で余力のある方がおられたら五年ほど前に入り書いた以下のぶどう寺リポートと併せて読んで頂ければ、今回取り上げる武田氏のご先祖がどこからやってきたかがより鮮明に浮かび上がってくることでしょう。私自身も、もう、半ば忘れかけていますが、かつてこのぶどう寺問題に取り組み、凡その見当を着けていました。武田勝頼の一族はこのぶどう寺(大善寺)の奥で自決します。その意味でも武田氏とぶどう寺とはただならぬ関係があったと思われます。
さて、九州王朝論者の方でも九州在住者でれば、久留米市の大善寺玉垂宮をご存じのはずです。

しかしこの地、つまり大善寺玉垂宮の傍に大善寺(旧玉垂宮神宮寺)〒830-0073 福岡県久留米市大善寺町宮本791−1−2 にまでもが存在していることまで知っている方は地元以外では皆無だと思います。
これについてはかなり複雑ですが、そもそも“白鳳元年(672)、三池長者師直が玉垂宮の古跡に法相宗の僧「安泰和尚」が勧請し、左に八幡菩薩、右に住吉大明神、中央に高良玉垂大菩薩を安置し、その側に精舎を開基して「御廟院高法寺」と号したのが始まりである。 延暦年中(782-805)に天台宗となる。” 御船山等学院 大善寺だいぜんじ 天台宗とされているのです。電話: 0942-26-3600
一方、宇佐八幡宮の呉橋が掛かる寄藻川を2〜300ⅿ上流に遡ると、ここにも白龍山大善寺(大分県宇佐市南宇佐2801)曹洞宗が存在するのです。

この大善寺と言う名そのものに何やら大きな謎があるように見えると思います。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
125 | 宇佐神宮とは何か? S “宇佐神宮の勅使井と百体神社” |
124 | 宇佐神宮とは何か? R “宇佐神宮の隣の国東に鎮座する 八幡神社の境内社について” |
123 | 宇佐神宮とは何か? Q “宇佐神宮の(仮称)中宮に鎮座 する若宮神社とは何か?” |
122 | 宇佐神宮とは何か? P “宇佐神宮の上宮に鎮座する三摂社を実見した?” |
120 | 宇佐神宮とは何か? O “勅使来訪により呉橋が一般公開された” |
106 | 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)” |
105 | 宇佐神宮とは何か? N “そろそろ本殿の探査に踏み込みましょう” |
104 | 宇佐神宮とは何か? M “到津屋敷をご存じですか?” |
103 | 宇佐神宮とは何か? L “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは 「三国史記」の目支国のマキ” |
102 | 宇佐神宮とは何か? K “境外摂社鷹居社とは何か?” |
101 | 宇佐神宮とは何か? J “安心院の妻垣神社は自称神武こと 崇神天皇を供応したか?” |
100 | 宇佐神宮とは何か? I “安心院の三女神社は筑紫の君が祀った?” |
99 | 宇佐神宮とは何か? H “安心院の三女神社は二女神社だったのか?” |
98 | 宇佐神宮とは何か? G “神宮の故地か?今も上宮内二摂社が院内町に鎮座する” |
97 | 宇佐神宮とは何か? F “宇佐神宮の向こう側” |
96 | 宇佐神宮とは何か? E “御許山の大元神社とは何か?” |
95 | 宇佐神宮とは何か? D “宇佐神宮の境内摂社「大尾神社」をご存じですか?” |
94 | 宇佐神宮とは何か? C “宇佐神宮宝物館の神輿は誰のものだったのか?” |
93 | 宇佐神宮とは何か? B “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺” |
92 | 宇佐神宮とは何か? A “和気清麻呂は勅使道ではなく舟で上陸した” |
91 | 宇佐神宮とは何か? @ “呉橋から北へと延びる勅使道” |
それどころか、それ以上は踏み込まないでいたのですが、今回、武田八幡宮を見せて頂き、武田氏のご先祖様は戦国期から1000年以上前に九州から入っていたという確信を持つに至ったのでした。
今回はこの信じ難い驚愕の仮説を提出する事にします。
349 | 勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には 何故「三階松の神紋」があるのか?” | |||
348 | 勝沼ワインの里の大善寺 F “ぶどう寺にはなぜ「国宝 ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)A | |||
345 | 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社” | |||
344 | 勝沼ワインの里の大善寺 E “ぶどう寺にはなぜ「国宝 ぶどう薬師」像があるのか?”(追補) | |||
343 | 勝沼ワインの里の大善寺 D “ぶどう寺にはなぜ「国宝 ぶどう薬師」像があるのか?”(下) | |||
342 | 勝沼ワインの里の大善寺 C “ぶどう寺にはなぜ「国宝 ぶどう薬師」像があるのか?”(中) | |||
341 | 勝沼ワインの里の大善寺 B “ぶどう寺にはなぜ「国宝 ぶどう薬師」像があるのか?”(上) | |||
勝沼ワインの里の大善寺 A “大善寺の全国的傾向” | ||||
212 | 勝沼ワインの里の大善寺 @ “山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の神宮寺” | |||
では山梨県のぶどう寺をご覧下さい。

天下統一を競った武田信玄亡き後、勝頼は織田徳川の連合軍の近代装備と物量の前に敗退し、天正十年(1582)3月3日、郡内の岩殿城で再興を図ろうと韮崎の新府城を出発し、大善寺で戦勝を祈願して一夜を明かしました。
しかし、武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は天目山を目指しましたが、織田徳川の連合軍に行く手を阻まれ、ついに3月11日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来五百年続いた甲斐源氏も滅亡しました。
その一部始終を目撃した理慶尼が記した「理慶尼記」は「武田滅亡記」ともいわれ、尼の住んでいたこの大善寺に保管されています。
勝頼の家臣たちは、勝頼を最後まで裏切ることなく守り、戦死しましたが、その子供たちは後に徳川家康に重用され、江戸時代には各地の城主に任命されました。勝頼の「宿」となった薬師堂にはその子供たちから寄進された文殊菩薩、毘沙門天が安置されています。 同寺院HP「武田勝頼と大善寺」より

ここで5年前に書いたぶどう寺の話に繋ぎます。この時点では武田氏が神武僭称贈る崇神の時代に開化天皇の指揮下で送り込まれた四道将軍の一方面軍の大彦(開化天皇の腹違いの兄弟)の一族こそが武田氏に繋がっており、その九州王朝の象徴である(開化=高良玉垂命と神功皇后の長子)仁徳=シレカシノミコト(藤原はオオササギノミコトとしますが)を奉斎する大彦の一族こそが後の武田氏である事が分かってきたのです。
349 勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には何故「三階松の神紋」があるのか?”20170117
甲州勝沼のぶどう寺こと大善寺に三階松の神紋が使われているという事実に直面し、ここ一、二年考えあぐねていたのですが、ようやく雲間から一筋の光が刺してきたような思いがしています。

百嶋由一郎氏の残された手書き資料に、次の一葉がありました。
そして、なんとそこには武田氏は大彦(アヘ氏)の流れとのメモが残されていたのでした。
