2023年06月01日

961(前) 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補)

961(前) 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 山梨県 若宮八幡神社(追補)


20221005

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は ひぼろぎ逍遥(跡宮)960 の補足のためのものです。お読みでない方はそちらを優先して下さい。一般的にはトンデモ話としか言えない武田家九州起源説を再度展開し、よって武田の一族が如何なるものであったのかを多少とも浮かび上がらせたいと思います。

その意味では晩年の信玄公が建てた武田八幡宮を考えるのは価値ある事になります。

無題.png

もし読者で余力のある方がおられたら五年ほど前に入り書いた以下のぶどう寺リポートと併せて読んで頂ければ、今回取り上げる武田氏のご先祖がどこからやってきたかがより鮮明に浮かび上がってくることでしょう。私自身も、もう、半ば忘れかけていますが、かつてこのぶどう寺問題に取り組み、凡その見当を着けていました。武田勝頼の一族はこのぶどう寺(大善寺)の奥で自決します。その意味でも武田氏とぶどう寺とはただならぬ関係があったと思われます。

さて、九州王朝論者の方でも九州在住者でれば、久留米市の大善寺玉垂宮をご存じのはずです。

無題.png

しかしこの地、つまり大善寺玉垂宮の傍に大善寺(旧玉垂宮神宮寺)〒830-0073 福岡県久留米市大善寺町宮本791−1−2 にまでもが存在していることまで知っている方は地元以外では皆無だと思います。

これについてはかなり複雑ですが、そもそも白鳳元年(672)、三池長者師直が玉垂宮の古跡に法相宗の僧「安泰和尚」が勧請し、左に八幡菩薩、右に住吉大明神、中央に高良玉垂大菩薩を安置し、その側に精舎を開基して「御廟院高法寺」と号したのが始まりである。 延暦年中(782-805)に天台宗となる。” 御船山等学院 大善寺だいぜんじ 天台宗とされているのです。電話: 0942-26-3600

一方、宇佐八幡宮の呉橋が掛かる寄藻川を2300ⅿ上流に遡ると、ここにも白龍山大善寺(大分県宇佐市南宇佐2801)曹洞宗が存在するのです。

無題.png

この大善寺と言う名そのものに何やら大きな謎があるように見えると思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

125

宇佐神宮とは何か? S “宇佐神宮の勅使井と百体神社”

124

宇佐神宮とは何か? R “宇佐神宮の隣の国東に鎮座する

八幡神社の境内社について”

123

宇佐神宮とは何か? Q “宇佐神宮の(仮称)中宮に鎮座

する若宮神社とは何か?”

122

宇佐神宮とは何か? P “宇佐神宮の上宮に鎮座する三摂社を実見した?”

120

宇佐神宮とは何か? O “勅使来訪により呉橋が一般公開された”

106

白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

105

宇佐神宮とは何か? N “そろそろ本殿の探査に踏み込みましょう”

104

宇佐神宮とは何か? M “到津屋敷をご存じですか?”

103

宇佐神宮とは何か? L “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは

「三国史記」の目支国のマキ”

102

宇佐神宮とは何か? K “境外摂社鷹居社とは何か?”

101

宇佐神宮とは何か? J “安心院の妻垣神社は自称神武こと

崇神天皇を供応したか?”

100

宇佐神宮とは何か? I “安心院の三女神社は筑紫の君が祀った?”

99

宇佐神宮とは何か? H “安心院の三女神社は二女神社だったのか?

98

宇佐神宮とは何か? G “神宮の故地か?今も上宮内二摂社が院内町に鎮座する”

97

宇佐神宮とは何か? F “宇佐神宮の向こう側”

96

宇佐神宮とは何か? E “御許山の大元神社とは何か?”

95

宇佐神宮とは何か? D “宇佐神宮の境内摂社「大尾神社」をご存じですか?”

94

宇佐神宮とは何か? C “宇佐神宮宝物館の神輿は誰のものだったのか?”

93

宇佐神宮とは何か? B “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺”

92

宇佐神宮とは何か? A “和気清麻呂は勅使道ではなく舟で上陸した”

91

宇佐神宮とは何か? @ “呉橋から北へと延びる勅使道”


それどころか、それ以上は踏み込まないでいたのですが、今回、武田八幡宮を見せて頂き、武田氏のご先祖様は戦国期から1000年以上前に九州から入っていたという確信を持つに至ったのでした。

今回はこの信じ難い驚愕の仮説を提出する事にします。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

 

349

勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には

何故「三階松の神紋」があるのか?”

 

348

勝沼ワインの里の大善寺 F “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)A

 

345

勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

 

344

勝沼ワインの里の大善寺 E “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)

 

343

勝沼ワインの里の大善寺 D “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(下)

 

342

勝沼ワインの里の大善寺 C “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(中)

 

341

勝沼ワインの里の大善寺 B “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(上)

213

勝沼ワインの里の大善寺 A “大善寺の全国的傾向”

 

212

勝沼ワインの里の大善寺 @ “山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の神宮寺”

 
     

 では山梨県のぶどう寺をご覧下さい。

無題.png

無題.png天下統一を競った武田信玄亡き後、勝頼は織田徳川の連合軍の近代装備と物量の前に敗退し、天正十年(158233日、郡内の岩殿城で再興を図ろうと韮崎の新府城を出発し、大善寺で戦勝を祈願して一夜を明かしました。

しかし、武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は天目山を目指しましたが、織田徳川の連合軍に行く手を阻まれ、ついに311日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来五百年続いた甲斐源氏も滅亡しました。

その一部始終を目撃した理慶尼が記した「理慶尼記」は「武田滅亡記」ともいわれ、尼の住んでいたこの大善寺に保管されています。

勝頼の家臣たちは、勝頼を最後まで裏切ることなく守り、戦死しましたが、その子供たちは後に徳川家康に重用され、江戸時代には各地の城主に任命されました。勝頼の「宿」となった薬師堂にはその子供たちから寄進された文殊菩薩、毘沙門天が安置されています。 同寺院HP「武田勝頼と大善寺」より

無題.png

ここで5年前に書いたぶどう寺の話に繋ぎます。この時点では武田氏が神武僭称贈る崇神の時代に開化天皇の指揮下で送り込まれた四道将軍の一方面軍の大彦(開化天皇の腹違いの兄弟)の一族こそが武田氏に繋がっており、その九州王朝の象徴である(開化=高良玉垂命と神功皇后の長子)仁徳=シレカシノミコト(藤原はオオササギノミコトとしますが)を奉斎する大彦の一族こそが後の武田氏である事が分かってきたのです。


349 勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には何故「三階松の神紋」があるのか?”20170117

甲州勝沼のぶどう寺こと大善寺に三階松の神紋が使われているという事実に直面し、ここ一、二年考えあぐねていたのですが、ようやく雲間から一筋の光が刺してきたような思いがしています。

無題.png

百嶋由一郎氏の残された手書き資料に、次の一葉がありました。

そして、なんとそこには武田氏は大彦(アヘ氏)の流れとのメモが残されていたのでした。

無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

961(後) 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補)

961(後) 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 山梨県 若宮八幡神社(追補)


20221005

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「日本書紀」(崇神紀)十年条には、大彦命(オオビコ)、武渟川別命(タケヌナカワワケ)、吉備津彦命(キビツヒコ)、丹波道主命(タンバミチヌシ)を各地方に派遣したという所謂「四道将軍」についての記述があります。

 ただ、この通称「金神系譜」では、通常、武内宿祢の父とされる屋主忍男武雄心命と山下影姫との間に産れたとされる武内宿祢が、孝元天皇と山下影姫との間に産れているとされることに気付かれた方がおられると思います。

 この部分が、百嶋神社考古学の真骨頂とも言うべき最深部の最も複雑かつ難解な部分であり、この解説には別稿が必要とされることからここでは触れません。

無題.png

再掲 超細密金神系譜(部分)


十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮~祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以命遣北陸武渟川別遣東海吉備津遣西道丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。壬子、、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰…

無題.png

九州王朝論者でも私達の様な過激な論者の内部では、この四道将軍も九州王朝が直接九州から(もしくは九州王朝の植民領域から)派遣したものと考えています。

百嶋由一郎氏は、藤原によって第十代とされた贈)崇神も、実は九州王朝の正統皇統第九代開化天皇=高良玉垂命のはるかに年長の臣下でしかなかったとされていました。

勿論、それを天皇に格上したのは藤原がその流れから出ている事、その勢力を傘下として取り込むためのものであったからであり、当然、四道将軍も九州から直接派遣された可能性が高いと考えているのです。

さて、大彦は第9代開化天皇(高良玉垂命)と同様、第8代孝元天皇の子であり、いわば年かさで腹違いの兄弟になるのです。

 さらに言えば、福津市の宮地嶽神社の数代前までの歴代の宮司家は阿部家であり、それは近畿大和朝廷成立後の奥州安倍氏の滅亡後に送り込まれた安部の宗任、貞任(実は貞任の末子が許された宗任の一族として九州に戻ってきている)の一族が九州北岸の海人族の頭目として崇められ宮地嶽神社の宮司家として復帰していたと考えられるのです。

 恐らく宮地嶽神社のお膝元の津屋崎を起点に、九州王朝の植民国家として丹波、吉備、北陸、東海(舞鶴、敦賀から東海へ)と進出した一派に大彦(珍彦=ウヅヒコ)に同行し北陸から甲斐にまで進出した人々がいた可能性を考えているのです。

 後に贈)崇神の息子である豊城入(ニュウ)彦も埼玉など北関東(上毛野君や下毛野君は豊城入彦の後裔)に進出している形跡があるのですが、これも九州王朝の臣下として崇神の一族が展開したと考えています。

 まぼろしの九州王朝宮廷舞を継承するとする宮地嶽神社と、武田氏との濃厚な関係を見せるぶどう寺大善寺とが等しく三階松の神紋を掲げているという事実を考える時、両者を繋ぐものは、この九州王朝が派遣した四道将軍の大彦の北陸から甲州への展開としか思えないのです。

 そこまで考えてくると、冒頭に掲げた国宝薬師堂の最頂部に掲げられた神紋の意味も多少異なった意味合いを持っている事が見えて来ました。

 門光(唐花)を守るかのようにあしらわれた三階松は、武田氏を支える三枝氏を意味しており、傍系とは言え、武田氏も九州王朝の一族であり、その臣下の実働部隊として三枝氏のスクラムを意味している事が分かるのです。

では、武田氏の家紋を考えて見ましょう。言うまでもなく武田氏の家紋は四割菱とされています。

一般的に戦国武将の家紋は、戦闘用の旗指物として増産する必要と遠方からも判別できる必要性があることから簡素化される傾向がありますが、実は四割菱ばかりではなく、花菱(門光)も使用しているのです。

無題.png

武田氏の家紋は有名な「割菱」すなわち「武田菱」である。武田氏の専用なので、武田菱の名が起こった。しかし、このほかに「花菱」も用いた。多くは、裏紋または控え紋として花菱を用いたが、女性などはやさしさを表わすために花菱を多用した。しかし、この花菱も菱形を花の文様に転化させたもので、根本は変わらない。すなわち、武田氏はいずれにしても「菱」紋で代表される。
 紋のいわれはさまざまに言いなされているが、かなり古くから用いられたことは間違いない。菱それ自身は、正倉院の御物の裂にもあるが、武田氏がこれを紋として用いたとおぼしき証拠が残っている。それは、塩山市にある菅田神社の「楯無の鎧」にこの紋が付けられている。この鎧は平安時代に作とみられるが、これに割菱も花菱もともに付いている。これが家紋とは断定できないが、武田家の重宝に付けられていることは重要な意味がある。この時代から、菱文様は武田氏と密着していたことは窺われる。
 これについて『見聞諸家紋』には、武田氏の紋に対して

無題.png
頼義男新羅三郎義光の末孫也。従四位下。伊予守鎮守府将軍。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州安倍頼時攻。是時詣住吉社。新平復夷賊。干時有神託。賜旗一流。鎧一領。昔神功皇后征三韓用也。神功皇后鎧脇楯者。住吉之御子香良大明神之鎧袖也。此裙之紋。割菱也。三韓皈国後。鎮座於摂津国住吉。以奉納干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼義賜之。可謂希代也。頼義三男新羅三郎義光雖為季子。依父鐘愛伝之。即旗楯無是也。旗者白地無紋。鎧有松皮菱。故義光末裔当家為紋。 と記されている。
 すなわち「この鎧は住吉神社の神託で、武田氏が拝領した、それに菱文様が付いているのだから、これは家紋とみてよい」というものである。…

 特に「多くは、裏紋または控え紋として花菱を用いたが、女性などはやさしさを表わすために花菱を多用した。」と書かれている部分には関心を持っています。

俗に女流家紋とか裏紋と言われるものですが、もしも、百嶋由一郎氏が残したメモの通り、孝元天皇の皇別氏族としての大彦が武田氏の祖とすれば、この一族が近畿大和朝廷などの後裔ではないはずで、何故なら学会通説は欠史8代として近畿一帯には何らの痕跡もないことから(そんなものある訳がないのです。何故なら、七世紀以前の近畿大和は、主要な古代史の舞台では全くないからです)崇神以前は全て架空のものとしたのですから。

無題.png

門光が九州王朝の正統皇統を示すものであることを知っている方にしか分かっていただけないのですが、故)百嶋由一郎氏からは、通常、久留米の高良大社表掲げられている左三つ巴の住吉の神紋と木瓜(モッコウ)紋は、臣下の神紋で本来の九州王朝正統皇統の神紋ではなく“本物の神紋は内部に隠されています…”と聞かされていました。

無題.png

ただ、四割菱は承知していましたが、当時は(と言うより近年まで)、武田氏の神紋が門光とは理解しておらず、その分対応が遅れたのでした。

してみると、ひぼろぎ逍遥(跡宮)345 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

で書いた、甲州市勝沼から直ぐの山梨市に八幡神社にかなり大きな高良神社と若宮神社が摂社として置かれている事も、第8代孝元天皇の大彦の一族が甲斐に進出している事を考えればすんなりと理解できるのでした。

無題.png

最後に、百嶋メモに書かれていた敢國(アヘクニ)神社を敬愛する「玄松子」氏のサイトからご覧頂くことにしましょう。

 敢國(アヘクニ)神社の敢(アヘ)が九州王朝、孝元天皇の大彦の後裔の阿部氏の(アベ、アヘ)に通底している事がお分かり頂けたのではないでしょうか?


敢國神社 三重県伊賀市一之宮877

無題.png

御祭神 大彦命 少彦名命 金山媛命 配祀 九所社 六所社


「敢國」と書いて、「あへくに」と読む。阿拝郡に居住した、阿閉氏が祀ったと考えられ、祭神は、その祖神・大彦命孝元天皇の皇子・大彦命は、阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の祖。阿閉臣は、大彦命の子・大稲輿命の子孫。当社の北1Kmには、大彦命の墓と言われる御墓山古墳がある。境内社の祭神は、以下の通り。

大石社 不詳一座・須佐之男命・金山比古命・大日孁貴命・大山祇命 神明社 天照大御神

子授け神 祭神不詳 若宮八幡宮 仁徳天皇 楠社 楠正成・藤堂元甫結社 高皇産霊尊・手間天神

市杵島姫社 市杵島姫命 六所社 伊弉諾尊・伊弉册尊・日神・月神・蛭児・素盞嗚尊

九所社 祭神不詳 南宮山山上 境外社・浅間社 木華開耶姫命     敬愛する「玄松子」氏による

無題.png

こうして、ぶどう寺の三階松紋(孝霊、孝玄、開化)、花菱=門光(「高良玉垂宮神秘書」では門光)=唐花紋が武田信玄の建てた韮山の武田八幡宮の神殿脇殿に打たれていた唐花紋に端を発した武田信玄九州王朝後裔説は何とか解決が着きました。結局、五年前のぶどう寺探査の中間報告の延長上に武田信玄の一族が位置していた事が分かったのでした。つまり、開化天皇と神功皇后との長子仁徳(九州王朝のシンボル)を義理の兄弟である大彦=新羅三郎の一族(大彦は新羅から入っています)が奉斎したのでした。


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2023年06月03日

962 伊野の皇大神宮は本当に天照なのか? 福岡県久山町 伊野天照皇大神宮

962 伊野の皇大神宮は本当に天照なのか? 福岡県久山町 伊野天照皇大神宮

20221006

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 当会の若手女性メンバーから“福岡県久山町の猪野(伊野)皇大神宮について聴きたい事があるのですが…”との電話を頂きました。遠路百キロも走り貫きお出でになってもそれに見合う答えも与えられないとは思うものの、丁度栗を拾い過ぎて食べきれないほどあることから、栗をお土産に当研修所においでいただきお話をするのも良いだろうと受けしたのは十日ほど前の事でした。

さて、この神社を取り上げるのはかなり厄介で、表面上、書かれ、語られ、言われている話では全く答えにならないものの、その本質を捉えるにもかなりの説明を要するため、文章化する必要があると思い立ったのが今回のブログとなります。

巷には天照大御神を祀る神社として恥ずかしくなるような賛美の追従記事が満ち溢れています。

無題.png

まずは、「福岡県神社誌」上巻967p をご覧下さい。

天照、スサノウ、高木大神の次女…とされ、天照と萬幡千々姫神と高木大神系がイニシアチブを握っていますね。

無題.png
無題.png
無題.png

これで現在の祭神が分かったとしても、残念にもこの神社の本質が分かる訳ではないのです。

問題はここから始まるのです。それはどうも祭神が入れ替えられているように思うのです。

これは、故)百嶋由一郎先生もはっきりとは言われていなかったのですが、概略をお話ししたいと思います。ただ、説明のために私が推定を加え、内容を拡げますので、その範囲でご理解頂だきたいのです。

先生はこの神社が天照を祀る神社とは言われていなかったようです。むしろ、この神社は、山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦=五十猛…を祀る神社との話し方をされていた様です。

かなり重要なテーマだったからかはっきりとは言われてはいませんでしたが、神代系譜にも手書きデータにもこの事は残されておらず、恐らく、いずれ話そうと思われていたのだと思います。

もう数年長生きしておられたら我々も多少は理解力が上がり正確に聴くことが出来たのでしょうが…。

無題.png

従って、ここでは、別の方向からアプローチして見たいと思います。

 まず、下の地図をご覧ください。

無題.png

これは福岡市の西の糸島半島の付け根に接続する地域の地図ですが、今宿、今山、今津という「今」を冠する地名が存在します。

 この港は北西の風にも強く、北の唐泊と併せ、古来、半島、大陸への出船、汐待、風待ち日和見の港だったのです。さて、故)百嶋由一郎はこのことについて、“「今」の付く地名は山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ=五十猛…のもので、射る魔物の意味だと話していました。

 しかもこの半島は海幸彦=草部吉見と山幸彦=ヒコホホデミの勢力が鬩ぎ合う所でもあったのです。

 この事は現在でも白木神社などで「ヒョーカリーライ」(リーは中国の少数民族の黎族=阿蘇氏の意味)という罵声、罵倒の掛け声として残されており、詳しく知りたい方は以下をお読み下さい。


 ひぼろぎ逍遥

152

ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の

白木神社”の「馮河黎来」

新ひぼろぎ逍遥

 

623

ヒョウカリイライ(馮河黎来)

637

ヒョウカリイライ(馮河黎来)改訂版

 
     

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

610

ヒョウカリイライ(馮河黎来)改訂版


 直接繋がるかどうかは別として、今、伊、猪、井…と言う地名は五十猛と関係のある地名らしいのです。

 また、皆さん良くご存じの戦国期を生き抜いた伊達藩の独眼竜伊達政宗もその流れを汲む人物と先生はお考えだったようです。

 そこで、仮にこの百嶋想定を受け入れるとして、作業としては、遠賀川流域(筑前の飯塚市〜田川市一帯)に前述した「イ+〇〇」伊、位、猪…型地名が異常なほどの発現率で拾えるのです。

 もし仮に、その仮説が正しいとするならば、現在、平然と天照…以下を祀る猪野皇大神宮の本来の姿を多少とも探る糸口にはなりそうなのです。


 それほど猪野天照皇大神宮の祭神については同意し難いと言うより、単純にそうは思えないのです。

同社は「九州の伊勢 伊野皇大神宮」と主張し“祭神は天照大神(あまてらすおおかみ)、田力雄神(たぢからおのかみ)、萬幡千々姫神(よろづはたちぢひめのかみ)。としています。

無題.png

官幣大社の裾に位置する旧県社とされており、その作ったような都合の良い祭神配置は、本来の神を消し去り新しい権力に靡く姿勢を見てしまいます。

 あくまでも推定でしかないのですが、故)百嶋由一郎が考えていたであろうこの神社の本質は、筑豊の物部地帯に入ると俄かに顕在化する 天照 女神→男神、天照=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 であり、それを転換したのは黒田藩だったのではないかと考えるのです。



無題.png

天照宮は垂仁天皇、饒速日尊が笠置山に降臨され、笠置山頂に奉祀したことに始まります。その後、千石・脇野と移り延慶元年(1308)に現在地に移されました。同社は粥田荘の惣社とされ、多くの文化財、古文書を所蔵しています。


磯光天照宮 カーナビ検索福岡県宮若市磯光266


 この博多湾側へのサテライト窓口展開こそが猪野皇大神宮の本質ではないかと考えるのです。

 伊達氏同様、黒田氏も豊臣、徳川から危険視されていたことは間違いがなく、危険この上ない物部氏の慎重な排除、さらに県社に昇格しやすい様に無難な天照大御神と念押しに高木大神系=旧藤原系にスライドさせたとしか思えないのです。

 そもそも、伊勢は猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ…を伴侶とするアメノウヅメ=豊受大神=伏見稲荷のものでした。宮津の「丹後一宮 元伊勢 籠神社」籠神社の社伝は天照は後で加わった事を伝えています(倭姫命の故事)。つまり、それまでは完全な物部氏の神社なのであり、大江山の皇大神宮で、豊受大神(外宮)、天照大御神(内宮)の体制が成立しているのです。

 徳川政権は神社で言えば賀茂神社の神官の系統で、だからこそ伊勢詣で熊野詣で奨励したのであり、決して天照大神を持ち上げようとしていたのではないのです。

 天皇家も仏教化(明治直前まで天皇家は仏教徒であり:泉涌寺の門徒だったです)しており、伊勢神宮への公式参拝はしていないのです。

 徳川政権以前の武家政権も、仏教との混淆を進め、藤原氏と神社を制圧していたのであり、天照大御神を殊更持ち上げる風潮は存在しなかったのです。

 ここでは、猪野皇大神宮は元々天照が祀られてはいなかったと思えるだけで、恐らく、糸島の桜井神社同様、黒田が伊勢神宮風にアレンジした神社に見えるのです。

博多の東西に於いて、東の猪野、西の桜井として配置されたとさえ思えるのです。

 今回は非常に中身の薄い話をしますが、黒田は全ての痕跡を消し去っており過去を辿れないのです。



田川郡+田川市 :今任原(イマトウバル)、伊田、伊加利(物部の里の意味ですね…)、位登(イトウ)、猪国(正しく猪大神の国の意味ですね)、猪位金、今村、大伊良(赤村のオオイラ、これも猪の羅と言う半島地名ですね…この地は赤村ですからニギハヤヒの敵彦山のマサカツアカツのエリアですが)、糸田(糸田町のイトダ)、伊方(方城町)、同じく旧方城町の犬星(「ノ」の古型が「ヌ」「ナ」と分かれば氷解しますね)

鞍手郡宮田、小竹こそが物部氏の本拠地ですが、物部氏筆頭の二田物部に繋がる地名は新北(ニギタ)、新多(ニイタ)、新延(ニノブ)、新入(シンニュウもか) ここでは物部の「先代旧事本紀」にいう半島からの物部25部族降臨地(笠置山)の在る地飯塚市南そのものですね。

飯塚市に目を転じれば、伊川温泉の伊川が目につきますが、これは北九州市門司区の伊川と併せ秦の始皇帝の一族の移転地ではないかと考えていますので、ここでは除外します。


無題.png

まさに伊勢の外宮様こそは大山祗、大幡主連合の象徴であり大国主の宗像と併せ古代を牽引するのです


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

講演録は合計40時間程度、神代系譜は90枚程度収録されています。どの時間帯でもご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記